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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第十四話 神功皇后


 卑弥呼を語る上で避けては通れない人物がいます。


 気長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと)、あの神功皇后です。


 卑弥呼と神功皇后は、そのどちらも“神託を受ける巫女的な女性統治者”である上、夫がいない、歴史的にも年代が近いということで卑弥呼の正体として語られることが多いですし、私は彼女のファンでもあるので、この機会に紹介したい。


 もしかしたら知らない人も多いかもしれないので簡単に説明しますね――――


 日本書紀ではとんでもない美人で聡明な女性だったと書かれています。まあ、一応皇族ではありますが、開化天皇の5世孫という血筋で正后になれたことを考えると、おそらく相当な美人だったと思います。


 そして――――その活躍をみれば、聡明なのも間違いないでしょう。聡明どころか天才と言っても良い、間違いなく日本史上最強の英雄です。


 というか、世界史全体で見ても比べられる人物って数人くらいしか思いつかないレベル、彼女の成したことに比べれば、信長ですら物足りないです。 


 若くして(おそらく十代)夫である仲哀天皇と死別し、お腹に子どもが居る状態で軍を率いて熊襲を黙らせ、大軍 (数万~十万)を率いて朝鮮半島へ渡って武威を示しました。しかもお腹に子ども(応神天皇)がいる状態です。


 小説だってもう少し現実的に描くよね? っていうくらい凄まじい。戦女神という言葉がこれほど似合う女性はいないでしょう。


 日本書紀や古事記では神話風にアレンジされていますが、全国各地に残る伝承はその当時の神功皇后の足跡をリアルに伝え、実際の出来事は記紀に記されていたよりも現実的でもっと大規模だったというのがわかります。


 ですが……同時に存在しなかった人物の筆頭にあげられるのが神功皇后なんですよね……。最近は研究も進んで少しマシになってきましたが、それでもまだ半々くらいの印象です。様々な史料から実際にあったことだと認めざるを得なくなっても、それでも神功皇后自体は創作だと認めない人たち。じゃあ神功皇后が居なかったとして、誰が指揮したの? という問いに対して答えられない時点で意味のない仮定です。


 古い世代は認めない、若い世代はそもそも知らない。残念ですが、教科書で習うようになるのはまだまだ先のことかもしれません……。日本史上最高の英雄ヒロインが歴史に埋もれたままなんてじつに勿体ない話ですけれど。


 正直、神功皇后が実在しないとするなら歴史上の人物なんて全員いなかったというくらい馬鹿げた話です。この話をすると長くなるのと、魏志倭人伝と関係なくなるので書きませんが、一つだけ言わせてください。


 明治時代に神功皇后が天皇から外されたのは、彼女が即位していない摂政だったからであって、存在を否定したわけじゃないからね?


 

 さて、本題に戻りましょうか。神功皇后が活躍した時代は4世紀、卑弥呼の時代から100年ほど後の時代です。


 実は、日本書紀の神功皇后の部分に、魏志倭人伝の内容が挿入されているんですね。これ、言葉で説明するの難しいんですけど、ちょうど干支二周り分、120年時代が合わない。つまり、日本書紀の編纂者が卑弥呼と神功皇后を同一視していた、あるいはそう思わせようと操作したとまことしやかに言われているんですが……。


 まず同一視はありえないです。日本書紀の編纂者は魏志倭人伝を読んでますし、魏志に書かれている卑弥呼の死から二十年以上活躍する神功皇后の姿を記しているのですから。

 

 そして、決定的なのが、この魏志からの注釈部分、概ね魏志倭人伝と同じなので、知っている人なら一目でわかります。でも引用しての注釈にしては『魏志倭人伝』と異なる部分があるんですよね。たとえば「卑弥呼」と明記される部分が、『日本書紀』神功皇后紀では「倭女王」として書かれていますし、年号や遣使の細部も、魏志原文と完全一致せず、簡略化や改変があります。


 ここから推察するに、これ、たぶん「旧辞」「帝紀」において原文がこうだったんでしょうね。編纂者は、これ……魏志倭人伝だよな、と気付いたはずです。つまり、日本書紀の元になった「旧辞」「帝紀」において、すでに神功皇后と卑弥呼は分かちがたいほどに結合、同一視されていた。それが意図的なものなのか歴史の必然であったのかは別にして。古代の伝承段階で両者の物語が自然に重なっていったのでしょう。


 日本書紀の編纂者たちから見れば、両者が別人であることは明白ですが、固有名詞は書いてないし、魏志倭人伝の内容とも微妙に違うので偶然似てしまった可能性を完全に否定することも出来ない。そもそも編纂の仕事は史料を整理して重複や書き間違いなどを正しまとめることであって、勝手に削除したり書き直してしまったら改ざんになってしまう。だから苦肉の策、妥協案として「魏志曰く」として注釈として残したのではないでしょうか。


 原典である「旧辞」「帝紀」がすでに失われているので確認しようがありませんが、日本書紀編纂者の同一視や意図的なものでないことは明白です。本気で同一視させたければいくらでも上手く出来るはずですからね。むしろ私には編纂者としての精一杯の良心、プライドのようなものを感じます。だって、もしこれが無かったら、後世の私たちはそのことにすら気付けなかったでしょうからね。魏志と日本書紀という二つの正史が存在するからこそ生じる違和感や矛盾、それによって歴史に埋もれていた真実が明らかになる、じつに素晴らしいなと私は思うのです。


 なんでもかんでも日本書紀の編纂者のせいにされるこの風潮、さすがに気の毒になってくるのは私だけでしょうか?


