【病】に冒されたアナタに
「ゴホッ……ゴホッ……」
粘り気がある咳を、ベッドの中にいる彼は苦しそうにする。
日に日に弱っていく彼。今の彼にはあの頃のような爽やかな笑顔も、健やかで逞しい肉体も、輝かしい未来さえ失われていた。
冷たい風が窓を小突く。
小さな病院を抜けて生まれ故郷である村に戻ってきた彼の発する咳は、以前よりも酷くなっていた。原因は言うまでもなく、整地されていない荒い帰路と冬の厳しい環境が彼の身体に追い打ちをかけたからだ。
「無理をして帰らなくても……」
彼がこうなってからずっと付き添っている私は、咳が治まった彼にそっと水の入ったコップを渡す。口角を少し上げた彼は礼を述べながらそれを受け取ると、ゆっくりとした動作で水を口に運んだ。
「どうせ死ぬのなら、この村がいいんだ…………。本当に、ありがとう。僕のわがままに付き合ってもらって」
彼は感謝の言葉を呟き、私にコップを返す。両手で掴んだそのコップは、先ほどと重さは変わっていなかった。
「全然平気よ。だって、昔からそうだったじゃない」
「うん。そう、だね……。小さい時から僕は君に迷惑を掛け続けていた……なのに」
「…………」
彼は悲痛そうに天井を見る。だがそれも一瞬で、「ははは……」と誰でもそれが誤魔化しだとわかるような、薄っぺらい乾いた笑い声を上げた。
私はそれに気づいていない素振りをし、ベッドの横にある台にコップを置く。
「…………空も暗くなってきそうだし、そろそろ夕食の準備をしてくるわ」
そう言って、私は部屋を出ようと後ろを振り返る。そんな私の背中に「ありがとう」と、彼は言葉を投げかけてくれた。
「…………」
ゆっくりと音を立てないように部屋のドアを閉じた私は、近くの壁にもたれかかった。永遠と胸の奥で膨らみ続ける想い、それは紙袋に入った大量の食べ物のように、今にも私の身体を突き破って外に飛び散りそうだった。
己の身体を自らの両腕で抱きしめ、壁を頼りながら床に座る。隔たれた薄い木造の壁のすぐ向こうに彼が居る。だからこそバレないように、聞かれないように、知られないように。私は細心の注意を払って少しずつ吐き出そうとした。
「…………ふふっ」
狂おしいほどの愛を。彼を独り占めしている喜びを。全てが計画どおりであることに対する、ドス黒い感情を。
「ふふ……ふふ…………ふひっ――――」
ひび割れた花瓶から水が漏れるように、一度零れ始めた声を止めることができず、私は慌てて両手で口を覆い隠した。
少し意識を壁に向けると「ごほっごほっ」と彼の咳が小さく聞こえる。苦しそうなその声に背徳にも興奮を覚え、鼻息が自然と荒くなるのを自分の手に伝わる熱によって自覚した。
ああ……本当に……本当にアナタを愛している。
【毒】によって蝕まれ、痩せ細ってしまったアナタ。そんなアナタを他の女たちは見捨てた。あんなにベタベタしていたのに、症状が悪化して遠くの病院に行くときなんて誰一人として見送りさえしなかった。結局、私以外は彼のことを純粋に好きではなかったのだ。
『うつるかもしれない』。私が彼女たちに話したことは嘘。だけど、仮にそれが真実だとしても、私なら、たとえうつったとしても彼から離れたいとは決して思わない。
離れたくない。離れたくなかった。だから、村を出て外の世界へ旅立とうとする彼に同行を拒否された私は計画を練った。アナタだけと居られるように、アナタが私以外に頼れなくなるように、そして、最期を共にするために――
「アナタと私はずっと一緒よ」
幾分か落ち着きを取り戻した私はゆっくりとした動作で立ち上がり、できるだけ早急に台所へと向かう。
急がなければいけない。だって最愛の彼が、雛鳥のように私の料理を心待ちにしているのだから。
【愛】の籠もった、とても美味しい手料理を。