一人目ー第三章 6話 悪夢という名の追想
夢を見た。それも断じて瑞夢や吉夢などではない。それは見事なまでに心を抉ってくる悪夢だった。
それを映画のようにジャンル分けするのならば、さしずめ追想に分類されるものだった。内容は修太郎がいかに光一を嫌悪するに至ったか。その過程を描いたものだ。
しかも、それだけではなく修太郎の忌々しい生い立ちまでも映像として瞼の内側を流れていく。
時は十年前まで遡る。修太郎はとある大病院に勤務する腕のいい医者とその街で史上最高の才女と名高い才色兼備の美女の間に生まれた。どちらも格式高い家の生まれであり、そんな二人の一人息子であった修太郎は両親の生家からも相当に期待されていた。言うまでもなく大金持ちの家であり修太郎は何一つ不自由なく暮らしてきた。
これだけを聞けば羨む人間は多いだろう。顔立ちも本人は目立たないと思ってはいるが、しっかり着飾ればそれなりの数の女を虜にできそうな程度には整っている。本人は光一をリア充と言っているが、彼も紛れもなく恵まれた人間だろう。その環境だけを見れば。
しかし、残念ながら現実とはそう上手くはいかないものだった。修太郎の両親は彼に愛情というものをほとんど与えてこなかったのだ。母に至っては修太郎の覚えている限りでは母親らしいことをしてもらったことなど一度もない。
母は優れた知性と美貌を備えた才媛だ。その才をいかんなく発揮し、ベンチャー企業を立ち上げて一大産業を作り上げた。アパレル関連の企業だったが図抜けた観察眼や洞察力、予測能力で会社を正しい道に導いていき、日本でもトップシェアを誇る大企業にまで成長させた。
それだけならばまだよかった。いくら天才でもこれだけのことをやるには相当な準備と手間をかけなくてはならない。そのせいで修太郎に構えなかったというのであれば寂しさを我慢して母を応援しただろう。けれど、修太郎は知っていた。一代で国内でもトップクラスの企業に育て、多額の財を築き上げた鬼才の裏の顔を。
はっきり言ってしまえば、彼女は男にだらしなかった。幼い頃から突出した才を見せたせいで寄せられた期待による反動からか、息をするように浮気を繰り返していたのだ。
動機に関しては得心がいく。唯がレズビアンになってしまったそれと大差はない。その点に関しては客観的に見れば同情の余地があるとは思う。問題なのはいい年をして未だに自分の欲望に忠実に動いているその幼稚さにあった。
歳を重ねてもその美貌を保ち続けたことは純粋に凄いと思うが、それを利用して一回り近く年下のイケメンを何人も家に連れ込む母を尊敬するのはさすがに無理がある。おまけに彼女の友人だという年相応の老け顔をしたおばさんたちも無遠慮に家に上がり込んで、母と共に連れ込んだ複数の男と関係を持っていたことも一度や二度ではなく、もはや修太郎には怒りや悲しみを通り越して呆れた目で母を見ることしかできなかった。
幸いなのは家が無駄に広かったのでうまく隠れれば彼らと鉢合わせになることはなかったということだけだ。というより、むしろ母からそうするように命じられていた。それでも年端もいかない少年の身でそんな状況に置かれるのは辛かった。場合によっては何をとは言わないが目撃することだって少なくはなかった。
父が忙しくてなかなか戻ってこられないのをいいことに基礎代謝のように男をとっかえひっかえしながら遊び明かす母に修太郎は失望し、やがて興味をなくした。もう今では名前を思い出すことすらできるかどうか怪しいレベルだ。母に関して覚えているのは、あくまでその所業によるものだけだ。
とはいえ、父も母よりはマシとはいえ、あまりいい父親だったとは言えない。先にも書いたが彼は大病院の医者だった。詳しいことまでは修太郎も覚えていないが、それでも腕のいいと評判の外科医だった彼は母親とは違った意味で修太郎に愛情を注いでくれなかった。
母親と違い、一切修太郎に愛情を持っていなかったわけではない。けれど、先述したように彼はとても忙しかった。
