裸で外へ
昨日から俺は、全裸で高校大学に通っている。
高校大学というのは、まだ全国的には珍しいかもしれない。教育の前倒し化が進んでできた、大学のような高校だ。千葉県にある。
全裸で登校するのは、もう二日目なので若干慣れた。全裸は別に違法とかじゃなくて、むしろ地球温暖化の影響で国の政策的には推奨されている。ただ、単純に恥ずかしいから誰も脱ごうとしない。
通行人が奇異の目で見てくる。でもそれは一瞬のことで、すぐにまた彼らは彼らの生活に戻っていく。
同じ高校大学の知らない女子が横道から出てきて、やはり俺のことを見て目を大きく見開く。
その視線が下に移動する。昨日からそうなんだが、俺はその瞬間勝った気分になる。俺はそれまで、道端で女子を目にするとつい顔がかわいいかどうかを見てしまっていた。そして目があって、視線をそらして、負けたような気分になっていた。道端で見かけた女子がかわいいかどうか、そんなことを気にしてる自分を小さく感じていた。
でも今、俺は見られる側で、俺の股間を見た彼女はいつもの俺と同じようにさっと目をそらした。彼女はきっと負けた気分になっているのだろう。裸の男の股間を気にしているちっぽけな自分自身を、今嫌悪してる。
だいたいがそんな感じで、通行人や知らない生徒達との関わりは終わる。俺だけが全裸で、恥ずかしいことは恥ずかしいけれど、でもこうして一歩踏み出して誰にもできないことをしているというのは、周りの反応も相まって少しずつ自信になっていた。
ただ、俺が全裸になったのはこういう結果を百パーセント狙ってのことじゃない。こうして踏み出せば世界が変わる……それは少しは期待していたけれど、それだけで人が裸になれるわけがない。
半分以上はヤケだった。
新人賞に出そうとしてる小説の評判が悪くて、単純にいえば自信をなくした。
あと、それに加えて、恋愛がうまくいかないというのもあった。でもこれはかなり前からわかっていたことで、なぜか俺は小説で成功することによって片思いの倉田真奈をも振り向かせることができると思っていた。そして人生全部がうまくいくと思っていた。それが小説がダメだったことで全て現実に戻った。俺は特別な才能などない普通の高校大学生で、真奈はまるで脈なしで、このあとの人生もほぼほぼこんな感じで終わっていくのだと改めて実感した。
その日は眠れなくて、でも落とせない講義があって、学校に行くしかなかったけど人に会いたくなくて、自分が嫌で、この世はコツコツと積み上げたものだけが評価されて価値があるのだとわかっていたけど、なにか劇的に変えられる一撃を求めた。というかいつも求めていた。これまでそれは、学校の創作文芸クラブに入ることだったり、倉田真奈を中心とするそこでの馴れ合いから距離をおいて新人賞に応募することだったりした。全部うまくいかなかったけれど、俺はまた新しい手段を求めていた。
そこからはむしろ自然な感情の流れで、アパートの玄関で服を全部脱いだ。そして外に出た。
今日の必須講義を受け終えて、食堂でそばを食べた俺は、これからの予定を考えていた。
先週までは、寝る間も惜しんで執筆に励んでいた。けれどそれが完成して、とてつもない駄作だと判明してからは、自分のこれからにぽっかりと空白が空いていた。それは全裸になっても変わらないことだった。今書きたい作品はない。読みたい本もない。自分になにができるかはやはりわからない。ただ、今、持続して周囲の注目を引き続けているだけだ。そして慌てて視線をそらす連中に勝った気でいる。はたしてこれで、俺のなにかが変わったのだろうか。きっと変わってない。少なくとも、いい小説が書けないことは変わっていない。
トートバッグの中でスマホが震えて、それはチャラからのメールだった。
創作文芸クラブのムードメーカーの彼は、入部時のチャラ男という印象がそのままあだ名になっていた。
『お前のラノベ、読んだ。感想きく? 俺は昼寝サロンにいる』
もう今更自作の感想なんて聞きたくないんだが、せっかく読んでもらったので出向くことにする。
昼寝サロンは今は全国的に有名だろうか。最近はシエスタサロンという名前で、企業や学校への設置が広まっているのをよく聞く。高校大学と同じで千葉県がそのはしりだったらしい。
人の多い校内中心から離れた別棟付近、そこに位置する昼寝サロンの薄暗い店内には、あまり客がいなかった。サークル飲み会などで生徒はほとんどが夜型になっていて、昼寝の時間も少しずれているからだ。俺はもう十六だけど酒は苦手で、創作文芸クラブも内輪の馴れ合いサークルとはいえ飲み会のような無関係な活動はしないので、中学時代と同じく朝型のままだ。
