下働きの娘、転生したことに気づいたのは、お腹が痛くなった時。
転生したことに気づいたのは~の短編三作目です。
少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。
深夜、急に痛み出したお腹を手で押さえて思ったのだ。
この痛みはこれまでに経験した痛みとは違うなと。
上を向いても、横を向いても、下を向いても痛みがとれない。
その時だ。
「あれ? 前にもこんなことあったような……いや、でもこんな痛み初めて……じゃないってえ、え、えええええ」
そうだ。
前にも同じような痛みを経験したじゃないか。
何で今まで忘れていたんだろう思うほどに、蘇る記憶。
私は私だ。
でも記憶中の私は、今の私とは違う私だった。
地球の日本で生まれ育った、私は十八歳の時、いわゆる盲腸になったのだ。
正式名称は急性虫垂炎、その時に初めて知った病名で、告げられた瞬間は何の病気だろうと不安に思ったのを覚えている。
今と同じようにお腹が痛くなって、眠れないほどの痛みに、翌朝すぐに病院を受診した。
「いや、待って。この世界でそんなにすぐに病院にかかれない」
この世界にも病院はあるけれど、そこには治癒士がいて魔法で治療をしてくれる。けれど、治癒士に治癒してもらうには莫大なお金がかかるのだ。だから一般庶民は病院に行くことはなく、町の小さな診療所で薬草をもらうぐらいしかできないのだ。
「確か、前の私の時は手術せずにすんだんだ。しばらく通院して点滴してもらって、抗生剤を飲んでなんとかなった」
そこまで思い出して、気づく。この世界に、抗生剤何て便利なものは存在しないことに。
「いたたたた」
お腹の右下を手で押すと痛みが強くて、前の私の時と全く同じ痛みである。
「どうしよう、治癒士にお願いするなんてことになったら、これまでの貯金が全部なくなるどころか、給料前借りしなきゃ足りない」
もしかしたら我慢できるかもしれない。
そう思ったけれど、数時間後、人間我慢するにも限度があるということを知るのだった。
それに前世の知識として、盲腸の怖さを知っていただけに、診療所に行って薬草をもらうという選択はなく、結局、私は給料を前借りすることにしたのだった。
「朝からすみません、カミラ様。給料の前借りをお願いしたいのです」
「理由は?」
「実はお腹が痛くて、病院に行きたいのです」
「診療所ではダメなのですか?」
「……はい、多分診療所では治せないと思います。お願いします」
私は痛むお腹を押さえながら、カミラ様に頭を下げる。
このカミラ様は、多くの下働きを束ねるとても偉い人だ。ここは下働き協会で、日本で言えば、派遣会社のようなもので、下働きを必要とする家や商会などからの依頼があれば、下働きの人を派遣しているのだ。その協会のトップがカミラ様なのである。
「エリー、今はちょうど休暇中でしたね?」
「はい、昨日まで男爵様のお宅で下働きをしておりましたが、契約期間満了したところです。次の契約先を決めるまで休暇をと思っておりました」
「……あなたは勤務態度も真面目で、これまで途中で契約を切られたこともありません。これまでの実績を見て、給料の前借りを許可しますが、病院にかかるには銀貨では足りませんよ。金貨一枚は必ず必要です」
派遣先にもよるけれど、私の一カ月の給料は銀貨一枚だ。銀貨十枚で金貨一枚の価値だから、病院にかかるだけで十カ月分の給料ということになる。
「前借りは半年分までと規定があります」
今の私の手持ちが銀貨二枚、半年分の銀貨六枚を借りても、あと二枚足りない。
知り合いに頭を下げて借りようかと考えていれば、カミラ様は言った。
「しかし、ちょうど高額の依頼がありまして、そこは給金が通常の二倍。よって五カ月分の前借りをすれば金貨一枚です」
「その依頼お受けします」
「内容を聞かなくてもよいのですか?」
コクコクと頷く私にカミラ様は五カ月分の給料にあたる金貨を一枚貸してくれた。
どんな仕事であっても、健康には代えられない。そう思った私は、給金が二倍なんて怪しさ満点の仕事の内容を聞くことさえしなかった。
