3 一つの椅子とたくさんの人のお話
え? 私の機嫌がいいですって?
ばれてしまいましたか。
実は新しい花瓶を買ったんです。
それだけじゃないだろうって?
本当、あなたに隠し事はできませんね。
もう、彼のことを『とある少年』ではなく、『トル』と呼んでもいい頃でしょう。
そうです。私は嬉しいんです。トルがどんどん、立派になっていくことが。
彼は消えずに良くここまでやってきたものです。
だけど、ここからはさらにきびしいですよ。
だって、『ルールの悪魔』になりたい人はトルだけじゃないのですから。
トルと同じくらい、いやそれ以上に頑張っている人も私はたくさん見てきました。いえ、見ています今も。
誰だって、自分の思い通りにルールは決めたいものです。勉強が嫌いな子はテストがない学校に行きたいでしょうし、足が遅い子は『運動会』という言葉が『みんなで一緒にご飯を食べること』という意味であったらどんなにいいかと願うはずです。
その願いは叶います。この金ぴかの椅子に座れさえすれば。
だけど、悲しいことに、椅子は一つしかないんです。
一つの花瓶には一つの花しか挿せないし、一つの椅子には一人の人しか座れない。
これから会う人たちはみんなライバルなのです。
トルも、他のみんなもこれからはライバルに『必要』としてもらわなくてはやっていけなくなってしまいます。
あなたが一番嫌いな子を想像してごらんなさい。その子に自分を好きになってもらわなくちゃいけないんです。大変でしょう?
神さまもいじわるですね。椅子をいくつも造っておいてくれればいいのに、一つだけしか造らないでしかも、世界で一番遠い場所に隠すように置いておくなんて。
だけど、神さまにも優しいところもあるのですよ?
だって、もし、椅子がたくさんあって、ある女の子が「うさぎをかたつむりよりも遅くして欲しい」と言って、別の男の子が「うさぎを新幹線より速くして欲しい」と願ったら、うさぎは困ってしまいますしね。
でも、椅子が一つだけならそんな心配はありません。
たしかに、椅子にまでたどりつくのはとても骨の折れる旅をしなくてはいけません。しかも、『他の人から必要とされない人間は夜の十二時に消えてしまう』ルールになってからは、みんな旅の途中で消えてしまって、椅子の所まで来られる人は本当に少なくなってしまいました。
でも、それも悪くないと思います。
ころころ、主人が変わってしまったら、金ぴかの椅子もうんざりして石になってしまうかもしれませんからね。
話が道草をしてしまいましたね。
われらがトルに話を戻しましょう。
トルの日頃の行いが良いからでしょうか。
空にはゆっくりと白い雲がながれ、船は二枚の帆に風をめいっぱい受けて、水面をすべってゆきます。
まことに順調な航海でした。
「今度は絶対上手くいくよね。クーア」
帆柱のてっぺん。トルは柱にセミのように抱き着きながらつぶやきました。右手にはデッキブラシを握りしめています。立っているのは、本来なら見張りの人用の足場です。
二本ある柱同士は潮風で引き締まった荒縄で結ばれています。
でも、そんなのどかさとは裏腹にトルの顔は引きつっています。右半分の口は水平線のようにまったいらで、左半分の笑いとあいまって、かっこをつけた俳優さんのように見えます。額からは汗がしたたり落ちて、ぴかぴかに磨き上げられた甲板へと落ちて行きます。
「がんばれよー、へっぽこピエロ。今度はおっこちるんじゃねーぞ!」
その時、甲板でお仕事していた人たちが、誰かのその言葉でいっせいに笑いました。
トルは、下からとんでくるその応援だかやじだかわからない声にも反応することはできません。
「大丈夫。ちょっと揺れるくらいなんでもないよ。僕はピエロなんだから」
頼りにしていた柱から腕を放し、ロープの上に足を前後に交差させて立ちます。両手にはバランスをとるようにしっかりとデッキブラシを水平に持って、まっすぐ前を見つめました。ゴールであるむかいの帆柱にはクーアが、胸ビレを広げて待っています。
