極北の傍ら
名前を呼ばれて、振り向く。
「タバコ、行くぞ」
目が合うと、並んだデスクの向こうから少しだけ疲れた顔で、この人は手招きをする。仕事用にまとめた髪が少し解れている。頬の白にかかったそれがやけに生々しかった。目を離したら消えてしまいそうに思えて、慌てて席を立った。
日が沈んでも業務の終わらないフロアには、まだそれなりの人数が残っていた。これでもだいぶ減った方だが。八時を過ぎた辺りから、時計は見ないようにしていた。
付いてくることを分かっている彼女は、もう横顔を見せて歩き出している。男勝りの滲み出たその小柄な背中を、上着を羽織りながら追い掛けた。
「疲れたあ」
「ですね」
「あともうちょい、がなんか延々と続くんだけど」
「なんでか終わりませんよね」
薄暗い階段を一段々々這うように上がり、重たいドアを押し開ける。扉の隙間から袖口を刺した夜風が、すぐに全身を包んだ。
「さむい」
断絶を含んだニュアンスで彼女は吐き捨てた。視界に広がる空が仄かに明るいのは、街の明かりを吸い込んだ雲が一面を覆っているからだ。
「四月、なりましたけどね」
「まだ冷えるよ、四月だし」
「名古屋が懐かしいです」
「ね。雪は降らなかったかんなぁ」
ベンチに腰掛けながら、彼女はタバコを咥える。ウィンストン・キャビン・レッド、八ミリグラム。
「いやでも、結構寒かったわ」
「そうでしたっけ」
「だよ」
彼女が八ミリグラムに火を付け、息を深く吸い込み、体の中にをタバコで満たし、この人の中を巡った空気を白煙にしてゆっくりと吐き出すまでの間、横目に収めたこの人の姿から一時も目を離さなかった。
白くて細い指が、扇の閉じるように降りていく。切っ先に灯った橙が弧を描く。その時差を経て、ようやく咥えたタバコに火を付けた。
「帰りたいなあ」
呟く言葉を耳に流し込みながら、最初のひと息を吐き出した。
「そうですね、ここよりは暖かいですし」
巻紙の先にちらつく灯りを見つめたあと、もう一度咥えて、吸って、吐いた。
「寒いと気が滅入ります。嫌いじゃないんですけどね」
あと、先輩も、ここにしかいないし。
「友だちに会いたい。あと半兵衛」
彼女は真っ直ぐ地平線の方を見つめて言った。地平線というよりも、遠くの山と夜空の境目と言うのが正しい。
「ネコでしたっけ」
「そう。写真見る? 新しいやつ」
「見ます見ます」
彼女が上着の内ポケットを探ったので、期待される角度に目を向けた。くるりとロックを解除した画面には、愛らしい茶トラの写真が映されている。
かわいいですね。でしょ。言って、ふたり同時にフィルター越しの煙を吸い込む。夜空に登る紫煙がふた筋。
「あんたみたいなかわいらしいのが吸ってんの、やっぱ似合わんね」
「そうですか? 言われたことないですよ」
「でもびっくりされるっしょ」
「まあ……そうかもしれません」
それでも、言われたことはない。何せこれは、この人の前でしか吸わないからだ。未だに慣れないホワイト五ミリ、これをくれたのはこの人だった。その頃ちょうど、初めて買った三ミリを、一年かけてようやく、なんとなく空にしたばかりだった自分に、なぜかくれたのだ。
「いい人できたときに、引かれんようにな」
何を言われたのか分からず、そして何と返したものかも分からずに言葉を舌の奥でつっかえさせていると、彼女はため息を吐きながら笑った。
「わたしみたいにならないように」
「そんな」
先輩はよく似合ってるから大丈夫です。これがダメな人とは付き合いませんよ。そもそも先輩みたくなりたかったから。これの大丈夫な人か、一緒にこれを吸える人、先輩みたいな。
結局もう一度吃ったまま、何も言うことはできなかった。
「やだね、もう、残業してるとこういうババ臭いことすぐ言っちゃうから」
あたしお局さんにはまだ早いのにな。
今度はからっと笑って、彼女は灰皿に煙草を押し付けた。もうほとんどフィルターだけの、短くなったそれを。
「まだ若いですよ、先輩は」
彼女に倣って、煙草を灰皿でもみ消した。まだ三分の一くらい残っていた白い巻紙がひしゃげて、ざりざりとした手応えを残す。大丈夫ですよ、と念を押した。
戻ろうか、と彼女が口にするまでの間が、ひどく長く感じた。わざと与えられているように、時間がゆっくりと流れているような気がした。何をするでもない。そして確実にその時は訪れ、扉を開ければ階段の踊り場を照らす蛍光灯がいやに白く光り、その下に這入り込んだ彼女をくっきりと照らした。
「先輩」
「ん?」
「あとどれくらいですか?」
「どうだろうね」
まあ、と彼女は続けた。
「先に終わったら手伝ったげるから」
「お願いします」
まだ、当分ダメそうなんで。
後ろ手に、扉を閉めた。