一人目ー第五章 7話 新たなる力
虹の光はやがて消えていき、修太郎の周囲には何もない真っ白な空間が広がっていた。あまりにいろいろなことが起こりすぎていて、修太郎はその何もない空間に一瞬呆然とする。しばらくの間、思考停止状態に陥っていた修太郎だが五分ほどするとどうにか冷静さを取り戻し、周囲を見渡す。
「ここは……どこだ?」
「始まりの空間だよ」
「!」
修太郎は慌てて声の主の方へと振り返る。修太郎よりも背が高く、袴姿に上等そうな藤があしらわれた羽織を羽織り、頭に黒い烏帽子を被っている人物。そして、そのくせ顔は黒いモヤに覆われ見えない。勝喜に裏切り者の話をされた後に流れ込んできた謎の映像を見せられた際に姿を見せた修太郎が密かに『袴の男』と呼んでいた人物と同一人物であることに疑いの余地はなかった。
「……意外と早い再登場だな。んで? てめえは一体何者だ?」
「答える必要はあるのか? 私は貴殿があれほど固執した存在だというのに……」
「何だと?」
修太郎は目の前の男を凝視する。顔が見えないため、面識のある人物かどうかは分からない。分かるのは眼前の男がただ平安貴族のような格好をしているということくらいだ。あとは声からして性別は男らしいということか。
どちらにせよ、何のヒントにもなりはしない。何せ、現代において袴に羽織というのはいわゆるコスプレと呼ばれる服装に部類されるからだ。そうでなくても、伝統的な行事を行ったり、神事や催事を行う際にこういう格好をすることは多い。つまり、目の前の男と同じ格好をする人物は元の世界にも少なからずいるということだ。
けれど、目の前の男は自分が修太郎が固執した存在であるという。ならば、修太郎と面識があると見るのが妥当だ。しかし、目の前の男の正体に修太郎は皆目見当もつかない。
男は修太郎の方を向く。そこで一瞬だけ身の毛もよだつような視線を感じる。修太郎は咄嗟に身構えるが男はそれに構うことなく、話しはじめる。
「貴殿が知っているかどうかは知らないが、貴殿が異世界と呼んでいる世界は最初はこんな空間だったんだ。とはいえ、貴殿がそんなことに興味を持つはずもなしか」
「何だ……お前は……!」
「何度も言わせるな。私は貴殿が固執した存在だ。そうだろう? 我が絶望の化身よ」
修太郎はその言葉に大きく目を見開く。絶望の化身。これまで聞いたことのないはずの単語。だが、修太郎の脳内にはその言葉が既知のものであるかのように巡り、循環し、支配していた。
「待て……! お前、まさか……!」
「………………」
修太郎が何かを言いかけた瞬間、男は無言で修太郎に右手を伸ばす。右手の裾から白い糸が伸びる。それは見覚えのある糸だった。修太郎は例によってかわすこともできずにその糸を体内に受け入れる。すると、休息に修太郎の意識は薄れていく。
「どうやら、今の貴殿と話をしていても仕方がないようだ。今回はこれで退いておいてやろう。だが、次は……」
そこで男の言葉が途切れる。修太郎の意識は完全に闇へと沈み、男は消えゆく修太郎の体を冷めた目で見ていた。
○○○○○
闇不覚に沈んでいた修太郎の意識が覚醒するのは存外早かった。いや、それは修太郎の体感であり、実際のところはどれくらいの時間だったのか分からない。もうもはや今の彼に時間感覚などというものは存在していなかった。
声が聞こえてくる。やかましい女の声が境界の曖昧な修太郎の意識を突き刺すように響き渡る。
「……たろう……!」
その声に修太郎はうるさい、と内心思う。だが、その考えを口に出すことはできない。しないのではない。できないのだ。
口を上手く動かすことができない。喉はカラカラに渇いており、舌も乾ききっている。唾を飲んで、喉の渇きを潤そうとしても、喉に激痛が走るだけで何の解決にもなりはしない。
心臓の一拍一拍が痛い。呼吸の一吸い一吐きが痛い。血液が血管を通る度に痛い。空気を肌が感じる度に痛い。目がぼやけた視界を認識する度に痛い。耳が音を感知する度に痛い。
何もかもが激痛に感じ、指一本動かすこともできず、永遠にこの地獄が続くのかと絶望しかけたとき……。
「修太郎!」
「はっ!」
女の声で修太郎の意識は急激に覚醒する。先ほどまでの激痛も忘れ、修太郎は勢いよく上体を起こす。
上体を起こすと同時に即座にあのはてしない痛みがなくなったことを認識し、やがて先ほどまでとはうってかわって暗闇と化している周囲を見る。
「ここは……」
「大丈夫ですか? 修太郎。だいぶ、うなされていたようですが……」
そこでカスミが心配そうな表情でこちらを覗き込んでいるのが分かる。修太郎は頭を抱えながら、先ほどまでの状況を思い出し……。
「そうか……。俺はここに修練に来てたんだったな」
カスミに聞かされ、魔王を倒すためにこのリョウセの滝にやってきていたのだ。そんなことすら忘れてしまうほどに先ほどまでの光景は極めて強いショックを受けるものだった。
ただただ恐ろしいだけの恐怖。そこに愉悦や願望は一切含まれていない。およそ全ての生物が持ちうる純然たる恐怖を修太郎は先ほど嫌というほど味わったのだ。むしろ、意識が覚醒してすぐに自我を取り戻した修太郎を称賛すべきだろう。
そこでこの滝の管理人である竹木が近付きながら、話しかけてくる。
「目を覚ましたか」
「それは、何だ?」
「薬だ。一応、念のため飲んでおいた方がいい」
その言葉で修太郎は大体のことを察した。というより、先ほどまで起こった出来事を考えれば、それ以外に考えられないだろう。
