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非日常的な日々  作者: 緑茶派
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 よれた掛け布の上で、影が揺れるのが見えた。

 ベッドの上でこれでもかというほど大きく伸びをして、ふっと力を抜く。眠っていた目と耳、それから全身の感覚がようやく起き上がる。霞がかかっていた視界が鮮明になり、辺りはひっそりと澄んでいった。


 ふと、暖かな風が頬を撫でる。

 風が吹いてきた方へ目を向けると、小窓を覆う薄色のカーテンが揺らいでいた。それに合わせて、床に落ちた影も不規則に動く。


 ベッドから降り、いつもの手順で朝の支度を済ませる。その最中、頭の中では昨夜の行動を思い返していた。...やっぱり、窓を開けた覚えはない。

 覚えがないと言えば、もう一つ。

 壁に背を向けて置かれた勉強机の上に、一風変わった手紙が置いてあった。


 覚えがないどころか、心当たりさえ全くない。俺はこれまでの人生で手紙なんて書いたことはないし、まして俺に手紙を出すような情緒のある知り合いなんて一人もいない。もしいたとしても、郵便配達員が部屋に侵入して、寝ている俺の横に手紙を置いていくなんて、そんなわけがない。


 昨夜の記憶を掘り返しながら、春の陽気に染まった柔らかな布団を押し退けて、両足を床に下ろす。

 一階へ降りて洗面所へ向かい、顔を洗い、歯を磨く。完全に目が覚めたところで自分の部屋に戻った。タンスの引き出しから適当なシャツとズボンを引っ張り出し、着替える。

 いつも通りの朝。昨日と変わりない日常。

 なのに、最近はあまり使うことのなくなった視界の端に、どうしても見慣れない「それ」が引っかかった。


 折り目のない教科書が並ぶ勉強机の手前に、その手紙はある。

 まだらな色合い。ざらりとした表面。封蝋なんてものが使われていた。歪に盛り上がった赤色に触れてみると、艶やかな肌触りと硬い手応えが指に返ってくる。


 どこから来たんだ、これ。

 自然と窓の方に目が行く。陽の光を浴びたカーテンは、白々しく揺れていた。


 手紙を手に取って裏返してみるが、差出人は書いていない。力加減を探りながら慎重に蝋を割り、中身を取り出す。出てきたのは、二つ折りにされた古めかしい便箋が二枚だけ。

 広げると、褪せた紙の上に濃い黒色の文字が縦書きに綴られている。粗い指触りを確かめながら一文字ずつ目を通していくと、一枚目の最後の行に、もう何年も口にしていなかった名前が書かれていた。


 俺は少し考え、そばにあったスマートフォンに手を伸ばした。


 ◇ ◇ ◇


 庭に面した大窓から入る陽光が、リビングを白く照らしている。窓越しに注ぐ春の日差を浴びるとそれだけで足取りが軽くなるようだ。


 今日は平日。いつもなら、もう学校に着いてHRを受けている頃だ。だが今は、中学を卒業し高校へ入学するまでの猶予期間。手持ち無沙汰な指先で、とりあえずテレビの電源を入れる。リモコンのボタン一つで切り替わるチャンネルは、どれもこれも今の俺には関係のない、どこか浮ついた世間の喧騒ばかりを映し出していた。画面の向こうでは、キャスターがどこかの海上の空撮映像をバックに、世界中が注目している「例の事象」について熱っぽく語っている。

 そんな世間の騒がしさを聞き流しながら、俺はオーブントースターを覗き込む。橙色の熱源に炙られ、二枚の食パンがじわじわと角張っていく。しばらくして「チン」と抜けた音が鳴った。


 焼き上がったそれを皿に乗せ、ダイニングテーブルへと運ぶ。卓上には瓶詰のジャムとマーガリンのパックが並んでいた。


「んで」


 机に肘をつき、二枚の便箋を手にした男が口を開く。


「これ、どーすんの?」


 戸田涼。十年来の付き合いになる幼馴染だ。背丈は同年代の平均を優に超え、顔も丸みの少ない大人びたものではあるが、中身は昔から変わらない。

 俺は皿の一枚を涼の前に置き、椅子を引いた。


「どう、って」

「そりゃあ、行くのかどうかって話だろ」

「信じるのか?」

「まあ普通なら信じられねーけどな、心当たりがないわけじゃねーし。それに、悠斗だろ?」


 手紙の主である池田悠斗は、俺の実兄であり、涼もよく知る人物だ。俺たちがこの家に越してきてから、悠斗がひと足さきに中学へ上がるまで、よく三人で遊んでいた。

 二年前、悠斗は卒業式のあとにふらっといなくなったきりだった。身内贔屓かもしれないが、芯が強く、思慮深い人だったから、さほど心配はしていなかった。きっとどこかで好きに生きているだろうとは思っていた。が、しかし、異世界とは。


