序
序
わたしは、一枚の皿を覗いている。親指と同じくらいの深さに、わたしの頭が四つほど入りそうな口をもつ、大きな金色の皿だ。
どうやらその皿には液体が張っているようで、少し皿に触れると波紋が浮かんだ。異臭はない。いいにおいもしない。ただの水のようだ。
いったい何に使うのだろう。不思議に思って考えていたらずいぶんと時間が過ぎていたようで、大きな翼の音と共に「グヴゥ」という唸り声が聞こえた。グラーシャだ。
急がなくては。あの方々を待たせるわけにはいかない。わたしは急いで皿を抱えると、足早に部屋を出る。純金でできた大皿に水をたっぷりと注いだそれはとても重たいし、部屋を出てすぐのところでグラーシャとすれ違いもの言いたげな目を向けられたが、今回ばかりは気が付かなかったことにしよう。
久々に会えた主に与えられたこの仕事は、たとえ私の体格では無理のあるものでも、主の私に対する信頼があってこそのもの。急いでこの大皿を届けに行こう。
前夜祭
「公演は明日から」ずっと前に決めたことだ。今、再び決意したことだ。
だから、今夜は宴をしよう。「わたし」に見切りを付けよう。
「わたし」を消滅させるための演目を、予定通り執り行うために。
上のほうは雲にも届いているのではないかと錯覚するほどに背の高い本棚。翼や十字架をモチーフとした透かし彫りのテーブルと、それを挟んで向かい合わせに置かれた真紅のソファア。そして、その上に堂々と置かれた金の大皿。
至高の品だけを集めた豪華絢爛を極めるこの部屋には、そんな調度品の数々に見劣りすることのない強さと美しさを兼ねた者が居る。この城の主人と、主人をそのまま幼くしたかのような風貌の少年だ。
二人は机の上に置かれた大皿を、何を言うわけでもなくじっくりと、射貫くように見つめている。
どうやら大皿は水鏡となっているようで、水面の奥のほうに何かが見える。――もっとも、窓ガラス越しでは何が映し出されているのかはわからず、ゆらゆらと揺れる水面を眺めていることしかできないのだが。
はく
視線は水鏡を射抜いて話さないまま、少年の口が動いた。音は出ていない。何かをつぶやこうとして、やめたような。たった一瞬口を小さく開いて、少し迷って閉じた。そんな具合だ。
狭い窓の下枠の上でもう一歩、足を動かしてガラスに頭をこすりつける。
「おうさま」
小さな声が聞こえた。
呟くような、少しばかり舌足らずな、少年の声だ。
その声は、頭が形を変えてしまいそうなほどに頭を、顔を擦りつけていた私の耳にも拾うことができた。
私は続く言葉を待った。
否。待っていたのは私だけではない。
先刻水鏡を運んできた少女のような風貌の従者も、その隣に控える、大きな翼を持った黒い毛色の大型の猟犬も。果てには部屋中に置かれた豪華絢爛な調度品まで、自己の主張を控えて見守る姿勢でいる。(調度品が自己の主張を控えたのは、突然空が陰り始めたからであった。あの光物たちが自らその輝きを自重するはずがない。あれらの輝きがなりを潜めるのは、総じて己に自信がなくなった時と決まっている。)
「どうした」
とても太い弦が振動しているかのような、低い声が響く。
てっきり次にこのからっぽの世界に響く音は少年の小さな声だと思っていた私には、その腹の底をぐわんぐわんと揺らされるような感覚に陥り、窓枠から足を滑らせた。
慌てて羽を動かすも、なぜかうまく飛ぶことができない。何度も羽をばたつかせてもそこにとどまる以上のことはできない。気を抜いた瞬間に地に叩きつけられてしまいそうだ。
必死に飛ぼうと、せめてその場に留まろうと。必死に羽を動かす私のことなど露知らず、彼らの会話はのんびりと、しかし確実に進もうとしている。
――一つ。従者の固唾を呑む気配
私は少しでも窓に近づこうと、先ほど以上に早く羽を動かそうとする。
――二つ。少年が小さく深呼吸をする空気の揺れ
私は「早く言葉を紡いでくれ」と、唸るように願う。
――三つ。少年が再び息を吸う、音
力の尽きた私は、視認できないほど先の地面に向かって頭から落ちてゆく。
――四つ。私は、それでも音を拾おうと耳を傾ける
風切り音ばかりが聞こえて、少年の小さな声は拾えそうもない。
それどころか、太い鎖で縛られたかのような重さの羽を動かす気はもう起きず、ただ自然に身を委ねて真っ逆さまに落ちていく。
