1. 現実
「ねぇ、お兄ちゃん……しない?」
ベッドの傍らで横たわるお兄ちゃんに、少しばかり甘い声で誘ってみた。
「……明日も学校あるんでしょ? 私は大丈夫だから」
でも、お兄ちゃんは優しく微笑みながらやんわりと断る。
今回だけじゃない。一緒に寝ることを控えるようになったり、我儘を言わなくなったり、そういう行為にだって至らなくなった。
嬉ばしいはずなのに、どうしてか寂しかった。
お兄ちゃんが自立してきているということが……お兄ちゃんが私への依存から離れていっていることが、少しだけ嫌だったんだ。
「そ、そうだよね……」
考えれば考えるほど、胸がキュッと苦しくなる。
お兄ちゃんに必要とされたい。お兄ちゃんに求められたい。お兄ちゃんの唯一でありたい。そんな邪な感情が私を襲う。
「――でも」
そっと、お兄ちゃんは私の唇に自分の柔らかい唇を重ねる。
「んっ……!?」
優しく唇が触れ合って、それから舌を入れられて。優しく、そして深い、長い口付け。
この瞬間だけ、嫌なことを忘れられる。全てがどうでもよくなってしまう。
「これくらいならしたいかな」
お兄ちゃんなんて私にドロドロに依存して、離れられなくなればいい。
心のどこかでお兄ちゃんの不幸を望んでいる事実に、心も情緒も何もかもぐちゃぐちゃになってしまう。
私はほんとうに、最低な妹。
―――
妹は、いつでも私の傍にいる訳じゃない。
だから、一人でも生きていけるように立ち上がらなきゃいけなかった。
これ以上妹に負担をかける訳にも、心配をかけさせる訳にもいかない。なにより、妹に嫌われたくない。
「いってきます、お兄ちゃん」
「うん、いってらっしゃい」
だから頑張った。
無理して笑顔を作って妹と距離を置いた。一人になる寂しさも、不安も、恐怖も全部抑え込んで。ここで頑張らなかったら、お互いがまた苦しくなるだけだから。
私が……私だけが頑張れば、それで済む話だから。
「ねぇ……」
でも、それも長くは続かない。
今まで縋っていた存在から、突然離れた代償があまりに大きすぎたのだ。
「どうしたの?」
「……少し、しんどくて」
妹という精神安定剤がなくなった私は、こうして時々妹に甘えないと――妹と二人だけの時間を設けないと、とてもやっていけなかった。
「――そっか。おいで」
妹に両腕で包まれている時だけ、不安な気持ちも、過去のトラウマも、孤独感も忘れられる。妹の暖かい包容力に包まれることが、私の生き甲斐。
「……ごめんね」
震えながら弱々しく謝る私の頭を、妹はそっと愛撫する。
「ううん、いいんだよ」
妹が腕の力を解くことはない。力いっぱい包容されて、甘い言葉を囁かれて、私の心は満たされていく。
「私はここにいる、だから安心して」「大好きだよ、お兄ちゃん」
私の全てを肯定してくれる。私の欲しい言葉をくれる。不安を払拭してくれる。心に空いた穴を塞いでくれる。
妹だけが、私の人生において唯一縋れる存在だった。
だから今日も、私は妹に甘えようとしていた。
「ねぇ、今ちょっといい……?」
「……どうかした?」
でもどこか不機嫌な様子だった。笑っているけど、無理して笑顔を取り繕っている。
「少しだけ、傍にいたくて……」
でもきっと気の所為だって自分に言い聞かせた。だって、もう私の心は限界を迎えていたから。
「ごめん、今日は一人にさせて」
「……え?」
でも、妹は拒んだ。
「学校のことで、色々やらなくちゃいけなくて……今日は我慢してくれる?」
その言葉と声色がいくら優しくても、妹に拒まれた事実が私の心臓を深く抉る。
「で、でも……」
「ごめんね、今は本当に忙しくて……また今度にしてくれないかな……?」
それでもなんとかして妹を繋ぎ止めたかった。今だけは、妹がいないとダメなくらいに追い詰められていたから。
「よ、良かったら飲み物持ってこようか……? 息抜きも大事だし――」
でも、それが愚策だった。
「お兄ちゃんッ!!」
らしくもなく声を荒らげる妹に、私の身体はビクッと痙攣する。
「一人にさせて」
本当にそれを心の底から望んでいるように吐き捨てた。
「私だって暇じゃないの。邪魔しないで」
邪魔。その言葉が私の心に深く刻み込まれる。
「……っ。ご、ごめん……!」
妹の部屋を飛び出す。妹に嫌われることを深く恐れたからだ。
妹が不機嫌だったのも、私を拒絶したのも、私を突き放したのも、全部私が悪い。私が我儘を言ったから、妹は私を嫌いになったんだ。
全部、全部ぜんぶ私が悪いんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
私は邪魔なんだ。誰からも必要とされていない存在なんだ。誰からも愛してもらえないんだ。そもそもこんな偽物の女の子なんて、気持ち悪い以外の何物でもない。
止まらない被害妄想に嫌気すら差す。心も思考もぐちゃぐちゃになる。
その時、私の中でなにかが切れてしまった。
あぁ、こんなことになるんだったら……。
――あの時、ちゃんと死んでおけば良かった。




