竜のくしゃみと三日月の山
最近東京駅のデザインカードを気に入ってしまい、スマホカバーに入れてます。
――きしッ!
くしゃみ一発、山をくり抜いた。
平穏欲しくて作った滝で、まさか詰むなんて。
山の主のあたしは、隣が欲しかった。言葉がなくてもほっとできる誰か。日常的にお茶をしたり、尊敬し、信頼し合える、そんな存在がいてくれたら。
自分を振り返ってみれば、そんなの高望みだと分かってる。仲裁に入れば、双方激怒する。水不足に雨を呼べば、土砂災害になる。そんな奴に寄ってくるのは、ろくなもんじゃない。師匠だってことあるごとに呼出され、もう無表情だ。これ以上迷惑をかけたくない。
だからそんな誰かの代わりに、爺の声が欲しかった。あの声は卵のあたしに飽きずに、ずっと励ましてくれたから。
『大丈夫だ。お前なら、できる』
頭を撫でるような風と共に脳裏で爺の声が響く。
だけど、目の前の山の惨状をみれば、それどころじゃない。思わずため息がもれる。
せっかく託してもらったのに。爺、本当ごめん。
*
垂直な崖に三方囲まれ、小さな虹のかかる谷沢。幾つもの穏やかな滝が滴り、澄んだ囁きをかえしていた。川床で明るくそよぐ緑苔は、流れる清水を浄化していく。
谷沢の水源地は、あたしのたったひとつの居場所だ。
もうすぐ寝所の壁に、鉱脈から引いた滝ができる。その滴る香りと音が、爺との思い出を呼び起こす。子守唄代わりの爺のあの声を。
尾と角で三拍子を軽く刻みながら、苔むす滝の前に立つ。清水伝う岩盤を、爪先で軽くつかんで深呼吸。胸の動きに合わせ、奥から魔術が湧き上がる。意識に一滴、汲みあげる。それを胸から肩、肩から肘、肘から手首、指先へとそっと送る。そのまま爪先から岩の奥へ、魔術を静かに染みこませた。
霧より淡く、雲よりかすかな魔術は、じわじわと鉱脈へにじんでいく。すると魔術の圧力差で、水の流れが少しだけ、こちらへ向きを変えた。全体は変えない。あくまで、ほんの、ちょびっとだけ。鉱石層の端を通れば、なにより硬い水になる。この道のりなら崩れても安心だ。地下に眠る溶岩が、自然に塞ぐ構造だから。
「……よし、あと少し」
ほっと息が漏れ、肩の力が抜けた。これで岩盤裏まで水脈が来た。
不意に顔の違和感を覚えて、一度鼻をかんだ。なんだかむずつく。山になにかあったかな。
竜は『世界を支える柱』。生まれながらに名と力を持ち、領地領域を司り、守る生き物。だからあたしの領地である山に、なにかあればすぐわかる。違和感はその危険な予兆や前兆のことが多い。
だけど今は、山全体を確認しても異変は勿論、前触れすらない。誰かが噂してるだけ?
……まあ、いいか。
それより仕上げを終わらせよう。あとは出口を作れば、完成だ。
深呼吸して、身体からにじむ魔術濃度をほんの少し強めた。角から尾まで軽く縮めて、たわめる。身周辺の魔術が、つられて時間差でゆるやかに波紋を広げる。
反動で弾んだ魔術を集めた。それから小さくかたく爪先へまとめる。そのまま、口内に構築した魔術陣に流しこんだ。稼働をはじめた陣は、小さくフォン、と独特な音を発する。はじめて使う『穿孔』の魔術。きっと綺麗に穴があくはずだ。
工作系魔術は実行前の点検が大事。
出力、最小――よし。
一瞬、風が鎮まる。滝も音をなくし、山全体が黙りこんだ。耳奥であたしの鼓動が、静かに数をかぞえる。
発動――っ……きしッ!
