第十七話 黒歴史
さて、ここまで私の趣味にお付き合いいただきありがとうございました。
ここで白状しなくてはなりません。実はですね……ここまでのお話は過去の私の黒歴史を再構築したものです。
あ、誤解しないでくださいね。基本的なモデルは変わっていませんし、データはなるべく最新にしてありますのでリセットする必要ないですからね。
本当はこんな赤面必至なものをお見せしたくなかったんですが、言葉を尽くしても伝わらないものってあるんですよ、だから死ぬほど恥ずかしかったんですが、今後のためにあえてこういう構成にさせてもらったんです。
少しだけ過去話にお付き合いください。
このエッセイで書いた歴史モデルは私が高校生の時に出来上がったものです。当時の私は、魏志倭人伝のミステリーが解読出来たことが嬉しくて舞い上がっていました。とはいえ、周りに古代史ファンなんて居ないので、自己満足しているだけでしたけれど。
当時は、畿内説と九州説が激しくぶつかり合っていました。
私はもちろん九州説ですが、私の考える宮崎説は影も形もありませんでした。え……? 専門家ってもしかしてその程度なの? ってすごい失礼なことを考えたりもしましたね……。何を言われようが聞かされようが、私の中の結論は変わるどころかどんどん補強されて強固になるばかり。
まあ……声が大きい人や奇抜な説の方が売れるから仕方ないよね、そう思っていたんですが、いつまで経っても状況は変わらない。それどころか畿内説がますます強くなっていく状況にモヤモヤが募るばかりでした。
邪馬壹国は宮崎にあって、大和へ移行合流したんだとすべての状況が示している。そう考えればすべての矛盾や謎が氷解しパズルのピースが埋まる。魏志倭人伝は、邪馬壹国が宮崎にあった最後の代の末期の出来事、その後すぐに大和に移行しているから奇跡みたいなタイミングだった。もし魏志倭人伝が無かったら、100%畿内説で決着していた、いえ、既成事実で疑う人なんて誰もいなかっただろうし、そもそも論争にすらならない。
だけど、歴史にタラレバはない、何より魏志倭人伝が、日本書紀が雄弁に物語っているのに黙ってなんていられない。
別に発表するわけでもないのに、専門家でもないのに、ムキになっていた、焦っていたんですね。
魏志倭人伝の記述だけで足りないなら、日本書紀を使って証明すれば良い。だけど……その日本書紀が壁となって立ちはだかった。
移行説は自信がある、どこから攻められても矛盾が生じない完璧なモデルだと思っていたのに、肝心の卑弥呼に関して日本書紀との合理的な説明が、ぴったりとはまる最後のピースが足りなかった。
一次史料である魏志倭人伝の方が真実だと言えばそれまでですけど、私の日本書紀に対する信頼がそれをさせなかった。
結局、当時の私は、実際は宮崎や九州で起きたことを日本書紀は畿内で起きたことのように書いている、と考えた。それがここまでのエッセイで説明した内容です。
でも……ずっとモヤモヤしていました。私は正しいはず、でもなんかスッキリしない。
それでもなんとなく全部解決した気になって、それからは魏志倭人伝からも、邪馬壹国からも離れてしまった。
きっかけはたまたまある記事を読んだことでした。
その記事では、日本書紀を使って持論を補強していたんですが、都合の悪い部分は編纂者が書き替えた、存在を抹消した、などと言う珍しくもないタイプのものでした。私はイラっとしながら――――あれ?
気付いてしまったんですね。
私……あれほど軽蔑していたこと、無意識のうちにやってしまっていたんです。
『実際は宮崎や九州で起きたことを日本書紀は畿内で起きたことのように書いている』
なんで気付かなかったんだろう……上手く説明できないから日本書記が間違っているっていうのと変わらないじゃん。場所が変わっているだけで内容は同じだから尊重している、なんていうのは卑怯な言い訳だった。
なんで間違えたんだろう……答えはわかっていたはずなのに。日本書紀は誠実な日本の正史だと。誰よりもわかっているつもりだったのに、信じきれていなかった。
死ぬほど恥ずかしくなった。そんなやり方で納得したつもりになっている自分自身が本当に情けなかった。
そのことに気付いた私は、もう一度最初から日本書紀と向き合うことにしました。迷ったら基本に立ち返る、日本書紀とはなんだったのかと?
①日本書記は大和建国からその発展の歴史をまとめた正史
②日本書紀に記載されているのは、基本的に二つのパターンしかない。
大和においての出来事、大和に繋がる系譜のどちらかだ。
それを再確認したうえで、あらためて考えてみた。
ああ……なんだ、そういうことだったのか。すべてのモヤモヤが霧散した。
私はどこかで固定観念に縛られてしまっていた。宮崎説に対する気持ちが強すぎて、卑弥呼である倭迹迹日百襲姫命は九州で生まれ育ったはずと考えてしまっていたのかもしれない。
なぜ日本書紀に倭迹迹日百襲姫命の四国に関する記述が一切ないのか?
答え 大和じゃないから。
なぜ垂仁天皇との記述がないのか?
答え 垂仁天皇と一緒だったのは九州だから。
なぜ日本書紀の倭迹迹日百襲姫命は若々しいのか?
答え 大和に居た若い頃の記述だから。
なぜ魏志倭人伝や金印のことを書かないのか?
答え 大和じゃないから。
もっとたくさんあるんですけど、なぜこんな当たり前のことに気付かなかったのかと嫌になります。日本書紀編纂のコンセプトは強力でブレないことは私が一番よく知っているはずだったのにね。
この苦い経験で学んだのは、自分のことは意外と気が付かないという恐ろしい事実。客観的に眺めている分にはよく見えるのに……。
やはり自分が正しい、こうであるべきだ、という思考になったら要注意です。ですが、この経験のおかげで見えるようになったことがたくさんあるので、結果的には良かったのかな、と思っていますけどね。
結論、日向から大和への移行モデルに関して、日本書紀には大和に直接関係ない出来事や人物は一切記述がない。そこは徹底されている。
以前から指摘されている日本書紀における記述の多さ、少なさの意味。大和における実績の差。大和にほとんど居なかった人物は、どんなに有能で有名でもほとんど記述がない。天皇だろうが例外はない。
これらを理解すると、日本書紀の見え方がガラリと変わりますよ。書かれたもの、書かれなかったもの、この境界線が見えなかった真実の輪郭を描き出すのです。日本書紀は千年分の地層がぐちゃぐちゃに積み重なりところどころ混ざり合っているカオスです。強固なコンセプトという軸が無ければ専門家ですら、いえ、専門家ほど迷ってしまう迷宮です。
そしてまた、魏志倭人伝も強固なコンセプトのもとに編纂された史書です。この二つの正史が重なり合うことで見えてくる景色があります。それを皆さまにも見せてあげたいのです。
次回以降は、本当の意味で今の私のリアルタイム歴史エッセイとなります。
はあ……恥ずかしかった。
長い過去語りと黒歴史にお付き合いいただき本当に感謝です。
次回は卑弥呼、倭迹迹日百襲姫命の実像に迫りますのでお楽しみに。




