Episode2
「――ッ!」
ベッドから跳ね起きた零は胸を押さえてゆっくりと呼吸を整える。悪夢でうなされるのはもう何度目か、そろそろ慣れてもいいはずなのに一向にその気配はない。
「くっそ……」
零は自分の髪を掻きむしる勢いで掴んで低く唸る。腹の中に渦巻く濁った感情から目を逸らすためにもう一度目を瞑ろうかとするが、窓からは白いカーテンを通して朝日が差し込んでおり、既に起床時間であることを示している。
「……そうか」
そこで零は思い出した。今日は高校二年の始業式。さすがに遅刻するわけにもいかない。
そう思ってベッドから立ち上がったその時、壁に掛けてある時計が目に入る。
アナログなその時計の二つの針は今が八時十分だということを示している。
「え……?」
始業式は八時半から、高校までは四十分。起きたその瞬間に遅刻が決まった。
「……どうすんだこれ……」
無遅刻無欠席を志しているわけではないが、零が通う高校は遅刻をすると生活指導担当の先生にみっちり絞られる。熊と相撲が取れそうなその先生は話が長く、一度経験したことがあるが二度と御免被りたい。まして今日は始業式、面倒なことは目に見えている。
いっそ休むか、という考えが頭をよぎるが、今日は新クラスの発表が行われる。今日休めばそれが分からないし、それを聞けるような間柄の友達も高校にはいない。
「明日先生に聞いたら休んだ理由も聞かれるだろうしな……」
休むという選択肢を捨て、零は壁のフックに掛けてある制服を素早く手に取る。
一秒で寝間着を脱いで二秒で制服に着替えた零は部屋を出て一階に駆け下りると、玄関からローファーを手に取って再び自分の部屋に戻る。
カーテンを開いて窓を開けた零は窓枠にローファーを置く。一瞬顔が強張るが首を軽く振ってすぐに緩和させる。
(大丈夫……大丈夫……あれから二年も経ってるんだ)
そう自分に言い聞かせ、零はローファーを履いて窓の横枠に手を掛ける。大人の体がぎりぎり出せるくらいの大きさ、零は窓から顔を少し出して周りを見渡す。幸いなことに人通りはないので一度深呼吸をして手に軽く力を籠める。
「いこう」
フッ、と零の両足に透明な空気のようなものが渦巻いて絡みつき、太ももまでを覆う。それはまるで足に無色透明のコーティングをされているような感じだ。
周りの空気の流れが微弱に変わるのを感じながら、零は向かいの家の屋根を見据える。距離は約一五メートル。零は窓から自分の体を押し出して軽く跳躍する。
二階建ての家の窓から飛び降りれば大怪我は免れない。窓から向かいの家の屋根への跳躍、立ち幅跳びの選手でも到底為しえることはできない。だが、軽く跳んだ零の体は次の瞬間には向かいの屋根の上にあった。
「あっ……窓閉めるの忘れた」
振り返って見ると家の窓は全開に開かれている。そこそこの大通りに面しているとはいえ、外から一発で分かってしまう。
「……まあ大丈夫か」
二階の窓に上がるのは容易ではないだろうと考え、零は視線を向かう先、高校の方に向ける。
スマホで時間を確認すると、今は八時五分。
「まあ何とかなるだろ」
言うが早いか、零は膝を曲げる。両脚を覆っていた透明な物質は引き延ばされて零の体全部を覆う。足の爪先から頭のてっぺんまで無色の物質でコーティングされた零は軽く息を吐き、思い切り跳躍する。一〇〇メートル程先の家の屋根に飛んだ零は、また次の屋根を目掛けて跳躍する。屋根から屋根へ、零は忍者のように秒速一〇〇メートルで疾走した。
2
廊下にクラス発表の掲示が張り出され、それを取り囲むように雑踏が出来上がる。落胆を浮かべる生徒や喜びを見せる生徒、様々な生徒がいる中、青みがかった黒髪の少年は自分の名前を探していた。
一組ではないことを確認し、二組に目を移す、そしてそこで一つの名を見つける。
『弘瀬蒼空』
自分の名を確認した蒼空は安堵の息を漏らす。そして僅かに瞑目し、目を開けると二組へ足を向ける。
一年の時に同じクラスだったのは七人。一クラス三〇人程で五クラスならば妥当な割合だろう。
(まあなんだってやることは変わらないんだけど)
知り合いが全くいなくとも、自分の振る舞いは変わらない。
蒼空はクラスの扉を開くと、クラスには既に二〇名程の生徒がイスに座っていた。始業式初日、まだ緊張が解けておらず、友達と喋っている生徒は少ない。
蒼空はそんなクラスを一通り見まわした後、黒板に貼られている座席表に目を移す。
「うっ……」
五十音順で決められた席順だが、『は』行以降の生徒が多いために、蒼空の席は一番前の真ん中、学生が最も忌避する席だ。
「よりにもよって……」
嘆息し、諦めを抱きながら蒼空は自分の机にカバンを置く。なってしまったものは仕方ない。蒼空は左右のクラスメイトに目を向ける。どちらも見たことのない女子、静かに座っているが、元の性格が大人しいというわけではないだろう。
右の女子は耳にピアス穴が空いているし、左の女子はギターケースを持っている。
(今日はどの部活も活動しないはずだから……)
ギターケースの意味するところを理解した蒼空はまず左の女子に目を付けた。
「ねえねえ、軽音楽部なの?」
「あ、うん。そうなんだー!」
相手が与えているヒントを元に、適切なパスを投げかける。そのパスを繰り返し、周りのみんなも巻き込んでいく。
始業のベルが鳴る五分前、その時には既に蒼空はクラスの中心に立ち、一つの輪を形成していた。
そして始業一分前、三十人のクラスには二十九人がクラスに集まっていた。
最後の一人、クラス替え直後でそれが誰なのかを把握している人はほぼいないと言っていいだろう。実際、このクラスでもそれを把握しているのはたった一人だった。
(零……)
クラスの中心で会話を回し続けている張本人、蒼空だけが最後の一人に意識を向けていた。