「次の契約先に行ってもらう日程ですが……説明は帰ってきてからがいいですね」
「はい、すみません。失礼いたします」
お腹の痛みがひどくなった私は、次の契約先の話どころではなく、金貨一枚を握りしめて病院に向かったのだった。
病院はお金を持っている貴族や商人が行くところなだけあって、下働きの娘の私は場違いであった。けれど今は痛みが強くて、そんなことを気にしている余裕はなかった。
受付順に呼ばれるようで、並ぶ椅子の最後尾に腰かけた私は、早く自分の番がくることを祈った。
あと少しで呼ばれると思った時、お腹を丸めて座っている私の横で、小さな子供がぐったりとしている様子が目に入った。使用人と思われる女性に抱かれる子供の身なりからして多分貴族だろうなと、服の飾りを見ながら痛みを紛らわせていた。
「エリーさん、お待たせいたしました」
やっと私の番が来たと思い、立ち上がろうとした瞬間。
「坊ちゃま、坊ちゃま、しっかり」
そんな声が聞こえてきて、私は思わずそちらに視線をやった。
すると、ぐったりとした様子の子供の顔は真っ青で、使用人と思われる女性は気が動転しているのか子供を思いっきり揺さぶっている。
「……お先にどうぞ」
診察室を指さしたところ、子供を抱えた女性は私にお礼を言う暇もなく駆けていく。診察室から顔を出した看護師のような役割だろう女性は、目を白黒させていたけれど、子供がぐったりとしていることに気づいたようで、慌ただしく扉を閉めた。
具合の悪い子供を差し置いてさすがに診てもらうわけには行かず、私はまたお腹を丸めて椅子に腰かけてじっと耐えていた。次だ。次に呼ばれるのは私なんだから耐えるんだ。そう自分を励ましていれば、隣に腰かけたのはおじいさんだ。
「ゲホッ、ゴホ、ゴホォ」
どうやら咳が出ているらしいおじいさん、チラリと確認してみればさっきの子供のように顔色が悪いわけではない様子で、私は一人安心していた。
「お待たせいたしました。エリーさん、先程は順番を譲っていただいてありがとうございました」
「いえ」
「こちらへどうぞ」
やっとだと思って立ち上がったところで、隣のおじいさんに異変が起きた。
急にバタンと音を立てておじいさんが倒れたのだ。
目を見開く私の隣に、看護師さんとみられる女性は駆け寄った。
「心拍停止してるわ」
「もちろん、どうぞお先に」
コクリと頷いた女性は、慌ただしくおじいさんを担いで、診察室の中に消えていった。
「心拍停止したんじゃ仕方ない」
そう呟いてストンと椅子にお尻を落とした私は、もう我慢の限界を通り越していた。
意識が朦朧として、自分で何を言っているのかもわからなかったのだから。
「……急性虫垂炎……甘く……痛い……抗生剤」
だから、私のこの呟きをしっかりと聞いていた人がいるなんてこの時は思いもしなかったのだ。
次に目を覚ましたのは病院のベッドの上で、お腹の痛みはすっかりなくなっていた。
どうやら意識を失っている間に、処置が終わったらしく、私はとても元気だった。
健康には変えられないとはいえ、金貨一枚とは大金だ。
これから気合いを入れて働かなければと、私はカミラ様のもとに急いだ。
「カミラ様失礼いたします」
「エリー、体調はいかがかしら?」
「はい、おかげさまですっかり良くなりました」
「それは良かったです。それではさっそく依頼について説明しましょう」
カミラ様の説明では、給金が二倍の職場は辺境伯の家の下働きだった。中央から離れた場所にある領地は、雪深い場所で、国土防衛の要であるそこは危険が伴うそうで給金が二倍という説明だった。
「わかりました」
「質問は?」
「いえ、とくにはありません」
「そうですか、それでは契約書にサインを」
私はしっかりと自分がサインをした契約書を握りしめて、辺境伯のところへ行くことになる不運に思わずため息をついた。辺境伯の下働きがすぐに辞めてしまうと言うのは、下働き協会では有名な話である。なんでも人間関係がものすごく悪いそうで、揉めに揉めて女同士の殴り合いにまで発展したとか、いじめられるだとか、良い噂を聞かないのである。