体が、鎌鼬が悪さをしたかのように痛む。
鎌鼬が、体どころか意識までもを刈り取ろうとする。
ああ、
視界は雲のように白くぼやけ、脳は仕事を放棄した様で解決策は見つかる気がしない。
羽は大きな鎖で縛られたかの様に重く、これ以上動かせる気がしない。
そろそろ地の色が見えそうな距離まで落ちていそうだという頃に、声が聞こえた。
凛とした、先ほどのように舌足らずではない、中性的な声だ。
「王様、そろそろ良い頃合いだと思うのです」
はっとして空を見上げても、私のすぐ側から生えている筈の大きな城すら見えない。
先ほどまでのぞいていた部屋など、見える筈がない。
『ありえない』
私が働くことをとうにやめている脳みそを無理に動かそうとしている間にも、少年が次の言葉を紡ごうとしていることがわかった。
何故、口を開く気配まで察知することができるのだろう。
「・・・あの計画を、実行したいと思います」
全てがどうでもよくなった気がした。
生きることをとうに諦めた体が、そうさせたのだ。
脳はとうに死んでいる。羽も、視覚も同様に。
ただ、意思だけが生きていたのだ。
彼らの会話を聞き届けようとする、意思だけが。
それがなくなった私には、聞き遂げた私(意思)には、生きることはもう必要ないのだから。
遂になくなろうとする意識の中「ああ。それでいいのだな?」と。
もう、腹の底がぐわんぐわんと揺れる感覚もない。
なぜなら私は…
――鴉が一羽、黒に溶けた。
否、崩壊に巻き込まれた。
鴉だけでなく、地面から徐々に黒に飲まれていく。
否、「侵食」といった方が良いのだろうか。イギリスのヴィクトリア朝を彷彿とさせる街並みを。町外れの森の奥、小高い丘の上に空にも届きそうなほど高く建つ城を。馬と同じくらいの速さで侵食していく。
城の最上階にいた子供も、主人の後ろにあった大窓が黒く染まったことに気がついたようで。少し目を丸くした後に穏やかに微笑んだ。
「この選択を、受け入れてくださるのですね」
再び城の主人に目を合わせて、意外でした。そう聞こえてくるような話し方でそう言った。
その言葉に城の主人はため息交じりの声で「何を言っても変わらないだろう」と言うと、ガタリと乱暴に椅子を引いて席を立った。少年もそれに続いて席を立つと、城の主人のそばへ行き…
パリン
ガラスの割れるような音が、残された空っぽの世界に響いた。
魔術儀式用の工房。その中央の床に、銀色のナニカで魔法陣が描かれている。
その魔法陣の上。空中には様々な形をした太陽の線が、床に書かれた魔法陣の中心から1mの場所を中心として、くるりくるりと回っている。それによって金色の魔術式は様々な模様を作っては壊し、作っては壊しを繰り返している。
今日もまたいつものようにその不思議な形を見にきたわたしは、工房に入った途端に違和感を覚えた。そう、魔法式の上に浮いているぶどうの皮の様な色味のクッションの上に置かれた大きなガラス玉が真っ黒になっているのだ。
我は慌てて入り口の反対側に置かれた使い古された魔道書の前に行くと、「魔術に長けている」や「あらゆる知識を持っている」と書かれたページを探す。
あのガラス玉。否、小世界には兄がいるのだ。
小世界が壊れれば、兄は強制的にこの本に戻される。強制的に戻された際に兄はどんな怪我でも回復するが、兄はこの本の中を嫌うのだ。
兄の主人もいない今、私が誰かを呼んで小世界の崩壊を阻止しなくては。
パリン
ガラスの、割れる音。
慌てて後ろを振り返れば、割れたガラス片が砂のように粉々になって宇宙の上に落ちていく。闇色の上に落ちなかった銀色の粉の一部が、魔法陣の上や私の足元に散らばっている。
――小世界が崩れる音と共に、兄の助けを乞う声が聞こえた気がした。
開演ブザー
ホール中に無機質な音が響いた。客は口を噤み、話の始まりを待っている。
わたしはまだ、覚悟を決められずにいる。
少年が、ながい長い廊下を駆けている。
廊下には窓が一つもないようで、明かりは手元でゆらゆら揺れている頼りないアルコールランプだけ。
『この明かりが消えてしまう前に、なんとしてもここから脱出しなくては。光がなくなってしまったら、二度と外に出られなくなってしまう』