急に来た衝撃をおしころし、角度をなんとか死守する。思わず目を閉じた。
轟音。
角が共鳴して震えた。尾が意に反して、ぺぺちっ、と地を打つ。暴風が顔を叩き、耳鳴りと振動が、全身を前から後ろへと、貫いていく。目を開けていられない。
やり過ごして、どれくらい経っただろう。
気づけば、嵐は途切れていた。
顔に違和感。まぶたがあがらない。まつげ張りついたみたい。目を閉じたまま手を離せば、岩盤がごとっと落ちた。壊した? 動揺して力加減を間違えたかな。滝の出口にヒビとか、入ったりしてないよね。
……こふっ。吸い込んだ息が粉っぽい。鼻の奥まで痛い。せきがとまらない。次いで、異物混じりの豪雨が、苔と泥のにおいと一緒に降ってきた。全身に覆いをかけたけど、雨音は途切れない。まるで足元の水が全部、上から落ちてきたような。
思ってすぐ、背筋の鱗が逆立った。羽根が勝手にしょぼくれて背に張りつく。目が開かないから、分からないけど。なんだか、随分……
いや、まさか。そんなわけ、ないよね?
豪雨は止まない。昂る心音も、とまらない。
……まずい。これ、たぶん、すごくまずい。
手が泥雨で汚れていて、まぶたはこすれない。そのままうつむいていると、大きな崩落音。思わず無理やり目を開いた。痛みとまつ毛の抜ける音がした。ぶちっと。だけど、まつげどころじゃない。目に飛び込んできた景色に凍りついた。
飛行中に落下しはじめた時の、ふわふわした感覚に急に襲われる。地面が消えたかと思って、尾で地を触る。ちゃんとあるけど、ぬるりとして、さっきまでとは違う。緊張に呼吸が乱れた。早鐘の鼓動のままに、もう一度足元を見る。
つま先より前が、ない。水が逆流し、暗い穴へと静かに落ちていく。崩落音はこの縁の岩が崩れたせいか。
無音。一切の音が消えた。下から上へ、揺れる視線で輪郭をたどる。巨大な縁は空に向かって、弧を描いていた。頂直下の鋭い崖が、こちらをのぞき込んでいる。崖の裏、黒曜石のような断面は研磨され、陽ざしを淡く返す。その中で鉱脈が、流れる星の軌跡を描いて走る。
穴の断面はこんな惨状なのに、なかは晴れやかな青。音のない山に、昼と夜が同居している。
瞬きできない。……怖い。なんで、こんなにきれいなの。
山が、三日月になった。
土ぼこりが舞う。忘れていた呼吸を取り戻した瞬間、全身が急に熱くなる。顎を打った鈍い痛み。まさか、くしゃみで設定が変わった? 開いたままの口から、排気音がした。頬の陣から蒸気が噴き出す。熱さに口内の水量を増やして冷却する。水蒸気を口から逃すと、少し落ち着いた。
魔術を編みあげる陣の設定はふたつ。極限まで魔術を絞った最小と、身の魔術はもちろん、周辺の魔術も消費する最大。
絶対最小にした。だけど設定通りなら、こんな派手に排熱しない。
「――山の子たちは?」
大きく欠けた山に、声が散る。不意にいくつも姿が脳裏に浮かんだ。穴は満された腹みたいに丸い。
耳元の血管がうるさい。尻尾が足の間に入りそうになった。ぱん、と頬を叩いて、自分に喝を入れる。誰のせいだよ、助けろよ!
羽を広げてひとうち、闇雲に飛びまわる。罪悪感に震える手をぎゅっと異常を探して、低空で縄張りを隅々まで、のぞきこむ。
変だ。なんの気配もない。異変直後で小さなものは隠れている。だけど、木々の葉擦れは止んだまま、ありふれた岩の精まで一切いないなんてはじめてだ。こんなに静かな山を、あたしは知らない。その理由がわからない。
以前、竜特有の障りで原因が見えなくなったことがあった。それかな? 小動物になって探したら分かるかも。慣れたヤマネ姿に身を変え、岩の隙間を駆け抜けた。この姿は山の管理、特に細部作業に重宝してる。
風ネズミの巣穴――ただの空洞だ。はじめからいなかったように、残り香すらない。
さすがに、おかしいでしょ。元に戻ってひと飛びし、昨日見かけたカシドリの家の前に降りる。巣穴と同じ様に文字通り、跡形もない。巣があったはずの場所を、指でそっと触れる。硝子杉は冷たく、雛の羽音は痕跡すらなかった。
頂が静かにこちらを見下ろす。それだけで胸が冷えていく。
「誰かいないの?」
言わずにはいられなかった。間抜けな声は穴にこだまし、冷えた場を露わにした。その温度に、目元をぬぐう。しっかりしないと。よそからの風だけが、音が消えた稜線を三日月形になぞった。あたしの鼓動ばかりがまだ響いている。
*
こんな異常、どうしたらいいのか分からない。蒼天さまに報告しなきゃ。連絡網を編み始めたが、それより早くあちらが動いた。
――カン!