「俺は倒れたんだな……」
「まあな。……こう言っちゃなんだが、勇んで滝に入っていったときは驚いたものだが、そのすぐ後に君が倒れたのを見て、ある意味安心したよ。呼吸も荒いし、何か悪夢にうなされていたようだったから、ひとまず滝の外まで運んでおいたんだがね」
「……みたいだな。んで、どうなんだ? 竹木さん。俺は不合格なのか?」
「いいや。文句なしの合格だ。おめでとう」
その言葉に修太郎は驚く。だが、すぐに冷静さを取り戻す。何せ、修太郎はこの修練がどのようなものかすら聞かされていないのだ。せいぜいが魔王を倒すために役立つということくらいしか聞かされていない。当然、合格基準など分かるはずもない。だから、合格していたのか程度の認識でしかなかった。
「それで? これで本当に魔王を倒せるんだろうな?」
「ああ。もちろんだ。何せ、お前は虹の宝玉を手にしているのだからな」
「虹の宝玉?」
首をかしげる修太郎に竹木は怪訝そうな表情になって、問う。
「覚えていないのか?」
修太郎は竹木の問いに頭に右手を置いて思い返す。正直あまりにもいろいろなことがありすぎて、記憶が混濁しきっている。そもそも自我が保てていること自体が奇跡なのだ。その間に何があったのかを正確に思い出すことは困難を極めた。
そこで修太郎はあることを思い出す。謎の映像の直後に理解不能な言葉の羅列が頭に流れた直後、修太郎の目の前に謎の虹色の宝石が出現したことを。そして、その宝石に無意識の内に手を伸ばし、触れた直後に――。
「……! そういえば……」
「どうしました?」
「……いや、何でもない」
ほぼ反射的にカスミの問いを流すと修太郎は少しの間だけ思考する。周囲の風景も音も完全に遮断し、ほんの少しの間だけ思考のみに没頭する。精神が崩壊しかねないほどの苦痛から抜けて時間が経っていないのにこんなことができる彼は間違いなく傑物なのだろう。しかし、そんなことを知る者もこだわる者もこの場には一人としていなかった。
今、修太郎がやるべきことは考えることだ。意味があるかどうかは分からないが少なくとも無価値ではない。
あの後、遭遇した袴を着た男。見覚えはない。いや、正確には見覚えはあるがその正体どころか顔すら分かっていない。実質的に面識もない見知らぬ男のはずだ。
しかし、袴の男が口にした『絶望の化身』という言葉。その言葉を聞いた瞬間、修太郎はなぜかよく知った人物のことを思い出した。関係はない。その人物がその単語を口にしたのを耳にしたことがあるわけでもない。にもかかわらず、その瞬間修太郎はなぜかその人物のことを連想したのだ。それが意味するところとは――。
「……ありえない」
修太郎の出した結論は誰にも聞き取れないほど小さな声で紡がれたその一言に尽きる。あまりにも荒唐無稽な答えだ。修太郎は即座に思考を打ち切り、ゆっくりと立ち上がる。
「どうかしたのですか? 修太郎。顔が青いですが……」
「いや、何でもない。それよりも、一つ聞いていいかい? 竹木さん」
「何だ?」
「この修行で得られる力っていうのは何だ?」
修太郎の問いに竹木は困惑した表情でカスミを見る。カスミが目礼をしたことで大体の事情を悟ったのか竹木は小さく息を吐いて答える。
「一言で言うならば、逸脱だな」
「逸脱?」
「限界を超えると言った方が分かりやすいか? この世のあらゆるものには限界というものが存在する。その限界を超える術は基本的に存在しない。だが、この修行によって虹の宝玉に触れることができれば、限界を超えた絶大という言葉すら温い力を手にすることができる」
修太郎は竹木の長い言葉を頭で反芻する。とはいえ、さほど難しく考えることはない。修太郎はすぐに言葉を紡ぐ。
「要するにその限界を超えた力とやらでなければ魔王は倒せないということか?」
「そうだ。アレは異次元の存在。人が倒そうと思うのであれば人のままでいてはならないのさ」
「なるほどな。要は俺はもう人間じゃねえって事か」
「そういうことだ」
なるほど、と修太郎は頭の中で呟く。今さら、人であることに執着も興味もない。人の身でいては魔王を倒すことができないというのであれば人など捨てても構わない。それで今の状況を打開できるのであれば何の問題もなかった。
この世は力が全てだ。勝った者が正義。強い者こそが覇権を握る。どれほど、弱者を慮ってさまざまな施策を行おうともその絶対的な摂理に抗うことなどできはしない。
修太郎は強い。けれど、それはあくまで借り物の力。与えられた力だ。喧嘩慣れをしているとはいえ、修太郎自身の戦闘力が高いかと言われれば修太郎は首をひねるだろう。
彼は強い。されど、さほど強いわけでもない。その矛盾した考えを修太郎は何の疑問もなく受け入れていた。要は力があればいいのだ。力があればどんな想定外の出来事にも立ち向かえる。ここ最近起こっている不可解な出来事にも対抗できるだろう。
そう考えざるを得ないほどに今の修太郎は摩耗していた。もはや、誰が味方で誰が敵なのかすら分からない。修太郎の頭によぎった人物が一連の出来事の黒幕だったとしても疑問は残る。どちらにせよ、今の修太郎にできることは抗うことだけだった。修太郎は小さく息を吐き、新たに手にした力を試すことを後回しにして、その場に横になった。
――これでようやく、スタートラインまで立った。さぁ、残された時間はほんのわずかしかないぞ……。
果たしてお前はこの先ついてこられるかな?




