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曼珠沙華  作者: 桐生 慎
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四之書 化生の舞

 柳生から四年。漸く帰ったあさぎだったが、各格闘技の一流どころが日本一の座を命がけで争うバトルロワイヤルへの参加を命じられる。

 一切のルールが無い、異種格闘技の殺し合いは凄絶を極めた。

 あさぎを探す春日野だったが、まさに修羅と化したあさぎの姿に戦慄する。

 白鷗神社のある山は綺麗な円錐形をしていて、周りの山脈からは離れて独立して見える。約二千年に渡る厳しい禁則の掟は、それ自体がご神木であるような数千年の樹齢の大木が蔓延る異界を形成している。山頂付近には巨大な磐坐が林立する異様なものだが、それを知るのは野試合に出た者だけだ。中腹に滝があり、そこから清流が流れる。春日野健司は隣町で電車から降りると、獣道を選んで山奥に入った。山奥と言っても日本の山林は殆ど人の手が入って植樹されている。だから、少し鍛えればその山中を行き来するのは難しいものではない。春日野はある程度山奥に入ると、大木を探す。目当ての大木を見つけると、するすると登って、太い枝に寝転がる。すぐに眠りに落ちたが、半時程すると人の声がしたので、半覚醒の状態で薄目を開けた。肉体はまだ眠っており微動だにしない。

「いたか?」

「いや、見あたらない。確かにこちらへ来たのだが……」

 春日野は緩慢な動作で顔を下を向ける。日本刀を持った男が二人騒いでいる。少し離れて長槍を手にした壮年の男が静かに佇んでいる。髪が長く腰まであり、眼光は鷹の様だ。

(―――ほう。出来るな。あの得物と外見。槍術の長瀬水樹か……)

「―――声を上げるな。禁足地に入ればどの道出会う。先へ行くぞ」

「長瀬さん、大した自信だが、春日野と柳生の鬼百合は倒せる時に倒すに超したことはない。たとえ三人掛かりでも」

 長瀬はあからさまな軽愚の目で二人を見る。

「ならば貴公らは捜索を続けるが良い。私はその二人とは正面からやり合うつもりでいる。貴公らとは、たまたま山中で出会ったに過ぎぬ」

 枯れ枝や落ち葉が堆く積もった上を、まるで体重が無いかのように長瀬は歩む。春日野は長瀬が足袋しか履いていないのに感心したが、そこで興味を失い再び深い眠りに落ちた。慌てて長瀬を追う騒がしい足音は雑音とさえ意識されなかった。


 つるべ落としと言う言葉があるが、深山の森の夜は何時だってつるべ落としだ。陽の色に僅かに朱が混じれば、山で生計を立てる者でも早々に下山する。山の夜はまるで視界が効かないコールタールのような闇だ。独自の質量を持つ闇は畏怖を駆り立て人の世界ではなくなる。夜陰がつるべ落としなら、夜の山の冷気も唐突だ。一気に冷え込む。その冷気は人里のそれと異なり、質量のある冷気だ。ずっしりと重くのしかかかる。

 大木の上の太い枝に横たわっていた春日野の肉体が、密度の増した闇の冷気に覚醒する。春日野の横たわる枝はそれ自体、人一人が横になっても、まだ余裕のある代物だが、当然、人が寝るような形に伸びている訳ではない。そのような場所で熟睡するには、それなりの修練が必要だ。熟睡しても枝から落ちぬよう無意識にバランスを整える技が要る。

 忍者が跳梁跋扈していた時代なら、自営も兼ねてそういう技も必要だった。また、それが出来なければ剣の修行に全国を行脚するのは不可能であったし、その域に達した達人でなければ生き残ることは不可能だった。現代ではそんな術は必要無い。剣の修練の中で春日野が自然に身につけたものである。

 肉体が目覚めると共に春日野の精神も目覚めた。目を開けると満月が青く輝いている。

(新月ならば良かったな……)

 春日野は漠然とそう思う。自分の手先も見えぬ闇でも春日野は自在に動ける。戦うならそういう闇が望ましかった。春日野は寝そべったまま、全身の重心を僅かにずらす。春日野の肉体は自然に落下する。五メートル程の落下の間に春日野は猫の様にくるりと回ると足から着地した。首をこきこき鳴らしながら、春日野は舗装された道を歩むように白鷗神社のある神山を目指す。春日野の足下には枯れ枝や枯れ葉が堆く積もっているが、足音はしない。ちなみに春日野は裸足だ。その足の皮は修練で靴底の様に厚くなっている。いったん稜線を下り、再び登りの斜面が出ればそこは白鷗神社の聖域である。春日野の足なら半時もかからない。聖域の森はこれまでの道程とは一変する。少なくとも二千年以上人手が入らぬ原生林だ。足下には人の胴体程の太さの根が縦横無尽に覆っていて、夜で無くても普通の人間には進めるものではない。寿命が尽きて倒れた大木がいきなり転がっていたりする。あちこちに巨岩も顔を出している。それら全てが深い緑の苔に覆われているので、普通に進めば足が滑る。聖域に入ったとたん、春日野の動きは激変していた。原生林だから月明かりも届かぬ闇だと言うのに、春日野は地形を把握しているように天狗の様に飛んで進む。その速さは尋常で無い。まるでスプリンターである。

 唐突に春日野は苔むした巨岩の上で立ち止まった。

 大量の血と贓物の生臭い臭いが風に漂っている。

 春日野はその方向に飛んだ。岩から転げ落ちた骸と大木に背を預けた骸が転がっている。長瀬に置き去りにされかけた例の二人であった。二人とも抜刀していない。いや、岩から落ちた骸の側には小刀が転がっている。小刀の鞘は骸の腰にある。春日野はうつぶせの骸を足で仰向けにした。腹を真一文字に切り裂かれ、贓物がはみ出している。首の動脈もばっさりと斬られて、未だ血を吹いている。岩の上から血痕が続いている。もう一つの骸は岩の下の巨木にある。こちらは刀の柄に手をかけているが、抜刀にいない。心臓を深く一突きされて絶命している。長瀬の槍によるものは明らかだ。

(愚かな輩だ……)

 そもそも、この野試合に群れると言う発想を抱いた段階で死は決定されていた。そして長瀬のような化生と行動を共にするのが決定的な過ちだった。長瀬はこの二人が随行した段階で、最初の得物に決めていたはずだ。春日野は状況を見渡し、瞑目する。二つの骸に興味はない。長瀬の立ち会いを読んだのだ。