遥か山脈の高みから空蹴る高音。上司の先触れだ。瞬きも終わらないうちに、上司は目の前にふわりと降り立った。
「この――大、馬鹿者が!」
雷よりよく通る、背筋に響く声。はりつめた場を切り裂き、なにもかもが止まった。雲ですら怯え、身を潜める。でも、あたしはその叱責のおかげで、現実に戻れた気がした。
「あの禁呪に手を出したのか! 『智』には相当の警告があっただろうが」
「え、そんなこと、どこにも」
遠雷がこだました。蒼天山脈の主さまは、この一帯を束ね司る。心の揺れは場や空に反映されてしまうからこそ、その管理は徹底されている。なのに身の魔術の扱いを誤るなんて、珍しい。やがて深く息を吐いた。
「卵になった当時の情報か。確かに……御主の『智』にはない、か……」
顔に手を当てた上司は、古沼の底を見る眼差しだった。
「だが陣を見れば、土木系や工作系ではないと、分かるな?」
淡々とした声には、静かな怒りがにじんでいた。滅多に表さないから、胸の奥がぎゅっとすくむ。
「規模が小さければ、影響ないはずでは」
「あれでか?」
話の途中で穴を指され、言葉に詰まる。
「それは、くしゃみが」
「言いわけは不要。使う前に影響くらい考えろ」
厳しい言葉の尻が、岩肌のひび割れに吸い込まれていく。山脈である彼から見れば、人など砂粒と大差ない。だというのに、人間嫌いのあの方はよくその姿をとる。これくらいの大きさが、話がしやすいのだそうだ。正直、あたしには小さくて話づらい。それに一定すぎる表情は、温度がみえなくて苦手だ。別の姿にしてほしい。結局、窮屈な圧を感じるんだし。
蒼天さまはふと何かに気づいて、髪をなびかせ、こちらに近づいた。そのまま、口を開いたあたしを制する。それからあたしの下顎に足かけ、鼻先をぐいと持ちあげて、口腔を観察しだした。
「はひ、お――!」
「陣は、そこか。面倒くさいところに書きおって。……まったく、御主はいつもそうだ」
また上司の眉間に皺が寄る。紙に書いたら、風に飛ぶ。岩に刻んだら、忘れた頃に発動する。でもここなら、陣に問題が入りにくい。いらなくなったら、削ればいい。そう考えた結果だった。くしゃみに裏切られるなんて、本当に思わなかった。身体の裏切りは、食欲だけで充分だ。
「事は一刻を争う」
鼻先を持ったまま、鏡を取り出した。あたしの口のなかが映る。頬裏の陣では、まだほのかに魔術が通っていた。体内の流れより微かなそれ。合図の光を見なければ、動いていると分からなかった。くしゃみと一緒に終わったと思っていたのに。
「うご、いて、る?」
頬の裏でちらちらと不穏な光が揺れる。ちゃんと、終了の記述まで指定したのに、終わってない。冗談でしょ。完了しないものの終わらせ方なんて、あたしは、知らない。
「山を呑み込み、力を得たな」
原則、魔術で破壊されたものは、破壊したものに帰属する。けど今回、破壊したのは山の主だ。あたしのものだから、何も変わらない。
なのに、蒼天さまの言葉は、違うように聞こえた。あたしではなく、魔術そのものが力を得たふうに。
師匠は手を離して全身を洗浄した。……今朝もちゃんと歯磨きしたよね。そんなに臭くなかったと、信じたい。
それから師匠はすぐまた思案に深く沈んだ。彼からにじむ魔術の圧が強まり、そっと胸をおさえた。この方のことだ、無意識だろう。負けずに、身体に力を入れる。
「ただの魔術ですよ?」
「終了せなんだから、対象が取り込まれた。終了記述に格が足りんわ」
「他の魔術じゃ、そんなこと起きないじゃないですか」
あたしの言葉に眉間の皺を深くしながら、こちらをちらりと見た。
「高密度、高難度、その割に終了記述が軽すぎる。こんな陣、普通は成立せんわ……そもそも魔術が保てん。重記述の禁呪以外はな」
