一人目ー第四章 4話 紅き蒼き海
七月十九日夕方。香奈は三日ぶりに真梨奈の下を訪れていた。合鍵で真梨奈に与えられた家に入りながらも香奈は今日のことを考えていた。
今日は街に出たことでいろいろな人間と会った。だけど、やはり一番印象に残っているのは修太郎だ。修太郎のあの様子はただごとではない。香奈としては力になりたかったが、おそらくそれは難しいだろう。たとえ、力になることを申し出たとしても彼の性格上すげなく断りそうだ。だから、香奈には彼を信じて元の調子に戻ってくれることを祈ることしかできない。自分の無力さに歯がゆくなるが、こればっかりはどうしようもなかった。
それに問題は他にもある。第一がこの家だ。谷崎啓也が何者かの手によって暗殺されたという話を四日前に聞いた時点で、香奈は自分を含むクラスメイトたちがこの借家を追い出されることを覚悟していた。今は啓也が死んだごたごたのおかげで、なあなあになっているところがあるが、いつまでもは続くまい。おまけに啓也と繋いでくれたキサラも三日前の夜を最後に連絡が途絶えている。
そして、香奈にとって何よりも深刻な問題。それが目の前で壁によりかかる形でボーッとしている少女だ。三日前に来たときと少しも変わっていない。少女――真梨奈は相変わらず床の上に座り込んでぼんやりとしている。その目に光はない。
香奈はため息をつきそうになる。真梨奈を元気づけるにはどうすればいいのか、香奈には分からなかった。彼女に思いつく手段などたかが知れている。それらはとうに試した。そして、効果がないことも分かっている。
けれど、香奈にできることはそれらをもう一度繰り返すことだけだった。
「……ねぇ、真梨奈ちゃん。もうそろそろご飯時だし、夜ご飯食べに行かない?」
「ん。行く……」
力なく返ってきた声に香奈は目を見開く。それまでは微塵も反応を示さなかったのに、今回はそれが返ってきた。これは突破口になり得るかもしれない。
だけど、ここで焦ってはいけない。それはただの愚策でしかないことを香奈は知っている。だから、逸る気持ちを抑えて言葉を選ぶ。
「じゃあ、私は準備してくるから、どこに食べに行きたいのか考えておいてね」
「分かった……」
真梨奈はのそのそと動き出し、立ち上がってすぐに上着を脱ぐ。彼女がそれまで来ていたのはピンクのパジャマだ。そんなもので外に出るわけにはいかないということくらいは分かっているらしい。外行き用の服に着替えようとしている。
香奈はそれを見て小さく息を吐き、扉を閉めて廊下に出た。
たどたどしい言葉で真梨奈からの要望を聞き、香奈は了承する。今夜は真梨奈の行きたい店に行くことにした。
店に向かうために家を出た二人は住宅街をゆっくりと進んでいく。香奈は真梨奈の歩調に合わせて歩いている。その際、真梨奈の手を握っておくことを忘れない。ちょっとした介護者の気分だった。現実世界では帰宅ラッシュにあたる時間だが、人通りはない。
五分も歩くと住宅街の東側にある十字路にさしかかる。目的地はこの十字路を右に曲がれば行ける。香奈は真梨奈の左手をぎゅっと握りしめて右に曲がろうとする。すると、香奈たちから見て左側から彼女たちの見覚えのある人物が突然現れる。
香奈はそれに目を見開く。同時に向こうにとっても、二人とここで遭遇するとは思っていなかったらしく、少々吃驚した表情で香奈たちの方を見る。
「あ、また会ったね」
香奈は『その人物』に力なく笑いかける。『その人物』はそれに答えず真梨奈の方を見る。香奈は『その人物』が真梨奈の様子がおかしいことに気付いたのだろうと解釈する。
『その人物』は真梨奈に話しかけるが真梨奈は傷心状態だ。心に負った傷は決して浅くはなく、今は何も話せる状態ではない。『その人物』は頭を掻いて香奈に真梨奈のことを聞いてくる。