チャラは寝台に寝転がっていて、「よっ」と挨拶をしてきた。俺は「こんちは」と言い、彼の向かいの寝台に寝た。
「マジで今日も裸だなぁ。やっぱ酷評気にしてんの?」
彼はごろんとうつ伏せになって言った。俺は適当に「まぁそうかも」と言った。
「それでもなかなか全裸にはならないけどなぁ。いや、お前すごいよ。で、小説だけどさ、みんなも言ってたけどやっぱつまんないな。でもお前の作品って、いつもちょいちょい面白いところがあってさ、それをどうにかして前に押し出せば……」
彼の批評に相槌をうって、度々「ありがとう」と言う。創作文芸クラブのサイト上じゃなくて直接伝えてくれるのは、きっと酷評ばかりの俺の作品のコメント欄への配慮だ。
「で、次の作品も書くの?」
「わかんない」
いつの間にか俺たちは寝台で向かい合って、それぞれスマホを見ていた。
俺が開いているのは創作文芸クラブのサイトだ。メンバーの名前と現在発表している作品が表示されている。
俺の名前の下には、『能力者達の群像』というタイトルがあり、その下には『火の能力』『水の能力』『氷の能力』『影の能力』『復活の能力』という各話サブタイトルが並んでいる。今見ると本当に薄ら寒い。
この作品にはコメントが六件ついている。タップすれば見られるが、もう見る気はない。部員達がくれたものが五件と、クラブの活動費で依頼しているプロ編集者の批評が一件だ。どれも現実的な意見ばかりで、俺の馬鹿な夢を覚まさせるには十分なものだった。
倉田真奈からのコメントはまだない。これからつくこともないだろう。
彼女はきっと別のことで忙しい。
画面をスクロールすると倉田真奈の名前とその作品が出てくる。『復活の私』『復活の明日』『復活の恋』『復活の能力』『復活の彼』……どこか俺の作品との関連を感じるうえに、ひとつなどは完全にタイトルがかぶっているのだが、それは周りに影響されやすいと自称する彼女らしい。中身は物語というよりポエム寄りの感覚的なもので、はっきりいって大したものではないと思う。俺が言うのもなんだけど。彼女は積極的に批評を依頼していないので、感想止まりのコメントや馴れ合いコメントしかついておらず、プロ編集者のコメントもない。
ただ、
『眠っていたものが目覚める。約一年半ぶりに、臆病者は動き出す』
そんな彼女の文章が意味するものを俺は知っている。
ぶっぶっ、という馴染みのないバイブ音が鳴って、チャラは小さくため息をついた。
「クラブの集まり、俺も最近行ってねーの」
と彼は言った。
「お前にはこないだ話したよな。真奈のやつがさ」
「うん」
『チャラくんチャラくん。私コンビニでおいしそうなガム見つけたよ! レモンとか色々混ざってる味の! 明日あげるね〜!』
『チャラくん……。なんか変な時間に起きちゃった(笑)』
『チャラくん、恋ってしてる? あ、私、変なこと聞いてるかな。でも、きになる……』
二週間前に見せてもらったメールの文面が鮮明に思い浮かんだ。
アドレスをきいてきたのは真奈らしい。「これ、俺、狙われてるっぽくね? いや、勘違いならむしろそのほうがいいんだけどさ」とチャラは言っていた。「真奈ってかわいいし、いい子だけど、こんな露骨に迫られたらちょっと、なんか、違う気がするわ。マジでどうした、いきなりこいつ」
彼が言うように、それまで大人しく、誰とでも仲良くしていた真奈のその行動は唐突だった。きっとそれが彼女のいう『復活』なのだろうと俺は察し、思いがけない失恋に傷ついたが、既に応募作の執筆で忙しく、出来に自信もあったので、プロ作家になれば全てを取り戻せると信じて突き進んだ。
そんな事情から、週三のクラブの集まりには参加していなかった。そもそも必要な情報交換や作品批評はサイト上で事足りる。サークル棟の端の教室で行われるそれは、創作を肴にした単なる雑談会だ。真奈を始めとした女子が皆かわいいために参加率が高いだけの。
チャラはあのときのようにまたメール画面を俺に向けた。
『変なこときくけど……チャラくんって、今、幸せ?』
『私は、笑ったりとか、もんもんと考えて、しまいに泣いたりとか、変(笑)』
『なんか、勇気、でなくてね……』
真奈の作品のひとつ、『復活の恋』にはっきりと書いてあった。中学での失恋以来、恋に踏み出すのが怖くなったこと。けれどそれを乗り越える勇気を持つのだという決意が。