そんな噂を思い出しながら、辺境伯のところへ行く荷造りをはじめた。下働きのいいところは住み込みでの業務になるため家賃がかからないところだ。だから普段から荷物は少なく、必要最低限の物だけを所有している。今はちょうど宿屋に宿泊中だったために、荷造りといっても、すぐに終わってしまった。
空いた時間に買い出しでも行こうかと思った、その時、部屋の扉がノックされた。
「はーい。どちらさまですか?」
「カミラです」
「え?カミラ様ですか?」
急いでドアを開けたら、本当にカミラ様がいた。
「エリー、あなたに指名で仕事が入りました」
「え?私ですか?」
指名での仕事というのは、一度仕えたことのある場所で気に入ってもらえたりすると呼んでもらえ、指名料という形で少し給料が上乗せされる有難い制度なのだ。
「契約先は……公爵様のお宅になります」
「え?公爵様って、あの王家の分家にあたる王家の親族の方がたくさんおられる公爵様ですか?」
「ええ、その公爵様です」
ポカンと開いた口が塞がらない私だったけれど、依頼書を見せられて、カミラ様に何度も説明してもらい理解したのだ。
「でも、私、公爵様のお宅に指名を頂けるような心当たりがありません。公爵様にお会いしたこともありませんし。それに辺境伯のお屋敷へ行く契約書にサインしてしまいましたよ」
「辺境伯の方は他の下働きを行かせることができますが、公爵家からの指名となるとそうも行きません。依頼主は下働きの娘のエリーを指名するの一点張りです。給金は辺境伯のところの倍出すそうですが、やめますか?」
悩んだのは一瞬だった。人間関係で苦労するであろう辺境伯のところよりは、公爵様のお宅の方がましだ。それに給金に目がくらんだのだ。
「行きます」
「それでは契約書にサインを」
「はい」
「勤務は明日からです。失礼のないように励みなさい」
「はい、頑張ります」
しばらく休暇を楽しむつもりでいたけれど、夢のような高額の仕事だ。
前借りした給料分早く働きたかった私にピッタリな仕事である。
翌日、できる限り身なりを整えて、少ない荷物を持って次の職場になる公爵様の家に急いだ。
「下働き協会から派遣されました、エリーと申します」
「……話は聞いております、どうぞこちらへ」
執事であろうおじいさんの顔を見た瞬間、あれ? どこかで会った気がすると思ったけれど、こんな品のいいおじさまに会ったら忘れないだろうから気のせいだろうと思った。
品のいい執事のおじいさんの案内で、公爵様のお宅にお邪魔した私は失礼にならない程度に周りを見ながら歩いた。これまでにいろんな屋敷を見たけれど、庭の広さも美しさも、建物の造りも格が違う。
おじいさんについて歩いていれば、一際大きな扉の前で止まった。
「こちらに主がおられます」
「……公爵様本人がですか?」
「ええ、直接お会いになるそうです」
ただの下働きに、公爵様が会うなんてびっくりだ。これまで下働き協会から派遣されていろんな家に行ったけれど、主の顔を見ることなく契約期間が終わることなんてよくあった。だから、まさか初日から公爵様に会うことになるなんて思いもしなかった。
私は、カミラ様に事前に教えてもらった情報を思い出す。
公爵様のお名前はカイト様。現王の弟で、現在三十歳、独身、魔法も使える上に、顔もいい。王都で結婚したい男性ナンバーワンという噂である。この世界では魔法を使える人は一握りと言われていて、魔力を持っている人が少ない。その少ない中でも公爵様は魔力が桁違いに多いそうだ。
執事のおじいさんのノックの音に私は小さく深呼吸した。
とにかく失礼のないように。失礼のないように。
そう、心の中で唱える。
「失礼いたします。下働き協会から来られたエリーさんをお連れいたしました」
「入っていいぞ」
その耳に響く低い声の主は、漆黒の髪、漆黒の瞳、さらには黒い服を着ていたから、上から下まで黒かった。偉い人というのはオーラがあるんだろうなと思わせるほど、目の前にいる公爵様の雰囲気は威厳に満ちていた。そして噂通りの美貌の主に、これは人気があるはずだと納得した。
