その2 6月3日(火)
その日はそわそわしていた。
オレは昨日と同じ時間、同じ車両に乗っていた。別におかしくはない。高校には毎日、通わなけりゃいけないし。車両を変える理由もない。だから別にあの子と今日も話したいとかそういうわけではないのだ……自然にしていればいいのだ。
『桜町、桜町です』
アナウンスとともに電車のドアが両開きに開く。
オレは横目でちらりと見る。
…………。
誰も、乗ってこない。
五秒待っても十秒待ってもドアの向こうに人影はない。
やがて、ドアが閉まった。
「……」
えーと……。
「……あ、そっか、からかわれてたのか」
毎日一緒の電車ですねとか。
陰キャをテキトーに弄んで楽しんでたわけだ。
年下の子を待ちぼうけのオレの姿を想像して笑っているのだ。
まあ、女の子とは、そういうものだ。
「はあ……」
千乃ちゃんに怒りは沸かない。
ああ、そりゃそうだよな、当然だよなあとしか思わない。
ほんと何やってんだろうなオレは……。
もう一度ため息をついた。
そのときだ。
「えいっ」
つんっ。
「おほうっ!?」
変な声が出た。不意の一撃。ピリッと電撃が走る。
腰をつつかれたようだ。なんだ、いまの。
オレは振り返った。
「あはは、おにーさん、すごい声ー」
そこに千乃ちゃんがいた。
昨日と同じ、ふわふわしたツーサイドアップの茶髪だ。
オレの背後にこっそり忍び寄り、オレの腰をつついたらしかった。
「ふふふ、隙だらけでしたよ、お兄さん。修行が足りませんねえ」
ちょわーと手を伸ばし足を上げて拳法のポーズを取る千乃ちゃん。
かわいい。
「いや……えと……なんで……?」
「あ、隣の車両に乗ってから、こっちに移っただけです」
「……ええ」
「予想通り隙だらけのお兄さんを見つけたので、ちょっとバックアタックを」
声も出ない。
いや怒ったとかじゃなくて……ほんとに、何を話せばいいのかわからない。
からかわれてることは、わかるのだけど。
千乃ちゃんはニコニコ笑っている。
「でもでも、昨日の約束通り、わたしをここで待っててくれたんですね」
「あ……いやまあ、その」
またからかわれる――身構えたその時だった。
「わたし、嬉しいです」
にこっと無邪気に笑って。
「素直なお兄さん、大好きです」
どくん。
また心臓が高鳴る。
「あーっ。いま『大好き』に反応しましたね、しましたねー!?」
頬を染めてめっちゃ嬉しそう。
「うっ……えと……」
「ふふふ。そこでちゃんと反論できないのが、お兄さんのキモいところですねえ」
くすくす笑う千乃ちゃん。
あーもう。
まともに喋れない。
「本当、キモかわいいですね」
「キモかわいい!?」
「はい。これ私的には褒め言葉ですよ。嬉しがっていいですよ」
そんなこと言われてもどうすればいいのかわからない。
しばらく黙っていると、千乃ちゃんがオレをじーっと見て。
「ところでお兄さん。わたし、バレー部をやめたって話したと思うんですけど」
「え……ああ、昨日、言ってたね」
「なんでだと思います?」
なんでって。
「理由を当ててみてください。正解したら賞品をあげます」
「賞品?」
「はい。そうですね……」
唇に手を当てて『んー』と考えると。
「……わたしとキスする権利、とかどうでしょう?」
っ!?
「ふふ。どこにしてもいいですよ。ほっぺでも、唇でも、その他でも……」
言葉に反応して衝動的に千乃ちゃんを見てしまう。
薄いピンク色の唇。ほのかに染まったほっぺた。髪の毛の下にのぞくうなじ。
「あはは、おにーさん、視線がわかりやすいですー」
胸を隠すようにして身をよじる千乃ちゃんだった。
うう、いじられてる。
「なお権利は電車の中で限定です。だから脱がないといけないところはダメです」
「ぬ、脱ぐって……!」
思わず千乃ちゃんの制服を見る。
こんもりと膨れた紺色ブレザーの制服。
「あ、想像しちゃいました? わたしの裸、想像しちゃいましたね!? えっちー!」
ほんとに楽しそうな千乃ちゃんである。
図星なのでオレは何も言えない。
千乃ちゃん、意外と胸、大きいし……。
「あー笑った。いいですねお兄さん。理由、当ててみてくださいね」
「ええ……なんで」
「えっ、わたしとキスしたくないんですか? したいですよね?」
「……」
したいかしたくないかでいえば、したいに決まってる。
オレは当然したことないし。
千乃ちゃんかわいいし。
でも。
言葉に詰まっていると、千乃ちゃんは笑って。
「大丈夫ですよ。わたし、からかうけれど、約束は守る女なんです」
「――――」
それは知っている。
今日、約束を守って、彼女は電車に現れた。
遠くからオレの哀れな姿を見て笑ってればいいところだったのに。
……だから、余計に困るのだ。
そのとき、次はつつじヶ丘、つつじヶ丘とアナウンスが流れた。
「あ、もう着いちゃいましたね……」
「……うん」
「名残惜しいですけど、今日はさよならです」
ぴょんっとドアの外に飛び出て、千乃ちゃんは振り返る。
にっこり笑うと。
「お兄さん。わたしが部活をやめた理由。たくさんたくさん考えてくださいね!」
子どもっぽい笑みだった。
まるで親にクイズを出す幼稚園児みたいだ。
「ばいばーい」
ずっと手を振り続ける千乃ちゃん。
ドアが閉まるまで、閉まったあともずっと。
その姿を見て、オレは考えてしまうのだ。
――千乃ちゃん、オレのこと好きなんじゃないの?
「……ないない」
一瞬の思考を即座に打ち消す。
単におもちゃにされてるだけだ。我ながら童貞丸出しだし。まともに受け答えもできてないし。こんな陰キャが好きとか、ありえない。いやでも、好きでもなんでもない男に、あんな話題振るか?
「あーもう」
その日はずっと悶々としていた。
千乃ちゃんの言った通り、ずっと千乃ちゃんのことを考えていた。