第十五話 女王の系譜
今回も神功皇后の続きです。
さて、仲哀天皇は穴門(山口県下関市)に豊浦宮を建てて約七年間この場所で政治を行っています。九州で起きた熊襲の反乱を鎮めるためということになっていますが、たかが地方の一勢力の反乱のためにこれは明らかに長すぎますし、なぜ九州ではなく穴門に拠点を置いたのか意味不明です。熊襲ではなく朝鮮半島への出兵準備であったのは間違いないでしょう。
穴門は地政学的に、
●対馬海峡の玄関口
●朝鮮半島への最短ルート
●海軍の集結に適した地形
●兵站線の確保が容易
という、半島出兵のための最高の拠点です。
実際、後世の日本でも、壇ノ浦、下関、長門国府として、軍事・外交の要衝として使われ続けています。
つまり、仲哀天皇の死後、いきなり神功皇后が大軍を集めたわけではなく、元々朝鮮半島への出兵の準備をしていたところに、熊襲反乱の一報が入ったと考えるのが自然です。
その仲哀天皇は、熊襲成敗のため香椎宮へ出向き、そこで神功皇后へ降りた神の神託を信じなかったために神罰によって急死します。
仲哀天皇の死因については、日本書紀の「別伝」=「一書」を参考にするとある程度推測できます。
あまり知られていませんが、日本書紀の神代巻(巻一・巻二)には、本文(本伝)とは別に、 「一書曰」 という形で複数の異なる伝承が併記されています。これは、海外(中国)向けの体裁を整えるために一本化せざる得なかった本文を補完するもので、こちらを読まなければ本文が理解できないほど重要な情報が盛りだくさんです。日本の神話構造は多元的で複雑なので、一本化するのは極めて困難なのですね。
面白いのは、天地開闢つまり最初の神が誰であったかすら複数の説が保存されているところです。日本書紀が~と、陰謀論の本家みたいに言う方は、おそらくこの別伝の存在すら知らないのでしょうね。この別伝の存在だけでも日本書紀の編纂者がどれほど記憶と記録の保存、つまり歴史に対して真摯であったのかわかるというものです。
その別伝ですが、特に神功皇后に関しては、日本書紀の中でも圧倒的に多く異伝が収録されていて、その存在感の大きさが際立っています。
仲哀天皇の死因に関しては、熊襲の征伐中に急死したと書かれているものもあります。
熊襲との戦闘中、もしくは交渉中に矢傷を受けて感染症で急死(古代では多かった)、あるいは急病、暗殺も考えられますが、その後の神功皇后の行動を見る限り、熊襲に殺されたまたはその傷が原因で死んだ可能性が高いです。
本文で神意を信じず神罰で死んだとしたのは、天皇が意味もなく死ぬということはないからです。そこには必ず意味がなければならない。神意に背けば死に、従えば勝利と栄光が与えられる。
そしてこの意味付けを行った瞬間、神功皇后はあくまでも神意に従って朝鮮半島へ派兵したことにしなければ辻褄が合わなくなります。だから日本書紀では、仲哀天皇がもともと派兵の準備をしていたことも、戦略、兵站、半島情勢、倭国の利害、そういった理由を書くことが出来ないのです。だって、もし書いたら、じゃあ仲哀天皇の死はなんだったの? という矛盾が生まれますからね。
そして、神功皇后は速やかに夫の敵討ちを実行します。熊襲の本拠地へ攻め入りあっという間に平定します。
そして、この過程で様々な地名が登場するんですが、これが実に興味深いものになっています。
対馬国
一支国(壱岐)
松浦=末盧国
伊斗=伊都国
香椎=不弥国
魏志倭人伝と違って北九州から始まるのでルートは逆ですが、私が解読したルートと完全に一致しています。そして、狗奴国がこの場合は熊襲となっており、状況まで酷似しているのです。
さらに、熊襲の本拠地へ向かって進軍するルートがまた面白い。
宇美、大宰府、久留米、みやま市、このルートは、邪馬壹国福岡説、熊本説を取る場合のルートです。
これが何を意味しているのか?