「最後のメール、お前返事してないじゃん。二日も」
俺が指摘すると、チャラは、
「いいんだよ。こういうのは無反応で。何て返せばいいかもわかんねーし。これ、やっぱ告られんのかな。なら早く告ってこいよなぁ」
「やっぱり振るのか」
「振るよ。いまいちピンとこないのに付き合っても相手に悪いだろ。まぁかわいいからってだけで好きになったり付き合ったりしてた時期もあったけど、やっぱちげーよ、そんな恋愛」
チャラは、進んでる。チャラチャラしてる割に。というか、チャラチャラ生きてるゆえに。俺が真奈を好きな理由に、顔は何割あるだろうか。
そんなことを考えながら、俺はいつの間にか寝ていた。静かで、昼間でも薄暗く、適温が保たれた室内はボロアパートのすのこベッドより遥かに快適だ。起きたとき、チャラは有料のマッサージサービスを受けながらまだ眠りの中にいた。
彼はまだ軽い短編しか発表していないが、抜群に面白かった。それでいてプロになる気はないと言っていた。クラブでは馴れ合いに興じて、日々が楽しければいいという彼らしい生き方を貫いている。思えばそれ自体が彼の作品だ。こういう人間はきっと本気でやればプロになれるし、他の何にだってなれる。モテるし、しかも相手を選べる。現在進行的に、成功し続けている人間。
俺は、彼じゃない。
そして、多分彼女も、彼じゃない。
寝起きの少しもやがかった頭は、全裸を気にしないことに役立った。まだ校内全体での認知度は低いらしく、周りの学生は二度見をしたり、あからさまに表情を変えたり、噂話をしたりなどするが、俺の足どりは昨日よりも今日の午前よりもずっと軽くて自然だ。
俺は、クラブに出ることにした。
裸でなければ億劫だったかもしれない。あそこには真奈がいる。告白もせずに終わった片思い。執筆中は覆われていたその現実が、今はあらわだ。
でも俺は今裸で、そのことは些細な苦しみを全て過去へ置き去りにする気がした。
サークル棟の階段をのぼる。一段ずつのそれがやはり恥ずかしい。幸い下に人はいないが、全裸でも直立では隠れるはずの部分が脚を上げることで丸見えになるからだ。しかしこれも、三日四日と続けているうちに慣れてくるんだろう。
俺はいい創作はできないままだけど、この姿になったことで変われたこともあるらしい。
少なくとも、思いは振り切れそうだ。
フロアに上がると、そこに真奈がいて、目を丸くして「須藤くん」と言った。しばらく見ていなかったその顔は、記憶と、そして日に何度も想像する姿と変わっていなかった。小柄で上品な顔だちと少し高い声。こちらが何もしなくても親しみが生まれる特有の空気。俺が好きになった彼女だった。
急に素肌が敏感になった気がして、腰が引けた。
そんな俺の反応にむしろ彼女が気をつかったように早口で、
「もう昨日、人から聞いて知ってる。須藤くん、裸になったんだね」
「う、うん」
それでも、片思いの相手に全てを見られた心持ちは抑えようがなかった。そそくさと言い切るような語尾で会話を切り上げ、また歩き出そうとする。
すると彼女は慌てて声をあげた。
「待って。これだけは私、言わなきゃって思って」
これまで彼女から聞いたことのないほどの大声だった。咄嗟に出たらしいが、本人は気にする様子ではなく、それどころかそのままのトーンで続けた。
「私、今、好きな人がいる。ずっとその気持ちは隠してたけど、もうやめたの。正直になるって決めた。私も、須藤くんみたいに戦いたいって思った。
みんなの輪から外れて新人賞を目指した須藤くんは輝いてた。私も、詩みたいだけど、書いたよ、自分の作品を。……そして、やっぱり怖くて負けそうになった私だけど」
それまで微妙にそらしていた視線を、彼女はまっすぐ向けた。
「勇気が出た。裸になった須藤くんを見て」
彼女は目に涙すら浮かべた。
「これから告白してくる。どんな結果になっても後悔しない」
俺は、呆然としながら校内はずれの方を指さした。
「チャラは……まだ昼寝サロンだと思う」
「ありがとう」
彼女はそう言ってすれ違い、階段をおりていった。
今の事実に愕然としたかといえば、決してそうではない。
俺の行動が彼女を動かした。片思いの相手を動かした。それが自分とは逆方向だったとしても、俺にとって、これ以上に特別なことはなかった。
……また書こう。
それから、ふと思った。
もし告白が失敗したら、人に影響されやすい彼女は、――――。