 ちなみに「旧辞」「帝紀」自体は、『日本書紀』雄略紀に「帝紀・旧辞を誦み習う」という趣旨の記述がありますので、5世紀後半の時点ではすでに存在していたと思われますし、卑弥呼の時代には上表していますから、漢字を使って書類を作成できる人材が王統を残すことは出来たはずです。ただし、考古学的に矛盾する記述 (まだ馬がいないはずなのに馬が登場するなど)も存在するので、体系的にまとめられ、後世の評価や価値観が反映されたのは5世紀以降になってからでしょうね。


 ところで、神功皇后はなぜ大軍を率いて海を渡ったのでしょう? しかも一度ではなく何度も、です。 


 これを理解するには日本書紀だけを読んでも無理です。半島側の正史三国史記や広開土王碑などの一次史料をもとに前後の状況や地政学的な観点からの俯瞰的な視野をフル活用する必要があるからです。


 本エッセイの趣旨から外れるので、ここでは簡単に説明しますね。


 当時の朝鮮半島情勢はこんな感じです。


 4世紀前半:高句麗は楽浪郡・帯方郡を吸収し、南下の足場を得る

 4世紀中頃:高句麗と百済、漢江流域で衝突が増える

 4世紀後半:新羅にも高句麗からの圧力が及び始める


 はい、高句麗は魏に歴史的な大敗を喫して滅亡寸前まで追い込まれましたが、わずか半世紀あまりで奇跡の復興を遂げ、晋朝の混乱に乗じて魏志倭人伝でおなじみの帯方郡・楽浪郡を征服 (313年)しています。そして、そのまま南下の圧力が強まり、百済や新羅は存亡の危機に立たされていきます。


 そんな彼らが頼ったのが倭国です。この時代、負けたら支配層は必ず殺されますからね、生存戦略として選択肢を一つでも増やしたいのは当然です。


 そして、これは決して対岸の火事ではありません。半島南部は倭国にとって重要な意味を持った拠点です。


 ●伽耶(弁韓)の鉄資源

 ●南部沿岸の港湾

 ●海上交易ルート

 ●百済との軍事・文化ネットワーク


 半島は地政学的に守るのが難しく、生産性が低い土地ですので、直接支配するのはコストに見合わない、だから南部の支配のみに留め、百済や新羅を緩衝地帯として利用していたんですね。半島の安定はそのまま倭国の国益になるわけです。


 ですが、このままではまずい、ということで南下する高句麗を牽制するために大規模派兵を実行したわけです。


 最初の派兵ではほとんど戦っていませんが、これは当然の話です。百済や新羅に倭国の強大な軍事力を見せつけ、影響力を維持しつつ、高句麗を牽制することが狙いだったので。


 実際、百済や新羅は倭国に朝貢していますし、新羅に関しては王子を人質に差し出しています。本格的に倭国と百済が同盟関係になってゆくのもこの頃からです。飛ぶ鳥を落とす勢いだった高句麗ですが、倭国の大軍を目にして一旦は引き下がります。


 高句麗の動きに関しては、高句麗の一次史料で確認するとわかりやすいです。高句麗側の一次史料である広開土王碑(444年建立)は、当時の状況がわかる貴重なものです。石に刻まれた碑文は、写本による誤写が無いので、紙の一次史料よりも価値が高いです。しかも高句麗は当時、日本と敵対関係にありましたので、その価値は計り知れないものがあります。


 広開土王(好太王) 在位391年〜413年は、高句麗の黄金時代を切り開いた王です。その偉業を讃えたのが広開土王碑。


 内容を簡単に言うと、即位した時には、倭国が軍事的な影響力で百済と新羅を支配下に置いていた。百済は従順だったのに、倭国のせいで反抗的になってきたから攻撃して降参させてやった。新羅が助けてくれっていうから、倭国を追い払った。その後も倭国との戦いは続き、奪われた新羅の領地を取り戻したり、帯方郡まで攻め込んできた倭国軍を打ち破ったりしたことを自慢げに書いてあるんですが……。これはあくまで戦勝の記録を残すという意味があるので、負けた戦いはもちろんありません。この記念碑だけを読んだら、半島は高句麗に統一されて倭国は拠点を失って列島に引きこもることになったはずですが……


 その後の半島の結果だけ観れば、高句麗は倭国によって百済・新羅に対する影響力を失います。その証拠に倭国はその後、宋から済(451年)と武(478年)に対し「都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を授与されています。


 すでに「都督百済諸軍事」を授与されていた百済を除いた半島全域が倭国の保護監督下になったわけで、神功皇后と応神天皇が行った大規模派兵による影響力と南部の死守という目的は成功したということになります。


 日本書紀の記述は、決して大袈裟でもなんでもなく、実態は神話よりも現実的なインテリジェンスに基づいて実行されたものだったのです。



 でも不思議じゃないですか? 神功皇后はどうやってこんな大軍を派兵することが出来たのでしょうか。


 思った以上に長くなってしまったので、その話は次回にしようと思います。

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