2 昔々あるとろに
突然ですが、昔話をしましょうか。
いえね、何てことはないんです。
おとぎ話というのは『昔々』で始まるものだと決まっています。なのに、さっきの私はとても急いであなたにお願いをしたので、つい『昔々』について話すことを忘れてしまったのです。それで、今更ながら埋め合わせをしたい、とこういう訳です。
お付き合いくださいます?
ありがとう。
それでは、昔昔、世界には今よりたくさんの人がおりました。もちろん、その頃は誰かに必要としてもらえない人間が消えてしまうなんてルールは無かったので、人は増え放題だったのです。ですが、その頃の人間は少々わがままが過ぎました。食べきれない程のご飯を作っては簡単にそれを捨ててしまう、明日使う人のためにとっておいてあげなくてはいけない川のお水を変なお薬で汚してしまったり、どの神さまが一番偉いかなんてことを巡って何年も何十年も終わらない喧嘩をしていたり、それはもうひどかったのです。
あなたも学校で習いませんでした? 『環境問題』とか『戦争』とか漢字で書くとそんな風になる問題です。まだ、習ってなくても大丈夫ですよ。学校の先生はそういうことを教えるのが大好きですから、そのうちきっと習うはずです。
とにかく、そういった問題ばかり起こす人間を見て、神様はほとほと呆れ果ててしまいました。
あ、ここでいう『神様』といのは、『世界のルール』を決める人ということです。あなたは犬を飼ったことがありますか? いえ、飼ったことがなくても構いません。それでも、犬のお散歩をしている人くらいは見たことがあるでしょうから。お散歩の時に、飼い主さんが名前を呼ぶと犬はその人の所にやってきます、お座りと言えば座ります。『神さま』はその中でも一等、すごい人です。なぜなら、世界の飼い主なのですから。犬はもちろん、人間でも、山でも、海でも、『飛べ』と命ずれば飛ばすことができますし、『眠れ』と言えば眠らすことができます。
そんなすごい神様ですから、もちろん、人間に『ご飯を大切にしなさい』とか、『喧嘩をやめなさい』とか命令するのは簡単なことです。だけど、人間は忘れっぽくてすぐ命令を聞かなかったことにしてしまうので、神さまはとてもうんざりしていたのです。
そこで神さまは考えました。人間のルールは、人間自身の代表に創ってもらおう、と。こうして、世界のどこかに立派なお城を造り、その中の一番大きな部屋に玉座――つまり、一番偉い人が座る椅子のことです――を置きました。
その椅子に座った人間は誰でも世界にルールを創ることができるのです。あなたが座ったならどんなルールにしますか? 前には『世界の全てをお菓子にすること』何てルールを作った人がいましたね。それで喜んだのは人間よりも、食べ物がたくさん増えた虫たちだったので、すぐに別の人がなかったことにしてしまったのですが。
ただし、もちろん、好き勝手にいくつもルールをつくっていい訳ではありません。それでは神さまと人間との区別がつかなくなってしまいますから。人間がつくれるルールは一つだけ。それが、神さまの決めたルールです。『ルールをつくるためのルール』なんてとってもややこしいでしいですね。
ここまでお話すればもうお分かりでしょう。
『他の人から必要とされない人間は夜の十二時に消えてしまう』。
これも人間がつくったルールの一つです。
「さすが都会だ。とても高い壁だね。クーア。大きな玉に乗って背伸びをしても、全然先が見えないよ」
トルは目の前の灰色を見上げて呟きました。
トルの後ろに続くのは、この前の田舎とは違う、四角い石でしっかりと舗装された道路です。でこぼこも少なく、だからこそトルはこうして玉乗りしながらやってこられたと言う訳です。
相変わらずのとぼけたパジャマで、顔にはどうらんを塗りたくっています。頬のワッペンはいちごくらいの大きさになっていました。
トルの言葉を聞いたクーアは、空を泳いで高くまで飛んで、壁を楽々とこえました。そのつぶらな瞳にはしっかりと壁の中の光景が映っているのでしょうが、悲しいかな、クーアはお魚。口をぱくぱくさせるばかりでトルに伝える方法がありません。
「ありがとう。クーア。でも、大丈夫、実際に中に入って見てみればいいことだよ」
トルはそう言って、足で玉を器用に操ってとても大きな扉の前までやってきました。
その扉は、みんなが門と呼んでいるのと同じものです。冷たい鈍色をした鉄でできていて、まるで『誰も入れないぞ』と身体全体で叫んでいるようでもありました。
門の前には、眉を寄せて恐ろしげな顔をした門番が立っています。
「こんにちは。僕はピエロです。中に入れてください」
トルは玉の上で腕を曲げてお腹の辺りにくっつけて、丁寧にお辞儀をしました。
「君は誰だね! 実に怪しい奴だ。服はみょうちくりんだし、顔を白い何かで隠している。おまけに空を飛ぶ魚までくっついている。そんな奴を中に入れてやる訳にはいかないな。中に入れたら、何かを盗むかもしれないし、誰かを傷つけるかもしれない」
門番はその手に持っていた槍をトルに突き付けてきます。
「そんな、僕はピエロです。泥棒でも、乱暴者でもありません。見てください。あなたは槍で僕を突くことができるけれど、僕にあるのは中身がスカスカの玉だけです。これでどうやって、泥棒したり、人を傷つけたりできるっていうんですか。僕はカタツムリと同じくらいゆっくりで、風船よりも弱いのに」
トルが言い返した理屈はもっともです。
みなさんは門番をひどい人だとお思いでしょうが、私の考え方はちょっと違います。
門番は疑うことがお仕事なのです。トルが人を笑わすことをお仕事にしているのと同じです。
「とにかく、この門はみんなと同じようにしてもらえないと通すことはできないよ」
「でも、僕はどうしても中に入らなきゃいけないんです。僕の行きたい場所への船が出るのはここの街だけだから」
「だったら、ここのやり方に従うことだ」
「……仕方がありません」
トルは渋々と言った様子で頷いて、玉から降りました。それをお腹に縫い付けられたお月様を半分にしたようなポケットにしまうと、顔のおしろいをごしごし拭き取ります。
「だいぶ、普通らしくなった。だけど、まだ、変だぞ、どうして君は顔の半分だけで笑っているんだい?」
トルはそう言われてから、もう半分の表情を造って、ちゃんとした笑顔をつくりました。
「本当はこういう時は真面目な顔をするものなんだが、まあ、田舎からきたおのぼりさんの中には君みたいに変ちくりんな格好をして笑っている人もいた。だから、中に入るのを許してあげよう――開け!」
門番がそう叫ぶと、門が猿の鳴き声のような音で開き始めました。
「ありがとうございます」
トルはそう言って、また、大きな玉を取り出してのっかろうとしたんですが――
「何をしてるんだい!」
門番は慌てたような声で、槍を突き出して、トルが進む邪魔をしました。
「玉のりをしようとしただけなんですが……」
突然のできごとに驚いたトルは玉から転げ落ちます。それから尻もちをついて、きょとんとした顔で門番を見つめました。