そのためか彼が家に戻ってくることは滅多になかった。いや、この言い方だと語弊がある。帰ってはくるのだがその時間帯が修太郎の眠っているときだけだったのだ。夜遅くに戻り、日も出ていないうちに仕事へ向かう。そんな生活をしていれば、修太郎と会う機会などそうそうない。
そのかわり、たまに戻ってきたときには話に付き合ってくれた。付き合ってくれたといっても他愛ない話を少しだけする程度だがそれでも母親よりは遥かに尊敬できる父親だった。それに彼からいろいろとタメになることも教えてもらった。
父親は母親と違い、心底尊敬できる人間だった。どんなに難しい手術もそつなくこなし、そこからさらに十年以上前には若手のホープとして期待を寄せられていた。そんな彼と院長の座を争っていたのが安城光磨。光一の実父で修司の同期にして最大のライバルだった。
修太郎の父――修司が家に戻れなかった最大の要因は光磨との権力争いにあった。これで勝てた方が次期院長。必死になるのも当然の話だ。
だから、今まで父が家に戻ってこないことに文句を言ったことはない。むしろ、父が院長の座に就くことでより病院がよくなるなどとすら当時の修太郎は思っていた。けど、そんなものは何の意味もなかった。安城光磨はあの独善者の父を名乗るに相応しいほどに卑劣な手段で修太郎の思いも修司の努力も踏みにじってみせたのだ。
よくあることと言っていいのかは分からない――いや、絶対に言ってはいけないのだろうが、その病院にはとある闇があった。有り体に言えば臓器密輸組織に対して、金策に苦心している患者の臓器を密かに横流ししていたのだ。おまけに患者も同意の上でならばまだマシだったのだが、病院で命を落とした患者からもこっそりと臓器を抜き取り、空っぽになった亡骸を遺族に渡すなどという外道極まりないことすらやってのけていた。
当然そんなことをしていて警察に目をつけられないはずもなく、いろいろ悪条件も重なって病院は捜査対象になった。どこぞの正義狂いが聞けば警察に疑われてしまうその愚鈍さを笑うだろうが、ここまで規模が大きくなってしまえば話は別だ。
病院は警察やマスコミへの対策に追われることになった。そして、彼らがそのスケープゴートとして差し出したのが修太郎の父、櫛山修司だった。当然ながら修司は一切関与していない。むしろ、主軸となって臓器売買をやっていたのは光磨の方だった。だが、光磨は修司に罪をなすりつけることで自らの罪から逃れるばかりか、邪魔な存在である修司を病院から排除しようと目論んだのだ。
修太郎は修司が臓器密輸組織への横流しを主導していたという報道を祖父母の家のテレビで見ていた。横で声をかけてくる従兄弟たちの声など聞こえてこなかった。修太郎はその報道を見た瞬間に昨晩遅くに切羽詰まった様子で電話をかけてきた父の言葉の意味を理解した。
『すまない、修太郎。まずいことになった。祖父さんを迎えによこすから、今すぐそこから離れろ』
寝ぼけ眼をこすりながら電話を取った修太郎にそれだけ言うとさっさと電話を切ってしまった。修太郎は慌ててかけ直そうとするが繋がらなかった。そして、それからすぐに父方の祖父が修太郎の家に姿を現した。そして、急かされる形で必要最低限のものだけ持ち出すと彼の運転で家から出たのだ。
修司がなぜそんな電話をしたのかなど今なら容易に想像がつく。マスコミから修太郎を守るためだ。連中は金にさえなるのならば子供にすら取材と称して躊躇一つせずに根掘り葉掘り聞き出し、あげく都合のいいように情報を改変する外道だ。そんな連中とまだ幼い修太郎を接触させたくなかったのだ。あとは高圧的な警察官が来たときのことも考えていたのかもしれない。自分の都合を優先して、子供相手でも問い質すクズ度はどちらも目に見えて違いはない。
まぁ、これはマスコミや警察にロクな連中はいないという現在の修太郎が持つ多分な偏見を含んだ上で立てた推測なので外れているところもあるかもしれないが、それでもあながち間違いではあるまい。