「ごめんね。今はそっとしておいてあげてくれない? ちょっと、今、真梨奈ちゃんは話せる感じじゃないの。真梨奈ちゃんも気にしないで、気を楽にすればいいからね」
香奈は真梨奈を励ましながら申し訳なさそうに言う。それを見れば大抵の人間はのっぴきならない事情を察し、それ以上の接触を試みようとはしないだろう。『その人物』もその例外には漏れず黙り込む。それに香奈が申し訳なさそうな表情をした瞬間二人の胴体から血が噴き出す。
「え?」
突然の激痛に混乱した香奈は血を吐きながらゆっくりと自分の体を見る。そこには腹に横一文字に斬られた傷跡があった。そして、まるで壊れたロボットのように体を震わせながら『その人物』の右手を見る。そこには夥しい血で刀身を濡らした日本刀が握られていた。それを認識すると同時に真梨奈が地面に倒れ伏す。遅れて香奈も倒れる。
「どう……して……?」
理解できなかった。どこから日本刀を取り出したのか。それ以前にどうして『その人物』が香奈たちを手にかけたのか。何も分からなかった。
血の海を作り出して横たわる香奈たちを見下ろして、『その人物』はゆっくりと口を開く。
「希望のためだ」
たった一言。されど、力強い一言だった。その言葉は香奈の耳にはっきりと届いた。けれど、意味は理解できなかった。なぜ自分たちを殺せば希望のためになるのか理解できるはずがない。
「き……ぼ……う?」
香奈は必死に言葉を紡ぐが消え入りそうな声で彼女自身の耳にもほとんど入ってこない。だが、『その人物』の耳には入ってきたらしい。『その人物』は無表情で答えを返す。
「お前には関係ないことだ」
それだけ言うと『その人物』は踵を返して去っていく。香奈はそれを薄れ行く意識の中で見つめ、やがて力尽きる。後に残されたのは大量の血を流して交差点の真ん中に横たわる香奈と真梨奈の無残な惨殺死体だけだった。
○○○○○
七月二十二日。修太郎たちはアデワデ地区の海岸に来ていた。宣言した一週間を一日すぎる形で出発し、旅館を経由してそのまま海に来た形だ。どうやら、この海水浴は修太郎が爆睡していた十五日にカスミたちが集まって計画したものらしい。修太郎は用意されていた黒の海パンを穿いて、ビーチパラソルの下に敷いた敷物の上にあぐらをかいて座っている。
カスミは谷崎啓也の件で十日ほど拘束されると言っていたが結局五日ほどで解放された。それは彼女と外出した十六日の時点で分かっていたらしい。分かっていたのであればもう少し早く言ってほしかった――いや、外出に誘ったときにでも教えてほしかったというのが本音だ。
まぁ、修太郎としてはそれどころではなかったのでちょうどいい。何せ、十九日の昼すぎから夜までの間、修太郎は完全に意識をなくしていた。その間に何をしていたのか全く分からない。気付けば、自室のベッドでぼんやりと座り込んでいた。いくらなんでも怖すぎる。
マヤたちの言葉からすると、記憶が飛んでいる間にプリンを取り出し、食したらしいが全く覚えがない。さりげなく聞いてみたが、その時の自分はいつもと変わらなかったらしいので、変なことはやらかしていないとは思うのだが、それでも覚えていないというのは不安だ。出来事を覚えていないということは、仮に何かとんでもないことをやっていたとしても知らないということだ。よく考えなくても充分まずい。
(とりあえず、何か聞かれたら適当に誤魔化しつつ聞き出す感じでいいか。つーより、それしかねえ)
それ以外に対策を思いつかなかった。記憶がなくなっているのは恐いが、後のことも考えておかなくてはいけない。特典で思い出せればいいのだがそれができなかった以上、癪だが慎重に動かなくてはならない。それに加えて昨日なかなかの情報を手に入れたこともあり、迂闊に動けば一瞬でも詰みそうなくらいには切羽詰まっていた。ここに来た時点で抱いた疑問などどうでもよくなっていた。