一歩、歩きだしました。縄がきしんだ音を立てて揺れます。二歩、三歩、四歩――
「あっ」
まではよかったのですが、五歩目がいけなかった。足をあげたと同時に、船が大きく舵を切ったので、トルの身体は簡単に傾いてしまいます。そのまま、まっさかさまに落ちていきます。
「うわっ」
だけど、さすがにそれでおしまいなんてことにはなりません。下張ってあった網がトルを受け止めました。トルの身体はトランポリンみたいに一回跳ねてから、仰向けで甲板へと投げ出されます。手から離れたデッキブラシが、船首めがけて滑っていきました。
「あははは! トル、残念だったな。おめー、運がねえよ」
そう豪快に笑ってトルの顔を覗き込んで来たのは、日に焼けた少年です。あちこち破れたズボンに、タンクトップといった格好で、頭はいさぎのよい角刈りです。手にはよくしなる釣竿を持っていて、その先ではクーアを一回り小さくしたような形のルアーがくっついています。
首からはうき(・・)の形をしたネックレスがさげられていますが、そのうきは今やブイ(・・)といっていいほどの大きさになっています。
「ううん……僕が未熟だったからだよ。キート」
トルは両手で顔を覆いました。クーアが尾びれでトルの頭を撫でます。
「まあ、俺が笑ってやったんだからいいじゃあねえか。他のやつらはもう、お前に愛想尽かしちまったみたいだけどな」
「ううん、ピエロは笑わせるのはいいけれど、笑われるのはダメなんだ。でも、本当にすごいピエロは笑われているように見えるのに実は笑わせているピエロで……おええええええ」
トルは急に顔を覆っていた手をちょっと下にずらして、口を押えました。トルは慌てて船べりへと駆け出して、海面とにらめっこします。
「まだ船酔い治んねえのか。もう、一週間もずっとそれじゃねえか。ま、魚の餌にはちょうどいいがな。撒き餌ってやつさ」
トルにキートと呼ばれた少年は、トルの横に並ぶと竿をしならせてルアーで海面にしぶきを立てました。
「船に乗るのは初めてだから……すごいね。四六時中脳みそを直接揺さぶられているみたいだよ」
「遠くを見ることだな。後は身体の芯をしっかりとして、頭をむやみやたらに動かさないこと。後、その白い化粧もやめた方がいいだろうな」
「ダメだよ。ピエロは頭を動かすのが仕事みたいなものだよ。どうらんはキートにとっての釣竿さ。それを捨てろって言うのかい?」
「トルは強情だなあ。ま、俺は別にどうでもいいけどな、お前は俺がいなきゃ困るけど、俺はお前がいなくても困らない。海の男は一人で生きていけるもんだから」
キートは誇らしげに首から下げたうきをなでました。
「……それに関しては返す言葉もないよ。君はみんなのご飯を釣って、必要とされている。僕はみんなの船旅の暇つぶしにならなきゃいけないのに全然ダメだ」
トルは口を押えて、キートのうきを見遣ってから、自分の顔のワッペンを撫でました。今はまだ、ビワくらいの大きさはありますが港を出た時に比べればずっと小さくなっています。
なるほど、トルにとってのワッペンは、キールにとってのうきという訳です。みんなから重宝がられているキールのうきには『必要』がいっぱい溜まっているのでした。
「大丈夫かー? お前そんなんで、よく今までやってこられたな」
「僕にはこのワッペンとクーアがいたから」
「まあ、旅をする奴は何か『必要』を溜めておけるものがなきゃなんねえからな。だけど、空飛ぶ魚は珍しい。そんなんどこで手に入れたんだ?」
「僕の師匠から譲ってもらったんだよ。クーアは師匠の助手で、ワッペンも本当は師匠の両方の頬についていたやつの片割れなんだ」
「なるほどねえ……」
「キールのそのうきはどこで手に入れたの」
「俺か? 俺のは何てことはないつまんねえ理由だ」
「そう……うぷっ」
トルはその『つまんない理由』を知りたかったのだと思うのですが、キールはどことなく聞きづらい空気をかもしだしていましたので、それ以上深くは問い詰められなかったようです。いや、もしかしたら船酔いがひどくなっただけかもしれませんが。