「全く、君は何にもわかっていないようだから教えてあげよう。田舎ではどうだかしらないが、都会では、どこで何をするかはきっちりと決められているんだ。道路は歩くか、馬車が行く所、門は大人しい顔をしてくぐる所、決して玉を転がす場所なんかじゃない」
門番は槍の先で、門を、道を、次々に指して言いました。
「でも、それじゃあ、門のさびを数えてみたくなったり、道のレンガでケンケンパをしたくなった時はどうすればいいんですか?」
トルはため息をついて立ち上がり、服についた汚れを払います。
「何を馬鹿なことを。我慢するに決まっているだろ。だけど、どうしてもそうしたいなら、たくさんのお金を払って広いお家を買って、そこに道と門を造ることだ。家の中は買った人が好きにしていい場所だから」
「僕はお金持ちではないので無理ですよ……別に誰かの迷惑になるようなことはしません。門は隅っこにいるし、ケンケンパだって誰かにぶつからないように注意します」
「それでも、ダメなものはダメなんだ。他の人と違う動きをする人がいるとそれだけでみんなびっくりしてしまうだろう? 都会にはただでさえ、毛色の違うたくさんの人がいるんだから」
門番は分からず屋の子どもを叱る先生のような声色で言いました。
「わかりました……でも、これだけは確認させてください。僕はピエロをできる場所はありますよね」
ああ、なんてかわいそうなトル。あんまりにもあれもダメだこれもダメだと言われるものだから、すっかり心配性になってしまいました。
「もちろんさ。噴水のある広場では、楽器を奏でたり、芸をしたりしても良いことになっているよ。都会は文化的な場所だからね。さ、用件が済んだら早く行って。後の人がつかえているから」
門番は早口でそう説明しながら、トルを急かすように手招きしました。
「教えてくれてありがとうございました」
トルは小さな声で言って、やっと壁の中に入ることを許されました。
「うわああ。さすがに都会だね。すごいや……喋っても怒られないよね? だって、みんなお喋りしているもの」
トルは目を輝かせて言いました。ちゃんと周りを見て、しきたりを確認することも忘れません。それにしても、さっきのしょぼくれた様子が嘘のようです。ピエロは悲しいことよりも、楽しいことの方が大好きなのですから、当然ですけど。
クーアもあっちに跳ね、こっちに跳ね、忙しそうです。
「こんなにたくさんの色があるなんて、愉快でしょうがないよ」
そうなのです。さすがに都会というだけあって、立ち並ぶ家はどれも個性的でした。例えば、この前、訪れた田舎何かは、家の形はかやぶき屋根の一種類きりでしたし、壁の色もせいぜい、白か茶色の二種類しかありませんでした。それに比べて、都会の素晴らしいこと。壁の色は、赤、黄色、水色、だいだい色、24色の色鉛筆でも描けないほどでしたし、天井はそれ以上の色の種類があります。しかも、形だって何一つ同じものはありません。円い筒のようなのもありますし、おにぎりみたいな三角のやつはもちろん、どうやって暮らしているのかわからない、渦巻の家まであります。
「今すぐ、スキップしたい気分だよクーア! さっきの門番さんに聞いてこようかな? 『スキップしてもいいですか?』って」
クーアはトルの言葉に頭を振り、道の先を指し示します。
「そうだよね。僕は旅をしているんだから、寄り道はあまりしちゃいけないよね。まずは広場で芸をして、『必要』を稼がないとね」
トルは頷いて、鼻歌混じりに左右の家々を見ながら進んで行きました。
「なんと! そのまま大空に飛び立ってしまいました!」
トルが空中に放り投げたお手玉が、白い鳩となって飛んでいきました。
しかし、拍手はおろか、歓声一つ湧きません。噴水の水が落ちる音が、一番大きな音なくらいです。
トルが一生懸命芸をしている広場には、確かにたくさんの人がいるのです。ですが、皆、となりでギターをかきならす歌手さんやら、クリーム色のカンバスに絵具を塗りたくる画家さんの所へ集まって、トルには目もくれません。
「どうして誰も僕のことを見てくれないんだろう?」
トルは首を傾げます。待ちゆく人の気を引くように、派手に飛びまわっていたクーアも、元気なさげに丸い胸びれをたたみながら戻ってきて、トルの肩に落ち着きました。
トルはしばらく腕を組んで考え込んでいましたが、やがて、自分だけではらちが明かないと思ったのか、向こうからやってきた人の肩をつかみました。
「あのすみません。ちょっと、伺いたいことがあるんですけど」
「なんだね? 私は急いでいるのだが」
その頭に白髪の混じった男の人は早口でそう言って立ち止まりました。
いえ、立ち止まるというのは正しくありませんでした。正しくは、その場で足ぶみ(・・・)をしました。まるで運動会で整列する時みたいな様子です。
服はぴっしりとしたスーツで、偉そうな口ひげをたっぷりと蓄えています。なぜか、やたらめったら時計を持っていて、右と左の手首からは腕時計、首からは鎖につないだ懐中時計を下げて、おまけに靴にはストップウォッチがついています。右手には革の鞄を、そして、左腕には先ほど、トルの隣の絵描きから買った絵を挟んでいます。
「あの、どうして誰も僕の芸を見てくれないんでしょう?」
トルはその人につられるように足踏みしながら尋ねます。
「なんだね。そんなくだらないことかね。決まっているだろう。君の芸を見ても『幸せ』になれないからさ」
「『幸せ』? 僕はピエロですから、見た人を幸せにできるかはわからないけど、笑わせることはできます。それではダメなんでしょうか?」
「いいかね、君、『笑い』にも程度の高いのと低いのがあるんだよ。この世界では人に必要とされなければ消えてしまう。人に必要とされるのは他人に幸せを振りまける人間だ。他人に幸せを振りまくには幸せの蓄えが必要で、そのためには、自分が幸せにならなければいけない。自分が幸せになるには心を豊かにしなければならない。心を豊かにするには、限られた時間の中で、素晴らしい芸術に触れなければならない。絵画とか、詩とか、高級なものにね。君に割いている時間はないと言う訳さ」
男の人は、自分の持っている絵をトルに見せつけて言いました。
その絵を何と書けばいいのか、とても難しいですね。りんごのようにもごりらのようにもらっぱのようにも見えますし、誰かが間違えて絵具入れをひっくり返して、カンバスの上で踏み潰したようにも見えます。
お話の洪水というやつです。この男の人が何を言っているのか、私もよく聞き取れませんでした。だけど、気にしなくてもいいですよ。聞き取れないことは大抵、聞かなくてもいいことなんですから。
だってそうではありませんか?
あなたが、本当に大切な人に『好きだよ』と言う時に、こんなに早口にたくさんのことを言いますか?
大切な言葉は恥ずかしがり屋です。お腹から出てこない、喉から引っ張り出すのにはさらに一苦労、そうして口の中までやってきても、やっぱり飲み込んでしまうこともある。そういうものではないですか?