不幸中の幸いと言うべきか修太郎の住んでいた場所は都市部に近いとはいえ、未だに強い因習が残る田舎だった。そして、修太郎の家はかなりの影響力を持つ家だったのでそこまで酷いことにはならなかっただろうが、修太郎はまだ小学一年生だ。いくら歳不相応に聡明だったとは言っても、彼の幼い精神を考えればそこから逃げておいた方がいいことは間違いない。
いずれにしても、修司は嵌められたのだ。それも人を人とも思わない人以下のゲス野郎の手によって。そう思うと修太郎はとても悔しかった。
結局修司が罪に問われることはなかった。彼の生家が名門の中の名門であり、その影響力と権力に物を言わせてその一件をなかったことにしたからだ。まぁ、そうなるように仕組まれていた節もあるが。
しかし、その代償に修司は病院を追放され、騒動からしばらくの間本家の屋敷の離れに軟禁される形となった。
修太郎は悔しくて悔しくて仕方なかった。学校でも同級生たちに散々からかわれた。陰口も叩かれた。人の命を弄ぶひどい医者の息子だと。金の力で揉み消した卑怯者の息子だと。そう言われた。
けれど、何も言うことはなかった。それ以前に彼らと会話を交わす必要を見出せないほど修太郎は怒りに駆られていた。
小学一年生の肩書きに相応しい幼稚な同級生の相手をすることなく修太郎は彼らから離れる。低レベルな挑発まがいの戯言を相手にすることなく修太郎は真顔で校舎を出て、完全に学校の敷地外へと出ていく。まだ授業は終わってはいないが、この学校にそんなものは関係ない。
車通りも人気もない片道一車線の歩道のない道を一人歩くが、途中で修太郎は足を止める。
修太郎にとって不運だったのは父親を陥れた外道の息子と同じ学年、同じ学校に通う同級生であったことだ。
つまり、安城光磨の息子である安城光一と邂逅してしまったのだ。その周囲には彼の友人と思われる腰巾着が男女数人いた。彼らは修太郎の顔を見て、ニヤニヤ笑いながら何やらコソコソと話している。
けれど、そんなことはどうでもいい。そんなことよりもよりにもよって不用意に動いた結果光一と出会ってしまった。修太郎は七歳の少年が取るような行動ではないことは重々承知の上で己の失態に思わず舌打ちをする。けれど、その態度が気に障ったのか光一は眉をひそめて修太郎を見下ろしてくる。
「何だ? その顔は。俺に何か文句でもあるのか?」
「…………」
どの口がほざくのかと思ったが修太郎は何も答えなかった。ここで下手なことを口にして、これ以上父親の立場を悪くしたらまずいと考えられる程度の頭をこの頃の修太郎は持っていたからだ。
少なくともここで怒りに身を委ねて怒鳴ったら負けだ。修太郎は詰め寄りたい衝動を拳を握りしめることで必死に堪える。だが、そんな修太郎に光一は全く予想していなかった言葉を口にする。
「それにしても、お前の父親はいい仕事をしてくれたな。喜べ、修太郎。お前の父親が俺の父親の身代わりになってくれたおかげで俺の父親は次期院長が内定した。本当にいい礎になってくれたよ」
「は?」
「ああ、突然の賛辞に戸惑っているのか。無理もないが、褒め言葉は素直に受け取っておくべきだぞ。お前の父親が俺の父親のやっていた臓器密輸の罪を被ってくれたおかげで俺の父親は正しいことを成し遂げられたんだ。お前ももっと喜べ」
「待ってよ。お前は本気で自分の父親が正しいと思っているのか?」
「ああ、それがどうした? 俺の父親のやったことは正しい。それはれっきとした事実だろう?」
光一の言葉に修太郎は絶句する。あまりにもあっさりと彼は自分の父親の所業を認めた。その上で彼は父親が正しいと一切の迷いもなく断言してみせたのだ。呆気にとられないわけがない。彼の同級生たちも戸惑った表情を浮かべている。
けれど、修太郎は瞬時に理解した。修太郎も光一も互いに小一とは思えないほどに聡明だった。だから、それだけで互いに何が言いたいのかが理解できてしまう。
いや、そんな大仰なものでもない。考えるまでもなく分かることだ。だからこそ、修太郎はつい抑えられなくなってしまう。
「はっ。何だ、それ。俺の父親を嵌めたことが正しいこと? そのせいで俺の父親は病院から追放されたんだぞ!」
