3. 最後の一夜
「――見つけた!」
視界に映るのは、膝下まで川に沈んでいたお兄ちゃんの姿。その雰囲気はどこか哀愁に包まれていた。
「……どうしたの、そんなに焦って」
「どうしたのって……今自分が何してるか分かってるの……?」
こちらを見向きもせず、お兄ちゃんはただ虚空を見つめ続ける。
「水冷たいでしょ? それに、このまま行くと溺れちゃうよ……?」
膝下までびっしょり濡れているその足は、細くて綺麗で、それでいてか弱くて震えていて、今すぐにでも崩れ落ちてしまいそうだった。
「お願い、こっちに来て。ほんとに溺れちゃうよ……?」
でも、お兄ちゃんは私の警告を無視して小さな一歩を踏み出す。
「ま、待って! やめて、それ以上先に行かないで……!」
私の悲痛な懇願が届いたのか、お兄ちゃんの足は止まる。そして、やっとこっちを振り向いてくれた。でもその顔は、どこか不気味な笑みを浮かべていた。
「もう、疲れちゃった」
告げられた言葉とその異様な雰囲気から、お兄ちゃんに何かあったのは明白だった。
「……何かあったの? 私のとこに来たのは、なにか話があったの……? もしそうなら、ちゃんと真剣に聞くから」
「でも、私は邪魔なんでしょ?」
「確かに邪魔って言ったけど、あれは本心じゃなくて……。蔑ろにしたの、ほんとに悪かったと思ってる!」
「……言い訳なんて聞きたくない」
どれどけ説得を試みても、お兄ちゃんの意思は変わらない。
「……違う、言い訳じゃないよ。邪魔なんかじゃない。お兄ちゃんはわたしにとって必要な存在なの。他の誰がお兄ちゃんのこといらないって言っても、私にはお兄ちゃんが必要なの。お願いだから、こっちに戻ってきてよ……」
それでも、私はひたすらにお兄ちゃんを引き留めようとした。真摯に向き合って、胸奥の気持ちを吐露した。お兄ちゃんが大好きすぎるというこの気持ちをぶつけるかのように。
「――どうして、そこまでして私を止めるの……?」
お兄ちゃんの乾いた瞳が再び潤いを取り戻す。でも、それは私も同じ。
「やめてよ……もう辛いのも苦しいのも嫌なのに……なんで私はまた、キミを必要としてしまっているの……?」
お兄ちゃんが手を伸びした先は、私。でも、その手は決意が固まっていない様に弱々しく、すぐに重力に従って落ちていく。
お兄ちゃんはまだ怖いんだ。また自分を否定されることが。愛されていないと感じることが。
でも、私はお兄ちゃんのことを愛している。この世の誰よりも、たとえ誰かがお兄ちゃんのこと要らないと言っても。
「必要としてよ……! 私がお兄ちゃんを必要としてるように、お兄ちゃんも私を必要としてよっ……! お願いだから……私のために生きてよっ…………」
ザバッ、と水音が私の耳に響いた。焦って視線を向けると、先程まで遠かったお兄ちゃんとの距離が縮まっていく。やがてお兄ちゃんに触れられる程になるまで。
「良かった……!」
安堵に抱擁され、お兄ちゃんを抱きしめる。これでもかと強く、強く抱きしめた。もう二度と離れていかないように。
「ごめんね……。戻ってきてくれてありがとう」
川に半身が沈んでいたせいか、お兄ちゃんの体温はかなり低下していて、とても寒そうに震えていた。
「帰ろう。寒いでしょ……?」
私の胸の中で小さく頷くお兄ちゃんの姿は小刻みに震えていて、とても弱々しく感じてしまった。
―――
「落ち着いた?」
「……うん」
あれから、身体が冷えきっていたお兄ちゃんにシャワーを浴びさせ、温かい飲み物を飲んでもらった。
「ほら、ちゃんと布団かけて。風邪引いちゃうから」
あれほど身体に無茶させてしまったから、お兄ちゃんを私のベッドで休ませ、少しでも労る。