「そんなんじゃ、『ルールの悪魔』に勝つのは無理だな。新しいルールを造れるのは、俺みたいに強い海の男さ」
キールの竿が引き始めました。魚が、まるで自らが望んだかのようにつりあがってきて、キールの手におさまります。
「でも、『ルールの悪魔』とは殴り合ったりするわけじゃないって聞いてるよ。だったらきっとピエロにも勝ち目はあるよ」
「ああ。なんでも、謎かけしてくるって噂だな。俺たちもおつむの方で戦わなきゃいけないって訳だ。だけど、それに関しても海の男は有利だぜ。なんぜ、世界の海を股にかけて、色んなことを知っているからな」
「ピエロは――、ピエロだって……」
トルは何か言い返そうとしましたが、それ以上言葉が出ることはありませんでした。ピエロは何を知っているのでしょう? 私としては是非とも聞きたいところですが、今のところそれを知っているのはトルだけです。
「ま、まずは船酔いを治すことだな。部屋で寝てろよ」
「そうするよ。お手玉の練習なら、寝ながらでもできるし……」
トルは甲板を這いつくばりながら進んで、船長さんから割り当てられた部屋へと引っ込みました。
トルはゆっくりと瞼を開きました。
天井には、人の顔みたいな黒い染みが、ぽつんぽつんと浮かび上がっています。
「横になって眠ったらだいぶ楽になったよ。だけど、まずいね。クーア、早くこの船になれないと」
そこは船底に近い部屋でした。
水を入れた樽と、トルが寝転がっているハンモック以外には取り立てて何もありません。
「ありがとう。クーア」
クーアが背中に木のコップをのせてやってきました。トルはそれを両手で受け取り、静かに中の水を飲み干します。
「それにしても、ずいぶん静かだね。いつもなら、みんなが海賊の歌を口ずさんだり、甲板でリズムをきざんだりする音が聞こえてくるはずなのに」
部屋の中はクーアが口を開け閉めする音が聞こえてくるほどにしんとしていました。おかげでトルは良く眠れたみたいですが、たしかにこれはちょっとおかしいですね。
「いや……それだけじゃないよ。船のゆれが止まっているんだ。波の音も聞こえないぞ」
トルは起き上がって、ハンモックから飛び降りると、体操の選手みたいに両足をくっつけたYの字になって着地しました。
「うわっ、なんだ。これは! 火事?」
トルはドアの方をにらみつけて言いました。
ドアの隙間から、白い煙が流れこんできて、部屋の空気が急ににごっていきます。あっという間に自分の手のしわも見えないほど、視界が悪くなってきました。
「違う! これは霧だ! クーア! こっちにおいで」
そう言って、トルは何度も目の前の空間に手をのばしますが、何かをつかんだ様子はいっこうにありません。
「どうしよう。クーアがどこかに行っちゃった。なんとか状況をたしかめなくっちゃ。それにしても、嫌な霧だ。悲しい気分になってくるよ」
トルは壁に手をついて手探りでドアまでたどり着くと、赤ちゃんのように這いつくばりながら全身を使って階段を登って行きます。
「クーア!」
甲板に出た所にはクーアがいました。空中をトビウオよりも速く飛びまわって、霧を食べているようです。おかげでトルの周りだけは少しは霧が薄まって、足下くらいは見えるようになっています。
もっとも、クーアは食べ過ぎで身体がマグロくらい大きくなってしまいましたが。
「クーアが食べられるっていうことは、これはただの霧じゃないのかな。とにかく、船長さんを探さないと」
「……俺ならここにいるぜ」
「船長さん!」
上から声が降り注ぎました。
トルが見上げるとぼんやりと白い人影が、帆柱の途中にあります。
どうやら、船長さんは見張りをしているみたいです。
「あの、どうなっているんですか? 僕、さっきまで寝ていたんですけど、起きたらいつの間にかこんな風になっていて、何がなんだかわからないんです」
「風が凪いだ。潮が流れて、行きついてしまった。人の悲しみが行きつくところ。ここ、涙の海に。それだけのことだ」