 すぐに分かった。

 まず、岩の上で一人が足を滑らせたのだ、長瀬は確実に殺れる機を得た。自然に足を滑らせた男の脇差しを抜き取り、腹を切り裂き返す手で首を斬ったのだ。もう一人は慌てて間合いを取ろうと岩から飛び降りた。おそらく夜目が利いていなかったのだろう。巨木に背中をぶつけた。その瞬間、岩から矢のように長瀬の槍が心臓を射貫いたのだ。およそ一分も要していまい。

 何の感慨も無く、長瀬は即座にその場を去ったはずだが、足跡が無い。そこで春日野は思い至る。長瀬は木の上の春日野に気づいていたのだと。あの歩法なら、足音は立たない。長瀬は春日野に届くか届かないかの足音をわざと響かせ、挑みかけたのだ。

(―――よろしい。受けて立とう)

 足跡は無くとも血の臭いは残る。しかも春日野は血の臭いの個人差を感知出来る。この神山のそこかしこで血潮の吹き出る立ち会いが行われているのだろうが、春日野はそれに迷うことなく長瀬を追える。これ程の遣い手に挑発されては、昨年の勝者として応じない訳にはいかない。長瀬も立ち会いに適した場所で待っている筈だ。春日野は再び天狗の様に血の香を追って跳躍した。

 およそ半時。春日野は長瀬を追った。その半時の間に六名の参加者と遭遇したが、全員頭蓋を砕いた。只の一撃で。春日野の持つ棒は枇杷で出来ている。重く頑丈で、枇杷の木刀で打たれると、三年後には骨が腐ると言われている。並の刀剣なら軽く受け止める代物で現代では作られていない。そんなもので顔を突かれたら、人相の判別も出来なくなる。

 もっとも、春日野は六名の手練れと遭遇していながら、天狗の様な跳躍を只の一度も止めていない。骸になった者には春日野の姿を見ることが出来なかった者もいる。一陣の風が通り過ぎたら絶命していたと言う状況だ。中には太刀を抜き一閃を放った者もいるが、春日野の意識には彼らと対峙した記憶すらない。彼は無念無想で駆けた。技は無意識に出ている。春日野の肉体が対峙の記憶を宿しているが、今、神山を駆ける春日野の精神は肉体を離れ、明鏡止水の状態にある。故に対峙の記憶は後に肉体から引き出して認識したものだ。

 ―――?

 春日野は僅かに跳躍のスピードを緩めた。血の香が薄れている。そして別の無数の血の香が感じられた。

 一瞬、遅れて春日野は耳朶に響く滝の音を認識した。清々しく凛とした冷たさを感じさせる清流の香りが鼻孔を満たす。このために血の香を追う感覚に僅かな狂いが生じたのだ。

 春日野は背を伸ばして立ち、瞑目して感覚を研ぎ澄ます。

 血の臭いは十メートル程下の清流の辺りから漂っていた。

(見誤ったか……)

 清流は崖下にあると言えた。ほぼ垂直の崖は流石に下りる訳にいかない。春日野の体術なら下りられないことはないが、立ち会うには地の利がなさ過ぎる。

 と、強烈な血の臭いが眼下から立ち上った。春日野の嗅覚でも何人分の血潮なのか判別が出来ない。少なくとも一瞬前に五人は切り伏せている。血の湯気が立ち上っている。川辺に現れたのは小柄な黒い人影だった。黒の皮のライダースーツ、黒の皮の手袋、だがブーツはライダー用ではない。工事現場で使われる底に鉄板を仕込んだものだ。身体のラインが若い女性であることを誇示している。

 ―――鳴神あさぎ!

 春日野は息を飲んだ。あさぎは頭から大量の血潮を浴びている。それは湯気を立てていた。あさぎの身体から発散される血の香はもう個々の判別がつかない。ライダースーツも血が染み込んでニカワのように乾いており、動きづらそうだった。

 あさぎは川辺の五メートル手前で立ち止まり瞑目する。気を探っているのだ。あさぎは血糊を洗い流したいらしい。だが、油断は無い。こうして気を探っている。春日野はあさぎの出で立ちに感嘆と驚愕を覚えた。驚愕はあさぎが無手であることにある。得物を落とす様な娘ではない。だとすれば、あさぎは端から無手でこの神山に入ったのだ。相手の得物も知れぬこの野試合では有効な手だ。ただし相当な自分の力量への自信が無いと出来るものではない。そして、あさぎの出で立ちは野試合では実に効率的と言えた。動きの自由度もある。革手袋は血糊に染まっても得物を落とす確立が低くなる。そして鉄板仕込みの工事用ブーツはそれ自体が強力な武器になる。あさぎは野試合への推挙を聞いたその晩に姿を消している。命をやり取りする立ち会いを熟知しているとしか言えない。達人は試合相手の普段の所作を垣間見るだけで、その動きを察する。あさぎは本能からそれを避けたのだ。中学を卒業したばかりの少女に出来ることではない。

 川辺の白砂は月の光を反射して青白く輝いている。当然、あさぎの姿も月明かりに露わになっている。悪鬼羅刹のように血を浴びながら、あさぎの表情には緊張が無い。ほのかに微笑んでいる。春日野はその表情に戦慄を覚えた。殺気も緊張もない自然な少女の愛くるしい表情は、白昼に龍を見るほどの脅威があった。

 あさぎは意を決したらしい。ブーツと手袋を脱ぎ捨て、ライダースーツのチャックを下ろす。ライダースーツの下にあさぎは下着も着けていなかった。

 幼さを残す白い裸体が月光に照らし出される。鍛え抜かれた身体はそれだけで芸術品を思わせた。少女へと変貌したその裸体は神々しくさえあった。清流へ向かう際、あさぎはふっと唇を笑みの形に歪めた。春日野はその笑みに背筋が凍り付いた。果たして清流の側の茂みに長瀬水樹が槍を構え、今まさに襲いかからんと身構えていた。あさぎの異様さに気圧されているのか? 気息が乱れている。あさぎはそれに気づいて笑ったのだ。その上で全裸をさらし、水浴みをしようとしている。得物も無い状態で、一糸纏わぬ芸術品のような姿を敢えて晒している。

 春日野は喉が渇き、痛みすら覚えた。それでも心中で叫んでいた。

(長瀬! 退け! 読まれている。殺されるぞ!)

