4 私とトルとあなた
お疲れ様でした。
あなたへのお願いもこれでおしまいです。
もう見張ってもらう必要はありません。
だって、ここからは私が、私のこの二つの目でトルを見て、この一つだけの口でトルと喋るのですから。
え? あなたも喋りたいですって?
そうでしょうね。わかります。
だって、あなたは誰よりもトルのことを知っていて、誰よりもトルのことを愛して、そして憎んでいるのですから。
だって、あなたは――。
ああ、もうトルが来てしまいました。
これ以上、世間話をしている時間はありません。
さあ、はじめましょうか?
この『ルールの椅子』に座るのは、私かそれともトルか。
決着の時というやつです。
トルは青いガラスでできた城門の前に立ちました。その周りの壁はこれまた黒く半透明のガラスで、厳めしい戦士のようです。
城門は人間のろっこつみたいに隙間が空いています。その門は数えきれない時を過ごしてきたのに、さびることもくちることもなく堂々とそこでお客を出迎えるのです。
門が勢いよく開いていきます。門のアーチから垂らされたビーズのすだれが、門にぶつかって小鳥の大合唱のような音をたてました。
トルは落ち着いた足取りで中に入ってきます。
次に待つのは、お花畑です。
はじめはシロツメクサ、次はスミレ、そして、色とりどりのチューリップ。
門から、私のいる城に向かって、だんだんと明るくなるようにしてあります。
そう、このお花は私が丹精込めて育てました。
だって、私はとってもひまなのです。毎日、十二時に椅子に座っていさえすれば、他にやるべきことはないのですからね。もちろん、色んな人をたくさんの『目』で見ていることもあるのですけれど、本当のところを申し上げれば、そんなに楽しいものではないのです。私の所を目指して旅をしてくるのは、トルのような楽しくていい子ばかりじゃありませんもの。良くないことをする人も、心の美しくない人も、たくさんいるのです。『見る』のではなく、『眺める』ほどの値打ちがある人はそうめったに現れないのです。
だから、時々、あなたのような人に頼んで私の代わりに見てくれるようお願いしている、という訳です。
もっとも、あなたはとっても運が良かったですね。ご自分のお弟子さんの成長をこの目で見守れて。
え? 運が悪かった?
なるほど、確かにプレゼントはサプライズでもらった方が嬉しいものですからね。
そういうことじゃない?
それは、失礼しました。
あ、ほら、トルがやってきましたよ。真っ赤な絨毯を踏みしめて、階段を登り、まっすぐに私たちのいる広間へと向かってきます。
これが、ゲームの世界なら、落とし穴や槍が飛び出てくる壁とかの罠や一つ目の怪物が出てきてトルの邪魔をするところでしょうが、神さまが造ったお城にそんな工夫はありません。私もそんな意地の悪いことをするつもりはありません。むしろ、早くトルに会いたくて、広間の扉は開けっ放しにしたくらいなのです。
「師匠! ……どうしてここに?」
ああ、やっと私の本物の二つの目で、トルを眺めることができます。
トルは、あなたの姿を見て、床に縫い付けられたみたいにかたまっていますよ。でも、それはほんの一瞬で、すぐにとぼけた笑顔に戻ってしまいます。
ちょっと、うるさかったですか? じゃあ、声を落としましょう。あなたにしか聞こえないくらいに。
「それは……簡単だ。わしもお前と同じ。この椅子に座りたいと思ってここにきたのだ」
あなたが、トルと同じようなとぼけた笑顔で答えます。本当にあなたとトルはそっくりですね。トルと同じようなお化粧で、トルと同じような涙のワッペンを頬につけて。トルとあなたの違うところといえば、ワッペンをつけているのが、右頬であることと、顔の皺の数くらいのものです。