随分と矛盾しそうな条件だ。聞けば確かに理解できる気がするけど――そんなに短くないと思うんだけどな。
「しかしできてしまえば、魔術は意志得て術者と陣から独立する」
「独立? まさか」
あたしは『智』にある陣を仮構築用の魔術図面に書き起こした。『智』は『主』たるものが、頭の片隅に持って生まれてくる知識の泉。陣の基本形はそこに記されていた。それに追加して陣をつくるのだ。
「仕舞いのここ――分かるか?」
「え……終わり、ですよね?」
四行に渡る終了記述が短いなんて、思わないって。師匠、そんな目で見ないでくださいよ。
「不足を伝えるための記号があると、以前指摘したな?」
「あっ」
そういえば以前、山の鉱脈補強の際に失敗しかけて指摘されたことがあった。
「柱の『智』は、卵の内で熟され、渡されるもの……まぁ、この件に関しては御主のはちと特殊か」
師匠はため息と共に視線の先を変えた。
「禁呪の綴りを『智』がそのまま抱えるなど、本来起こらんものだ」
その視線の鋭さは問いを許さない。
異常を観察した後に出た唸り声は、地鳴りか。言葉の背後に、苛立ちが透けて見えた。
「今は穴の奥に沈んでおる――身を隠したか」
「穿孔が?」
師匠は黙ったまま、あたしの首根っこをつかんだ。そのまま、頂近くの崖上に飛びあがる。全体を見るときに立つ、尖りの先に。
「よく見よ」
様変わりした山を見下ろす。変わったのは景色だけじゃない。まるでひとつ隣の層から見ているのか、すべてが遠い。
――いや、まさか。
言葉の奥で、いちばん身近な鼓動が遠のく。胸の奥で今、なにかがまたひとつ、静かに千切れた。
それが縁だと理解するまで、三呼吸かかった。
「つながって、ない?」
あたしを縁づける糸が、音もなく途切れていく。
「穿孔の魔術は、結果を先にうがつ」
「……あっ」
抑揚のない言葉に、思考が止まった。胸の奥が冷えて沈む。『智』に記載されたあの一文を、どうして忘れていたのか。
結果を先にうがつ。
対象に穴をあける未来から逆算し、現実が整う形に変える。条件がなければ、早いやり方をとるのが魔術だ。つまり、破壊する。
「あたしが水竜だから、水で穴があいたのかと。あれは工作や土木系かと勝手に思い込んでいました」
「ようやく気づいたか。これは事象系だ。概念や存在すら、対象になる」
「でも――事象系にしては、消費が小さくないですか」
「最初は陣稼働分。実費は、発動後だな」
あ、これも以前言われていたんだった。
「……そうでした」
「終了しなかったからな。興味深い。恒常稼働の一種としての振る舞いか。呑み込んだ際に、そちらから精算したな」
師匠はわずかに目を細めた。
「正確に判断するには、事例が少なすぎる。次は御主からやも知れんぞ。運がよかっただけと思え」
なにかが違ったなら、あたしが魔術に還っていた? 背中の鱗が総立った。尾の先が冷たくなる。
「聞こえるか。縁が順に千切れていく音が」
棲まうものたちとの、目に見えぬ縁の糸。それを失えば、あたしは過去になる。縁を失った山の主は、ただのはぐれもの。山もまた、大地から突き出た大きな突起にすぎない。
あたしはただ、寝所に小さな滝が欲しかった。木の実くらいの小さな穴をあけるだけだったはずなのに。
「縁をえぐり落とした……」
言葉が口からこぼれた瞬間、すべてが凍りついた。なにか音がしたら、壊れてしまいそう。緊張感のなかで静まりかえった場は、いっそ穏やかだった。
「始点と作用点が、司る者とその領地とはな。穿孔にとって、新鮮で良質な餌だろう」
あたしは魔術陣をもつ術者。対象は山。魔術は失敗すれば術者に戻り、成功すれば対象を呑み込む。しかも、山とあたしは、主と本体。根幹は同じであるからこそ、結局同じ結果にしかならない。