「あの、よくわからないのですが。僕の芸は『程度が低い』のでしょうか」
「この都のサーカスに比べればね。さっき、絵を買うついでにちらっと見た所では、君の芸には『含蓄』というやつが足りないね」
男の人は腕を組んだまま、風に吹かれた竹みたいに傾きます。
「『がんちく』って何ですか?」
「君は本当に学がないねえ。つまり、サーカスというのは人生なのだよ。はじめにピエロが出てきて、パントマイムなどをやる。これは愚かな子ども時代を表しているんだ。そして、次にライオンが火の輪くぐりをする。これは、青年に成長した子どもが自分の中のけものを飼い馴らす苦労を表現している。そして、最後は綱渡りに空中ブランコだ。人には、いつも落ちる不安を抱えながら細いロープの上を渡るか、大きな危険を冒してブランコから跳ぶかしかない。娯楽の中にも、意味がある。それが、含蓄というやつだよ」
男の人は右腕の時計を見ながら、左手の腕時計を耳にあてて針の音を聞いています。
「……でも、僕もピエロです。パントマイムもできるし、綱渡りだってできます。ライオンはいないけれど、僕の相棒の魚――クーアだっています。それじゃだめなんですか?」
「全くダメだ。空飛ぶ魚なんてナンセンスだ。非現実的だよ」
そう言って、男の人は大げさに肩をすくめます。
「あの、『現実』は『そこにいること』ですよね。クーアは確かにここにいます。現実です」
しかし、トルとしても黙ってはいられません。大切な友達をいないことにされてしまうなんて、到底認められませんから。
「ああー、もう、何もわかっていないな。そんなじゃ君は誰からも必要とされなくなってしまうよ!」
男の人は肩をいからせて行ってしまいました。
「何で、あの人は怒ってしまったんだろう」
トルは眉間にしわを寄せてうつむきます。クーアも苦しそうに口を開け閉めするばかりです。
「誰が、程度の高いものと低いものを決めるのだろう。お城にいる『ルール決めの魔女』みたいに偉い人が決めているのかな……」
「そうだよ!」
「わっ」
トルはつぶやいた独り言にまさか反応があるとは思わなかったのでしょう。慌てて跳びのいて、振り返ります。
そこには、ボロをまとった女の人が立っていました。とはいっても、まだ若く、トルよりは5才かそこら年上といったところです。
「あいつら『かつかつ族』は自分じゃいっぱしの芸術家気取りだけど、本当は頭が空っぽなんだ。自分で何かを生み出すこともしなければ、考えることもしやしない。さっきあんたに偉そうに言っていた説教も、これの受け売りさ」
そう言って、トルにくしゃくしゃの新聞紙を見せつけてきます。
びっしり並ぶ文字に目を細めたトルでしたが、そのあまりの漢字の多さに我慢できなくなったみたいに顔を背けます。
「その、アムさんという人が、偉いか偉くないかを決めているんですね」
どうやらトルは、カタカナは読めたみたいですね。新聞の半分の面積に大きく書かれた名前を読めたようです。
「そうさ。このアムって奴が誉めたものは絵でも歌でも大人気、だけどけなされた日にはそれはもう大変よ。昨日まで大入り満員がすぐに閑古鳥」
「へえ」
「でも、そんなのおかしいわよね? 芸が素晴らしいかどうかを決めるのは他人じゃないわ! 自分よ! 見たところあなたも私たちの仲間のようだわ。いらっしゃい。私の作品を見せてあげる!」
女の人はトルの袖をしきりに引っ張ります。
「あの……そしたら、僕の芸を見てくれます?」
トルは心細そうに言いました。誰にも芸を見て貰えなくて自信をなくしていたからかもしれません。
「私のを見てくれたら、あなたのも見てあげるわ」
「……行きます」
トルは眉をひそめたまま口は笑っているという不思議な表情で、女の人に手を引かれて行きました。
幾分、散らかった大部屋でした。
床には缶からが転がっているし、あるスペースには腕のもげた人形が逆さに貼り付けられています。まるで、お行儀の悪い子どもがおもちゃ箱をひっくり返して、遊んだ後のようです。
学校の教室程の広さの部屋に、一人一人が使えるスペースを、強引に天井に釘で打ちつけたカーテンで仕切ってつくりだしています。
「さあ、ここが私たちの家よ」
「お邪魔します」
トルはお辞儀をして部屋の中に入りました。
「みんな、新しい仲間よ! 名前は……ええと、なんだっけ?」
「トルです」
「そう、トルね。さ、じゃあ早速、私の芸術を見せてあげるわ」
「そんなことより、僕の恋人たちを見ていきなよ」
「いや、それより俺の考えた体操を――」
トルはあちこちから袖を引かれて、みんなに引っ張りだこです。
「僕はこの人のを見る約束をしたんです」
トルは律儀に、誘ってくれた一人一人に頭を下げて、案内してくれた女の人にくっついていきます。
「さあ、どう!?」
女の人は彼女の部屋らしい場所を、手を広げて自信満々に紹介しました。
「どうって……」
トルはかかしにように棒立ちになって困り顔です。
それも当然でしょう。そこにはただの空き缶が転がっているだけなのですから。いえ、それは正確ではありませんでしたね。転がらずに立っているのや、潰れてぺしゃんこなのもありますから。だけど、全部、缶であることは本当です。
「僕にはわかりません……」
トルはしょんぼりしながら正直に打ち明けました。
「そう! そうなのよ! これは最初はわからないものなのよ。でも、じっくり見てればわかるはずよ!」
女の人は手を叩いて、トルに顔をぐっと近づけました。
トルは言われた通りに、転がった缶からを見つめました。それから、助けを求めるようにクーアをちらっと見ます。ですが、クーアも口をぱくぱくさせるばかりです。
「ごめんなさい。やっぱりわかりません」
「そんなことはあるはずはないわ! そうね。こういうのは本当は私から言うべきことじゃないのだけれど、これはあなたの心を移す鏡なのよ。立っている缶を見て、捨てられても立派に立って勇ましい、と言う人も居たわ。錆びて缶からに移ろいゆく都会の美つくしさを見つけた人もいた。あなたはどう思うのかしら?」
そう言われても、目の前にあるのはただの缶です。ちなみに私は、資源ごみの日はいつだろうと思いました。そうそう、後スチール缶とアルミ缶はしっかり分別しないといけませんね。
相手の女の人がとても真剣に見つめてくるので、トルは少しでもいいことが思いつくようにと頭を揉みながら考えます。
そして、顔をぱっとあげました。
「缶のふたを切ったらどうでしょう! そしたら、土を入れて花を活けられます。それから、アルミの缶なら切り開いて、かわいい動物が造れます。僕もよくそこら辺におちている紙で折り紙したりするんです。楽しいですよね」
トルは満面の笑顔で言いました。さすがはピエロですね。私は捨てることしか思いつきませんでしたが、トルの頭にはただの缶を楽しくする方法がたくさん浮かんでいるようです。
「それは感想とは言わないわ!」
ですが、トルのせっかくの愉快な提案に、女の人は嫌そうに口をへの字にしました。
「そうですか? でも、そうした方が見ている人はきっと楽しいと思います。きれいな花を見れば、みんな幸せな気持ちになるはずだから」
「見ている人がどうしたっていうのよ! 大切なのは自分でしょ? そうやって、他人の言うことばっかり聞いていたら、自分の作品じゃなくなっちゃうじゃない!」
「でも、誰かに見てもらうために作品を造っているのではないのですか?」
トルは首を傾げます。
「そうよ! でも、誰かに見てもらうのは自分が幸せになるためでしょ?」
「そうかもしれません……でも、僕はやっぱり、見ている人に喜んでもらえなければ嫌だな。だって、僕は誰かが笑ってくれて初めてピエロになれるんだもの。自分が満足する芸をやるのは楽しいけれど、見ている人が笑ってくれなければ僕はただの愚か者になってしまうから」
トルは真剣な顔になって、つっかえながらも必死に自分の思いを言葉にします。
「その考え方、まるで『かつかつ族』みたいだわ! 人の芸術にけちをつけるなんて最低よ。お互い、良い所だけ認め合えばみんな幸せなのに!」
「けちをつけるなんて……僕は、あなたの芸がもっといいものになればいいって思っただけなんです」
「とにかく、あなたとは考え方が合わないわ! 出て行ってちょうだい」
「……わかりました」
入った時はみんな歓迎してくれている雰囲気だったのに、その人たちは今、心臓が締め付けられるような痛い視線をトルに向けてきます。
