前編
とーこはぼんやりしていた。ほの暗いその場所にいつからかずっと屈んでいた。
「そこ」は平和だった。冷たい目も、やらなければいけないことも、心配事も怒声も泣き声も、本当に何もない。感情が何一つ動かされることがない。
小さな不安は無きにしも非ずだけど、そんなものから目さえ逸らしてしまえば。うずくまって、目も耳もふさいでしまえば。何も考えずに済むんだから。とーこは、ぬくぬくと「そこ」にいられた。
「そこ」を出なければいけないのは分かっていた。遠い向こうに、眩い光が見える。光の向こうに自分以外の知り合いがいるのは知っている。少し前まではとーこもいたから。
でも、とーこは「そこ」に逃げてきたのだ。眩い光の中にいるのがきつくて。周りが怖くて。どうにもならないことばかりに嫌気がさして。
逃げてきて、この薄暗さに慣れきってしまった。とーこは「そこ」から出たくなかった。
たまに、とーこも「そこ」から出ることがあった。眩しさに目を細めながら、会話をしたり、人に会いに行ったり。
でも、その強い光に耐えられなくてすぐ「そこ」に戻っていった。少しいなかっただけで、光の中の環境は変わっていた。とーこを置いて目まぐるしく変わっていく環境は、綺麗にとーこ1人をはじき出してるように思えた。
とーこは変化が怖かった。友人だったはずの子の視線に、耐え切れなかった。とーこはますます人から逃げた。逃げて「そこ」に行った。
とーこだって、最初は「そこ」に居座るつもりじゃなかった。「そこ」はあくまで避難場所で。「そこ」と光の向こうとを、行き来するつもりだった。「そこ」だけにいたらいけないとは思っていたのだ。とーこには、守りたいものが大切にしたいものが、光の向こうにあったから。
その最たるものが、彼女だった。彼女のことを、とーこは信頼していた。彼女の支えになりたかったのだ、本当は。「そこ」に逃げながらも、光の向こうに止まっていたのは、その存在が大きかった。
それが、偶然その彼女の心の内を知ったことで、その比重は大きく崩れた。彼女が、とーこがいなければいいって遠回しに言ってたのを聞いてしまったから。それは疑いようもない彼女の本音だった。
とーこは、投げやりになった。もう、ここにいなくていいやって思った。もともと「そこ」へ傾きかけていたバランスは、完全に「そこ」に傾いた。
人間と関わりたくなかった。こんな思いをするくらいなら、身の回りの人間なんて全員いなくなってくればいいと思った。とーこは、近しい人との距離を広くとった。近寄ろうとした人には酷く当たった。親しい友人はもう真っ平だった。
彼女がとーこを否定しても、「そこ」だけはいつも変わらずとーこを受け入れてくれた。嫌なことがあっても忘れてぼんやりしていられた。
そして、とーこが「そこ」に籠れば籠るほど、光はその眩さを増していった。とーこはますます光の中に行けなくなった。
じきに、とーこはスマホを使えばいいと分かった。スマホは、とーこが「そこ」に持ち込んだ唯一のものであり、光の向こうと繋がる唯一の術だった。直接会うのではなくて、文字を通じて連絡を取る方が、まだ全然良かった。きつい言葉には見て見ぬ振りをした。とーこを傷つけるものは全部消した。光の中に行かなくても良くなって、とーこはやることがなくなった。
たまに、光の向こうで、声をかけてくれる人もいないわけではなかった。心配して、戻っておいでって言われたこともあった。でも、とーこは全部曖昧に笑って終わらせてた。
そのことに限らず、光の向こうから何を言われようと、向こうに行くことは少なくなっていった。たまに向こうに行っても、すぐに放り投げて「そこ」に戻ってきた。周りの人がとーこに何を言おうと、聞こえないことにした。何を言っているのか理解することをまず放棄した。適当な返事。それが相手をさらに困らせているのも理解できなくなっていた。
もう光の中のことはどうでもよかった。
ただただ、「そこ」で微睡んでいられるのならどうだってよかった。
とーこにとって、もはやかつての守りたかったところは敵地となった。彼女がいるそこは、全部とーこを否定しているようにすら感じた。彼女がとーこを拒むなら、とーこはもう関わりを持ちたくなかった。
無気力のままのこのこと光の向こうと「そこ」とを行き来しながら、とーこは彼女に関係するものとの関わりをぶちぶち切っていった。
とーこがうとうとしながら、たまに光を見たりしているうちに、光の向こうではどんどん時間が経っていたみたいだった。とーこは、もうどれだけここにいるか分からなかった。光の向こうにいた記憶も、「そこ」にいる記憶も、朧げになっていた。自分が何をしたか、他人に何をされたか、記憶から消えていった。とーこはずーっと「そこ」にいた、それだけで、十分だった。
とーこは、考えることをとうの昔に止めていた。
それは突然だった。
一面に広がる水。垂れ下がるフラッグ。湿った空気。試合前特有の緊張感。ざわざわとしている。
その中で一際大きく掛け声がかかる。
かつてのとーこ以外の仲間と、それに新たに加わったメンバーとでつくる輪。その真ん中で声をはりあげる彼女。
とーこの知らない彼女がいる…!