 一糸纏わず水浴みをする少女に、長槍を手にした鬼神の様な遣い手が敗北する道理は皆無だ。だが、春日野の本能が長瀬の凄絶な死を知らしめている。

 清流の中央であさぎが背を向け、髪にこびりついた血潮を洗い流し、その水気を払った瞬間、長瀬が跳躍した。

『縮地』

 武道の奥義。一瞬で間合いを詰める神業を長瀬は使った。その槍の速度、音速と言っても過言ではない。あさぎの背中から心臓を射貫く一撃は春日野にも殆ど見えなかった。だから、長瀬の動きが止まった時の光景は悪夢と言えた。

 長瀬は清流に顔を突っ込み土下座するような姿勢で止まっている。その真横に微笑んだあさぎが立っている。水に濡れた恥毛が月光に輝いていたのが印象的だった。

 あさぎは自然体で立ち、長瀬を見つめている。両手はだらんと下げている。しかし、長瀬は肩胛骨と肩胛骨の間から槍の柄を生やしていた。穂先は口中から出て、深く水底に刺さっている。長瀬の口から大量の血が噴出し、身体があり得ない痙攣に蠢いていた。

 鳴神あさぎは何の感情も無いガラス玉のような目で長瀬水樹が事切れるのを見つめていた。長瀬水樹だったものが只の肉塊となった時、あさぎは月を仰ぎ見た。まるで魂が天へ帰るのを見送るような動きであった。

(―――ヤバイ!)

 春日野は思わず鳴神あさぎの視線より逃げて、大木の後ろに隠れる。今、気づかれたら殺られる。本能的にそう思ったのだ。気息を殺しピクリとも動かなくなる。

 暫しの間の後、崖下の清流からは、あさぎが水浴びをする音が響き始めた。

(何と言う娘か……)

 春日野はそう思わざるを得ない。あさぎは自ら殺めた骸の横で平然と水浴びを再開したのだ。春日野でも骸の側に長居したいと思わない。骸に対し畏怖と嫌悪を抱くのは人間として当たり前の性である。あさぎにはその感性が無い。月光の下、自ら殺した骸の側に全裸で立ち、水浴びをする少女。春日野は頭に浮かんだその光景に戦慄した。どんな地獄絵図なのだと歯軋りする。あさぎは衣服も洗い、ゆったりとした歩みで川辺から消えた。あさぎの気配が完全に失せても、しばらくは春日野は動かなかった。半時程して、漸く崖下を覗く。槍に貫かれた長瀬水樹の骸が蒼い月光に照らされている。あさぎは槍を持ち去らなかった。無手のまま立ち去った。読めない。まるで底が読めない。白鴎神社の野試合に参加するような者は人の域を超えた猛者ばかりだ。そこに絶対の強者はいない……筈であった。春日野のような一度勝者として名を馳せた者は普通二度と参加しない。それこそ宝くじに当たるような幸運で生き残った命である。無駄に捨てる馬鹿はいない。

 が、鳴神あさぎは違う。あさぎは生死など微塵も気にしていない。絶対的強者と言う自覚は無いだろうが、負けるという考えがない。いや、こうやって人の器で鳴神あさぎを考えれば、自ずとあさぎに飲まれる。あれは人外の化生だ。無念無想で対峙し、これまでの修練が自然に発動するに任せる。それしか手は無い。春日野は漸く立ち上がり、真っ直ぐに社に向かった。


 境内へ通じる石畳の階段の最上段に春日野は座った。試合放棄と言われても仕方が無い態度だったが、背に腹は変えれない。払暁は真っ直ぐに石畳の階段から現れた。石畳の階段は白く輝きまるで陽へ至る道に見える。朝の鳥の囀りが耳に痛い。と、唐突に鳥の囀りが止んだかと思うと、一成に空へと飛び去った。空が黒く染まる。が、春日野は微動だにしない。真下に視線をやり、すっと肩に添えた棒を軽く握った。

 鳥たちの羽音が遠くに消える。すると最初からそこに居たかのように、五メートル下の石畳の階段に自然体で立つ小さな黒い人影がぽつねんと在った。それは春日野が見えていないかのように、ゆっくり階段を上って来る。三メートル程手前でそれは立ち止まり、顔を上げた。ひまわりの花を思わす笑顔を浮かべていた。

「あら? 春日野のおじさまではありませんか? お久しぶりです」

 ぺこりとお辞儀をする。

「ああ。久しい。久しぶりだね。良く私だと分かったものだ。面変わりしたのだがな」

「あら? 貴方は昔のままですよ?」

 あさぎは少女の声で笑う。だが、幼い少女の身体のラインをはっきりと示すライダースーツは真新しい血の臭いを漂わせていた。

「昔から進歩が無いと言われた気がするね」

 血臭を無視して春日野は苦笑いする。あさぎはそれには答えず、ただニコニコと微笑んでいる。先程から身体は微動だにしていない。ただ自然に立っている。気負いも警戒も無い隙だらけの姿勢。それ故に打ち込めない。自然体だからどのような攻撃にも対応出来る。たとえ銃で撃っても弾丸すら避けるだろう。

「立ち話もなんだ。ここに座りなさい」

 春日野は微笑んで自分の横の石を叩く。あさぎは一瞬、目を丸くする。そして、クスクスと笑うと楽しげな少女の足取りで階段を登り、ちょこんと春日野の横に座ると無邪気で朗らかな笑顔で春日野を見上げる。その健やかな自然と香り立つ少女の色香に春日野は僅かにたじろいだ。あさぎには殺気のかけらも無い。側に座られると、ライダースーツが鮮血を吸っていることが分かるのに、僅か一瞬前には人を殺めていたと言うのに、そんなことは些事とすら思っていないのだろうか? あさぎは旧知との再会を喜ぶ少女以外の何者でも無い顔で笑みを含んだ視線で春日野を真っ直ぐ見つめる。

 その視線が面映ゆく、春日野は尋ねる。

「どうした? わたしの顔に何かついているのかい?」

 すると、あさぎはクスクスと笑った。

「ごめんなさい。春日野さんも変わったんだなと思い直しました」

「―――どう変わったのかな?」

 あさぎの答えに期待を込めて尋ねる。あさぎはじっと春日野を見つめた。

「ロリコンになりました」

 そう答えると、あさぎはケラケラと笑い足をばたつかせる。それは酷いと春日野は抗議した。

「だって、思春期の娘を良いお歳なのに、真横に座らせるなんてロリコンじゃないと出来ませんよ」

 それに乗るわたしもわたしですけれど、あさぎはそう答えて笑いを噛み殺す。それでも身体が笑いに小刻みに震えている。

 これはこれで、あさぎに飲まれているのかもしれないと春日野は思い単刀直入に訊いた。

「何人殺したんだ?」

 あさぎは目を丸くして笑いを飲み込み春日野を見つめる。そして拗ねたようにそっぽを向く。

「嫌な人。折角、楽しいお話をしていたのに。そう無粋だと女性にもてませんよ」

 こまっしゃくれた事を言う。春日野は苦笑するしかない。確かにここ五年は女性とまともに話もしていないと素直に答えるとあさぎは又、笑う。だが、春日野は食らいつく。

「―――で、何人殺したんだ?」

 あさぎは今度は無表情になり瞑目する。その横顔を良く見ると睫毛が長くカールしている。肌も白く、思った以上に整った顔立ちをしている。五年もすれば人目を引く美女になると春日野は思った。