トルは逃げるように部屋から飛び出しました。女の人の作品を見たのですから、今度はトルが芸を見てもらう番だったはずなのですが、よっぽどそこにいたくなかったのでしょう。
「都会は難しいね。クーア。僕はただ、僕の芸を見て笑って欲しいだけなのに、どうしてこうややこしくなってしまうんだろう」
トルはがっくりと肩を落として、先ほどの広場へと戻って行きます。
クーアは背中でトルの首筋を撫でました。
「慰めてくれてありがとう。クーア。本当はもっとここで『必要』を集めたかったんだけど、仕方がないから早く船を探してみよう!」
トルは心の中のもやもやを振り払うように走りはじめました。まっすぐな下り坂を降りて行くと、ふんわりと海苔のような匂いがしました。
「海だ!」
トルが両手をばんざいして叫びました。はるか向こうに、空に誰かが真っ青な横線を引いたような海があります。クーアのうろこが月明かりを照り返すのと同じくらいのきらきらに、トルは目を細めました。まるで、太陽と海が踊っているみたいです。
一気に下まで駆け下りると、トルは船を探しはじめました。
「きっと、一番大きな船だよね。みんな、『ルールの魔女』には会いたいはずだもの」
トルの予想は当たっていましたし、それはすぐに見つかりました。だって、その船は港の出っ張っている堤防の一番目立つ所に王様のように停まっていましたから。まるで、小山のように大きな船でした。その形は、まんまるなお月様を半分に切って浮かべたようです。実際、船にはオールを持ったウサギが何匹も描かれていて、まるでそれが海を動かしているかのように見えなくもありません。
「あの、すみません! 僕、『ルールの魔女』がいる大陸に行きたいんですけど。この船に乗れば行けますか?」
トルは、船のロープを引っかけるための出っ張りに片足を乗っけている船長さんに聞きました。どうして、船長さんとわかったかといえば、セーラー服にいかりのマークのついた帽子を被っていたからです。
「ああ。確かにこれは、『ルールの悪魔』がいる所へ向かう船だよ」
船長さんは水平線の向こうを見ながら、ぶっきらぼうに答えました。もっとも、トルが嫌いな訳ではありません、船長さんは誰に対してもこうやってかっこつけたがるものなのです。
「良かった。僕、『ルールの魔女』に会いたいんです。この船に乗せてください」
「……それは、難しいな。この船はでっけえが、乗りたい奴が多すぎる」
「じゃあどうすればいいんですか? 順番に並んで待てばいいんでしょうか?」
「そんなことをしても無駄さ。この船に乗れるかどうかは全部あんた次第だ。船に乗れるのは、それぞれの波止場で『一番必要とされている』奴だけ、どんなに長く待っていたからといって乗れる訳じゃない。船の持ち主が決めた『ルール』だし、すぐに消えてしまうような、人から必要とされる才能のない奴を船に乗せても、十二時になったら何もかもが泡と消えちまうからな」
「……僕はピエロなんです。芸をして喜んでもらえばいいっていうことですか?」
「俺に聞かないでくれ。俺は船長だ。海の天気の変わりやすさと、潮の流れは知っているが、芸のことなんてわかりゃしない。特にこの街の『どうやったら必要とされるか』のルールはややこしくて、俺は気に食わねえんだ。前の都みたいに、『一番、りんごを多く食べられる奴』みたいにわかりやすいのならまだしもな」
「そうですよね……教えてくれてありがとうございました」
トルは腕を組んで、くるりと身体を反転しました。
「僕が甘かったよ。クーア。やっぱり、逃げちゃいかなかったんだ。わからなくて嫌なことだからって、一個とばしにしてしまうと、こうやってつまずいてしまうんだね」
トルは反省するように自分の頬を叩きました。
「でもどうしようかな、僕にはあの時計をたくさん持っていたおじさんみたいに、何の程度が高くて、低いのかもわからないし、あの女の人みたいに、人にどう思われてもいいとは割り切れない」
潮風が吹いて、トルの帽子を揺らします。すると、クーアが素早く跳ねました。風で飛んできた何かを自分の身体に引っかけてトルの所に運んできます。
「なんだい……? ああ、そうか! さすがはクーアだ。あの女の人が言っていたよね」
トルは半分破れた新聞紙を手にして頷きました。
「この新聞に芸の感想を書いているアムさんという人に認めてもらえれば、みんなに僕のことを知ってもらえるんだよね。みんなに必要としてもらえる可能性もぐっと高まるっていう訳だ。だけど、どこにいるんだろう?」
トルは堤防に腰かけて、足をぷらぷらさせながら新聞を隅から隅まで眺めましたが、それらしき住所はどこにものっていません。
「仕方ない、街の人に聞いてみよう。どこに行けばアムさんに会えるのか」
トルは元きた道を引き返し、長い坂道を、息を切らしながら一歩一歩登って行きました。
その後のことは、詳しくおしゃべりするほどのことでもありませんね。
トルは、それはもう丁寧に、洋服屋さんや銀行やお巡りさん、目につく人全てに片っ端から尋ねていったのです。
「他の人に聞いてちょうだい」、「当行の業務の範囲外です」、「役場の人なら知っているかもしれない」、これらは全部、『私は知らない』ということを言っているのですが、よくもまあこれだけの言い方があるものです。トルはあまりにもたくさんの種類のそれを聞きすぎて、その多さときたら『私は知らない』ないだけで博物館を造れるほどでした。
「アムさんという人を知りませんか?」
トルは今日最後にすると決めた質問を口にしました。
「知らないねえ。仕事の邪魔だからどっか行っておくれ」
太ったおかみさんがうっとうしそうに言いました。立ったまま背をかがめて、線のいっぱい引かれた紙にしきりに何かを書きこんでいます。
「あの、じゃあ。僕をここに泊めてください。ここは宿屋さんですよね?」
トルはため息をついて言いました。
「なんだい、お客さんかい。なら、最初からそう言いなよ」
ころっとにこにこ顔に変わったおかみさんが言いました。
「アムさんを探していたので……それじゃあ、一晩お願いします」
「それはいいけど、あんた、ちゃんと金を持っているんだろうね?」
「はい!」
トルはポケットに手を突っ込んで、それから棚の上で開きました。小さな子どもみたいな赤銅色のお金がはしゃぐように転がり、一つしかない銀色の硬貨が子どもをいさめるような重々しい音で落ちました。
「これが僕の全財産です」
「全く、あんた、看板の料金を見なかったのかい? ここに泊まるなら、一番安い部屋でも銀のやつが五枚はなきゃ」
今度はおかみさんがため息をつく番でした。
「そうですか……」
トルはますますしょんぼりとして、お金を元のポケットにしまいました。
別におかみさんがごうつくばりだという訳ではないのです。仕方がないことでした。トルが貰えるお金は芸をした後に気前のいいお客さんが放り投げてくれるやつだけなのに、都会というのは喋るのにもお金が出て行くような。暮らすのに高くつくところですからね。
さらに悪いことには、トルが宿屋さんの外に出た頃には、空はいまにも雨が泣き出しそうな程のくもり空になっていました。
雨はピエロの天敵です。だって、せっかくのお化粧が落ちてしまいますし、みんなが暗い気持ちになって、芸に笑ってくれにくくなりますから。
「ただでさえ今は心が重いのに、雨でびしょ濡れになって身体まで重くなったら、とても歩けそうにないよ。クーア。どこか雨宿りできるところを探してくれるかい?」
クーアは空高く飛びあがって、ぐるりと一回転した後、降りてきました。トルを導くように彼の服を咥えて引っ張ります。トルは早足で歩きながらその導きに従いました。
「時計塔だ……」
トルはその大きな建物を見て呟きました。
ちょうど、九時になった所で、半分に割れた時計の間から、からくりの人形たちが飛び出してきてどんちゃん騒ぎを始めました。偶然、雨も一緒にふりはじめましたが、人形を守るようなひさし――突き出した屋根があったので、トルたちはそのおこぼれにあずかることができました。
ボーン、ボーンというゴムまりが弾むような鐘の音といっしょに、音楽が流れだします。心が落ち着くような、眠くなるような、オルゴール調でテンポの遅い曲でした。
「ちょっと、元気が出てきたよ。クーア」
トルは壁にもたれかかって、三角座りするとクーアを胸に抱くようにして撫でました。
何で元気が出てきたかって?