あなたが私のところにやってきたのは、まさしく神様のおぼしめしとしか言いようのないタイミングでした。私は実はとても困っていたのですよ。ちょうどその時、私の次に椅子に座らせてあげるはずだった人に裏切られた私は、一人ぼっちでした。あなたが必要としてくれなければ、すぐに消えてしまっていたでしょう。良く考えればわかったはずですよ? 魔女と呼ばれる私だって、一人では生きていけないんです。ルールはみんなに平等なのですから。
「そうですか。なら、師匠が先に『ルールの魔女』に挑戦するんですね。僕、まっています」
なんと純粋なトル。あなたがただ、先についただけだと思っているみたいです。さあ、言ってあげてください。あなたが、ここでこうしている訳を。
「いや、わしは挑戦しない」
「どうしてですか?」
トルは首を傾げます。
「それよりも、いい方法がある。順番を待つのだ。そうすれば、挑戦しなくてもいつかは椅子に座ることができる」
私とあなたの奇妙な協力関係が続いて、何年になるでしょう。私はあなたをここに存在するためだけに必要として、あなたは私の後釜に座るためだけに協力する、そんな日々でしたね。はじめは何とも思っていなかったけれど、今ではあなたに愛しさすら感じていますよ。私に挑戦できるほどには強くはなく、私を裏切れるほどには冷たくなく、夢を諦めきれるほどには潔くないあなたが。
「順番を待つ?」
トルがオウム返しに繰り返しました。
「そうだ。この女が亡くなるまで、私はここでこうしてこの女と暮らすつもりだ。どうだ、トル。お前もここで私と一緒に暮らさんか。お前はまだ若い。この女とわしが死ぬまで待っていても、十分におつりがくるだろう」
とっても素敵な計画ですよね。私とあなたとトルで、まさしくお伽噺のおわりみたい。それから、三人は仲良く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし、という訳です。
ところが、トルは大きく首を振り、宙返りしてあなたに迫るのです。
「それはできません」
ああ、残念です。本当に残念です。トルならあなたと同じで、私を裏切ることはないと思ったのに。トルも他の人と同じ、自分の願いをかなえたいだけの人だったのでしょうか。私とあなたとトルなら、幸せにやっていけるはずなのです。あなたとトルはいずれ確実に椅子に座ることができる、そして、この城で一人退屈な私はあなたとトルを必要とするに違いないのですから。
「なぜだ!? これが、みんなが満足できる誰がみてもかしこいやり方ではないか!」
「師匠……あなたが僕に教えてくれたのですよ。他の人がかしこいと思うやり方をするピエロなんて何も面白くないって。ピエロは、人がかしこいと思うことを愚かに、愚かに思うことをかしこくやるものだって」
「わしは……わしは……」
あなたはピエロの笑顔も忘れて、ふるえはじめてしまいましたね。
「師匠。僕の芸を見てください。あなたに教えてもらった芸を」
パントマイム、お手玉、玉乗り、トルは目の前でやってみせてくれます。何度も見てきたはずなのに、それはとても新鮮で愉快でした。私が気持ちを込めて眺めているからか、トルの芸が上達したからか、理由はわかりません。
トルの芸が終わりました。私はなるべく大きな音が出るように拍手をします。
「さあ。師匠、師匠の芸を見せてください」
それは、すばらしいですね。そういえば、私はあなたのピエロの芸を見せてもらったことがありませんから。
「……」
あなたはゆっくりと身体を動かしはじめました。……けれど、どうも様子がおかしいですよ。それは、パントマイムですか? ちっとも壁に見えません。まるで、張り手をするおすもうさんのようです。お手玉は――まだ、三個なのに落としてしまいました。最後の玉乗りにいたっては、玉に乗れずに玉に乗られてしまって、ごろごろと転がって壁にぶつかる始末です。
「わしは、わしは! 怖かったんだ。もしかしたら、最後の試練を乗り越えられなかったかと思うと挑むことができなかった。そして……わしはいつの間にか格好だけのピエロになってしまった」
あなたは玉に取りすがって、すすり泣きはじめます。ああ、ピエロは涙を流してはいけないと、私たちは学んできたのではありませんか。