「はじめまして。エリーと申します」
頭を下げて挨拶をした私に、公爵様はひとつ頷いた。
「急性虫垂炎だったと聞いたが、その後どうだ?」
私が虫垂炎だったなんて誰に聞いたのだろうと疑問に思ったけれど、この時は緊張してそんな疑問はすぐに忘れてしまった。
「はい、すっかり良くなりまして健康そのものです」
「……そうか、それは何よりだ。まずは礼を言いたい」
礼とはなんだろうと内心で首を捻っていれば、サッと目の前にきて頭を下げたのは執事のおじいさんだ。
「病院では順番を譲っていただきまして、ありがとうございました」
「……あ、あの時の、心拍停止したおじいさんですか?」
「ええ」
今はビシッとセットされた髪も、あの時はくたびれた感じだったから、まさか同一人物とは思わなかった。
「元気そうでよかったです」
「おかげさまで一命をとりとめました」
「俺からも礼を言う。それで業務についてだが、これまで下働きとしてどんな業務を担当していたんだ?」
突然の質問に私は内心では不思議でしょうがなかった。だってこれまでこんな質問されたことがなかったから。
「これまで下働き協会から派遣されて、主に炊事、掃除、細々した雑用を担当しておりました」
「そのほかには?」
「ほかでございますか……?」
何だろう。私ってほかに何の仕事してたかなと振り返ってみても、ほとんどが雑用である。
「下働きですので、基本的に人の下について働いておりました。炊事や掃除以外でしたら、できる範囲ですが、書類整理や入浴介助、ベビーシッターも経験がございます」
命令されればできる範囲でこなしているけれど、基本は掃除などが多かった。
「ふむ……それでは、最初の五日掃除、次の五日を炊事をお願いしよう。十日後またここにくるように。細かいことは、そこにいるトムに聞いてくれ」
「かしこまりました」
品のいいおじいさん執事の名前はトムさんと、忘れないように心の中で繰り返す。
それからトムさんは、使用人の部屋がある建物に案内してくれた。公爵様のお屋敷は広くて、働いている人もとても多いので、敷地の中に複数建物があり、その中の一つは使用人専用なんだそうだ。私の部屋は、二階にあり日当たりもよく、窓から綺麗な庭が見える場所だった。住み込みとなると、屋根裏部屋だったところもあったので、部屋だけでもここは当たりである。
「業務は明日から開始します。食堂は一階中央にございますので、お好きな時にご利用ください」
「はい、ありがとうございます」
少ない荷物の荷解きもすぐに終わり、暇を持て余した私は、お昼ご飯には少し早いけれど、さっそく食堂に行ってみることにした。
階段を下りて、中央に向かうと、すぐに食堂が見えてきた。
そして中に入って私は驚いたのだ。
さすがに自販機はないけれど、食堂の入り口でまずメニューを決めて、メニューの札を持ってカウンターに行けば料理が出てくるシステムだったのだ。前世の学食を思い出した私は、少し嬉しくなった。
いろんな家に下働きに行ったけれど、ここまで画期的なところは初めてである。
出てきた料理も申し分ない味で、私はここで働けることに感謝したのだった。
そして翌日から業務がはじまった。
「下働き協会から派遣されました、エリーと申します。よろしくお願いします」
仕事を円滑に進めるためにも、挨拶は基本だ。
何より、人間関係は大事である。
今日は、しばらく使っていなかった建物の掃除をすることになり、人手が足りていないそうで私は数人の使用人に混ざり仕事をすることになった。今のところ皆いい人で、わからないときは聞けば親切に教えてくれるし、さすが公爵家、使用人の質までよかった。
掃除の方法は、この世界掃除機なんてものはないから、箒と塵取りを使っている。それはどこのお宅も同じである。けれど一つ違ったのは、雑巾を挟むモップがあったことだった。掃除の中では雑巾がけが重労働だけれど、このモップなら腰を痛めることもなく快適だった。
ご飯は美味しいし、人間関係も問題なく、給金は高く、本当に夢のような職場だ。