からくりの人形はトルのお友達みたいなものですからね。たぶん、仲間がいて心強かったのではないでしょうか。
「そこで何をやっておる?」
「わっ」
後ろから声をかけられて、トルは心臓を押さえました。勢い余って、クーアを一緒につぶしてしまって、慌てて手を放します。
「ごめん、クーア。あの……すみません。雨宿りをしたかっただけなんです」
声をかけてきたのはヘンテコな格好したおじいさんでした。下には燕尾服のズボンを着て、上着は派手な赤いハイビスカスの描かれた南国風のシャツです。おまけに、片足がなく、杖と呼ぶには太すぎる棒を支えにしています。
「ふむ、それは大変だね。でも、そこだと地面から跳ね返った雨粒で濡れてしまうよ。よかったら中に入るかい?」
「ありがとうございます」
トルの目にきらりとしたものが光ると同時に、クーアが慌ててそれを食べに行きました。
もっとも、トルが泣いてしまうのもやむを得ないことです。みんなからすげなくされた後の優しさはよりいっそう、身に染みるものですからね。
時計塔の中は薄暗く、ほこり臭い場所でした。
老人は巻貝のように上に続いている階段を、段差に杖をひっかけながら、ゆっくりと、けれども確かに登っていきます。
「雨が止むまではここでゆっくりしていきたまえ」
頂上には、畳が六畳ほどの空間があって、そこには布団や、かなづちやレンチなどの工具が並んでいます。
どうやら、老人はここで寝泊まりしているみたいです。
「すごい! ここにいればいつでも好きな時間を楽しめますね」
トルたちの周りを、決まった時間に外に出て行く人形たちが取り囲んでいます。巨大な竜に挑みかかる騎士もいれば、さっき見たピエロと楽団のもありますし、静かにベッドで眠っている女の子のもあります。
「そこに気づくとは、君は中々見所がありそうだ」
老人は顔をしわくちゃにして微笑みました。
「おじいさんはここで暮らしているんですか」
「そうだよ。わしは時計番だからね。大体、一日中、ここにいて時計の面倒を見ている」
「一日中!? それは大変ですね。いつ眠るんですか?」
「時々、居眠りをするんじゃよ。それで何とかやっておる」
おじいさんはおちゃめにウインクをして言いました。
「へえ……僕には絶対無理です。すぐ、お昼寝したくなっちゃいます」
「そりゃあ、お前さんはピエロじゃろう? いつもパジャマみたいな格好をしていればそうもなろう。ピエロっていうのは寝ながら起きて、起きながら寝ているようなものだからな」
「でも、その、暇じゃないですか?」
トルは遠慮がちに聞きました。人のお仕事を『暇じゃないか』と聞くなんて失礼なことですからね。
「それはもう、暇で暇でしょうがないよ。人形だって、同じやつを何十年も見ているからとっくに飽きてしまってもうお姫様の顔もみとうない。今じゃ暇つぶしが主な仕事みたいなもんじゃよ」
「暇潰しですかー。何をやるんですか? 玉乗りの練習はこの広さだとできなさそうだし」
「そこじゃよ! わしも最初はどうやって暇を潰すか、さんざん試行錯誤したものじゃった。天井の染みの数を数えたり、埃を集めて人形を造ったり、色々やったもんじゃったが、中々、ずっと続けられる暇つぶしはみつからなかった」
老人は上に下に視線をやって、今までの苦労を懐かしむようにつぶやきます。
「へえ、すごく気になります。僕もこれから船にのったら、暇つぶしをしなきゃいけないかもしれないんです。是非、教えてくれませんか?」
「まあ、待ちなさい。実際にわしの暇潰しを見せてやってもいいが、今はまだ、その時じゃない。雨があがってからでないとな。それまでは、お前さんの芸を見せてくれんか?」
「僕の芸を見てくれるんですか!?」
思わぬ所で現れた観客に、トルは意気込みます。
「ああ、是非見せて欲しいね」
おじいさんは深く頷きました。
トルは喜び勇んでお手玉をしたり、パントマイムを演じたりしましたが、なにぶんスペースが足りないので、おおがかりな芸はできません。外に振る雨の音はだいぶ小ぶりになってきましたが、だいぶ時間が余ってしまったようです。
「ええと……」
「無理はしなくていいんじゃよ。もう十分楽しませてもらった」
「いえ、時間を余らせてしまうなんてピエロ失格です。なにか――あっ、そうだ。ランプはありますか?」
「もちろんあるよ。夜も時計は見張るからね」
「それと……後はお布団のシーツを貸してください」
トルは時計塔の中に渡されたロープにシーツをかけると、少し離した所にランプを置きました。それから、自分がシーツとランプの間に入って、身を屈めます。
「ほう、影絵だね」
老人は楽しそうに呟きました。
そうです。いわば、それはトルが造った映画館でした。シーツに映った影を巧みにあやつって、トルは物語を紡ぎます。登場人物は時計塔で古びている人形たちです。いつも近くにいるのに、話すことも握手することもできないお姫様とピエロを、竜とブリキのロボットを結び付けて、素敵なお話が始まります。悲しくて、嬉しくて、寂しくて美しいような――、いえ、これ以上は申し上げるのはやめておきましょう。話すことで、摘んでしまったスミレのようにしおれてしまうおとぎ話もありますからね。
トルのお話が終わった頃には、すっかり雨の音も止みました。時計盤の隙間から、茜色の光が差し込んできます。どこかイキイキして見える、ブリキのロボットと陶器の踊り子が意気揚々と時刻を知らせに出掛けにいきます。
「もう、十二時だ。実に愉快な時間だった。こんなに楽しかったのは生まれて初めてだよ」
「ありがとうございます」
トルは手を合わせて、お祈りするような格好で言いました。頬のワッペンが膨らんで、オレンジくらいの大きさになっています。
「さあ、次はわしの暇つぶしを見せる番だな。そろそろだと思うんだが……」
老人はそう言うと手を耳に当てて、注意を外に向けました。
「みなさん! 今日私の話を聞くことができるあなた方は幸運だ。そして、皆さんにこの素晴らしいニュースをお知らせできる私も幸せだ。みなさんもご存じ、アムさんも絶賛のオペラ『網月の騎士』の続編、『ギザギザ甲羅の将軍』がいよいよ公開だよ。みなさんの気になるお話の内容、今日はちょっとだけ教えちゃおう。前回、悪戦苦闘の末、火星の化け物を捕まえた我らが騎士。だけど、今度はもっとすごい。仲間を取り返しに怪物の軍団が襲いかかってきちゃう。おっと、今日はここまで。続きは劇場で」
若い男の人の威勢の良い声が、時計塔の中まで響いてきます。
「ふむふむ。『網月の騎士』の続編か」
老人は若い男の人の話を聞き終えると、布団の下から黄色いわら半紙を取り出しました。そして、短くなった鉛筆を摘まむように持って、何かを書きつけていきます。
『『網月の騎士』は詩編だった。そこには歌があり、人間が確かに息づいていた。しかし、今回の『ギザギザ甲羅の将軍』はどうだろう。そこには、人間もなくテーマもなく、ただ、作者の自己顕示欲が操り人形のごとく不器用に彷徨っているだけである。そのタイトルのごとく『ギザギザ』な物語に誰が耽溺したいと願うだろうか――』
まるで呪文のような言葉が並びます。あなたは意味がわかりました? 私はわかりましたよ。要は、『つまらない』ということです。なぜって、おじいさんの顔が書いているうちにみるみる食べた後のキャンディの袋みたいになっていくのを見ていましたから。
