第十六話 卑弥呼の墓はどこにあるのか
歴史は組みひものように紡がれるものです。
神話、伝承、地名、系譜、祭祀、文献、考古学、地政学、人々の記憶、それらが互いに絡み合い、補い合い、一本の太い縄になる。
特に古代史においてはより慎重でなければならないと思います。何かを切り捨てなければ成立しない説は、必ずどこかで破綻します。
たしかに大胆でセンセーショナルな説は人目を引きますし、ある部分を見た場合、それが真実のように見えることもあるかもしれません。ですが、それは例えるならば真実へ繋がるかもしれない紐をすべて切ってしまう行為であり、真実から遠ざかることなのだと私は思います。
同時に歴史とはパズルのピースにも例えられます。正しいピースはすべてがピタリとはまります。苦しい言い訳や理論を用いる必要もないし、一見関係なさそうに思えるものですら補強してくれるようになるのです。
さて、前回まで繰り返しお話してきた九州から畿内への移行モデル。
たとえば鉄器保有量格差の移動、という考古学的な視点でも補強することが出来ます。
弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて、九州は畿内に対して圧倒的な鉄器の保有量を誇っていました。
それが垂仁天皇期の大和移行と箸墓古墳出現と時を同じくして畿内に鉄器が急増するようになるのです。これは九州の鉄器文化とその管理者の勢力が大和へ移動し地盤を固めたことによる結果だと説明できます。
そしてもう一つ、前方後円墳についても同じことが言えるのです。
考古学の世界では、長らく畿内中心史観が蔓延っていて、前方後円墳は畿内から始まり地方へ広がっていった、という前提が当然のように語られてきました。だから、同じ形状であれば畿内より新しいだろうという前提、先入観による決めつけが酷い。
まあ……概ね間違いではないのですが、そもそも前方後円墳というものを持ち込んで建設したのは誰でしたっけ?
九州から移行してきた大和王朝です。そして、箸墓古墳は卑弥呼の墓を模したモニュメントであり祭祀の舞台装置です。
だから、当然オリジナルが九州にあるのです。つまり一番古い前方後円墳は九州の宮崎にあるのが当然で自然だということになります。
では実際にそのような古墳があるのでしょうか?
あります。宮崎市の生目古墳群にある1号墳です。
大和の箸墓古墳(約280メートル)の正確な二分の一サイズ(約140メートル)の相似形で、同じ設計図を共有していると考えられています。
長らく生目古墳群の年代は畿内よりも新しいとされてきました。これは畿内中心史観の弊害です。しかし、近年の調査で生目古墳群の築造開始が三世紀後半にまで遡る可能性が強まり、少なくとも箸墓と同年代か先行する可能性があります。
私の中ではそうだろうね、という感想しかありません。むしろそうでないとおかしいわけですから。私が生きている間に決着がつくと良いなと思います。
(魏志倭人伝) 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
(意訳) 卑弥呼が亡くなると、人々は大きな墓を築いた。その墓の大きさは“直径百余歩”(およそ150メートルほど)であった。そして、殉葬として奴婢が百人あまり、共に葬られた。
それに思い出してください。卑弥呼の墓のサイズは「径百余歩(約150メートル)」です。そもそも箸墓古墳はサイズが合わない。そして240~260年という従来の根拠だった年代測定の論文も、2022年の論文で否定されています。
箸墓古墳よりも古いとされるホケノ山古墳の年代が270年推定なのですから、やはり300年前後が妥当とみるべきです。
大和王朝のプロトタイプは宮崎の日向で作られたものです。1号墳が卑弥呼の墓かどうかは断定出来ませんが、箸墓古墳が卑弥呼の墓とされているならば、同型の生目1号墳がオリジナルである可能性が高いとは思います。
そして1号墳の軸線は高千穂の峰を指しているそうです。
高千穂峰は、天孫降臨の地であり、瓊瓊杵尊が降り立った場所です。
日向三代の始まりであり、巫女姫の系譜の中心であり、日向神話の核です。
その高千穂峰を軸線として古墳を築くということは、
「この王の権威は天孫の正統を継ぐ」という明確なメッセージです。
この考え方は、そのまま大和における古墳にも引き継がれ、例えば
箸墓古墳 → 三輪山(大物主)
応神天皇陵 → 生駒山系
仁徳天皇陵 → 大阪湾(海上ネットワーク)
というように古墳の軸線は、それぞれが“自分の出自”を示しています。
したがって、生目1号墳の主は、最低でも王以上の存在なのだと示していると考えるべきだと思います。
そして、箸墓古墳が大きくなっているのは当然です。
統一大和王朝の象徴として作られたのですから、より大きくなければなりません。
畿内が中心であってほしいという気持ちはわかりますが、そうでなければならない、となってしまえば目が曇り真実から遠のくことになります。
日向から大和へ、この移行モデルは、神話、伝承、地名、系譜、祭祀、文献、考古学、地政学、人々の記憶、すべてに矛盾しない合理的な結論だと私は思っています。
今回はちょっとした寄り道でした。次回は魏志倭人伝に戻ります。