「話してくれる? なにがあったか」
お兄ちゃんは少し気まずそうに口ごもる。それも無理はなかった。
「大丈夫、ゆっくりでいいから。自分のペースでいいよ。無理しないでね」
突き放してしまった罪悪感を抱えながらも、私はベッドの傍らに腰を掛け、お兄ちゃんが話してくれるのを待った。
何秒、何分、何十分。お兄ちゃんが口を紡いでくれるまで、頭を撫で続けて。
「――あ、あのね」
そして、私はお兄ちゃんから紡がれる話を真摯に聞いた。
お互いのために、そして自分のために私から距離を置いていたこと。時々辛くなるから一緒にいたかったこと。変わり果ててしまった自分のことを、愛してほしかったこと。
「そっか……話してくれてありがと」
これが、お兄ちゃんの意思。考えに考えて、導き出した答え。
「……お兄ちゃんは強いね」
不安そうに布団で口元を隠すお兄ちゃん。その涙目になった瞳は、どこか弱々しく感じられて庇護欲をくすぐられる。
「そう、かな……?」
「うん、私が保証する」
お兄ちゃんは強い人。利己的な私欲で現状を変えようとしなかった私とは違って。
お兄ちゃんがそう望むならば、妹としてちゃんと背中を押してあげなきゃいけない。
それが、大好きなお兄ちゃんのためだから。
私も、お兄ちゃんのために変わらなきゃいけないんだ。
「……えへへ」
お兄ちゃんの頭を撫でると、嬉しそうに笑う。
「…………」
しかし、すぐに変わるのも難しい話だった。
「んへっ!? な、なに……?」
お兄ちゃんの頬に手を添えると、可愛らしく反応を見せた。
驚いたように私を直視するその瞳は、とても綺麗で透き通っていて、まるで私を魅惑しているかのようで。
「……嫌だったら言って」
「は、えっ……!」
その瞳に魅了されるように、私はお兄ちゃんに顔を近づけていく。それに対し一抹の焦りを見せた。
「……っ!」
でもお互いの吐息を感じられる距離になった途端、お兄ちゃんはギュッと目を瞑った。
これでもう、私とお兄ちゃんを隔てるものはない。
今晩だけ、許してほしい。これを最後のわがままにするから。私もちゃんと、変われるように頑張るから……。
「んっ」
そうして、私たちの唇は触れ合った。
柔らかい感触に包まれながら、私たちは愛し合った。お互いの息が切れるまで、何度も何度も求め合った。
「お兄ちゃん……好きっ、大好きっ……!」
ちゅっちゅといやらしい音が部屋中に響いて、お互いの吐息と微かな喘ぎ声が漏れて、余裕がなくなって唾液が口から溢れ出て……。
それでも構わず、無理やり舌をねじ込んで、夢中になって兄ちゃんを堪能していた。
「はぁ、はぁ……。もっと……もっと……!」
余裕がないはずなのに、私の首に腕を巻いてもっとせがんでくる。顔が蕩けてしまって、でも舌を絡めてくる。その姿がひたすらに可愛くて、ますます魅了されてしまう。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ……」
お兄ちゃんのことを呼ぶ度に、身体中が大きく震えるのを感じる。興奮、背徳感、愛情、全てが私の気持ちを昂らせる。
そのまま唇から首元へ。首元から胸へ。胸からお腹へ。そしてお腹から――。お兄ちゃんが私色に染まっていくその姿は、とても愛くるしかった。
このまま一生、こうしていたい。これからもずっと、求め合いたい。愛し合いたい。
そんな許されない感情をお兄ちゃんにぶつけた。明日には、もう二度とこの関係には戻れなくなるから。
そう。これが、最後の一夜。
「……大好き」
私たちは、所詮ただの兄妹に過ぎないのだから。