とーこはそれを「そこ」から眺めていた。光の淵のギリギリまで寄って、こっそり遠くから覗こうとしていた。
かつて知っていた知らない仲間たちに、降り注いでいる光に、目を細める。それは、強烈な光を放つ。目潰しにあいそうなくらいの。強い、強い、光。
私もあそこにいたはずなのに。
久しぶりに、とーこの中でことりと、感情が動いた気がした。
気付いたらもう早かった。胸がぎゅっとした。少しだけ、少しだけ光の中にいたことを思い出した。今は遠い遠い昔のように思えるそれは、嫌なことばっかりで、大っ嫌いで。でも、楽しかった。身勝手にもまたあの場に戻りたいと思った。息が苦しくなった。とーこだけが外れた世界。いつの間にか、強く拳を握っていた。目をぎゅっと閉じる。こんな風に、なりたいわけじゃ、なかったのに。なんで、私は、こんなとこに。「そこ」に、なんか、いるんだろう。みんな、光を、あんなに、浴びて…!
………………ふと、違和感を覚えてうっすらと目を開けてみた。
気がつくと、とーこの肩に光が差していた。とーこにもかすかに光がかかっていた。
はっと目を見開いた。
とーこは、光の中にいた。
とーこは、光の中にいた。
彼女と同じ光を浴びて、立っていた。
とーこはたじろいだ。慌てて「そこ」の入り口を探して。
でも、途中で止めた。久しぶりにまともに浴びたその光は、意外に悪くもなくて、懐かしくさえ感じた。とーこは、少しだけその光を浴び続けることにした。
光は眩しいけれど、とーこをふわっと包んでくれようともしていた。とーこの周りにいた人は、びっくりするくらい普通でいてくれた。普通に声をかけてくれた。逃げたとーこに。久しぶりだねって。
中に、会いたかったよって言ってくれた人がいた。とーこが「そこ」に閉じ籠ってから、徹底的に避け続けた人。憧れていた人。たしか、手酷く攻撃したことがあるはずだった。ぼんやりと思い出したそれに、とーこは慄いた。この人は、その時何を思ったのだろう。今は何を思って声をかけてくれたのだろう。胸がじぃんとして、なんか泣きたくなった。
戻りたいなぁってつぶやいてみた。
隣にいた奴が、えぇって本気で驚いていて、とーこはなんか笑ってしまった。
でも、彼女がとーこを見ることはなかった。
とーこも、彼女と視線を合わせようとしなかった。
こんな関係になってしまったんだなぁと、とーこは思った。
いつからこんな風になってしまったんだろうなんて思ったりもした。何がきっかけだったんだっけ。そもそも、私たちの間に何があったっけ。
どれもあんまり思い出せなかった。靄がかかっているような。
もはや、仲がよかったということまでもが、自分に都合のいい幻想ではないのかと疑いもした。それくらい、あまりに記憶が曖昧だった。
なぜか胸が痛くなった。