「師匠……ごめんなさい。師匠から譲ってもらったクーアはもういません。だから、僕は師匠の涙をぬぐう方法がわかりません」
「いいのだ。わしはわしの心に敗れた。お前のせいじゃない……」
「なんだか、これじゃあ私が悪者みたいですね」
私は椅子の上で足組みして頭を掻きます。
トルは玉から降りると、こちらにやってきて、帽子を脱いでお辞儀をしました。
「こんにちは。僕はトル。あなたに挑みに来ました。『ルールの魔女』さん。僕と勝負してください」
「知っていますよ。ずっとトルのことを見ていました。早速、勝負なさいますか?」
本当は勝負なんてしたくなかった。だけど、仕方ありません。椅子に座っている人間は誰でも、ここまでたどり着いた人の挑戦から逃れることはできないのだから。
「はい……でも、どうやって?」
「私のお願いを一つ聞いてくれるだけでいいのです。それであなたにこの椅子は譲って差し上げましょう」
「わかりました」
トルは赤ん坊みたいな正直な笑顔で頷きました。ああ、なんて私はずるいのでしょう。これからするお願いにトルが応えられるはずはないというのに。
「そうですか。ならば、お願いします。トル、私を必要としてください」
ああ、恥ずかしい。ついに言ってしまいました。
私は何もトルに与えないのに、必要としてくれと言うとは、なんと図々しいお願いでしょう。ほら、トルもあきれて口を大きく開けてしまいました。
でも、なんということでしょう。トルは、すぐに笑顔に戻りました。その笑顔がピエロのトルじゃなく、ただの少年のトルのものに見えたのは私の思い込みでしょうか。
「そんなことなら、喜んで」
「そんなはずはありません! だって、トルは私を恨んでいるに決まっています。あなたのお父さんが消えたのも、クーアが死んでしまったのも、あんなつらい旅をしなくてはいけなかったのも、全て私のせいなのですから!」
信じられませんでした。こんなルールを作ってしまった私は世界の誰からも、嫌われているはずなのです。
「たしかに僕はあなたの作ったルールは嫌いだし、間違っていると思います。でも、だからといって、あなたを恨んでいるわけではありません」
「そんなの、嘘に決まっています! ならば、トル。私に証拠を見せてください」
その時の私はさぞ見苦しかったことだろうと思います。髪を振り乱して、駄々っ子のように地団太を踏んでいたかもしれません。
「証拠?」
「そうです!」
私はそう叫んで、いきなり椅子から立ち上がりました。
「もうすぐ、十二時になります。トルが私を必要としているなら、私は消えないはずです」
私は、頭上に神さまのように吊り下げてある時計を指しました。時計盤は水色で長い針は金、短い針は銀。いつだって、正確でこれまで一回もくるったことがない信頼できる時計なのです。
私は投げ遣りな気持ちになっていました。長く椅子に座りすぎて、疲れていたのかもしれません。消えてしまってもいい。本気でそう思っていました。当然でしょう? だってもう、トルにもあなたにも私を必要とする理由はすっかりなくなってしまったのですから。まだ、『必要』のたくわえがあるトルには私はいらないし、師匠のあなたは優しいトルから必要としてもらえるのだから、もう私にこびへつらう理由は何もないでしょう。
「構いません」
トルは自信たっぷりに頷きました。
「私が消えた後で、椅子に座ろうというのですか?」
一度、疑り深くなってしまうと泥沼にはまってしまったみたいに、暗い方へ暗い方へ考えてしまいます。私はトルにひどいことを言ってしまいました。
「いいえ、違います」
そう首を振ると――、なんと! トルは頬っぺたについたワッペンを惜しげもなく捨ててしまいました。トルが苦労して集めた『必要』を。
「何をやっているんですか! 消えてしまいますよ!」
「そうだ。せめて、お前は消えてはいけない!」
「消えませんよ。だって、ここにはあなたと師匠がいるもの」