つまり、福岡・熊本が邪馬壹国だった可能性はないということです。魏志倭人伝の時代から数十年しか経っていないこの段階で、邪馬壹国が敵の本拠地だったということになるからです。
日本書紀における神功皇后の物語は、明らかに魏志倭人伝のものと思われる記事が挿入されるほど邪馬壹国、卑弥呼の物語と構造が似ています。後世同一視されたことの証左でもありますが、本来の伝承は違います。
これは大和王権が魏志倭人伝に描かれた邪馬壹国の女王の系譜を神功皇后へと接続させ、継承する物語です。
同一視ではなく、卑弥呼から台与、そして――――神功皇后へと繋がる邪馬台国最後の記憶です。
つまり、神功皇后の物語には当時まだ色濃く残っていた邪馬壹国の真の姿が、記憶が描かれているわけですね。
一緒に確認してみましょう。
神意に逆らった仲哀天皇を神罰で殺し、大規模派兵から内乱まで神功皇后を導き、力を授け守った神々を見れば答えがわかります。ちょっと漢字多めですけどわかりやすく説明するので付いてきてくださいね。
●撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめ の みこと)
一般的には天照大神のことですが、あえてこの別名を使っているということは、天照大神に習合されている特定の人物ということになります。まず、天照大神自身が日向の祖先であると同時に巫女王としての原点となります。そして、その天照大神の孫である天孫降臨、瓊瓊杵尊の妻、木花咲耶姫、卑弥呼である倭迹迹日百襲姫命、そして――――天照大神の依り代八咫鏡を託され伊勢神宮の起源となった台与(豊鍬入姫命)、ようするにこの神さまは、日向の天系巫女姫の系譜を現しているんです。
●阿多の小椅君 (あたの・おばしきのきみ)
阿多地方の隼人の神ですが、その正体は、神武天皇の祖母で、日向三代の中心人物、海幸山幸伝説で有名な豊玉姫、そして――――私のエッセイをここまで読んでくれた方でしたらピンときませんか? もう一人は、神武天皇の妃で吾田出身の吾平津媛です。二人とも海神の血を受け継ぐ日向の海神系巫女姫の系譜です。
もうね、日向の巫女姫全員集合、オールスター状態ですよ。説明しなくともわかりますよね? これは完全に日向、つまり邪馬壹国の巫女姫の系譜を神功皇后へ繋いでいるんです。神功皇后紀における「日向神話の吸収」とも言い換えることも出来ます。
●天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神
事代主神 =大国主(大物主)の子で、託宣、占い、神意の代行、つまり巫女王を神格化した神です。
ようするに、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)と台与(豊鍬入姫命)のことですね。ここはストレートに巫女王の系譜と言えます。
●日向国の橘の水底にいて、海藻のように若々し く生命に満ちている神。名は表筒男、中筒男、底筒男
伊邪那岐命が黄泉国(死の世界)に旅立った伊邪那美命を黄泉国から引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(宮崎市)」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った時に生まれた神、後の住吉三神ですね。日向の海・航海の守護神で、日向、つまり邪馬壹国の海上ネットワークを神格化したものです。
●向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかつおきな きこしおす たいれきの いつのみたま はやさかのぼるのみこと)
この神は神武天皇です。説明不要の日向→大和 移行の始祖である人物。
ここまで並ぶと嫌でも理解できると思います。出てくるのはすべて日向の、つまり九州王朝(女王国=邪馬壹国)の人々(神々)なんです。
これらの神々が神功皇后を導き助け、守る。まさに九州王朝から畿内大和王朝への正統なバトンタッチなのです。彼女が九州王朝の女王の系譜なのだと示している。
そして――――神功皇后を導き守るのは彼らだけではありません。
●宗像三女神
アマテラスとスサノオの誓約から生まれた神々。 田心姫・湍津姫・市杵島姫の三柱。天照大神がスサノオの剣を噛み砕いて生んでいますが、誓約によりスサノオの娘となりました。
「海上交通」「外洋航海」「国家的な海路の守護」を象徴する女神で、国内の沿岸・港湾を守護する住吉三神とは補完関係にあります。そして、この文脈の中では、宗像三女伸=卑弥呼・台与・神功皇后とも重ね合され、天照(九州)、スサノオ(出雲)の融合の象徴でもあります。
●八幡神
その正体はスサノオとされていて、海神であり、武神、そのあらゆる要素を包括する特性から八百万の神々をまとめ上げる国家の守護神となりました。神功皇后の子、応神天皇は、生まれた時から八幡神の生まれ変わりとされています。全国最多、約44,000の八幡宮の総本社である宇佐神宮に神功皇后、比売大神(宗像三女神+日向姫巫女神)とともに祀られています。