部屋で一息ついていると、ドアがノックされた。
「はい?」
「隣の部屋のポージーよ。今いいかしら?」
「どうぞ」
ドアを開けてそこにいたのは、赤毛の女の子だった。
「挨拶が遅くなりました。エリーです」
「こちらこそ、なかなか挨拶に来れなくてごめんね、昨日は私夜勤で今起きたの」
公爵家では、どうやら夜勤の仕事もあるようだ。
ポージーは気さくで明るい女の子で、私はお隣の子が良さそうな子で安心した。
「そうそう、今日は使用人の女性はお風呂の日なのよ。知ってた?」
「いえ、お風呂があるんですか?」
「うん、男女で交代で入れる日が決まっているの。お風呂に一度入ると水浴びだけじゃ物足りなくなるわよ」
公爵様の家は本当にすごい。お風呂があるお屋敷なんてはじめてだ。この世界の人は水で濡らしたタオルで汚れを拭いたり、水浴びはするけれど、お湯に浸かることはしないと思っていた。
私もまだまだ世間知らずだなと思い、これからもいろんなところに下働きに行って世の中のことを知りたいと思ったのだ。
それからポージーとは仲良くなり、話しかけてくれる人も増えて、私は公爵家での生活がだんだんと楽しくなってきた。
あっという間に五日が経ち、次は厨房を手伝うこととなった。
「下働き協会から派遣されました、エリーと申します。よろしくお願いします」
五日前と同じように、私は厨房の方々に向かって挨拶をする。
厨房のお手伝いは、だいたいが皿洗いや下拵えだ。暗黙の了解で料理人の領分をおかしてはならず、指示されたことをきちんとこなすのが厨房のルールだと私は思っている。だから、ひたすら野菜の皮をむいていた私が突然鍋の前に立たされることになろうとは思いもしなかったのだ。
「エリー、急に欠員がでた。指示を出すから補佐をしてくれ」
「はい、かしこましりました」
どうやら突然の人手不足のようだ。
「まずは、肉に塩をふってくれ」
「はい」
「次は魚に酒をかけてくれ」
「はい」
「砂糖を大さじ二右の鍋に追加」
「はい」
「醤油を大さじ三左の鍋に追加」
「はい」
この日は料理人の指示に、ひたすら従って動いて終わった。
掃除も疲れたけれど、厨房は暑くて汗をかいてとても疲れた。
毎日新しいことに慣れるのに必死で、私はたくさんの小さな違和感に気づくことはなかった。
ここで働き始めて十日が経った日、私は部屋まで迎えに来てくれたトムさんに連れられて、十日ぶりに公爵様のお部屋へと歩いていた。
「ここでの生活には慣れましたか?」
「はい、皆さん親切で、気持ちよく働かせていただいてます」
「それはようございます」
トムさんが公爵様の部屋の前でノックをしたのは前回と一緒だった。
「失礼いたします。エリーさんをお連れいたしました」
「入れ」
トムさんは扉を開けて、私に中に入るよう手のひらで示している。トムさんも一緒に入るものだと思っていたから、思わず立ち止まってしまった。
「どうぞ」
「あ、はい」
バタンと後ろで閉まる扉。
重厚な机に腰かけるのは、やっぱり上から下まで真っ黒な公爵様だ。
長い足が目立つなと思いながら、頭を下げる。
「失礼いたします」
「ああ、そこにかけるといい」
座り心地の良さそうなソファーは、校長室か社長室にでもありそうな物だった。
すぐに退出するだろうから座るのもどうかと思ったけれど、せっかくだしここは失礼して座らせていただこう。
私は穴が開くほど見つめられていることに気づいていたけれど、何でこんなに見られているのかがわからなかった。妙な雰囲気だなと思ったけれど、言葉で表すことができない。チラリと公爵様を見たら、機嫌が良さそうなのがわかったから、それだけが救いだ。
「仕事はどうだ?」
その質問に私は思った通りに答える。
「みなさん親切で、良くしていただいています」
「そうか、それで?」
それでって何だろうと思ったけれど、人間褒められると悪い気がしないだろうと思うから、私はここの良いところを話すことにした。
「掃除をするときに、雑巾用のモップがあり助かりました。それに厨房ではいろんな調味料があり、食事がとても美味しかったです」