「何をやっているんですか?」
トルが老人の手元を覗き込んで聞きました。
「見ての通りだ。あの男の人が言っていた話の感想を書いておるんじゃよ」
「でも、あの男の人はお話のはじめの部分しか喋っていませんでした。劇場に行ってお話を最後までみないと、感想は書けないんじゃないんですか?」
「わしも本当はそうしたいのはやまやまなんじゃが、持ち場を離れるわけにもいかんし、見に行くお金もない。だから、想像するんじゃよ」
老人はにやりと笑って、その頭を指の腹で叩きました。
「想像?」
「そうじゃ。お話のかけらを想像で膨らませて、想像の感想を書く。これで中々、暇が潰せる」
「おもしろそうです」
トルは目を輝かせて頷きました。トルはさっき影絵でそうしたように、お話をつくるのも大好きですからね。
「そうじゃろう。そうじゃろう。君もやってみるかね?」
「やってみたいんですけど、それだとピエロじゃなくて作家さんになってしまうので、我慢します……でも、書くだけでいいんですか。僕だったら、書いたものを他の人に見てもらいたくなっちゃうと思うんですけど」
トルは羨ましそうに唇に人差し指をくっつけます。
「もちろん、わしもそうじゃ。実はここからが一番おもしろいところなんじゃ」
「というと?」
「わしはこれを書いた後、『答え合わせ』をするんじゃよ。わしの書いた感想が正しかったかどうか」
「どうやってですか? 劇場から出て来た人に読んでもらう……訳にはいきませんよね?」
トルも今日一日、歩き回って色んな人にあったので、都会の人の忙しさは身に染みてわかっていたのでしょう。声に自信はなさげです。
「ああ。わしはこれを新聞社に送る。もちろん、嘘っこの名前でな。もし、わしの感想があたっていれば、わしの勝ち。新聞に感想がのる。わしの感想が外れていれば、のるはずはない。そうじゃろう? 新聞には嘘を書いてはいけないことになっているのじゃから」
「なるほど! かしこいやり方ですね。だけど、どうして嘘の名前を? 本当の名前じゃダメなんですか?」
トルは感心したように頷いてから、そう問いました。
「脚のない、しがない時計番のじじいの感想など相手にされんのじゃ。だから、嘘の名前を使うしかない。『わし』であることよりも『誰か』でいることの方が居心地がいいのじゃよ」
「そうなんですか……僕は別に誰の言うことでも区別はしないけれど」
トルは不思議そうに首を傾げます。
「お主はピエロ、特別なんじゃよ。……でもな、名前はどうあれ、わしは今のところ、この暇つぶしで負けたことがないんじゃ。大得意なんじゃよ」
老人はそう言って胸を張りました。
「僕も明日、おじいさんが勝ったかどうか知りたいです。なんていう嘘っこの名前を使っているんですか?」
「おお、それか。『アム』じゃよ。新聞は夜になるとそこら辺に捨てられているから拾って読むといい」
その名前を聞いた途端、トルは目を丸くして飛び上がりました。トルが驚いたのも当然です。探していた人がまさに目の前にいたのですから。
「ど、どうしたんじゃ! 急に飛び上がったりして。こっちまでびっくりしたわい」
「おじいさん。僕、『アム』さんをずっと探していたんです!」
「ふむ……なにやら分けありなようじゃな。話してみるがいい」
トルはつっかえつっかえ、今日あったことを話しました。もちろん、船にのらなければいけないこと。そのためには都会で一番、『必要とされている人』にならなくちゃいけないことも。
「そうかい。お前さんは、『ルールのお化け』に会うために旅をしておるのか」
「そうです。だから、僕はみんなから信頼されているアムさんに認められなくちゃいけないんです」
トルは鼻息荒く、老人に身体を近づけました。
「それなら、何の問題もない。お前さんは先ほど、すばらしい芸を見せてくれたからな。それを見て、素直にわしが思ったことを書いて、新聞社に送っておいてやろう。もちろん、新聞にのるかはわからんぞ」
老人は快く頷きます。
「いえ、ありがとうございます。感想を書いてもらえるだけで十分です」
「そんなに感謝しなくてもいい、わしもちょうどいい暇つぶしが一つ増えた」
その時、また、人形たちが飛び出す時間がやってきました。竜と騎士立ちが勇ましく外へと飛び出して行きます。
ぱかっと時計が開いた瞬間に見えた空には一番星が光っていました。
「おお、もう、三時じゃ」
「ほんとだ。三時……でもおかしいな。雨も止んだのに、何でこんなに真っ暗なんでしょう。三時じゃお日様が沈むには早いですよね?」
トルがそう言うとおじいさんは恥ずかしそうにうつむきました。
「実はな、この時計はちょっとずつずれてしまうんじゃ。わしが居眠りしたり、つい暇つぶしに夢中になっている間にな。だから、三時でも夜になったり、十時に晩御飯を食べなくちゃならないことになってしまう。時計番としては情けないことじゃ」
「それは仕方ないことですよ。おじいさん、一人で全部の時間を面倒見ることはできないもの」
トルが老人の肩を叩いて慰めます。
「そうかい? しかし、わしは見ておらんが、きっと街のみんなは困っているのではなかろうか」
老人はちょっと顔を上げましたが、やっぱりまだ心配そうなぼそぼそ声で言いました。
「いえ、みんな全然、困っている様子はなかったですよ。時計をいくつもつけているおじさんも全然気付いている様子じゃなかったし」
「ふむ……そうか。きっと、外の者には、今本当が何時かなんてどうでも良いことなのじゃな。街の代表のこの時計が、しっかりと動いていさえすれば、針がどこを指していようとお構いなしという訳じゃ」
老人はそこで初めて気づいたというように手を叩きました。
「きっとそうですよ。それに、どんどんずれていけば、いつかはちゃんとした時間に戻ります。だから、大丈夫です」
トルはそう言い切って、老人に微笑みかけます。
「君の言う通りだ。で、どうするかね? 外はもう暗いし、わしと一緒に泊まっていくかい?」
老人は嬉しそうに何度も頷いて、布団をぽんぽんと叩きます。
「いえ、もう行きます。外に出て芸の練習をしたいんです。今が一番、都合のいい時なんで」
トルはゆっくり首を振って立ち上がります。
「ほう? 暗いと芸がやりにくいと思ったが、なぜ都合が良いのかね?」
老人が小首を傾げて尋ねました。
「外が暗ければ、確かに芸をするのは難しいです。だけど、難しいことに挑戦した方が上達も早いし、それに、暗ければ芸を間違えても誰にもわかりませんから」
トルはピエロらしい悪戯っぽい笑みを浮かべて、老人に深々とお辞儀しました。
結局、その晩のトルは野宿になってしまいました。といっても、ここは都会ですので、田舎のように草原に寝転がるという訳にもいきません。だけど、そんなことトルは慣れっこです。おもちゃ屋さんのショーケースに並んだ操り人形の隣に並んで、立ったまま眠りにつきました。あまりにもそこに馴染んでいるので、間違ってトルを買って行こうとするお客さんが出るくらいでした。
そして、翌日――と言っても、時計塔を見る限りは夜の九時なのですが――トルは目をこすりながら起きだしました。
空には太陽がちょこっとだけ顔を出してはいましたが、まだ眠いというように、紫色のまぶたを閉じていました。
かなり、遅くまで練習していて本当はもっと眠っていたいはずだろうに、どうしてトルはこんなに早く起きだしたのでしょう?