「涙の海? それじゃあ、この霧も涙でできているっていうんですか?」
「ああ。涙が天に登って雨になるのさ。人間はそれを飲んで生きている。そして、流した涙は海に戻ってくる」
「どうりで、クーアがこの霧を食べられるわけだ。……そうだ! キート! キート!」
トルがそう声を張り上げましたが、全く返事はありません。
「……キート、大丈夫かな。船のへりで釣りしていたから、霧で周りが見えなくなって海に落ちていたりしなければいいけれど」
「無駄だ。この霧の中じゃ、お前さん以外の人間は自分のことしか考えられなくなる。悲しみに沈んでしまってな……いや、お前も例外ではないか」
あまりに霧を食べすぎたのか、クーアの動きがどんどん鈍くなっていき、ついには動かなくなってしまいました。今やサメくらいなった身体をひっくり返して、苦しそうに口をあけっぱなしています。
「クーア。無理しないで。休んで」
トルはクーアを抱き下ろして甲板に寝かします。
するとたちまち霧がトルを包み込みました。そして、ただの白だった霧が色を持ち始めます。
「父さん、母さん!?」
トルに良く似た笑顔を浮かべる男の人と、トルにそっくりな優しげな眼差しの女の人が音もなく霧に浮かび上がります。始めは抱き合っていた二人でしたが、やがてお互いを突き飛ばして、口げんかを始めました。その激しいことと言ったら、声もないのに喧嘩しているとわかるほどでした。
「やめて、喧嘩なんかしないで! 喧嘩なんかしたら、父さんが――」
やがて、ぴたりと喧嘩が止みました。すると、口をへの字にした男の人はトルの方に向き直ります。そして、恨みがましい目で見つめてきました。
「そうだ。僕は母さんの方をかわいそうだと思った。だから、父さんは消えてしまった」
トルは目の前の光景を認めたくないとでもいうように首を振りました。それでも、男の人はじっと嫌な目で見つめてくるばかりです。
そして、今度は女の人の方まで、トルの方を向いてすすり泣き始めました。
「そして、僕はお母さんを一人残して出て来たんだ。ピエロになると決めたから。母さんの息子じゃなくて、みんなのピエロに。ああ、母さんは今も消えずにいるだろうか」
トルの目がみるみる潤んでいきます。霧と涙が合わさってしまっては、トルはもう本当は目に映るはずのものすら見ることはできないでしょう。もはや、涙を拭ってくれるクーアは動けません。
と、男の人と女の人は急に優しげな笑顔を浮かべて、トルに手を伸ばしてきました。
「ああ、僕を許してくれるの? 父さん、母さん」
トルが二人から伸ばされた手を掴むと、二人は踵を返してトルをどこかに導きます。
いえ、どこかじゃありません。私は知っています。そこは、船のへり。そして、そこの先にあるのは海。
ああ、残念です。もう、トルを見ていることはできないのでしょうか。
私は何度もこういう光景を見てきました。
悲しみに負けて、涙に溺れてしまう人たちを。
一歩、一歩、トルは歩を進めて行きます。霧に導かれて。
「あっ……」
と、トルが転んでしまいました。何かにつまずいてしまったみたいです。
「クー……ア」
トルは高熱のある病人が悪夢を見ている時のような声で呟きました。そうです。そこにいたのはクーアです。もはや、飛ぶことはできず、身体を引きずってきたせいで、綺麗な銀色の鱗は剥げてしまっています。それでも、身体をビタンビタンと跳ねさせてトルの行く手をさえぎります。
「僕は一番大切な二人を悲しませてしまったよ。そんな僕が、どうしてたくさんの人を笑わせるなんてできるだろう」
トルは二人の手を握ったまま、クーアの上に覆いかぶさって、その澄んだ瞳を見つめますが、クーアはやっぱり喋れません。ただ、口をパクパクさせて、トルを見つめ返すばかりです。
トルがクーアとにらめっこしていたのが、数秒なのかそれとも数年なのか。私にはよくわかりません。だって私も、トルがクーアを見つめるのと同じくらいトルを見つめていましたから。