 しばし無言で瞑目していたあさぎだったが、ふっと目を開け遠くを見る目つきで答えた。

「一人も殺していないわね。自ら屠った記憶は無いもの……。死体はいっぱい見たけれど、あれは自分から死んだ人たちだもの」

 それが、あさぎの正直な答であることは春日野には分かった。そして屠らねばならないと決意した。神であれ、悪魔であれ、人でない者は人の世に居てはならない。

「―――そうかい。君も変わったね。柳生の免許皆伝は伊達じゃないんだ。なにより、見違えるほどに綺麗になった」

 惚れるよ―――そう春日野が囁くと「やだー」とあさぎは嬌声を上げ、朱に染まった頬を抑えて、足をばたつかせる。その瞬間、春日野はあさぎのこめかみに渾身の突きを放っていた。あさぎは嬌声を上げたままだ。だが、身体が背から仰け反る様に傾く、春日野は背筋が凍り付いた。これだけの近距離で突きを外されたのだ。勢い棒は虚空へ伸び、春日野はあさぎに組かかる姿勢になる。あさぎはひょいと右手の平で棒を押す。軌道が外にずれて春日野は階段を踏み外しそうになる。ほぼ同時にあさぎは左手の平を逆手にして棒の先端を握る。それだけの動作がほぼ一瞬。てこの原理で春日野身体は自らの力で宙に浮く。

(落ちる!)

 そう思った時には春日野の手に棒は無かった。あっと春日野は口を開けた。力を使うことなく棒を奪ったあさぎが、その棒を振りかざして跳躍していた。春日野を見据える眼に感情は一切無い。底なしの暗闇の様な眼はサメのようだ。春日野は後頭部から落下した。その直後、開いた口蓋に棒が突き刺さる不快感。その感覚を最後に春日野の意識は闇に落ちた。口から入った棒が後頭部を突き破ると言うおぞましい姿になった春日野を、あさぎはまだ棒を突き刺した姿勢のまま見据えていた。断末魔の痙攣が始まると、棒を離し、振り返りもせず境内へと登る。白く整った顔には何の感慨も伺えなかった。境内では宮司を先頭に神社の関係者が、恭しく土下座してあさぎを迎えた。


 翌朝、あさぎは払暁前に自宅のベッドで目覚めた。日課のランニングを済ませると、朝餉の支度に入った。台所の気配に起きてきた八千代は驚愕の声を上げた。

「あさぎ! 貴女いつ帰って来たの?」

「うん? 昨夜遅く。ただいま。お母さん」

「ただいまって……、貴女、怪我は無いの?」

「無い。無い。お母さん。身体触らないで。支度が出来ない」

 そこに寝間着姿の威三郎が駆け込んで来る。

「あさぎ! 無事か?」

「もう、なによ? 二人とも? 紛争地へ行った傭兵じゃないんだから。ただの神社参りだから。無事に決まっているでしょう?」

 いや、紛争地へ行くより遙かに危険だろうと威三郎は思ったが、あれの参加者は堅く口を閉ざすものだ。威三郎は質問を変えた。

「春日野君には会えたかい?」

 あさぎはその質問にエプロン姿で首を傾げた。

「春日野? 誰? その人。そんな人、もう居ないよ」

 その答えに威三郎は慄然とした。足下に地獄の蓋が開いた様な恐怖に打ち震えた。

五之書 静謐


 ―――八年か……。

 朝餉の支度をするあさぎの姿を見ながら八千代は感慨にふける。あさぎの帰宅からの八年間、それはまさに栄光への道のりそのものだった。あさぎの後ろ姿を眺めていると自然に『栄光への架け橋』と言うポピュラーソングを八千代はハミングしていた。

 桜花女子大学付属高校へ進学したあさぎは、入学受付のその日に剣道部顧問の教師と校長・教頭に待ち受けられていた。柳生からの声がかかっていたのである。日本剣道連盟の段位は持っていないあさぎであったが、最年少、しかも女子の身で柳生の免許皆伝を得ていることが伝わっていた。平身低頭で剣道部への入部を依頼する教師達にあさぎは明るい笑顔を返し、頭を下げて了承した。

 上級生の剣道部員はとてつもない大型新人の入部を知らされていた。が、校長らがいそいそと連れてきた少女は小柄で大きな目の愛くるしい美少女で、声も透き通ったものだった。剣で鍛えた者独特の声ではない。彼女らに軽愚の色が見えたのも止む得ない。朗らかな笑みで「これからよろしくお願いします」と頭を下げたあさぎだが、その軽愚を見抜かぬ筈もない。道場を後にしたあさぎは入部条件に部員全員との総掛かり試合を希望した。桜花女子大学付属高校剣道部は創立以来七十年の歴史があり、華族や士族の腕に覚えのある娘達が凌ぎを削った所から始まっている。創立当初より全国レベルの水準の高さで名を馳せ、未だ地に墜ちていない。今は日本全国から推薦枠で入部する部員が半数。部員総数は七十名余り。盆・正月も休むことなく苛烈な稽古を続ける。新入部員の殆どは夏には血の小便を出して昏倒するような所だ。それを乗り切った七十名余と総当たりと言うのはらち外である。が、顧問は受けた。柳生の免許皆伝がそのらち外を遙かに凌ぐものであると心得ていた。が、いざ試合が始まると、その顧問ですら顔色を無くした。あさぎの剣筋は竹刀剣道とはまるで違った。正に叩き斬ると言う言葉が相応しい壮絶な打撃をする。古流にありがちな太刀筋だが、普通は竹刀剣道の迅速な業の前には田舎臭いもので、試合ではものにならない。が、あさぎの太刀は洗練されていた。なにより大振りであるに関わらず、竹刀剣道の技並みに早い。あさぎの打突は面、小手、突きに限られていたが、殆どの部員が一撃を受けると立てなくなった。面や突きを喰らうと気絶する。小手を取られると竹刀が握れなくなる。なにより不気味なのは竹刀が擦れ合う音すらしないのだ。あさぎは試合開始と同時に中段の構えの見本のような姿で音もなく間合いを詰める。それだけで異様な恐怖に殆どの部員が飛ぶように引く。叱咤の声に、前に出ようとする。その瞬間に技を取られているのだ。