上司のため息が耳に届く。
「力増したこいつは、既に隠れるだけの知性をもつ。最初に覚えたのは欲、と見た――このままなら、いずれどちらも飲みこもう」
鋭い眼差しで、ひとつ頷いていた。
「まさか、そんな長続きするなんて」
「そう言って開発した者のおかげで、『穿孔』は禁呪になった」
平らな声に、あたしは言葉を失った。
「どうすれば」
「陣を消せば、魔術は独立する。万が一の手綱として残すべきだ。しいて言えば――今なら御主の魔術が尽きれば、消えるか」
「え。尽きたら、あたしが魔術に還りますよね?」
つまり、人間で言う死。上司の表情は揺らがない。意識がまた思考に集中している。
「まぁ、な」
生返事で言葉が途切れた。彼はそれから静かにゆっくりと深呼吸する。わずかに震えていた。
「だからこそ、次の策だ」
呟く声がした。彼の視線が、わずかに揺らぐ。迷いを振り切るかのごとく。
「始点と作用点を切り離す。対象を見失えば、実行に足場を必要とする。少しは時間を稼げるはずだ」
空雷が微かに轟く。指先が冷えていく。言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。
「そんな」
「山の主は剥奪、名も封印する」
雲が陽を隠した。静けさのなかで、彼の声だけが届く。抑揚のない言葉は、逆に優しく響いた。あたしの中で、なにかが勝手に静かにほどけていく。許されたように軽く。一瞬、勘違いしそうになる。
――そんなわけあるか。
「嫌です!」
気づいたら叫んでいた。卵の中から爺の声を聴き、ここで生きると決めて生きてきた。他の場所なんか、山のふもとくらいしか知らない。
「ここは、あたしの、」
山の主のくせに、嫌われ者の暴れ竜。だけど、ここしかない。鋭い視線があたしを捉える。
「……御主がいては、救えん」
宙色の瞳が揺れて、かげった。髪に目元が隠れる。今の早春の色、銀緑の髪はあたしの山より、鮮やかで。すっと向けられた背中に、断ち切られるものが見える気がした。
「代理だ。山はわしが預かろう」
「師匠」
何か言おうとしたけど、喉が動かない。声に出せば、胸の中で壊れてしまう。口を閉じるしかなかった。
「出来るだけ、遠くへいけ」
もう一度こちらを向いた時には、彼のなかでなにかが確定していた。瞳の奥で決意が鋭く光る。この方にとっても、容易じゃないのか。そんなもの、はじめて知った。
「御主が離れるほど、穿孔は大きな足場を必要とする。それだけの時間があれば……わしはこの地を束ねる身だ。御主の持ち場だけなら、どうにかなる」
眉間に皺を寄せる。微かに硬く冷たく張り詰めた声。なのに、その言葉の奥に、震えがある。
「――すまん。御主までは、手が届かぬ」
返す言葉に詰まった。喉が固まって動かない。胸の奥で、何かが崩れた。失敗したのは、あたしだ。知らないものが見ても、きっと分からない。その声色にただ、あたしを切り捨てただけ。そう思うだろう。
違う。過ごした時が、あたしにそれを理解させた。
「考えろ。逃げて、生きて、考えて、逃げまくれ」
何かがにじむ声。そんな色、はじめてだ。いつも、無表情だったと思ってた。よく思い返せば、かすかに確かな変化があった。あの時も、あの時も。あたしはずっと見落としていたのか。
「蒼天さま」
名を呼ぶけど、返事はない。代わりに、穏やかな空気が満ちた。
「……くれぐれも、この辺りを竜姿でうろつくな。術を刺激する」
少し間をおいて、くしゃりと歪んだ顔。言葉と裏腹に穏やかな声が、土のかけらと一緒に遠くに運ばれていった。
「地の果てまで逃げろ。知恵をひねりだせ。足りないなら……せめて手掛かりを探して、生き続けろ」