ついつい語気を荒げてしまう。彼の小学一年生。どんなに頭で分かっていても自制心は弱い。修太郎は言ってすぐにやってしまったと内心焦るが、そんな心配をするまでもなく光一は見当外れな答えを自信満々に言い放つ。
「何が言いたいのか分からないな。それの何が問題がある? 父さんの踏み台になれた。お前の父さんには身に余る光栄のはずだが?」
その返答を聞いて修太郎は諦めた。もう限界を超えて溢れてしまうほど大きな怒りすらどこかへと消え去ってしまった。彼の内心にあったのは光一に対する軽蔑の感情だけだった。
そんな自分の精神状態に修太郎は驚いた。人間とはどれほど怒りに駆られていても一瞬で沈静できてしまうものなのかと。これほどまでに何もかもがどうでもよくなるほど救いようのない人間が存在するのかと。
どちらにしても、もう修太郎にこれ以上この場で光一に突っかかる気力などなかった。
修太郎は小さくため息をつくと、申し訳程度に頭を下げる。仇敵の息子に対して頭を下げるなど普通は屈辱以外の何物でもないのだが、今の修太郎には屈辱どころか何も感じなかった。
「ああ、分かったよ。変な言いがかりをつけてすまなかったな……」
「分かればいい。今後気を付けるようにな。行くぞ、お前ら」
光一は戸惑う腰巾着たちを引き連れて、修太郎の横を通り抜けていく。腰巾着たちもチラチラと修太郎に視線を向けながらも光一の後を追う。修太郎はすっかり意気消沈した瞳で彼らの背を見つめながら、ふとなぜ光一たちがここにいるのかを考え、そして、すぐに結論を出す。
彼が引き連れている腰巾着たちは全員が光磨の部下の子だ。そして、その中には光磨の腹心の子である日下部迅馬と久野南美、喜々野伶香もいた。だから、光磨の次期院長選出か臓器密輸に関連することで光一を含む彼ら全員が自宅待機を命じられていたのだろう。しかし、そんなことは心底どうでもよかった。修太郎は光一たちがいなくなるまで、その背をじっと見つめ続けていた。
光一たちの姿が完全に見えなくなったところで修太郎はようやく彼らの去っていった方向から視線を外し、再び歩きはじめる。彼の行き先は町外れにある森の中に存在している秘密の場所だ。
もう終わったことだ。そう思ったところで修太郎は森に笑い声が響いていることに気付く。誰か近くにいるのかと思ったがよくよく聞いてみると違うことに気付く。それ以前にどこか聞こえ方がおかしかった。
修太郎は自分の口に右手をやる。そこで修太郎は初めて自分が笑っていることに気付いた。それだけではない。頬に手をやれば涙を流していた。
何でこんなことになっているのかは分からなかったが、修太郎は抗おうとはしなかった。その上、修太郎の意思と反して口から声が漏れる。
それはとても平淡で機械的な声だった。
「そうかよ。お前の言い分はよく分かったよ。それなら、てめえもぐちゃぐちゃにされても文句は言えねえよなぁ……?」
修太郎は言い終えると涙を流しながら狂ったように嗤う。その瞳に光一への敵意はなかった。底の見えない淀んだ闇だけがあった。
ああ。自分の愛情など所詮この程度だったのだ。あれほど尊敬していた父親を陥れられたというのに、今、彼の中にあるのは父親を嵌めた光磨に対する復讐心ではない。父親を貶めた光一に対する憤慨でもない。ただただ彼らをぶち壊したいと願う破壊衝動だった。
父親を尊敬していたという言葉に嘘偽りはない。だけど、何としても修司の無念を晴らしたいと思っているかと聞かれれば、即答はできない。自分はどうやら、そういう人間だったらしい。
けれど、光一への嫌悪感が消えることはなかった。本来ならばそんなものを持つ資格などないと分かっていながら、修太郎はそれを手放す気にはなれなかった。
先ほどまで光一への怒りが消えていたというのに、今はその光一をズタボロにしてやりたくてたまらなかった。もう修太郎には何が何だか分からなかった。
ただ笑っている間、頭の中に全く身に覚えのない映像と声がひたすら流れていたことは覚えている。
そして、時は流れ――。