少年は口にこそだしていないものの、心のどこかでそう確信していた。
外に出たところで、今やり残していることも目標もない。
それでも、
「このまま終わってしまうのは癪だ」と。
その心だけで走っているのである。
ところで先刻から少年は出口を探してさまよっているわけだが、分かれ道で以前とは違う方向に曲がっても、ひらけた場所にでてきても、片っ端から扉をあけてみても。どれも数分、数時間前には見た覚えのあるものばかりなのだ。
ここにはグリム童話の仲の良い兄妹のように、白く輝く石を用意する時間もなければ、己の腹を紛らわせる分のパンすらない。その上、寂しい時間を共に過ごす人もこの少年にはいないのだ。
故に少年は先刻と同じ場所を通っているのか、それともただ同じような部屋が数多く存在するのか、それさえも判断できない。ただ手当たり次第に、出口を探すよりほかないのだ。
SIKI
明るいゲーム音楽が響く白く無機質な病室で独り、スタッフロールが流れるゲーム機の画面をぼんやりとみつめる。
「このゲームも、おもしろかったなあ」なんて言葉を口にして、現実に戻された瞬間に訪れた損失感を紛らわせる。
この作品も終わらせてしまった。また今日中にでも看護師に新しいゲームを強請ろう。
ぼくは病院暮らしだ。ずっとこのベッドで横になっていて、もうそろそろ一年目になる。
学校には通えておらず、クラスメイトや友人の中にはもう二年近く顔を見ていない人もいる。
ふと幼い頃から仲良くしてくれていた友人の顔が脳裏に浮かんだ。
あいつはきっと今も普通に学校へ行って授業を受けて、ぼく以外の友達と面白おかしく過ごしているのだろうと思うと、蛍光灯が煌々と光るこの病室に独り取り残された気分に陥る。
ぼくは一体どこで道を間違えたのだろう。学年のほぼ全員が同じ小学校出身で、そのほとんどが保育園から同じだというのに。それなのに何故。なぜ、ぼくだけが・・・
なんてくだらない。妬んだところで、何も変わりはしないのに。
ふと、手元に影がかかる。
知らぬ間に看護師が来たのだろうか。ベッドの淵に顔を向けると、そこには底のない黒紫色。
突然起きたありえない現象に俺の背筋はピンと伸び、体を引きずるように後退る。ぐるぐるとした思考を一旦落ち着けるよう大きく深呼吸をして、その黒紫色をまじまじと見る。
それは俺がすっぽり収まるくらいの大きな楕円型で、立派な鏡の様に少し錆の入った金の枠がついていた。そして今も尚ぼくから数十センチの離れた場所に背筋を伸ばして立っていた。
「な、なんだこれは」
もっとも、どこにでもある市民病院の個室に金の枠が付いた鏡があるはずがない。その上枠の中には鳥肌が立つような黒紫が広がっており、ぼくの姿が映ることもない。
とてもじゃないが鏡と呼べないその品は、ただでさえ重そうであるというのに何の支えもなくまっすぐに立っていた。
「異質」それ以外に言いようのないそれは、さらに恐怖を煽るように黒紫は額の中でゆらゆら模様を作り出す。
ぼくにとって毒を表現するにふさわしい色・濃淡といえるその楕円は、今にもぼくを骨の髄まで溶かしていってしまいそうでブルッと身震いした。
しかし「それに手を伸ばせば退屈で窮屈な日常が変わるかもしれない」と、退屈を極めた身にとってこれ以上にない甘美な誘惑がぼくを苦しめる。
ぼくには家族なんて居ないし、見舞に来る人もいない。そもそもこんなところで生活している理由も知らなければ、友人と最後に会った日のことも、友人たちの顔も覚えていない。
そんなぼくがいなくなったところで、悲しむ人なんている筈がなくって。看護師たちも手のかかる患者が一人減って精々するだろう。
ぼくは頬を軽くたたいて小さく深呼吸をしたあと、四つん這いになって楕円に近づく。一歩進むたびに白くてごわごわした、しわの多いシーツが手足に張り付く。
数歩。ほんのわずかな距離だ。シングルベッドの上を少し動くだけ。でもそれは、ぼくにとってはとても長い時間だった。
黒紫の正面。ぼくは大きな深呼吸を三回すると、それに向かってゆっくりと手を伸ばした。
ぴちゃん
ついに伸ばした左手の指先が黒紫に触れた。
生暖かい水に指を付けたような感覚。ぬるい液体などもうしばらく触っていないぼくには違和感が多く、きっと今ぼくの顔はとても歪んでいることだろう。