「どうですか? 修太郎。私の水着姿は」
思わずため息をつきそうだった修太郎はその声で顔を上げる。そこには赤と白のストライプのビキニを着こなしたカスミの姿があった。
刹那、修太郎は彼女に見とれ、すぐにニヒルな笑みを浮かべる。
「ああ。とても似合ってるぜ」
「…………」
あっけらかんとした修太郎の感想にカスミは不満げに頬を膨らませる。
「前回と同じ感想ですね。もう少しひねった答えが欲しかったのですが……」
「……悪いな。俺はそういうものの語彙は貧弱なんだよ」
修太郎は気まずそうに目をそらす。カスミはそれを膨れながら見下ろす。やがて、諦めたようにため息をつくと、その場から離れていく。
「やれやれ。相変わらず女心というものを理解しておられませんね。修太郎様」
シャイナが呆れ顔で近付いてくる。修太郎は視線だけをシャイナに向ける。シャイナは青のスポーティーな水着を着ていたがそれでもそこらの男ならしばらくの間見とれそうなくらいには綺麗だった。しかし、修太郎は笑みを崩さぬまま、平然と言葉を返す。
「返す言葉もねえな。けど、仕方ねえだろ。言ったろ? 育った環境に恵まれなかったんだよ」
修太郎は肩をすくめる。こんなものは言い訳にすぎないが、それ以外に理由などない。修太郎の淡白な反応はこれで説明がついてしまうのだ。
――本当にそうなのか?
何か変なものが修太郎の頭の中に流れたがそれが事実だ。決して揺らぐことはない。
(……アホらしい。こんなしょうもないこと考えて何がしたいんだ。俺は)
修太郎は呆れ混じりのため息をついて、立ち上がる。そして、側に立つシャイナの方に顔を向ける。
「似合ってるってのは本心だぜ。それに嘘偽りはねえ。文句を言われてもそれ以上の言葉を俺は持ち合わせていねえってだけの話だ」
修太郎はそれだけ言って海の方へと歩く。物言いたげなシャイナを放置して修太郎はとある人物の方へと近付いていく。
その先には波打ち際から少し離れたところで砂の城を作っている満月の姿があった。彼女はオレンジに胸の辺りにウサギが描かれた年相応の水着を着ていた。修太郎は迷いない足取りで城の側まで歩くと影で気付いたのか満月が顔を上げる。
「ちょっとだけいいか? 満月」
「どうしたの?」
「ちと聞きたいことがあるんだ。そんなに長くはならねえ。この場で終わる」
修太郎の言葉に満月は迷う素振りを見せて、頷く。
「いいよ。何が聞きたいの?」
弾けるような笑顔を見せてくる満月を修太郎は感情の読めない瞳で見下ろす。それに満月は不安げな表情になるが、修太郎は構わず抑揚のない声で言う。
「……俺の知り合いに陰見って奴がいるんだが、そいつから妙なことを聞いたんだよ」
「妙なこと?」
「ああ」
修太郎は話しはじめる。昨日再会したクラスメイト――善継との会話を。
昨晩に団光の本屋に入り、どんな書籍があるのか何気なく見ていたら、歴史書の周辺で善継とばったり出くわしたのだ。
『櫛山か。元気そうだな』
『よぅ。陰見。一人か? 珍しいな』
『さすがにこんな時間にここまであいつらを連れては来れないな。まぁ、どこぞの独裁者ならやってもおかしくはないがな』
『全面的に同意だな』
修太郎は苦笑しながら善継の言葉を肯定する。光一を敵視しているという意味ではこの男とはつくづく気が合う。
『そういえば、久我路たちはアデワデに先に行ってると聞いたが、お前らはどうしてるんだ?』
『俺たちも同じだ。だから、こっちには気まぐれで戻ってきた形になるな』
それで修太郎は納得する。善継は先ほど遠出しているような旨の発言をしていたが、それは隣の地区まで足を運んだことを指していたのか。もっともクラスに与えられた住宅地からここまででもそこそこの距離はあるのだが、ここからアデワデまでの距離と比べてはいけない。