ああ、その理由はすぐにわかりました。トルはスキップしながら、街角の路上販売のお店に向かって行きます。
「新聞を一枚ください。アムさんの感想がのっているやつ。僕のが取り上げられているかもしれないんです」
トルは吐息でドレミの歌を奏でられるような調子で言いました。
「それはないよ」
背筋の曲がったおばあさんが、びんづめのミルクを飲み干して言いました。
「どうしてですか? アムさんはこの都の有名人で、みんなその新聞を読んでいるんでしょう?」
「ああ、確かに昨日まではそうだった。だけど、今日はアムさんじゃなくてハムさんが書いている。街中その話題で持ち切りさ。あんた知らなかったのかい?」
おばあさんはミルクのびんのふたを懐にしまいながら言いました。
「さっきまで寝ていたから……」
「そうかい。で、ハムさんのでいいなら、新聞はあるよ。買っていくかい?」
「いくらですか?」
「いつもは銅のが三枚なんだけどね。今日はいつもより人気がないから、2枚でいいよ」
トルはしばらく、腕組をしていましたが、やがてポケットに手を突っ込みます。
「それください。後、そこのおにぎりを一つ」
「はいよ。じゃあ、おにぎり合わせて銅貨三枚だ」
トルは三枚の銅色の引き換えに新聞紙と朝ごはんを受け取ると、広場へと向かいます。噴水のふちに座って、膝の上に新聞を広げながら、朝食を頬張ります。
「……僕の名前はのってないよ。クーア」
すぐにおにぎり一つを胃に送ったトルは、新聞紙に目を落としたまま首を振りました。
「それはそうだよね。だって、これを書いているのはアムさんじゃなくてハムさんなんだから」
そこに、書かれていたのはアムさんの感想ではありませんでした。呪文のような文章は一見、アムさんが書いたようにも読めるのですが、最後には必ずハムとの名前が記されていますから。それにしても、残念ですね。トルは『程度の高い』芸になるチャンスを逃してしまいましたし、あの老人は負けなしの記録が終わってしまったのですから。
「そう。そこが問題だ。まったく、とんだ詐欺だ」
誰かが、トルを覗き込んできます。
「あっ、あなたは昨日の」
それは昨日、トルが質問したら怒ってどこかに行ってしまった時計をたくさん身につけたおじさんでした。今日は昨日にもまして、顔を真っ赤にしています。昨日のそれをたき火とするならば、今日はキャンプファイアーくらい怒っているみたいです。
「君も残念だったね。せっかく、『程度が高い』芸術を知るチャンスだったのに、こんなどこの馬の骨ともしれない人間の感想なんて読まされて」
「はあ……そうなんですか」
トルは気の抜けた返事を返しました。それはそうでしょう。トルは自分のことがのっていなくてがっくりきているだけで、おじさんが怒っていることとは、ここの時計塔の歯車のように噛みあっていないんですからね。
「いや、そんなことはないでしょう。アムさんのも良かったけれど、ハムさんのも素晴らしいわ。だって、この歴史ある新聞にのっているんですもの」
そう横から口を挟んだのはおばさんでした。きつつきが木の幹を突くような音を立てて向こうからやってきて、トルとおじさんの間に割り込んできます。
底にとげとげのついた歩きにくそうな靴を履いて、やたらひだ(・・)のついたドレスにつばの広い帽子を身にまとっています。ドレスのひだには、隙間ないほどびっしりと勲章が縫い付けられています。あ、勲章というのは偉いことをすると貰えるバッジのことです。
「何を言っているんだあなたは。あのコーナーはアムさんが書くからこそ意味があったんじゃないか。読んでみるがいい、あのひどい内容を。あの感想を書いた奴は物事の表面しかとらえていない薄っぺらさ」
「あなたこそ。アムさんという名前ばかりにとらわれて、きちんと内容を読んでいないのよ。書いたのを選んできたのは、新聞を作っている人なのよ。いい加減な人が書いているはずがないわ」
何だか、口喧嘩が始まってしまいました。トルは二人の間で、身を縮こまらせています。とっても居心地が悪そうです。
「俺はこちらのマダムが言うことが正しいと思う!」
「いや、こっちの男の言うことの方が筋が通ってるんじゃなくて?」
さらに悪いことには、二人の口げんかに引き寄せられたようにどんどん人が集まってきました。
「あわわ……」
トルは新聞紙を大きく広げて、みんなから隠れようとします。
「全く、こんな感想を良いと言う奴は馬鹿だ!」
「馬鹿っていう方が馬鹿なのよ!」
「なんだと! ぶくぶくと太って、自分の体重もどうにかできない奴に馬鹿とは言われたくないね」
「なんですって。そんなこと言ったら、あなたの髪だって――」
人はどんどん増え、広場を埋め尽くし、さらに道中に広がっていきます。
その人たちはトルを境にして、真っ二つに分かれました。最初は新聞紙の内容について話しているはずだったのに、だんだんとただの悪口大会になってしまいました。
あまりのうるささに、クーアが怯えたようにトルの服の中に隠れます。
「どうしよう……人がいっぱいいて動けないよ……」
トルは指で耳を塞いで呟きました。
うるささはどんどん高まるばかりで、噴水の水が吹き飛んでしまいそうなほどです。
ヒョコッ。
と、トルの服に潜っていたクーアが、えりのあたりから顔を出しました。鼻先にお手玉をのせて、トルの顎を突いてきます。
「そ、そうか! せっかく、こんなに人がたくさん集まっているんだもの。僕の芸を見てもらわなきゃ損だよね。もし、笑ってくれれば喧嘩もおさまるかもしれないし!」
トルはそう言ってから、お手玉を掴んできつく握りしめました。新聞紙を勢いよく閉じて、噴水のふちに立ち上がります。そうすれば、少し背が高く見えますものね。
「みなさん、静かにして。聞いてください!」
トルの声はそうぞうしさの中でも良く通りました。なんていっても、トルはプロのピエロですからね。
波が引くように騒ぎが静まっていきます。
「よし、話を聞こう。ピエロ君はどっちの言い分が正しいと思うかね」
「そうよ。聞かせてちょうだい」
トルの一番近くにいた時計のおじさんと勲章のおばさんが同時に尋ねてきます。
「それはわかりません! 僕はその新聞に書かれた劇を見ていませんから。だけど、僕はアムさんに会いました。それで、アムさんに芸を見てもらって、おもしろいと言ってもらえたんです!」
「本当に? なんだか、とっても怪しいわ」
勲章のおばさんが目を細めてじろじろとトルを見てきます。
「それはすごいことだよ。都の誰もアムさんの正体を知らないんだから。で、どこにいるんだい? 本当の名前は?」
「アムさんは、自分の名前や仕事や見た目を知られたくないんだそうです」
「そんな風に誤魔化して、やっぱり嘘じゃないの」
勲章のおばさんがトルを馬鹿にするように言いました。