 日本剣道連盟の下で行われる竹刀剣道は北進一刀流に極めて近い。互いに剣先を小刻みに動かし、剣を摺り合わせながら打ち合う。初撃で一本決まる事は少ないから、鍔迫り合いとなり、互いに気息を計りながら離れる時も技を出し合う。手数が非常に多くなる。だが、その技の早さは一般人の動体視力を遙かに超える。大技である遠間からの面の一撃が0.3秒(成人男子)である。技の応酬ともなれば、互いに勢いよくすれ違ったとしか見えない。が、剣の達人とも言える審判員は、一般人には同時の打突にしか見えない技の優劣を見極める。0.1秒あるかないかの技の差を正確に捉える。超スローカメラでも差が分からない世界だ。

 あさぎの剣は竹刀剣道の常識を凌駕していた。竹刀剣道の癖で剣先を摺り合わせようとした時には、僅かな切っ先のズレに生じる間を、それこそ目にも止まらぬ速度で飛び込み切り倒す。相手はあさぎがいきなり消えたように感じる。感じた時には意識を持って行かれるような衝撃に見舞われる。

 僅か七、八分の間に部員の七割が一撃で昏倒すると言う異様な光景に意識のある者は戦慄と恐怖を覚えた。しかし残る部員は全校代表の座を争う猛者だ。あさぎに普通の剣で対応出来ぬことを悟り、スタイルを変えて来た。大抵は大柄でそこらの男よりも筋力がある強者だ。ある者は上段で圧倒しようと試み、ある者は最初から突き一本に賭けているのが分かる構えであさぎに望んだ。結果、強い者ほど悲惨な結末を迎えた。雷撃のごとき突きで望んだ主将は突き返し突きと言う、伝説の技で喉を破られ、道場の羽目板に突き飛ばされた。突きのクロスカウンターだと思って貰えば良い。彼女は大喀血して一ヶ月の入院を余儀なくされた。他のレギュラーメンバーも同様である。防具を着けた竹刀の撃ち合いで、手首にヒビを入れられるとは普通思わない。上段からの面を飛翔してかわし、脳天に金属棒を打ち込めれるような衝撃で、痙攣して意識を失う者もいた。試合開始から僅か十五分後には、自力で立てる部員は居らず、校内に救急車のサイレンが轟く事態となり学校関係者はおののいた。

 あさぎはショックのあまり立ち尽くす顧問に言った。にこやかに笑っていた。

「先生。心配しないで下さい。本気出すのはもうしません。普通の竹刀剣道も出来ますから」

 その年の王竜旗大会には、あさぎは自ら望んで先鋒で出た。王竜旗大会史上初の四十人抜きで、桜花高校を優勝に導いた。何のことは無い。あさぎ一人が戦い、自校の次鋒以下に順番を渡さなかったのだ。オール一本勝ち。竹刀の打ち合う音は無く、あさぎの化鳥のような掛け声と、その激しい打突の音のみがすると言う異様な試合だった。極一部の剣道関係者の間では、すでに恐れを持って知られていた『鳴神あさぎ』の名は畏怖の代名詞の様に全国に知れた。剣道関係の雑誌は一面トップで、全国新聞もスポーツ欄に写真入りで報じた。一見アイドルのような愛くるしいあさぎの笑顔が売れると思ったのだろう。その時、あさぎを大々的に報じた『剣道日本』と言う雑誌は半年後には数十万年の高値でオークションで落札された。インターハイ女子剣道優勝。全日本女子剣道大会優勝。高校一年生で剣道界にデビューしたあさぎは段位を持っていなかったこともあり、メディアからの注目が集まった。試合中の凄まじさとはかけ離れた、面を取った時の華やかな笑顔は全国規模で映像が流れると同時に、剣道を志す幼い少女を虜にし、剣道などまるで知らない軟弱な少年・青年達の心も奪った。彼らは剣を知らぬが故に『音無しの剣』『無敵の美少女剣士』と言うマスコミの煽り文句に釣られて心を奪われた。その成人男子にも見られない凄まじい突きは彼らの間で『牙突』と呼ばれ、鳴神の家の前には常にカメラを持つオタクな人々が集まり、威三郎が怒号を持って追い払う日々になった。

 皮肉なことだが、こういうことを最も嫌う妹の遙日も彼らオタクの目に止まり、話題になった。それこそ息を飲む様な美少女である。人を近づかせない独特のオーラは逆に畏敬を呼び、オタクの世界では『妹君』『姫神』と言えば遙日を指す代名詞となった。

 鳴神道場にはひっきりなしに入門希望者が押し寄せ、また、あさぎの凄まじさを知った古武道の達人も立ち会いを申し入れるようになった。半ばノイローゼになりかけた鳴神夫妻であったが、それは一年もせず解決された。皮肉なことに原因となったあさぎの人脈が物を言ったのだ。あさぎは柳生で高貴な来客があれば必ず接待をしていた。茶席では主人として振る舞い、その見事さは著名で、相当な愛顧を受けていたのだ。この国で貴人と呼ばれる人々はその気になれば、大臣の首を変えることすら造作もない。鳴神家は制服警官ではない公安関係者が二十四時間監視に付き、カメラを持つようなオタクは有無を言わさず一晩臭い飯を食う羽目になった。根性は無くても情報伝達は異様に早いオタク達はあっと言う間に見かけなくなった。また、あさぎと遙日の登下校もどこからともなく現れる黒い高級国産車が請け負った。運転手はいつも同じだが、登校の経路は順次変えていた。

 道場の入門は審査制にするこで凌いだが、問題は月に一人は現れるあさぎとの立ち会いを所望する輩であった。これは、あさぎが解決した。彼らにあさぎはまず、柳生へ行くよう申しつけた。柳生が立ち会うべしと言えば、柳生で試合うとしたのである。柳生からそのような連絡が来たことはこの八年間ついぞない。天下の柳生は伊達ではなかった。

 威三郎は何も言わなかったが、あさぎが柳生でも御しかねた化生である事がさらに重く威三郎をおののかせたのだった。

 爾来、威三郎はあさぎの目をまともに見れない状態に陥るのだが、八千代にはそう言うことは分からない。あさぎが公式、非公式を問わず、只の一本も与えず常勝を誇り続けていることを誇りにしている。非公式の試合では全日本を三度征した警視庁の誇りと呼ばれた男ですら、突きの一撃で病院送りにしている。ただ、この試合でのあさぎの突きは沖田総司にしか出来ないと言われた三段突きで、敗れた男が逆に賞賛されたと聞いている。八千代も剣を嗜んだ身であるが、三段突きなど想像すら出来ない。ただ、そんな神業を引き出せると言うのは確かに賛辞に値するのだろうとは思う。