そんなことを考えていたら、突然額の中が黒く光りだした。そのまま直視していたら目をつぶされてしまいそうで。
否。今になって怖くなって、ぼくは固く目を瞑った。
瞼を閉じた状態でも感じるチクチクとした眩しさが収まったので恐る恐る目を開けてみると、あたりはあの黒紫色に染まっていた。まるで空気に色をつけたみたいだ。
体は変な体勢で寝てしまった時ように、確かに自分のもので思い通りに動くのになぜか感覚がない。
それだけではない。先ほどまで寝転がっていた、今座っているはずのベッドの感触もなく、ぼくの体はなんの支えもなくふわふわと宙に浮いている。
それにしてもこの空間は、ほんの十数秒いただけ気分が悪くなる。
真夏のエアコンをつけ忘れた部屋に放置された野菜ジュースのような、生暖かくてとても飲めたものじゃない紫色の液体の中にいるような。そんな気持ち悪さ。
ベタベタとしないことだけが救いか。
否、服を着たまま風呂に入った後のように、ここから出た瞬間に服と一緒にベタベタとするだけのような気もする。
こんなことを言いたいのではない。
確かにぼくは「退屈で窮屈な日常が変わること」を望んだが、悪い方向に変わることは望んでいない。我ながら自分勝手な話だと思うし、「こんなにつまらないのならば一層のこと・・・」と思ったことは数え切れないほどにあるものの、所詮ぼくも人間。目の前の恐怖から逃げたいと思うし、今になって命が惜しくなる。…常にそうならいいのに。
ぼんやりと、相変わらず気味の悪い黒紫を眺めながらそんなことを思う。
ああ、さみしいなぁ。
気味の悪い空間にぼく独り。病室に戻ってもそれは変わらないけれど。
無性に悲しくなって、ぼくはぼく以外誰もいない空間で独り、気味の悪い空間で独り。己の体を抱きしめるようにして丸まって目を瞑った。
でも、マイナスの感情を強く認識するとどんどんマイナスなことしか考えられなくなるのが人間なわけで。
怖い、怖い。これからどうなってしまうのだろう。
ぐるぐる。ぐるぐると。
マイナスな感情ばかりがぼくを埋めていく。
瞼に力を入れて、歯をくいしばる。でも、震える手足は隠せなくて。ただひたすらに、なんとも言えない恐怖と共に終わりを待つ。
待つ。
『ねえ』
ふと耳元で、静かな水面に朝露がひとしずく落ちた時のような、落ち着いた声がした。
初めて聞いたはずなのにどこか懐かしく、ぼくの恐怖心を少しずつ和らげていく。
その声ははじめ、言葉を選んでいるようで言いにくそうに「あ」とか「う」とか言ってはその続きを言うことがなく、それを何度か繰り返した。それがどうしようもなく愛らしくて、だんだんぼくはこの先に何が起きても受け入れられるような気がしてきた。
少し経った後、その美しい声は相変わらず言いにくそうに戸惑いながら。しかし、確かに言葉を伝える意思を持って口を開いた。
『・・・貴方は、幸せでしたか?』
ぼくにとってその質問は予想外で、目をパチクリさせた。
ぼくはこの声にこの人生の終わりを告げられる覚悟はしていたものの、質問される心構えはできていなかったのだ。
その声はぼくが動揺しているのを察したのか、また気まずそうに言葉にならない音を発し始めた。
ぼくは自分のせいでその声の主を困らせているのが申し訳なくなって、急いで質問に対する返答を探した。
ふと、先刻に強く思ったことを思い出した。
少し息をすって、はいて。
少し微笑みながら――
「常に命が惜しいと思える人生を送ってみたかったなって、思います」
幕開き
緞帳が上がっていく。もう役者の招待が始まってしまった。
あの悲しみを紛らわせるような笑顔の理由をつくったわたしを、わたしは許すことはないだろう。
「ん、」
目を覚ますと、ぼくはコットンのようにふわふわとした物の上に寝転がっていた。
おかしい。病室のベッドはこんなにふわふわしていないし、枕元には携帯ゲーム機が転がっているはずだ。
その上、たとえ今が深夜だとしても暗すぎる。病室ならば廊下から暗いオレンジ色の光が漏れてきたり、カーテンの隙間から目の痛くなるような白や赤といった街の光が鬱陶しいくらいに入ってきたりしているはずなのだ。
もしかして、これもあの変な黒紫のせい・・・?