「あなたの師匠は、この椅子をめぐるライバルで、私は敵なのですよ! どうして、あなたは、そう人を信じられるのです!?」
私は思わず駆け出して、ワッペンを拾い上げました。同じく駆け出してきたあなたよりも少し早くに。私は決してトルに消えて欲しかったわけではないのです。ただ、私の考えに賛成してもらいたかっただけで、ああ、もう時間が――。
城全体に聞こえるほど大きな鐘の音が私のお腹にひびきます。
さあ、これで終わりです。
私が私のルールで消えるなんて、なんと皮肉な結末でしょう――。
私は顔を覆いました。
だけど、いつまで経っても、指は私のしわくちゃな顔の感触を伝えてきます。
「ほら、大丈夫でした」
私は肩を叩かれました。
見上げれば、そこにはトルがいて、右手に持った赤いチューリップの造花をこちらに差し出すところでした。
あなたも、この話が聞こえているということは消えてないのでしょう。
「僕の勝ちですね。『ルールの魔女』……いえ、おばあさん」
「本当に、あなたは私を必要としてくれるのですか?」
私は震える声でそう尋ねます。
「当たり前ですよ。おばあさん。ピエロは、どんな人のためにいるのだと思いますか?」
トルはゆっくりと椅子の前まで歩いて行ってから、こちらを振り返ります。
「わかりません」
私は静かに首を振りました。
トルはゆっくりと椅子に腰かけて、帽子を脱ぎ捨てました。そして、手で顔を拭います。
「ピエロは寂しい人のためのもの。おばあさんは最高の観客なんです。ねえ、師匠?」
そこにはお化粧なしの、トルの笑顔がありました。いつか見たあの半分だけの笑はどこへやら。少年らしい本物の微笑みが私に降り注ぎます。
「そうだ。ピエロはいつでも独りで、誰よりも寂しい人間だ。だからこそ、寂しいお客を笑わせるのが何より好きなのだ」
そうあなたは頷いて、玉乗りを見せてくれましたね。少しの間しかもたなくて、すぐにこけてしまったけれど、私はとても嬉しかったんですよ。
「人から必要とされなくても、十二時に消えない世界にしてください」
トルは両手を組み合わせて、目をきゅっとつむりました。
時計の長針が動いて、十二時一分を知らせます。
「……トルのお父さんの笑顔はトルにそっくりですね」
私はあなたに手を差し伸べて、助け起こしながら言いました。そう、『ルールの魔女』でなくなっても、私は魔女ですから。世界のどんな人でも覗くことができるのです。
「どうして、おばあさんが僕のお父さんの顔を知っているんですか?」
「この人は今、世界にいる人を誰でも見つめることができるんだ」
「今? だって、お父さんは消えてしまったんじゃ?」
トルは座ったばかりの椅子から立ち上って、目を丸くします。
「トル、私が願ったのは『消える』ことで『死ぬ』ことではないのですよ。ルールがなくなったなら、消えている理由はないでしょう?」
「僕、帰ります!」
トルは駆け出しました。大きく腕を振って、足は物凄く大股で、全然ピエロっぽくない走り方です。
広間の入り口まで行った所で、こちらを心配そうにふりかえります。
「おばあさん、僕、家族の所に帰ります。良かったらおばあさんも一緒に行きませんか?」
「いいえ、私はここにいます。お花畑を世話できるのは私だけですから」
家族のことで頭がいっぱいでも、トルは私のことを気にかけてくれているみたいです。それはなんだか春のひだまりのような、胸の芯から私を温めてくれる事実でした。
「わかりました。でも、僕は絶対に帰ってきます。おばあさんに最高の芸を見せに。信じてくれますか?」
「ええ、もちろんですとも」
私はゆっくりと頷きました。
「ありがとうございます!」
トルはぺこりと頭を下げて、すぐに見えなくなってしまいました。
「さあ、椅子の主がいなくなってしまいましたよ。私はもう、椅子はいりません。あなたが座ってはいかがですか?」
「いや、遠慮しておこう。わしはもう、何を願いたいか忘れてしまったから」
あなたはそう言って、トルと同じような少年の笑顔で笑いましたね。