「……クーア。わかったよ。お父さんは消えてしまった。お母さんはどうなってしまったかはわからない。でも、今、目の前で鱗が削れても僕を止めてくれたクーアはそこにいるもの」
トルはゆっくり顔を上げると、立ち上がりました。悲しみを誘うような二人の手を払います。
男の人と女の人は、途端に鬼のような形相になってトルに襲い掛かってきました。
「……ピエロを殴ることはできないんだ」
トルはパントマイムで壁をつくりあげました。二人はその見えない壁を何度も何度も殴りつけてきますが、そんなものではトルの壁は揺るぎません。トルが、壁がそこにあると信じている限り、それはなくならないのですからね。
トルはポケットに手を突っ込んで、トウガラシのマークのついた小瓶と、マッチを取り出しました。
片手で小瓶の蓋を開け、口に放り込みます。トルの顔が真っ赤に沸騰しました。甲板に瓶をぺっと吐き出して、人差し指と中指の間にマッチを挟んでクーアの鱗で擦ります。
マッチの先で燃えだした小さな炎に、口に含んだ液体を吹きかけます。
「燃えて消えろ!」
小さな炎は風となって、トルの前方いっぱいに広がり、二人の形をした霧を吹き飛ばしました。
それでおしまいです。
霧はトルの周りだけを避けるように寄りつかず、トルは自由に動けるようになりました。けれどもまだ、船全体を霧が覆っていることには変わりありません。トルはクーアを抱き上げて、先ほどいた所まで歩いていきます。トルの歩みに合わせて、霧が逃げていきます。
「ほう、乗り越えたか」
船長さんはいつもと変わらない口調で言いました。
「……船長さんも。よく、平気ですね」
「船長っていうのは、涙を流し尽くした奴がやるもんだ。いまさら、悲しみには負けないさ」
「それより、早く船を出してください。このままじゃ、クーアが死んでしまいます!」
トルが懇願するように言いました。
「そいつは俺が決めることじゃない。海が決めることさ」
「じゃあ、いつになるっていうんですか!?」
「俺の経験じゃあ、海はこの船にいる全員が涙を流し尽くすか、涙と一緒になっちまうまでは無理だな。涙の海は仲間を欲しがるものなのさ」
「そうか! 他のみんなもきっと――」
きっと、トルと同じような幻の霧にとらわれているのでしょう。もう、何人が消えてしまったのかは、私も知りませんし、トルもわからないでしょう。
「まずい……もう、ほとんど残っていないよ。みんなに必要としてもらわなくちゃ」
トルは自分の頬を確かめるように撫でました。トルの涙のワッペンは、もはやほくろよりも小さくなって、トルの毛の穴に入り込んでしまうくらいになってしまっています。
「でも、どうやって芸をすればいいんだろう……」
トルが困るのも無理はありません。だって、どこにお客さんがいて、どこに向けて芸をすればいいのかもわからないし、お客さんからトルの姿は見えないのですから。
「皆さん! これは何の声でしょう――」
おお、これはゴリラ。次は、ラクダ。そして、ダンゴムシ。ダンゴムシの鳴き声など聞いたことはなかったのですが、トルが言うとそう鳴くとダンゴムシしか想像できないのですから不思議なものです。
それでも、周りからは何の反応もありません。
「やっぱり、声だけで芸は無理なのかな。ピエロの本領は動きだし……考えろ。考えるんだ僕」
トルは自分の頭を「起きろ」とでも命令するみたいに帆柱に叩きつけました。
ピシャリ。
その時、トルの顔が柔らかに包み込まれました。それまで、ピクリとも動かなかったクーアが、胸びれと尾びれでトルをなでます。
「クーア。もしかして……あれをやれっていうの? でも、だめだよ。師匠が言っていた。あれをやるのはすごく大変なんだって。今のクーアには無理だよ」
トルはおもちゃを取り上げられそうな子どもみたいに首を左右に動かします。
クーアは、今度は二回トルの頭をなでました。
「もぐらは土の中で生まれて土の中で死ぬ。人は家で産まれて家で死ぬ。涙の海で生まれた魚は、涙の海で死なせてやるのがいいと思うぜ」
