黒糸の刺繍
何かが失われる時。誰かが喪われる時。
空はいつも澄ました青を見せている気がする。深優は浴槽に浸かり、窓を少しだけ開けて青い空を覗き見ながらそんなことを考えた。両親が異形に喰われた日も、良い天気だった。長閑な春で、鳥の囀りが聴こえた。そんな日。仁は強くて、幼い自分を守ってくれた。泣きじゃくりながら、広い背中に安堵したことを憶えている。だからだろうか。深優の中には異形に対するどろりとした憎しみはない。強い怒りを感じるが、負の感情が心に充満してしまえば、それもまた異形の温床となると知っている。異形は人から殻を割ったように生まれる。あとには嘗て人だった人の皮が残るだけ。醜悪で哀れな残滓。異形には鋭い爪を持つ者もいて、その為、深優の身体にはいくつかの傷跡がある。そのことを深優本人より嘆いたのは仁や遼、京香や宝だった。京香は涙目にさえなっていた。深優は戦績の証とむしろ誇りに思っている。そして同時に、宝が見たらどう思うだろう、とも。そんな自意識が浅ましく卑しく思えて、深優は湯に顔を浸けた。何度か瞬きする。もったりとした液体が深優の顔を隈なく埋める。
「深優」
浴室のドアの外から宝の呼ぶ声がして、慌てて顔を上げる。
びっしょり濡れた前髪が邪魔だ。
「何だ、宝」
「出られるか? 異形が近い」
「解った」
深優は意識を切り替え、立ち上がった。
リビングに仁の姿を認め、深優は軽く目を見張る。
「総帥」
「やあ、深優。今回は私も参戦させてもらうよ」
「そんなに大物なのですか」
「何、腕慣らしにね。ああ、米をまた持って来たから。あとで食べると良い」
深優の顔が思わず笑み崩れる。
「遼が、総帥と米を同一視していました」
仁がきょとんとした表情のあと、破顔した。
「全くあいつは」
「総帥。そろそろ出ましょう」
「おっと、そうだな」
宝の声に仁は黒漆塗りの鞘に入った日本刀を持つ。只の日本刀ではない。花泊の長である仁が日夜、魂を練り上げて「育成」した名刀だ。非常な強度を有する。仁の黒い衣服は、一見そうとは解らないが、黒糸の刺繍が施されてある。あゆみが丹精こめて刺した刺繍は、黒糸であろうとそれなりの防御の役割を果たす。
宝が大刀を持ち、深優が双剣を腰に佩くと、三人は家を出た。のんびりとした仁の脚運びに、深優は頼もしさを感じる。辿り着いたのは近所の、昔は公園だった空き地だ。異形はそこに、〝佇んでいた〟。
深優は息を呑む。
人型の異形はこれまでにも見たことがあるが、その異形はほとんど人と相違なかった。体皮を覆う赤い薄ぼんやりとした点滅がなければ、異形と解らなかったかもしれない。そのくらい、人に酷似していた。赤い着流しのようなものを着ているが、それもまた淡く点滅している。異形は深優たちを見るとにい、と口の端を吊り上げた。