絞りだした不恰好な笑みは、この人の精一杯の励まし。だから、言おうとしたことを、うっかり忘れてしまった。
「知恵なんて。あたしに、あるわけないじゃないですか」
言うつもりのなかった言葉に、横を向いた。師匠を見れない。
ため息が聞こえて、身体がかたまる。よそよそしく背中をすり抜ける大気は、冷たい。しばらくすると、頭にそっと手が添えられた。師匠は宙に立ち、あたしに視線をあわせる。
「腐るな。世界のどこかには、あらゆる知識を集めた書庫があるという。そこなら、あるいは」
迷いながらも告げられた言に、あたしは声をあげた。
「知識を集めた書庫」
「そうだ。……御主なら、なにか手掛かりが得られるかもしれん」
「え?」
声がひっくり返った。いつもなら『御主には分からないだろう』くらいなのに。つい言葉が口から飛び出した。
「なら情報を見つけたら、すぐ帰ってきて解決しますね?」
「さすがにそんなうまくはいかんだろう」
「そうですか?」
彼の表情は揺れない。励ましてるのか、事実だと思っているのか、それすら分からない。
「まず情報を見つけるのに梃子摺る。それから御主のことだ。見つけても、これで合ってるか、数十年考え込む」
「っ……はい」
「そうだな、どんなに早くても、数百年はかかるだろう」
「あはは、ですよね……」
いつもの厳しい言葉に、なんだかほっとした。ぐさっとささるけど。
「さて。師匠ならなんと言うか」
あたしが殻ごしにしか知らない爺――蒼天様の師匠も、彼には懐かしい師匠で部下らしい。たまにこうして尋ねてくださり、懐かしげに目を細められる。
こんな時間が、もっと欲しかった。……あたしが大事にするべきだったのは、こういう時だったのかもしれない。
「うーん……『ほかに手がないなら、まずはやってみろ』ですかね」
まずはやってみなきゃ、分からない。目的は決まった。書庫を探して、止める方法を見つけて、穿孔を止める。守りたい。想いが形を得て、やっと息ができた。
「そうだな。御主にできるのはそれくらいだ」
柔らかい彼の声に、ひとつ頷いて覚悟を決める。
「……うごめきはじめたか」
穴の奥で不穏な気配が揺らいだ。師匠の言うとおり、穿孔はまだ消えていなかった。ここにいれば、あたしの魔術でまた傷つけてしまう。もうここにはいられない。
涙を流す暇はない。次を考えなきゃ。進むのは、怖い。それより、ただ立ち止まる方がもっと怖い。風に吹かれる落ち葉は、どこにだって行ける。その先どうなるかは、わからない。ただ、このままじゃ、駄目なのは確かだ。行こう。その前に。
深呼吸。山全体に伝われ。
「いってきます」
聞こえなくたって構わない。自分の区切りのためだから。だけど、それでも。
「くしゃみには気をつけるんだぞ」
「もうあんな失敗は、しませんよ!」
「どうだかな。――さぁ、いけ」
それきり、口を閉ざした。
あたしは魔術をぎゅっと縮め、身を削ぎ落とした。水の鱗がはらはらと散る。そのまま、いつものヤマネに身をやつした。
「クルル」
深々と頭をさげる。この方の役職は激務だ。なのに、あたしの持分までお願いするんだ。感謝しても、しきれない。
穿孔がゆっくりと迫ってくる気がした。
『まあ。ぼちぼちやればいい、さ』
違う。今するべき爺の声は、これじゃない。
『やるだけやってみろ。結果が分かるのは、どうせ終わってからだ』
うん。脳内に響く稜線をなぞる声に、あたしはひとつ頷いた。失敗した。だけど、山を守りたい。それは変わってない。今度こそ、守るんだ。ここはきっと大丈夫。頼もしい助っ人がいる。
書庫を探そう。威厳なんか欠片もない。しっぽを巻いて、全力で駆け出した。鼻がむずむずする。だけど、もう、失敗しない。させない。
走った分だけ故郷は遠ざかる。
風はただ静かに、あたしの背を押した。




