その3 6月4日(水)
この日は雨だった。
雨の電車は水が乾く独特の不快なにおいがする。都心みたいに満員じゃないからそこまでではないけど。千乃ちゃん、こんな雨の中でも昨日みたいにくっついてくるんだろうか……そんなことを考えていたら、電車に揺られて桜町についた。
「おはよーございます、おにーさん」
千乃ちゃんは昨日と違って、素直にドアの前に立っていた。
ピンク色で飾りの線の入った、可愛らしい傘を持っている。
髪先がちょっと濡れている。その髪がピンと立っていて、ちょっと違った感じだ。
「うん……おはよ」
「ありゃ。ダルそうですね。雨が苦手なんですか?」
「いやそうじゃなくて、昨日あんまり寝られなくて」
「おっ?」
ぐいっと身を乗り出して、にんまりと口を横に広げる千乃ちゃん。
「おおー? まさかアレですか、ホントにわたしのこと考えて寝られませんでした?」
「う」
「やだもー! えへへ、お兄さん、わたしのこと好きすぎませんか!」
ばんばんとオレの胸を叩いてはしゃいでる。
ああ、いいようにされてるなあ。だからって不快ってわけじゃないけど……。
「千乃ちゃんが、部活辞めた理由、たくさん考えろっていうから」
「なんですかお兄さん。わたしの言う事、なんでも聞いちゃうんですか」
「えー?」
「わたしが死んでくださいって言ったらお兄さん死ぬんですか」
満面の笑顔でそんなことを言ってくる。
「いやそれは……流石に死なないよ」
「そーかなー?」
「千乃ちゃん……優しいから、そういうこと言わないと思うし」
うぐっと千乃ちゃんが言葉に詰まった様子を見せた。
ちょっと頬を染めている。
「や、やりますねお兄さん。予想外のカウンターです。ちょびっときましたよ」
「おお……そう?」
わざとじゃないんだけど。ちょっと嬉しい。
「でもわたしが優しいって、そんなところを見せた記憶はないんですけど」
「いや……昨日、麻衣から色々聞いて」
「えっ」
「学校でぼっちだったあいつのこと、色々世話してくれたんだって?」
妹の麻衣は自己紹介でギャグを言おうとして滑ったらしい。そこをクラスの高カースト女子につけこまれ、いじめられそうになっていたところを『かんじわるーい』と割り込んで救ってくれたんだとか。
その時以来、千乃ちゃんは麻衣の親友なのだ……と麻衣は語っていた。
「おおう」
千乃ちゃんはぽかんと口を開けていた。
「なんというか、ありがとう」
「おおう……ええと……は、反応に困りますねえ」
てれてれの千乃ちゃんである。
今日は反撃できているのかもしれない。
「でも麻衣ちゃんにわたしのこと、聞いたんですね」
「そりゃ部活をやめた理由とか、よく知らないオレにわかるわけないし」
「わたしのこと聞いたら色々言われたでしょう? 絶対に近づくなキモい死ねとか」
「よくわかったね」
「親友ですから」
どんと大きな胸を張る。
「でも、よくわたしのこと、聞き出せましたね」
「ハーゲンダッツ奢ったら喋ってくれた」
「わあ。親友を400円で売っちゃいましたか麻衣ちゃん」
「うん。幸せそうに食べてた」
「でしょうねー」
くすくす笑う。
「それで、どうしてバレー部をやめたか、わかりましたか?」
「いや……麻衣も知らなかった。もったいないって。次期エースだったんだって?」
「ええ。わたし運動神経はいい方なので」
サラリと言う。自慢ではなくほんとにいいのだろう。
「すごいね」
「えへへー。もっと褒めていいですよ」
「千乃ちゃんすごい、よっ天才」
「はい拍手」
ぱちぱちぱちぱち。
「……満足した?」
「しました!」
むふーと鼻息荒くする千乃ちゃんであった。
「じゃあ、本題に入りましょう。どーしてわたしは部活をやめたでしょう」
「……」
昨日、ずっと考え続けていた。
「……ケガ、とかじゃないと思う。それなら麻衣が気付くだろうし」
「ふむふむ」
「あと、いじめとか部内の人間関係とか、そういうのでもなさそう」
「なんでですか?」
「千乃ちゃん、メンタル強そうで、そういうのに負けそうにないし」
「ほほう、ほほう」
「だから……すごく個人的な理由なんじゃないかな、と」
「ふむ」
「それが結局、何なのかは、わからないけど……」
そのとき千乃ちゃんがオレの顔をじーっと覗き込んだ。
微笑。だけど真剣な顔だ。
やがて。
「ほんとに、わかりませんか?」
「……え」
「なにか、わたしの『個人的理由』を想像したんじゃないですか?」
オレをじっと見つめてくる。
その顔を見て、昨日の考えが浮かび上がってきてしまう。
それは一瞬浮かんだあと、でもすぐに『ありえない』と振り払った考えだ。
そうだ、ありえない。
それはオレに都合の良すぎる事情。
千乃ちゃんが部活を辞めたのは、オレと――。
「ふふ」
「――う」
千乃ちゃんは完全にわかっているようだ。
わかっていて、からかっているのだ。
オレは止まっていた。
どうすればいいのかわからない。
「ふふっ」
にんまりと笑う千乃ちゃんである。
「そこで止まっちゃうのが、お兄さんのキモかわいいところですねえ」
「うぐ……」
「なんで言えないんですか? ねえねえ、なんで言えないんですかあー?」
すっごい笑ってる千乃ちゃん。
ふんふーんと鼻歌を歌ってる。
「……なーんて。流石に可愛そうですし、このぐらいにしてあげましょう」
「え」
「お兄さんが『わかってくれた』こと、なんとなくわかりましたしっ!」
「わかってくれたって……」
オレをしっかりと見つめて、千乃ちゃんはにこりと笑う。
「言葉にしないほうが、伝わるものもありますよ?」
とても。
美人だと思った。
「でもちゃんと理由言えなかったから、キスはお預けです。ざーんねん」
「……」
それは……ほんとに残念だけど。
そのとき、ドアが開いた。
もう次の駅だったらしい。
「ああ。もう着いちゃいましたね」
スタッと軽い足で飛び降りる千乃ちゃん。
雨はどうやらもう止んでいて、朝日が差し込んでいた。
「ばいばい、お兄さん」
「うん……ばいばい」
「また明日、たーくさん、お話ししましょうね!」
昨日と同じように、千乃ちゃんはいつまでも手を振っていた。
「………………」
オレはふうううっと、長い長い溜息をついた。
今日もむちゃくちゃ、からかわれた。
めちゃくちゃ疲れた。
でも……。
「……明日の朝、まだかなあ」
とてもとても心地よい疲れだった。
甘すぎるわーとかあまずっぺすぎて死ぬわーとか思われたら、評価・ブクマなどいただけると作者がすっごい喜びます。