店の時計で今の時刻を見てみると午後十時を指していた。遅くはないが、地区を跨ぐのであればあまり悠長にしていられる時間ではない。行ったことはないが、船楼地区の最東端のIRまでここから歩いて四十分はかかると考えると、アデワデの街まで二、三時間ではきかないだろう。普通に電車などの公共交通機関のようなもので来たのかもしれないが、それでもそこそこ時間がかかるはずだ。まぁ、修太郎はこの世界で電車にお目にかかったことなど一度もないが。
しかし、善継は平然としている。彼にとってはそこまで深刻な時間でもないのかもしれない。なら、指摘するのは野暮というものだ。そこで善継は何かを思い出したかのような顔になる。
『そういえば聞いたぞ。お前、満月とかいう少女を助けるために谷崎と一悶着起こしたらしいな』
『隣の地区に届くくらい有名になってるのか。満月の一件』
『まぁ、俺は久我路経由で赤村から聞いたんだけどな。赤村がどこで聞いたのかは知らんが』
『OK。把握した』
修太郎は頭を掻きながら言う。朸の情報収集力がおかしいのは修太郎にとっては常識だ。いつの間にか情報を手に入れてきてしまう彼ならば知っていてもおかしくはない。
『まあいいか。なぁ、陰見。その辺ぶらっとしねえか。道すがら話してやるから。どうせ、俺は隠すつもりもねえし。お前が本見たいっていうんなら話は別だけどよ』
『いいぜ。四大名家の一つ、谷崎を巻き込んだ大事件っていうのは俺も気になるしな』
『決まりだな。それじゃ、ひとまず外出ようぜ』
修太郎は善継と共に本屋を出て街を歩く。その道中で事の経緯を話す。だが、修太郎が満月の過去について軽く言及すると善継は怪訝そうに眉をひそめる。
『それは変だな。俺が得た情報だと筧満月は最初から孤児院暮らしの孤児のはずだぞ?』
『は?』
『これはたまたま得た情報なんだけどな。言っとくが、情報源は赤村じゃない』
普通の家庭で幸せに過ごしてきたのを啓也に台無しにされた挙句に迫られたと公平も満月も言っていた。ならば、二人とも嘘をついていたのか。
いや、公平は騙されたのかもしれない。けれど、少なくとも満月は嘘をついていたことになる。
その後、一応事の詳細を話し、善継と別れた。だが、修太郎の胸の内にもやもやが広がっていった。もちろん、自分の記憶が飛んでいることが一番気にかかるのは事実だ。しかし、こちらはこちらで看過できない問題だった。
「もちろん、俺も最初から鵜呑みにしてたわけじゃねえ。けど、俺なりに独自の調査をした結果陰見の方が正しいって事が分かってな。上澄みとはいえお前の過去を話しちまったのは謝るが」
言うまでもなく特典をフルに使ったのだが、それは言わない。満月のことが分からなくなってしまった以上、迂闊に手の内を明かすような言葉を吐けない。
だから、実に単純明快に修太郎は問うことにした。単純でいて、その後の出方を見やすい聞き方をすることにした。修太郎は満月の目をまっすぐ見て口を開く。
「あんま、ぐだぐだ前置きしても時間の無駄だから単刀直入に言おう。満月。どういうことなのか話してもらおうか」
あくまで冷静に詰め寄る修太郎に満月は俯いてしまう。本来ならばここで退くところだが、残念だが退くわけにはいかない。そう彼自身の予感が囁いている。
修太郎は涙目で俯く満月に心苦しくなったが、心を鬼にしてさらに問い詰めようとする。
「あまり小さな女の子を虐めるものではないよ」
そこでよく透き通る声が聞こえてくる。修太郎がゆっくりと声のした方を向くと白の海パンに青の上着を羽織った藍色の髪の青年がいた。修太郎がジロリと睨むと青年は笑って、修太郎の数メートル先まで歩み寄ってくる。
「とりあえず、初めましてと言っておこうか。僕の名はセーザツ・キューゲンペグだ。よろしく」
そう言って、青年――セーザツは右手を差し出してきた。