 あさぎは常勝のまま、難関とされる地元の国立大学へ進み、心理学を専攻して教員免許を修得した。無論、大学でも剣道部に在籍しながら学問に励み、優秀な成績を収め、ゼミの教授からは大学院へ進むよう言われたのを断って教員の道を選んだ。あさぎが教員免許を取った時には、どこで聞きつけたのか、日本全国の剣道の強豪校から誘いが殺到したが、あさぎは家を出たくないと言い張り、地元の文武両道で有名な高校への就職を決めている。本来の教員の給与とは別に剣道部顧問の報酬も提示されたが、それは本給を大きく上回り、流石のあさぎも戸惑いを隠せなかった。それは年頃の娘らしい愛くるしい戸惑いで、八千代は思わず抱きしめたくなる衝動を必死に抑えたものだった。

 思えば、家を出たくないと言うあさぎの意志は、幼少期に家を追われた反動かもしれなかった。そう思うと八千代はあさぎがずっとこの家に居れば良いのにと思ってしまう。高校教師に収まった鳴神あさぎを惜しむ声は多く聞いている。あさぎは今や日本剣道連盟の看板そのもので、日本はおろか外国にもその名は知られる。高貴な名門の家中に呼ばれ、剣技や茶道の腕を振るうことも少なくない。あさぎは謝礼を頑として受け付けないので、お礼の品として届けられる物は目を見張るものがある。その一つを売るだけで、生涯喰うに困らないような品だ。流石に今は慣れたが、最初の頃は迂闊に触ることすら恐ろしかった自分を思い出し八千代はクスリ笑う。そう言う娘だ。婿養子を取ることに無理があるとは思わない。残念ながら、あさぎを神の様に崇拝する男は多数いるが、対等な関係を結ぼうと言う者はいない。それは、高校・大学時代のあさぎの友人も同様で、皆、敬称であさぎを呼び半ば畏怖すら感じさせる。その意味ではあさぎは今も孤独なのかもしれない。

 孤独と言えば、あさぎの神業とも言える三段突きが実戦で披露されたのはこの時限りである。

 あさぎの三段突きを受けた相手はそれを境に公式戦から身を引いた。

『孤独の女王』

 何とも寂しげな呼称があさぎに定着したのは、この試合以降である。同時にあさぎも滅多に試合に応じなくなった。武を誇る神社の奉納試合や、名家の招きで形や居合い斬りを披露することが増えた。

 白鴎神社からは三回招きに応じ、その三回目に『天下無双』と刻まれた文字通り純金製の金看板を授けられ、以後の参加を固辞された。武道の水脈が枯渇すると各流派からの進言があったと言う。あさぎは「重い」と言う理由でその看板を受け取らず帰った。

 あさぎが出る公式試合は日本大会のみになったが、その剣風は一変した。それまで、あさぎの出る試合には救急車が待機したものだが、その必要がなくなった。あさぎの持ち味であった閃光のような打突が消えた。常人並みになった。それでも打突の激しさは凄まじかったが、今までのように一撃で相手が立てなくなることは無くなった。鳴神あさぎは漸く手加減を覚えたのだ。しかし、明かな手加減で試合に臨んでもなお無敵。未だ、鳴神あさぎから一本取る者はいない。それ故の呼称であった。面を外している時は常に在ったひまわりのような笑顔は道場から消えた。あさぎは後身の育成に心血を注ぐようになったが、その稽古は苛烈を極めた。それでも、あさぎに憧れる剣士は後を絶たず、稽古で気を失っても「参った」の一言を言う者はいなかった。

 柳生流は実戦剣道の中でも洗練されたものである。それでも試合では弱かったのだが、鳴神あさぎは実戦剣道こそ極めれば竹刀剣道が及ばぬ事を立証した。これは日本剣道連盟にも大きな波紋を与え、早さだけの重みの無い打突では一本と見なさなくなった。が、それも鳴神あさぎが全国大会に義理で出るように変わってからの話だ。それでも前人未踏の八連覇である。噂でしかないが、八千代はあさぎが全日本剣道連盟の幹部を前に引退を懇願したと聞いている。あさぎは無念だろうと思う。残念だろうと思う。こんな形で剣の世界に孤独を感じた者は古今問わずいないと言えた。

 残念と言えば、遙日である。

 遙日は中学の頃からその美貌で町内に知れ渡る程だったが、年頃になるにつれ、八千代ですらおののきを覚える女神のような美貌を持つに至った。姉のあさぎとは会話を普通に交わしているようだが、両親とは徐々に口を利かなくなった。加えて、高校生の頃から放浪癖が出た。女子高生の不良の放浪癖とは趣が違う。八千代には良く分からない山深くの霊地などへふらりと出かけ、一夜明けて帰る様な奇癖が出た。叱るよう威三郎に願ったが、威三郎は遙日には異様に甘い。一応、どこへ行ったか尋ねはするが、そこにどんな神がおわすかを聞いただけで喜色を浮かべて「良く帰った」などと言うのである。あさぎには真逆で、娘らしく良く喋るあさぎには生返事しかしない。あさぎが家の道場に出る日は道場にも行かず書斎でごろごろしている始末である。

 あさぎは剣さえ握らなければ、明るい普通の娘だが、なまじ不敗伝説を打ち立てたばかりの孤独がある。それは本人が望んだものではないだろう。遙日はその人離れした美貌で崇拝に近い対応を受けている。美しくなればなるほど口数が減り、神秘性を帯びて同性の友人も声を賭け辛い。一人、深山に入るような奇行は増えていった。まるで自ら孤独を選んでいるようだと八千代は思う。威三郎が遙日ばかりを構うからか? 八千代は正直、あさぎの方が可愛い。少なくともあさぎが言わねば、遙日は台所に近づきもしないのだ。

 八千代にすれば、女としての魅力はあさぎにあると思う。確かに美貌は遙日が上だが、それは人の域を離れてしまっている。あさぎは高校生の頃は剣道界のアイドル扱いされた程に愛くるしかった。成人してからは落ち着きが加わり、一本筋が通った美人になったと八千代は思っている。少なくとも若い時の自分など足下にも及ばない。

 が、およそ愛想と言うものを無くした遙日には男が出来た。あさぎには男の気配すら無いと言うのに。

 随分、年上の男であったが渋く落ち着いた男前で、新進の日本画家であると言う。遙日と付き合うに当たり、威三郎と八千代に挨拶に来る辺りは好感が持てた。が、指定の日時は姉のあさぎが全日本大会へ赴いている日であった。八千代は女の勘で、遙日があさぎを避けたものと思った。威三郎は文句こそ言わなかったが始終不機嫌で、遙かに若い男と比べても大人気ない態度に終始した。