「やめてください! 僕とクーアはずっと一緒にやってきたんです。クーアがいなくなるなんて僕には我慢できません」
「いや。お前はもう、涙の乾かし方を覚えたはずだ。お前はもう、一人前。そいつがいなくてもやっていけるはずさ」
クーアが船長さんの言葉に賛成するように、再びトルを撫でます。
トルはしばらく動けませんでした。
そのまま彫像になってしまうのではないかと思うくらい、クーアをじっと見つめます。
「……わかったよ。クーア」
トルは強くクーアを抱きしめて、その綺麗なうろこに口づけしました。
それから、クーアを空に捧げるみたいに持ち上げました。
「僕はきっと、クーアがいなくなったら、すごく悲しくて寂しくと思う。でも、それは悪いことじゃないよね? 人が見ていない所ならピエロだって泣いていいんだ。もし、誰かに見られている所で泣きたくなったら、涙がこぼれないように上を向いて歩くよ」
トルは最後にもう一度、クーアの身体と頭を撫でて、叫びます。
「さようなら!」
クーアが、ぐんぐん空へと登って行きます。船のマストを超えた所でぴたりと止まりました。口を大きく開きます。
クーアは、霧を吸い込んで、吸い込んで、吸い込んで。そして、風船みたいにはじけました。霧はクーアと一緒に消し飛んで、太陽の光が差し込みます。
飛び散ったクーアのたくさんの鱗が、雪のようにトルの手に舞い降りてきます。
「さ、急ぎなピエロさんよ。霧はしつこいぜ」
「はい!」
トルは元気よく叫びました。
甲板にはまだ、いくらかの人が残っていましたが、かなりの人が消えてしまったようです。その残ったいくらかの人も、目はうつろで何やらぶつぶつとうわごとをつぶやくばかりです。船の向こうを見れば、早くも新しい霧が人間をとらえようと立ち上ってくるところでした。
「はっ!」
トルは縄に足をかけ、ジャンプして船長さんの所まで跳び上がりました。
「すいませんが、ここ使わせてもらいます。あと、下のネットを外してもらってもいいですか?」
「……いいだろう。これも使っていいぞ」
船長はトルにデッキブラシを投げてよこすと、縄梯子を使って降りはじめました。その中ほどで、腰に挿した刃の曲がった刀を抜いて、万が一の時のために張ってあった網を断ち切ります。
そして、トルはデッキブラシを水平に持って、目の前の縄に向き合います。
何度挑戦しても渡り切れなかった、ピエロの道が続いています。
その時、今まではぴくりとも動かなかった船が、大きく揺れ始めました。まるで、海が船に『離さないぞ』としがみついてきているかのように。
けれど、もはや、トルの顔に焦りはありません。ピエロらしいとぼけた笑みがしっかりと顔に浮かんでいます。しっかりととぼけることができるなんて、さすがトルは一人前のピエロです。
「さあ、みなさん! お立合い、縄も渡れぬ哀れなピエロの、一世一代の大勝負。今度の今度は失敗すれば、落ちて死ぬ。どうぞ、みなさんごらんあれ!」
トルの大声に、甲板で沈んでいた人たちは顔をあげました。だけど、その目はまだ、ぼーっとしたままです。その中にはキールもいます。
一歩目でみんなの顔に色が戻り
二歩目には目に光が宿り、
三歩目には皆が立ちあがって食い入るようにトルを見つめだしました。
トルは笑顔のまま、ゆっくりとけれどたしかに歩みを進めていきます。
まさに、中間まで来た、その時でした。
トルがデッキブラシを縦に持ち替えました。しかも、片足を上げてけんけんの格好です。
そこに横からの風がトルに吹き付けました。
落ちる――と私は思いました。甲板の人たちも悲鳴のような声を漏らします。
けれども、トルは片足の甲をロープに引っかけると見事に一回転して、デッキブラシを手の平にそのままのせたまま、見事にロープの上に着地しました。
辺りは拍手拍手の大喝采です。
トルはそのまま、縄の上を片足で跳びはねたり、逆立ちして足の裏にデッキブラシをのっけたり、一秒も同じ格好をすることはなく、見事に縄を渡り切りました。