「ほう……そうか」
「はい、それにお風呂がとても気持ちよくて最高でした」
「そうだろう」
「こちらで働けたことが幸せです」
「我が家の使用人は、有給休暇制度も取り入れている」
「それはすごいですね」
驚きつつもニコニコ笑う私。
そしてニヤリと笑う公爵様。
「ところでエリー、聞きたいことがあるんだが」
「はい?」
「有給休暇が何か知っているようだな」
「……え」
あれ?そういえばこの世界で有給休暇なんて言葉聞いたことがない。なぜかタラリと流れた汗に妙な予感がしていた。
「雑巾用のモップだが、あれは我が公爵家と城にしかない物だ。しかし説明せずとも使いこなしたそうだな」
「はは、たまたまです」
「魚に酒をかけるなんて、我が公爵家の料理人でさえ最初は抵抗をしめしていたんだが、抵抗なく受け入れたそうだな」
「……」
「さらに、我が公爵家秘伝の醤油さえも、説明されずとも、まるで最初からその液体が、醤油と知っていたとしか思えなかったと報告がきている」
「それは、その」
「あとは風呂だな。この世界には湯に浸かる文化はないが、慣れたように戸惑うことなく湯に入り、一般には流通していないシャンプーとリンスを迷うことなく使ったと聞いたが」
醤油が秘伝ってそんなの知らなかったし、雑巾用のモップも昔使ったことがあるんだから体が勝手に動いただけだ。お風呂にしたって、入ったことがあるんだから、何も変なことはない。けれど、それは全てこの世界ではなくて、前世でのことだった。
「……もしかして公爵様も」
「ん?なんだ?」
ニヤリと笑う公爵様は、恐らく日本を知っているんだ。
確証がないけれど確認してみようかと悩んでいると公爵様は言った。
「そうそう、知っていたか?この世界では虫垂炎という病名はないぞ。それに抗生剤なんてものは存在しない」
「あの、もしかして、日本をご存じですか?」
「フハハハハハ、やっと出会えたな」
「え?」
「逃がさないぞ、エリー」
美貌の主はそう言って、突然私を抱きしめた。
痛いほど抱きしめられた私は、すぐに気づく。
公爵様の腕が震えていることに。
「くそっ、これじゃ格好がつかないな……」
絞り出すようにそう言った公爵様に私は何も言えなかった。
それから公爵様は、重大な秘密を話してくれた。
公爵様であるカイト様は、もともと日本で暮らしていた普通の会社員だったそうだ。それがある日突然、この世界にトリップしたそう。
実際は、トリップしたのではなくて、もともとこちらの世界の人だったそうで、呼び戻された形だったらしい。
でも、本人の感覚では日本生まれの日本育ちらしい。
「それは、その、帰ってこれてよかったと言うべきか、日本で生活した方が良かったと言うべきかわかりませんが……」
「もう、受け入れてはいるつもりだ。それでも、俺があの世界で育ったことは紛れもない事実だ。それなのに時折、日本なんてものは本当は存在しなくて、あの世界は俺の想像の世界なんじゃないかと怖くなった」
「そんな……」
「普通に電車に乗って会社に行って、友人も家族もいた。学生の頃は毎日学校にも通ったし、空には飛行機が飛んでた。今日まで魔法もないあの世界は自分だけしか知らない世界だったんだ。でもな、日本を知るのは俺だけじゃない。そうだろう?」
縋るようなその瞳に私は嘘はつけないと思った。
私は日本を知っている。
けれど、それはトリップしたからではないのだ。
「あの、私は転移じゃなくて、転生なんです。それも急性虫垂炎になった時に、急に記憶が戻ったので、本当に最近の出来事なんです」
それから、私はお腹の痛みで前世の記憶が戻ったことを説明した。
「転移でも、転生でも、なんでもいいんだ。ただ俺は日本を知る君が存在してくれる奇跡に感謝している」
優しく目を細めた公爵様に、私の顔は赤くなる。
「イケメンですね」
「フフ……懐かしい言葉だ」
遠くない未来、私は地球育ちのイケメンの旦那様と結婚して幸せに暮らすこととなる。
最後まで読んで頂きありがとうございました。