 今、遙日はその日本画家の家に泊まり込みである。個展の準備を手伝っている。その旨は事前に遙日が両親に説明した上での話だから咎めるに能わない。が、遙日が決めたことを覆すことは八千代は勿論、威三郎にも出来ないことを遙日は承知している。

 ずるい。

 遙日のことを八千代はそう思う。その所為もあってか、朝餉の支度に励むあさぎの背中が輝いて見える。すると、ひまわりの様な笑顔であさぎが振り返った。

「出来たよ。母さん」

 いつもの合図で、八千代はあさぎと共に配膳を済ませて、書斎に籠もる威三郎を呼びに行く。

 朝餉の間、居間のTVを点けて眺めながら食事をするようにあさぎは変わった。柳生から帰ったばかりの頃は、食事中にTVを点けたりはしなかったが、ここ最近随分とくだけた様子だ。TVのニュースを話題にたわいも無い話をしてはコロコロと笑う。八千代も釣られて笑うが、遙日がいないと威三郎は仏頂面を隠しもしない。あさぎが話しかけても生返事である。 あさぎは健啖家だ。食事の量は多い。まぁ、運動量と仕事内容を考えれば、あれぐらい食べないと倒れるだろう。激務だと言うのに、未だに陽の出前に起きて走り込みは欠かさない。その体力と精神力は凄いものだとあさぎは思う。

 両親より早く食事を済ませると、あさぎは手を会わせると自分の食器を流しに運ぶ。昔は洗い物まであさぎがしていたが、大学生になってからは八千代が言い出して、遙日と共に洗い物をするようになった。まぁ、その遙日は今は居ない訳だが。

 あさぎは伸びをしながら、のんびりと階段を上ろうとする。ふと違和感を八千代は覚えた。いつもはもう少し、きびきびと動く娘だ。

「あさぎ、今日はお仕事は?」

「ああ。創立記念日だから休みだよ。久々にのんびり出来るわ」

 そう答えてひらひらと手を振るとあさぎは自室に戻った。

 休みだから遊ぶと言う発想もお誘いもあさぎには無いらしい。

 まぁ、休みの日にはどこかの名家からの迎えの車がやってくるような娘だ。およそプライベートの時間は無い。住む世界も感覚も違うのだろうと八千代は思う。

 そう言えば―――と八千代は思い出す。遙日が天野と言う男を連れてきた翌日。当然のように全日本を征して帰って来たあさぎに、八千代は秘め事を話すような仕草で遙日の一件をあさぎに告げたのだ。

「へぇ。はるちゃん。やるじゃん」

 あさぎは素直に祝福らしき言葉を言った。

 あさぎは顔がとにかく広い。驚く程に広い。だから八千代は尋ねた。

「天野忠臣って言う日本画家の人だけど知っている?」

 荷物も玄関口に置いて、あさぎはあごに指を当てて宙を見る。

「天野……天野忠臣……ああ! 成る程。あの男ならはるちゃんから惚れ込むわ」

「会ったことがあるの?」

「すれ違ったことはあるかも? でも、絵は知っているよ。ああ言う絵は普通は描けないわね。天才とは言わないけど、奇才よ。一部の好事家ではもてはやされつつあるわ。はるちゃんとはお似合いだよ」

「ちゃんとした人なのかねぇ。画家なんて食べていけるのかしら?」

「絵を見る限り、筋を通す人だと思うわよ。食べる心配はないんじゃないかな? 一流で名が残るかもって聞いたから。少し病弱と聞いたけど、そう言う所もはるちゃんの保護欲を駆り立てるんじゃない?」

 あさぎはそう言うと、あははと笑い、威三郎へ優勝の報告へ行ったのだった。

 なぜ、そんなことを思い出したのかと思っていると、威三郎が箸を置き、八千代を見ていた。

「あ、お茶ですか?」と尋ねると、威三郎は顎で頷く。旧態然とした男だなと思いながら、八千代は茶を注いでやる。威三郎は茶で喉を潤すと、珍しく言いよどんだ口調で言った。

「八千代。後であさぎに、遙日の様子を見てくるよう言ってくれ。一度、帰れとも伝えてくれ」

 そう言うと、威三郎は仏頂面のまま、八千代を見ずに箸を動かせた。

(―――呆れた)

 八千代はそう思う。

 あさぎは今の今まで目の前にいたのだ。自分で言えば良いのにと八千代は思う。まぁ、県警の師範代もあさぎに奪われそうだと言う。日本剣道界の女神のように崇められるあさぎには、威三郎としては古い剣道家としての沽券があるのだろう。素直に祝うには威三郎の過去の名誉が邪魔をする。夫に哀れを覚えると同時に老いを見た気が八千代はした。

 しかし、折角の休みに他県まであさぎに行かせるのはどうかと思う。無論、あさぎは頼めば拒まない。そこは遙日と対照的だ。そして遙日はあさぎにだけは逆らえないのだ。その遙日を連れ戻して来いとあさぎに言うのは、あまりにあさぎを軽んじている。あさぎが哀れだと八千代は思う。威三郎も承知してなお、言わずにいれないので八千代に言を預けたのだろう。八千代は深いため息をついた。

 威三郎は無言で朝餉を食べ終わると、おざなりに手を会わせ、無言で書斎に戻る。食器は置いたままだ。普段は何とも思わないが、流石に今日は、食器くらい片付けろと八千代は思った。

 食器を洗い終えた八千代は重い気持ちで、あさぎの部屋に向かうべく階段を上りかけて、ぞっとする思いで足を止めた。階段の上に巨大な龍が居て、それが八千代を睨んだ感じがしたのだ。

 無論、龍など居ない。

 往年の勘が八千代に戻っていた。龍はいない。が、まるで階上が氷室であるかのように、身が縮み、動きが止まるような冷気が階上から下りて来ている。何度か全日本大会に出た八千代にはそれが分かる。剣気だ。超一流の達人がそれを放つ。闘気でも怒気でもない。自身その者が抜き身の日本刀の一部になるまで鍛え上げた者のみが放つ気が剣気だ。相手を据え物にして只斬る。それは無念無想とは違う独自の境地である。無機質で、その気に前では自ら刃の下に首を差し出しかねない気だ。故宮崎春雪はその気を放てた。八千代も宮崎春雪以外にはその気を放つ人物を知らない。そして春雪とて、常に剣気を纏っていなかった。が、この圧倒的な質量の剣気は何だ? 八千代は震え上がる。同じ剣気でも宮崎春雪が放つ物とは桁違いである。もう一段階段を上がれば、その澄んだ巨大な氷塊のごとき剣気に包まれる。そうなれば、自分は息も出来ずに卒倒するだろうと八千代は思った。

 今、上にいるのは愛娘のあさぎだけだ。

(これが、あさぎ?)