 トーストにジャムを塗りたくり、手元の手紙に視線を落とす。


「心当たり、ね」


 涼は大仰な仕草でトーストに手を伸ばし、すぐに「あ!」と声を上げた。


「そういえば、もう届いたよな!この間買った高い蜂蜜!」

「届いている。未開封のままだけど、そっちの方に」

「へーい用意しておけよなー。ていうかお前も使えよ!いっつもジャム(それ)じゃんか!」


 ぶつくさと文句を言いながらキッチンへ向かう。蜂蜜を見つけ、しかしすぐには戻らない。どうやら二つの味付けを味わうらしい。オーブントースターが熱を帯びる振動音を耳にしながら、俺はリモコンでテレビの音量を上げた。ちょうど、画面がスタジオから中継映像に切り替わったところだ。


『――境目サカイメプロジェクトでは、この二年間で越境に成功したのは日本人だけであり...』


 境目。二年前、神奈川県三浦半島と静岡県の伊豆大島の中間ほどに、突如として門が出現した。

 重力を無視して空間に縫い付けのられたそれは、各国の専門家が束になっても解明できない、この世界の未解明領域だ。画面の中では管理局の役人が、視聴者に向けて新たな実験への協力を呼びかけていた。

 その内容とは、門を越え、向こう側の世界へ行き、そして帰還すること。


『向こう側の世界とは?』というリポーターの問いに合わせ、画面に古い写真が映し出された。荒れた海原に佇む、漆黒の門。その上枠に刻まれた文字がズームされる。

 世界各国の言語で同一の内容が書かれているらしい。日本語の文言もあった。


 ――我々の世界へ来ないか――


「お、タイムリーじゃん」


 涼が戻って来た。その手にはチューブ式の蜂蜜容器と、同じこげ具合の二枚のトーストを乗せた平皿があった。


「二枚焼いたの?」

「ラスト一枚残すのもなんだかよ」


 よくわからない理由で人の家の食材を使い切るな。

 「一枚いる?」という投げかけに無言で非難の視線を向けると、あっさりと皿を手元に戻しTVの方へ目をやる。


「異世界って、やっぱこれのことだよな」


 涼はナイフを手に取り、一枚目のトーストにマーガリンを塗り始めた。


「だろうな」

「けどよお、実際に行けるもんなのかね。高校受験よかハードル高そうだぜ」


 そう。俺たちはついこの間まで、高校受験というものに取り掛かっていた。

 来月から俺と涼が通う予定の学校は、クラスの担任教師に勧められ受験したところだ。学力と通学の便からの判断だろう。大した思い入れがあるわけではないが、とくにこの一年間はそれなりに苦労させられたためか、合格だと分かった時は周囲のクラスメイトと大はしゃぎしたのを覚えている。


 ふと、自分の手元に視線を落とす。考え込んでいるうちにすっかり冷めてしまった、ジャムが塗られたトーストがあった。

 仕方なしにそれを一口齧ると、予想通りの甘さが口に広がった。果物由来のものとグラニュー糖による強い甘味の中に少しの酸味がある。好みの味だ。しかし、普段よりも少し味気なく感じるのは、冷めているからだろうか。


「それに、せっかく合格したんだしな」

「なー」


 涼は気の抜けた返事をしながら、蜂蜜の容器を手に取り、二枚目のトーストに惜しみなく黄金色の雫を垂らしていく。マーガリンに比べれば、幾分か興味をそそられる。


 手元にある古ぼけた便箋を見つめる。

 「やりたいことがない」という言葉が、まるで俺の心のうちを見透かしたようで、穏やかでない情動を掻き立てる。凪いでいた水面に波を立たせるように、その言葉が胸のうちで反響していた。

 二年もほったらかしにしていたくせに、こういうところは相変わらず鋭い。


 俺は一度深呼吸をして、熱を帯び始めた思考をなだめるように、再び褪せた紙面に目を落とした。数回読み返した内容。兄の所在を示す「異世界」という言葉。

 そこにはきっと、今まで体験したことがないような、この世界では体験できないようなことが多くあるのだろう。それこそ、あの苛烈極まる我が兄が、こんな周りくどい誘いをするくらいには。


「涼」

「ん」


 涼の手元にはそれぞれのスプレッドを載せた二枚のトーストが完成している。

 涼と視線が合う。手をとめ、俺の言葉を待つように。


「一枚、それと蜂蜜を取ってくれ」

「ういー」


 教師に言われた道とは違う。

 だからと言って、兄に誘われたからではなく。

 他でもない俺自身が行きたいと思ったから。試してみたいと思ったから。


「...まあ、美味しいけどさ。これ、ジャムの五倍くらい高かったよな」

「だははは!五倍うまくはねえか!」

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