始祖
そこはお宮にも似た清爽な空間だった。
壁の代わりに垂らされた薄布が風に翻る。
上座の女性の髪は長く白い。その白は空間に通じる清浄さだった。
長い髪は磨き上げられた木の床にまで広がっている。まるで白が焦げ茶を覆うようだ。
彼女の前に畏まった雁金は微動だにしない。
普段の飄然とした態度は鳴りを潜め、極めて殊勝な態度であり、面持ちだ。
女性の薄い唇が動いた。それは蝶が翅をはためかせるのにも似ていた。
翅のはためきは楽を紡ぐ。
「そう。あの子は、元気なのね」
「ご健勝です」
「宝も?」
「はい」
「宝……。可愛い子。揺らいで、いるのかもしれないわね。一度、わたくしに顔を見せるように言っておいて? 雁金」
「は」
雁金が頭を下げた拍子に、『神の目』であることを示す木の板が床を掠める。
女性がゆるりとした動作でおもむろに立ち上がり、一歩、二歩と雁金に近づく。
雁金の鼻孔を、甘い匂いがくすぐった。
女性は雁金をふわりと抱き寄せた。男女のそれと言うよりは、幼子に対するような動作だった。
「雁金。わたくしはお前も可愛い。可愛いお前を、殺したくはない」
「――――始祖様」
雁金の背に回した手にぎり、と力を籠める。爪が肉に食い込む。
「だから決してわたくしを裏切らないで。そうして、早くあの子を、深優をここに連れて来て頂戴」
「全て、仰せのままに」
その時、バサバサ、という羽音と共に白い鳩が舞い込んだ。
始祖は雁金から身を離し、腕を出す。鳩は迷わずその腕に留まった。足には小さく折り畳まれた紙が結び付けられている。
始祖がくすくすと楽し気に笑う。
「輝は相変わらずね」
「どうかされましたか」
「深優たちとの接触の許可を求めて来たわ。一緒にお酒を呑みたいのだそうよ」
「……それは。深優様がどう思われますか」
「本当にねえ」
始祖はくすくす笑い続ける。
「でも面白いから、許可いたしましょう。可愛い深優と、仲良くなってくれればわたくしも嬉しいわ」
始祖がすい、と左手を上げると、控えていた侍女が心得たように硯と筆を持って来た。
それにさらさらと文章を書きつけ、始祖は鳩の脚に結び付けた。その頭をそっと撫でると、鳩は心得たようにまた飛び立って行った。
「あの子の仲間が死んだのね」
唐突な話題変換にも雁金は動揺しない。慣れている。
「はい。葉摺もその場にいました。異形の亜種のようであったと」
「気に入らないわ」
始祖のその言葉は極寒の冷たさだった。雁金は身を固くする。
「異形を人工的に生み出そうとする動きがある。それは、わたくしたちとは全く相容れない。壊滅なさい。徹底的に」
「御意」
始祖を宥めるように柔らかな風が吹き、薄布や始祖の髪、雁金の髪を揺らした。
宝との鍛錬を終えた深優は、汗を流し、縁側に座っていた。
秋が深まり、そろそろ風も冷えてくる頃だ。ここ最近で、以前より幾分力が増した気がする。
手を開き、握る。もう誰も喪わない為には、つまりは強くなるしかないのだ。守るという行為はそれ程に難しい。
仁や宝の背中を追っていれば、いずれ更なる強者になれるだろうか。
〝俺が、もし花泊を抜けようと言ったらどうする〟
宝の言葉が蘇る。彼はなぜ、あんなことを言ったのだろう。軽率に言葉を口にする人間ではない。庭の樹々の葉が、一日の最後の陽光を受けて照り映えている。
呼び鈴の音に、宝が玄関へ出向く。
深優はそろそろ夕食の準備をしなければと立ち上がった。尤もその夕食も、栄養を補う為だけの簡素なものではあったが。
その時、宝が渋面でリビングに入って来た。
「宝。客は誰だった?」
荒んだこの時代、呼び鈴を鳴らされる機会も珍しい。
すると宝の後ろから、輝がひょっこり顔を出した。
「こんにちは、お嬢さん」
深優は反射的に双剣を取ろうと動きかけた。それに対して輝が両手を上げる。
「はい、ストップ、ストップ。今日はね、戦いに来たんじゃないの」
「ならば何だ」
「親睦を深めに来たのさ」
「神の目と深める親睦はない」
「まあそう言わずにさあ? 第三勢力も出て来たっぽいし、ここは歩み寄ろうや。食い物も持って来たんだぜ?」
輝は不敵な笑顔で肩に掛けていた袋を床に下ろした。