ぼふん。ふと浮かんだ嫌な推測を振り払うように、いつもよりもふかふかしているような気がするベッドに体を沈めた。
何もかも、ぼくの知ったことか。
たとえここが夢の中でなかったとしても、今すぐに脱出しなくてはならないような場所だとしても、関係ない。
親も友人も見舞いに来ない、ぼくが自殺することを防ぐためだけの病室になど帰る必要はない。
•••眠っているうちに死ぬことができるのなら、それこそ願ったり叶ったりというものだ。
「どうか、ぼくがきづかないようにころしてください」
ぼくはまた、ふて寝をするように目を瞑った。
真っ暗な夜。寒さをしのぐために、先刻まで同じ村で暮らしていた人たちだったモノの中で眠った。そんないつかの日のように体は生暖かく、顔は冷たい北風が頰を撫でて・・・
いつからかべっとりとこびりついていた、どの作品のものかもわからない物語。
――それに出てくるさみしい夜のようで。
――すべてが似ていて。
もう思い出せないくらいに疎遠だった雨水が一雫、頰に小さな川をつくってベッド(死体)を濡らした。
――あの日の炎が、あの日のアカが、翌朝の赤と青の境界線が。
遠くで、ぼくが其処に留まることを拒むように。手を振っているような気がした。
ぼくを乗せた車が、街へ。すべてがなくなった村から、街へ。
かくしごと
親の顔を見たことはない。朝起きて外に出ると、1日分の小さなパンが置いてあった。
言葉はずっと一緒のセキセイインコに。教養は小説に。どれも、見栄を張って隠した私のすべて。
大人と子供の全面戦争。一人の少女の未来を懸けた戦い。
それが、「武器を持たない国」の小さな村が一夜で滅んだ原因だった。
全ての始まりは、七つになったばかりの少年が「近づいてはならない」と口酸っぱく言われていた林の中に、たった一人で踏み入ったあの日。
俺は、あの日のことを忘れはしない。
幸せにさせてやりたかった彼女が、さらに不幸になる始まりの日を。俺たちの出逢いの日を。
大人たちがこぞって入ってはいけないという理由がわからなくて、小学校の帰り道に鬱蒼とした林に飛び込んだのだ。
『大人たちは「この小さな村は森や林と共にある」と言うのに、なぜあの林だけはいけないのだろう。』
小さな子供がパンドラの箱を開ける理由は、それだけで十分だったのだ。
彼女は林をしばらく進んだ先の、等間隔に植えられた手入れがされていない低木でできた塀の先にいた。
等間隔に並んだ低木を見たとき、俺は「ここに大人たちが大事に隠しているお宝があるに違いない」といった、母親が高いところに隠した少し高価なお菓子を見つけた時のような感覚で、低木の根元の枝のないところを潜り抜けてしまったのだ。
長らく手入れがされていないことが分かる低木の先には、古びた教会が建っていた。
それを見た俺は、子供の間で流れた怪談話にあった、「昔街に出た村の女性がキリスト教の宣教師を連れて帰ってきたが、気味悪がられてその女性と宣教師は殺されたらしい。そしてその二人が建てた教会が村の近くの森の奥にあるらしい」というものに出てくる教会だと察し、まずは珍しい石造りの教会を外から一周見ることにした。…断じて血の跡やお化けを見たくなくて外観だけで我慢しようと思ったわけではない。
教会の周りを回り始めて10分ほどたっただろうかという頃に、俺は先ほどまでより視界が広いことに気がついた。
どうやらいつの間にか教会の裏手近くまで来たようで、教会の奥には様々な野花が一面に広がる広場が見えた。小さな村でこんなにたくさん花が生えている場所は秋の田んぼくらいしかなかったので胸が弾んだ。俺は教会の外観を眺めるのを一旦やめて広場の真ん中の方へ行こうと足を踏み出して、それ以上動けなくなった。
なぜなら、広場の真ん中で同い年くらいの少女が動物たちと戯れていたからだ。
俺の父親は狩猟を趣味にする。それ故にいくら気になっても近くへ行くのは憚られたのだ。父が彼女の友人を奪い、俺は彼女の友人を食べていたのだから。それも一度ではなく、何度も。そのくせ彼女と一緒に動物と戯れる自分の姿を妄想してしまった自分が、とても汚いものに感じて、足が動かなくなったのだ。