「どうして嘘だと言い切れるんだい? そもそも、これまで正体を明かしてこなかったんだ。アムさんが自分のことを知られたくないって思っていたとしても全然不思議じゃない。誰も僕たちのうちでアムさんに会ったやつはいないんだから、このピエロ君のことを嘘つきよばわりはできないよ」
時計のおじさんはトルの肩をはげますように叩きます。
「でも、本当とも言えないわ」
勲章のおばさんは腕組みして首を振ります。
「じゃあ、このピエロ君の芸を見て判断しようじゃないか。アムさんが誉めるくらいだからきっと素晴らしいはずだ」
「いいでしょう。嘘つきだとはっきりするかもしれないけどね!」
「みなさん、僕の芸を見てくれるんですか!?」
トルは鼻を膨らませて、跳びはねました。はしゃぎすぎて噴水に落ちかけるほどです。
広場の人たちは一つの生き物のように頷きました。
トルの喜びが私にもはっきりと伝わってきます。今までは見向きもされなかったのに、いきなりこれだけたくさんの観客が増えたのですから、嬉しくないはずがありません。
「それでは、見てください。まずは、昨日出来たてほやほやの活きのいいやつをお見せします――」
トルはカーテンの代わりに新聞紙を広げます。クーアが体当たりしてそれを取っ払うと、トルの全身が水鉄砲になりました。
口はもちろん、つま先から手から、へそから、鯨よりも派手に水を吹き出して、虹を造りだします。
これくらいにしておきましょう。私たちはトルにご祝儀も払えないのに、全部芸を見てしまうのはずるいですから。
割れるような拍手がトルを包み込みます。
とはいっても、全員が拍手をした訳ではありません。パンダよりも白黒はっきりと反応は分かれていました。喧嘩をしていたグループそのままに、時計のおじさんの方にいる人たちは拍手をくれましたが、勲章のおばさんの方にいる人たちは皆、渋い顔で俯いています。例え半分でも都会の人の多さにかかれば、大きな拍手になってしまうのでした。
「ありがとう……ございます」
トルはそう言って手をふりましたが、どこか浮かない顔です。とはいえ、顔はもちろん笑顔なのですが、右半分の唇の端が左半分よりちょっとだけ下がっているのです。私たちもだんだんトルの微妙な表情がわかるようになってきましたね。
あれ?
良く見ればトルの頬のワッペンがあまりふくらんでいません。せいぜいが小さなりんごくらいといった感じです。昨日でもすでにオレンジくらいあったのですから、ほとんどふくらんでないと言っていいでしょう。たくさんの人が喜んでくれたはずなのに、おかしな話です。
「すばらしい。さすが、アムさんがみとめただけのことはある。一人だからこそ表現できる人生の喜びと悲しみがある。今までは、劇場にばかり通っていたが、これからは路上芸術家の時代かもしれない」
「……」
トルは何も答えませんでした。ピエロというものは、演じたものが全て。お手玉と綱渡りは自由自在でも、お客さんが自分の芸に対してどう思うかまでは操ったりできませんから。たとえ自分の思うようにいかなくても、言い訳していけないのです。
「あなたは何も見えていないのね! こんなの新聞で誉められていた『ギザギザ甲羅の将軍』に比べれば、あまりにもくだらないわ。見た目の刺激ばかりにこだわって、中身は空っぽだもの」
「なんだって!? 君にはピエロ君の指の動き一つ一つに込められた暗喩に気づかなかったと?」
ああ、だめです。トルの芸が終わった瞬間、また喧嘩がはじまってしまいました。周りの人の騒ぎも元通りです。いえ、むしろ、なまじっか目の前で一緒のものを見てしまったがためにさらにうるさくなってしまいました。
「はあー」
トルがため息をつきました。クーアがとんできて、叱るように尾ひれでトルの口をはたきます。
「ごめん! ついうっかり」
トルは自分の口を慌てて塞ぎました。ピエロにため息はご法度ですからね。
でも、気にすることはないようです。トルのため息も、お間抜けなつぶやきも周りのがやがや声にすっかりかき消されてしまっていましたから。
キンコーンカンコーン、キンコーンカンコーン。
学校のチャイムのような音と共に、どこか遠くからパレードの時に使うような陽気な音色が流れてきます。
「あっ……」
騒ぎはすっかり静まっていました。
みんな仲良く幸せになったからでしょうか?
「誰もいなくなっちゃった……」
そうです。トルの言う通り、みんな消えてしまったからです。
まさに、十二時がやってきたのでした。
トルは呆然としたまま、音楽が終わるまで噴き出す水を見つめていましたが、やがてゆっくりと口を開きます。
「クーア。わかったよ。どうして、あれだけたくさんの人が拍手してくれたのに、『必要』がたまらなかったのか」
クーアはすっかり寂しくなった広場をゆうゆうと飛びまわります。
「誰も僕を見ていなかったんだ。時計のおじさんが見ていたのはアムさんで、おばさんは僕をステーキの横のパセリにしたかっただけなんだね」
悲しいことですね。見えもしないものに尽くしてあげても、向こうはこちらを必要としてくれません。だって、アムさんなんて人はいませんし、新聞は紙とインクですもの。
「僕はおじいさんが消えてないか心配だよ」
戻ってきたクーアはエラの中身が見えるくらい首を振りました。
「わかっているよ。おじいさんにとってアムさんが大切だったように、僕はトルである前にピエロだから。『心配だから』なんて理由でおじいさんの所に行っちゃいけないって」
クーアはトルの肩にのっかると、そのビーズのような瞳で、時計塔とは反対の方角を見つめます。
「きっと、おじいさんなら大丈夫だよね。だって、おじいさんはアムさんである前に時計番なんだもの。時間がズレていたって、みんなあの時計塔で時間を合わせるんだから」
トルは自分に言い聞かせるように言って、ふくらはぎに力を込めました。
その先にあるのは……海です。
「また、来たか。で、あんたが都で一番「程度の高い」ものってわけかい?」
船長さんは昨日と同じ格好で水平線の向こうを見つめています。
「そうだと思います……だって、ここには僕以外に船を待っている人はいないから」
賑やかだった港も、今は人がまばらでした。大きな船の近くで並んでいる人も、今はいません。
「そうかい。じゃあ、お前さんが乗りな。今日は何だか後ろが騒がしいと思っていたが、どうやらあいつら、消えちまったらしい」
船長さんはそこで初めて、足を出っ張りからどかして、船に向かって歩きはじめました。
「ここには『程度の高い人』がいっぱいいたはずなのに、どうして誰もいなくなったか。船長さんはわかります?」
「だから、俺に人間のことはわからねえって言っただろ……ただ」
「ただ?」
トルが船長さんの言葉尻を繰り返すと、船長は甲板から垂れた縄梯子に足をかけて雲一つない空を見上げてこう言いました。
「自分の羅針盤を持ってない奴は沈むのさ……あんたは大丈夫かい?」
「ええ。ピエロはいつでも笑っていますから」
吹きはじめた順風にトルの帽子が尻尾のようにゆれました。