はい、お疲れ様でした。神話の神様は慣れていないとわけわからないですよね、なんとなくわかってもらえたら嬉しいです。
この神功皇后の物語は、九州王朝から続く巫女王の系譜を神功皇后へと繋ぐだけでなく、神々が告げたお腹の中の子(応神天皇)が全てを手にするというものです。
つまり、九州王朝から続く巫女王の系譜の最後(神功皇后)を描くとともに、新たな時代、天皇が主導する時代への切り替えの物語でもあるのです。
台与から神功皇后の時代までは数十年しか離れていません。男王が立ち失敗(仲哀天皇)して女王が立つことで治まるという繰り返される展開、状況の酷似した物語、同じ九州という舞台。全てが魏志倭人伝が伝える記憶そのままであり、人々は自然と神功皇后を女王の系譜として見ることが出来たはずです。
当時の人々は、女王の後継者として崇め、後世の人々は、魏志倭人伝の女王と重ねたことでしょう。
当たり前ですが、当時の人々の間に邪馬壹国九州説、畿内説なんていう論争はありません。両者は同じものであり、かつて九州日向にあった王権が国家統一の過程で畿内に中心を移していっただけなのですから。
九州王朝と大和王朝の断絶などありません。空白の四世紀などと言われますが、そんなものが入る隙間など微塵もありません。神功皇后が行った大規模海外派兵は国家総動員によるものです。混乱や断絶があれば不可能です。
九州、出雲、畿内、瀬戸内、四国の勢力が一致団結して国家の安寧のために朝鮮半島へ向かったのです。そして――――その行軍を支えたのは、日向の神々、国内の沿岸と港湾を守護する住吉三神、北九州から朝鮮半島までを守護する宗像三女神らと海運ネットワークです。
大和王朝は神武天皇の東遷によって誕生しました。景行天皇は畿内からわざわざ日向まで自ら出向き、妃を娶り皇子を産ませています。応神天皇は、息子(仁徳天皇)のために日向から妃を呼んでいます。
日向は源流なのです。九州に王朝があるとすればそれは日向であり、魏志倭人伝の時代に魏の使節らが訪れたのは九州王朝時代の邪馬壹国です。
各地に残る伝承を見れば、建国の英雄たちが活発に全国各地を飛び回り交流していることがわかります。形式上は神武天皇が東遷したことになっていますが、神武天皇は、事前に準備され、用意された統合大和という初代総督のような椅子に座っただけです。
そこから地道に数百年、九州王朝の皇子、皇女たちは交換留学のような形で幼い頃から畿内など各地に派遣され、少しずつ交流と信頼を築いていきました。卑弥呼である倭迹迹日百襲姫命は派遣先である四国で水不足や農業の生産性を改善し、水神・農業の神として崇められています。弟の吉備津彦命は、吉備に派遣され、鬼(半島系の海賊)の被害に悩む住人たちのために戦い、桃太郎のモデルとなるまでに崇拝されています。
このような数百年にわたる交流と実績の積み重ねがあったからこそ、日向から大和への移行がスムーズに実現したのです。大国主の国譲り神話もその一環ですね。
記紀と実際の各地に残る伝承にギャップが存在するのは、こうした実態と、神武天皇の東遷という基点から大和王朝を書かねばならなかった、つまり、神武天皇の時点で統一国家が完成していたという前提で記紀神話が構成されているための矛盾です。
実際には、数百年、何代にもわたって地道に交流と実績を積み上げ、ゆっくりと移行していったと考えるのが自然だと私は思います。
さて仲哀天皇が急死して、将兵たちは混乱しこれからどうなってしまうのか、と不安に陥りました。
しかし、神功皇后は髪を結いあげ男装し、
「事が成れば功績は群臣のものである、事が成らなければ自分一人の罪だ、私はすでに覚悟を決めている、諸君らはどうする?」
と立ち上がります。若くして夫を喪い、その身に子を宿した悲劇のヒロインが、失意と絶望の中でそれでも折れずに先頭に立って戦うと宣言したのです。
それを聞いて奮い立たない男などいるでしょうか?
たしかに信仰による後押しはあったでしょう、もちろん聡明な彼女は自らが巫女王の系譜であると自覚し、そのように振舞ったでしょう。しかし、現場を動かしたのは、兵士たちの士気を高め、心を動かしたのは他でもない神功皇后の言葉であり行動です。
彼女が率いる大軍はその意気や天をも突くほどであったことでしょう。戦わずして三韓を下したというのはおそらく誇張でもなんでもなく、それほどまでに凄まじい信仰と信奉と愛国心による一体感、兵士たちは臨月を迎えた神功皇后のために一日も早く帰国出来るように死に物狂いで働いたことでしょう。
日本書紀本文では、北九州で出産したことになっていますが、実際は凱旋途中の壱岐で応神天皇(後の八幡大神)を出産しています。
そして、それは女王の系譜が終わり、新たな天皇の時代の始まりを象徴しているのです。