俺は教会の影で彼女たちから見えない場所にしゃがみこみ、そっと彼女を見守った。
大人たちに隠されるように存在する幽霊屋敷のような教会の庭で遊ぶ少女。俺と同い年のように見えるのに村で一度も彼女の顔を見たことがないことを思うと、大人たちが隠していたのは教会ではなく彼女のことではないのだろうかという憶測が頭に浮かんだ。
否、いつも優しい村の大人たちが俺と同い年の女の子をこんな所に隠すわけない。と、憶測を振り切ろうとするも、一度浮かんでしまった嫌な憶測は俺の頭から離れてくれない。
『もしかして彼女は、宣教師と一度街に出た女性の子孫だったりするのだろうか』
こうして彼女の特徴的な髪の色と瞳の色の理由ができてしまったのである。
一秒ごとに増えていく大人たちへの不信感に、俺は顔から血の気が引くのを感じた。
『このままではいけない』と、頭の良い友達に助けを求めようと、慌てて立ち上がった。
俺の腰の丈程ある雑草が、手入れのされていない低木が、大きな音を立てた。
人が近づくだけで逃げてしまう動物たちが気づかないはずもなく。
「だれ?」
小さな、猫の首につけた小さな鈴のような彼女の細い声が、他でもない俺自身に向けられて発された。
あの出来事から三年が経った今日。
彼女は、村の中心で磔にされている。
夢
ムズムズとした、料理に入った大きめの野菜をそのまま飲み込んでしまった時のような不快感。
彼が本能的に思い出そうとしていることの全てを、否定しなくてはならないということに、気づきたくはなかった
また、目を覚ました。生きている。
あの日のように、誰もいない朝。
なにもない、朝?
寝心地は変わらない。
あの日のような暖かなベッド。
すべてが終わったあの日の、翌朝のような。
でも今日は、目を塞ぎたくなるような、目に突き刺さる青空も。頰を凍らせる、矢のよな冷たい風もない
気になって、起き上がってみる。
バサッと、音を立てて温もりが消える。
街の光は入ってこないし、ベッドも暖かい。環境の良い深夜の病院みたいで、「ここはんなところなのだろう」と想像が止まらない。
ベッドが病院の倍ふわふわしているから、お城にいるのかもしれない...とか。灯りをつけて部屋を見渡せば見たこともない本や植物がたくさんあって、でもなぜか自分は使い方がわかってしまったり...とか。
どうしても気になってしまって、それでも想像と全く違う面白みに欠けるところだと嫌だから、このままここに居たくなったりして。
そんな葛藤を脳内で繰り広げていた時に、昔一人でいろんなところに探索していたことを思い出してしまったら、もう歩き出さずには居られなくなった。
手探りでベッドの端を探して、降りる。
父曰く物心がつく前から一人で探検していたらしい俺は、少ない明かりでも不自由なく生活できるが、ここまで真っ暗だと不便でやってられない。
手の感触だけを頼りに明かりを探すこと体感三十分。おそらく実際は五分程度。
部屋の壁をいくら伝っても明かりをつけるスイッチは見つからなかったが、最初のベッドのすぐ隣にあったチェストの上にランプがあった。
同じくチェストの上に水差しとマッチ箱もあったので、手元やランプの構造も見えない恐怖心からチェストに火をつけてしまうことがないようにそっとマッチ棒を一本取り出して・・・
ボッ
暗闇に突然太陽が現れた。
本来太陽はゆっくりと暗闇を明るくしているのに、この火ときたら真夏の正午のような明るさで暗闇に現れた。
思わず目を瞑ってしまった目をなんとか開けた頃にはぼくの指先にまで火がついてしまいそうになっており、慌てて水差しに入れる。
二度目にようやくランプに火をつけることに成功し、そっとランプの蓋を閉める。
はぁ。
手で顔を覆いながらベッドを背もたれにして座り込む。
数年分の寿命を消費した気がする。
もうこれだけで疲れたからといって、このランプをつけたまま寝るわけにもいかないわけで。その上、今ランプに入っているアルコールが切れる前に追加を探さなくては、一生ここがどこかもわからぬまま閉じ込められることになってしまってもおかしくない。
俺はバンッと手のひらがじんわりと赤くなってヒリヒリとした痛みを感じるくらいの勢いで床を叩き立ち上がると、ランプを持って外へ出た。