「やったな! ピエロ! 見直したぜ!」
さらに大きな歓声に包まれて、トルは優雅に一礼しました。
トルの大きく膨らんだ涙のワッペンは、まるで、ほっぺたにたれるコブのようでした。
月のない綺麗な夜でした。
星が海に話しかけることができるほど近くにあって、波の音のお喋りにまばゆい光で応えています。
「ついたぜ。さあ、降りな」
船長さんは、甲板から船着き場に長い木の板のスロープを渡してから言いました。我先にとそこにいた人たちが船を降りようとします。トルに対して礼の一言もありません。
「ちょっと待ちな。ここから先に行けるのはそこのピエロ一人だけだ」
船長さんは、スロープの前に足をかけて通せんぼします。
「なにを言っているんだ! なんのために長いこと船で旅をして来たと思ってるんだ!」
「そうだ! 何でそこのピエロだけがルールの悪魔の城に行けるんだ! 不公平だ。職業による差別だ」
不満が出るわ出るわ。かなりの数の人間が消えてしまったというのに、まだまだ、元気は残っているみたいです。
「ここから先に行けるのは、何をやっていてもいいが、『一人前』のやつだけなのさ。『一人前』の人間はあの海を誰の力も借りずに乗り切らなきゃならなかった。でも、お前らはピエロの力を借りなけりゃ、消えちまうところだった」
船長さんがそう言うと、そこにいた人のほとんどが、トルを妬ましそうに見つめました。
ああ、トルが助けてあげたから今、ここにいるというのに、なんという恩知らずな人たちでしょう。
「でも、こいつだって自分の力だけでここまで来た訳じゃないじゃないの! 誰かの力を借りちゃいけないっていうなら、船を使っちゃいけないし、キールの釣った魚だって食べちゃだめなはずでしょう」
小太りのおばさんが、りんごを齧りながらこぼしました。あっという間に食べ終えると芯を甲板に吐き出します。
「いや、それは違う……俺はやっぱりこの先に行っていいのはトルだけだと思う」
それまでずっと黙っていたキールが腕組みをしながら口を開きました。
「どうしてですか? 人の手を借りたという意味では誰でも同じでしょう?」
「違うんだ。船に乗るのはいい、水とか魚とかは他人からもらうのもいい。でも、心の強さだけは他人のおさがりじゃだめなんだ。俺たちの代わりに、トルは自分の相棒を失って傷つかなくちゃいけなかったんだぜ」
キール本人にそう言われては、おばさんもそれ以上何も言うことはありませんでした。まだ、納得していなさそうな顔つきをしている人もいましたが、口を開いてまで異を唱える人はいません。
「ありがとう。キール」
「礼を言われるようなことじゃないさ。ルールの魔女のところに行けるのは俺だって言ったけれど、それは間違ってた。お前の方がふさわしい。……お前の相棒、俺たちのせいで死んじまったんだよな。すまん」
「ううん。僕がもっと船に乗る前に蓄えておかなかったのが悪いんだよ。大丈夫」
トルはいつものように笑っていましたが、心の中がどうなっているかはわかりません。一人前になったピエロの、お化粧の下に隠れた本当の気持ちを、誰も知ることはできないのです。
「そうか……ああー、もう一度修行のやりなおしだぜ! ここの船長の下で働くか!」
キールは吹っ切れたようにそう言って、手を組んで大きく伸びをしました。
「がんばってね」
トルは帽子をとって軽く頭を下げます。
「お前もな」
キールが手を挙げて応えます。
「別れの挨拶はそこまでだ。さっさと降りな。ぼやぼやしてると出航するぜ」
船長の言葉に二人は踵を返します。
トルは、キールと背中合わせに、それぞれ別々の方向に向かって歩き始めました。
地面に降り立つと、あっという間にスロープは片づけられてしまいます。
船が港から離れて、水平線の向こうに消えるまで見送ってから、トルは振り向きました。
その目が見つめるのはただ一つ。山のように大きな、灰色のお城です。
「ようやくたどりついたね。クー……」
トルはもう隣にはいない相棒の名前を呼びかけて、静かに口を閉じました。