 息を飲む驚きで八千代は思う。その気は強大で剣気を超えて神気に近い。道理で無敵だ。人で相手が出来る筈も無い。

 が、何にせよ、これでは上に上がれない。試しに八千代は娘の名を呼んでみた。と、巨大な氷塊のような気がすうと潮が引くように消えた。

「なに? 母さん?」

 明るい娘の声が帰って来る。やはり、あさぎなのかと八千代は愕然とした。

「今、いいかしら? なにかしてるの?」

「うん? いいよ。別に」

 階下から呼びかける母に不思議そうな声であさぎは答える。

 八千代は恐る恐る階段を上がった。ちなみに、あさぎが帰ってからは鳴神家は収入が鰻登りで数年前に大きな武家屋敷のような家に建て直している。あさぎの部屋は南東の端で十二畳の畳部屋である。その部屋の前で八千代は息を飲んだ。先程の様に触れれば死ぬような剣気は無い。それでも入るのを躊躇う剣気は漏れている。あさぎの部屋から。

「入って良いかしら?」恐ろしくて声をかけずにいられない。

「娘に何、遠慮してんのよぉー」

 くだけた娘の声が答える。が、剣気は消えない。

 ままよと襖を開けた八千代は「―――ひっ!」と声にならぬ悲鳴を上げて腰を抜かした。

 あさぎはスェットスーツであぐらを組んで、八千代に背を向けている。つまり窓に向かってあぐらを組み、無造作に抜いた菊一文字を左手で掲げ、その刃紋を陽光に翳して見ていたのだ。が、八千代には部屋に入った瞬間、その切っ先が喉元に伸びた様に思えたのだ。

「あれ? ごめん。驚かした?」

 てへへと笑い、あさぎは刀身を鞘に収めた。八千代は心底ほっとした。漸く口がきけるようになった。

「で、なあに? 母さん?」

 あさぎは剣を手前に置くと、胡座の姿勢は崩さず、上半身のスクラッチをしながら尋ねる。八千代は口籠もりながら言った。

「あの、あさぎ。折角の休みに悪いのだけどね―――」

 威三郎の言を告げると、あさぎは嘆息して言う。

「はるちゃんだって、遊びに行っているんじゃないのに……。父さんも歳なのね。行くわ。私も天野さんには会いたいからね」

 ―――でも。

 あさぎは言葉を繋ぐ。

「天野さんが困るようなら、連れ帰るのは無理よ。もう、嫁に出した様なものなのだから……」

「そんな話は認めてないわ」

 八千代が憮然と答えると、あさぎは苦笑して頭を掻く。

「母さん、高校卒業した者同士が一緒になると言えば、反対なんか出来ないわよ。ああ、わたしも男欲しいな~」

 くだけた口調で本音を漏らしたあさぎに、八千代は何とも言い難い気持ちになる。男が出来れば、あさぎも家を出る気なのかと思うとやり切れない。

 あさぎは手前に置いた菊一文字をぽんと叩く。

「この刀の手入れしたら出かけるわ。彩宮の和菓子で良いよね? お土産?」

「あんな高級店―――大体、あそこは予約した分しか作らないお店でしょう?」

「表向きはね。わたしの顔なら、お土産程度揃えてくれるわ。それにね母さん、日本画の世界はどんな大物が来るのか分からないのよ。何時でも一流品でお持てなし出来ないと大成しないのよ」

 それは分かる。身に浸みて知っている。希にあさぎに来客が鳴神の家に来ることがあるが、尋常な身分の方では無い。あさぎは振り袖で出迎え、茶を点ててもてなすが、茶道具は昔の公家が柳生家に献上した代物で、博物館クラスである。茶碗も一個で豪邸が建つ様な代物をあさぎは平然と使うし、相手も価値を理解し褒めるが、平然と使う様な人物だ。 柳生が何故、あさぎにこう言う品を譲ったのかは、あさぎの将来を見越していたからだろう。故にあさぎに来客がある時は威三郎も八千代も生きた心地がしない。遙日は身分や年功序列を気にかける娘では無い。乞われて同席しても対等に振る舞う。そう言う遙日の態度に毎度肝を冷やす八千代と威三郎だが、なぜか遙日の振る舞いはそう言う貴人には高く評価され、愛されるのだから世の中は分からない。

「すまないけれど、お願いするわね」

 八千代はあさぎの背中にお辞儀して立とうとする。あさぎは黙って頷き、又、菊一文字を抜いた。八千代はそれにビクリと身体を強ばらせる。退室しようとした所に、何気ない口調で刀を見つめたあさぎが言う。

「ああ、母さん―――」

「な、なに?」

 八千代は身構えてしまった。その気配にあさぎが苦笑するのが分かる。

「わたしはさ。この家の娘だよ。それ以上でも以下でもない。だから、母さん―――」

 八千代は息を飲む。

「せめて母さんだけは娘として見てね。でないと―――」

 その先の言葉はあさぎは飲み込み言わなかった。八千代はあさぎの抱える孤独のあまりの大きさを見た気がした。だから、背筋を伸ばし、凜と言い放った。

「馬鹿言うんじゃない。貴女は生まれる前からわたしの娘よ。だから―――」

 そこで八千代は茶目っ気を出せた。

「男が出来ても簡単に手放さないわよ。覚悟しない」

 あさぎはカラカラと笑った。

「そいつは参った。早く相手を見つけないとね。親子喧嘩も出来ないや」

 八千代も笑うと「そうよ。早くしなさいよ」と答え、部屋を出た。あさぎは遂に振り返らなかった。

 階段を下りながら、八千代はかって自分があさぎがひまわりの様だと自慢したのを思い出した。それを遙日が否定した。あさぎは花に喩えるなら曼珠沙華なのだと言ったのを思い返した。

 遙日の真意は分からない。だが、今のあさぎは確かに曼珠沙華かもしれないと八千代は思った。その美しい鮮烈な朱色の花は人をして魅了せずにはいられない。しかし、近づき愛でたり折るような真似が出来ない。この世に在りながら、異界の美を示す孤高が曼珠沙華にはある。

 あさぎは何時、男を連れて来るだろう?

 八千代は祈るようにその時を期待した。


(了)

 最後まで読んで下さりありがとうございました。

 古武道の異種格闘技などはありませんが、各流派ともスポーツではない、必殺の技を持っています。

 本当の日本一が知りたいと言う欲求から書きました。

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