1 あなたへのお願い
ようこそいらっしゃいました。
今日、あなたに来てもらったのは他でもありません。
私の『目』の一つと一緒に、ある少年を見張っていて欲しいんです。
私は他にもたくさんの『目』を抱えていて、到底、全部に気を配っていられませんから。
変な言い方だとお考えですか? 一体、私にはいくつ目があるんだと?
その疑問はもっともです。
ですが、ご安心ください。私とて目は二つしかございません。だけど、同時に何百、何千もの世界を私は見ることができるのです。
ますますおかしいですって?
いえ、そんなことはないはずです。万華鏡だって、外から覗けば一つの面しかないけれど、スコープ越しに覗けばそこには無限の世界が広がっているではありませんか。
いえ、少し嘘を付きました。あなたもお察しの通り、私はちょっと普通の人間とは違いって、特殊な力を与えられているのです。有体に言えば、魔法使い、と言った所でしょうか。もちろん、天使、悪魔、管理者、詐欺師などと呼んで頂いても構いません。大きな違いはないでしょうから。
とにかく、そういう訳で私は二つの目しかなくても、世界を人よりたくさん見える訳です。
まだ、疑問がおありで?
もういいじゃありませんか。
物語で重要なのは、私ではなく主人公なのですから。
その少年が私にとって重要になってくるかは、まだわかりません。
でも、とにかく、私はある類の人間を例え蟻の卵ほどの可能性しかなくても見ていなければいけないことになっているのです。
もちろん、私一人でも見ていることはできるのですが、その少年のことを想うほど私の心は無尽ではないのです。
ただ、『見る』ことと、『眺める』ことの違いを、あなたはきっとお分かりですよね?
それでは、前置きはこれくらいにしておきましょう。
少年は田舎の一本道を歩いています。
春のような秋のような、区別のつかないぼんやりとした季節です。わきの畑に稲穂でも実っていれば話は違ったのでしょうが、あいにく植わっているのはキャベツですので、はっきりとは申し上げられないのです。
空には星が、お片付けの苦手な子どもが遊んだ後のように瞬いています。
少年はそんな星明かりを頼りに、片足で『ケンケンパ』をしながら歩いています。
なぜそんなことをしているかは、少年の格好を見ればお分かりでしょう。
先っぽの尖がったぼんぼりのついた靴を履き、青い水玉のついたパジャマのようなズボンとそれにおそろいのぶかぶかのシャツを着て、頭にはナイトキャップ。顔は真っ白にどうらんで塗りたくられ、顔の左半分だけで器用に笑っています。そして、左の目の下の辺りには雫の形をした赤色のワッペンがあって、ともすると涙のように見えるのです。
そう、少年はピエロだったのです。ピエロには人よりバランス感覚の良いことが何より大切ですから、こうして日頃から涙ぐましい努力が必要だと言う訳です。
「そろそろ、『存在』が少なくなってきたね、クーア。次の村の人が、僕をいっぱい『必要』としてくれればいいけど」
少年は斜め上に向かって言葉を投げかけました。旅人というのはどうしても一人言が多くなるものですが、少年の場合はそれには当てはまりません。
星明かりを反射して、空中で何かがピシャリと跳ねました。
それは、少年にクーアと呼ばれたお魚でした。見た目は単純で、三角の尾びれと楕円形の胴体を組み合わせた落書きのような外見ですが、身にまとう銀色の鱗だけは宝石よりも綺麗に星明かりに輝いています。
クーアは喋れないながらも、少年の周りを泳ぎ周り、賛成するように口を開け閉めしました。
「あっ、十二時だ!」
少年は、けんけんの『ぱ』の部分で足を開いて叫びました。
同時に少年の顔にひっついたワッペンが一回り小さくなります。先ほどまでは小指ほどあったそのワッペンは、今はほくろかと思えるほど小さくなってしまっています。良く見てあげないとにきびだと勘違いしてしまうことでしょう。
「結構、持っていかれてしまったね。前の村では、雨降りの後で滑ることにも気づかずに玉乗りに挑戦して失敗してしまったから、村の人から『必要』としてもらうことができなかった。今度、しくじったら大事だよ。なんせ、他の人から必要とされない人間はこの世界では消えてしまうのだからね」
少年は視線を魚から道に戻して、自分に言い聞かせるように呟きました。『ケンケン』から『パ』の間隔が長くなったのは、少年の向上心の表れでしょうか。
延々と続く道を、足を交互に替えながら少年は進んで行きました。
少年がその村についたのは、ちょうど村人たちが休憩している時でした。
木の壁にわらの屋根をふいた同じくらいの大きさの家が並ぶ、取り立てて申し上げることもない村です。
まだ、朝といって差し支えない時間なのですが、村の人たちはとっても早起きなので、もう一仕事終えた後なのです。
けんけんしながら、村の入り口に辿り着いた少年はあっという間に村の人々に囲まれました。このような村に少年のような芸人さんが来ることは本当に珍しいことだったのです。
「あらまあ、ピエロさん何て見たのは何十年ぶりだろうねえ」
と軒先に干された白い大根のようにしわくちゃなおばあさんが言いました。
「ピエロってなあに? あのかかしみたいな男の子のこと? 何であのお魚さんは飛んでいるの?」
とおばあさんの側にいた幼稚園くらいの子どもが聞きます。
「そうだよ。人を笑わせるのがお仕事の人だよ。あの魚は……私にもちょっと分からないねえ」
とおばあさん。
「皆さん、こんにちは」
少年はピエロらしい大げさな笑顔を浮かべて、手を振りながら村の人々に挨拶します。
そうしてやってきた村の奥には、他のより少し大きなお家が建っていました。
「ごめんください」
少年はそう言って、隙間のある木のドアをノックします。
「入りなさい」
中からしわがれた声が聞こえてきました。
「お邪魔します」
少年は深くお辞儀してから、中へと入っていきます。
一見、とても礼儀正しい振る舞いでしたがケンケンをしながらの一本足でしたので、ふざけているようにも見えました。
中には、一人のおじいさんが杖で身体を支えるように立っていました。頭には髪の毛がなくてつるつるなのですが、あごからは白いお髭が長々とのびています。あごのお髭はそのままだと床についてしまいそうな程なので、余った分のお髭を髪の毛のかわりに頭に巻きつけているのでした。
「こんにちは。村長さんですか?」
「そうだが。君は誰だね?」
「僕はトル。ピエロです。この子は僕の相棒のクーア」
ああ、やっと我らが主人公の名前がわかりました。少年はトルというのだそうです。
「では、トル。この村には何をしに来たのだね?」
村長は、探るような目つきで問いました。
「旅の途中なんです。できれば、ここにいる間の宿と、村の皆さんに芸を見せる時間を頂きたいのですが」
「そうかい。そういうことなら歓迎するよ。この村では代わり映えのしない毎日だから、芸人さんがくるなんて本当に久しぶりだからね」
トルの丁寧な口調に、村長さんは穏やかな笑顔になって答えました。
「それでは皆さんお立合い。トルがみせる愉快な一時にどうぞお付き合いください」
そこは井戸が真ん中にある村唯一の広場でした。
トルの口上に集まった村人たちはやんややんやの大喝采。トルも意気込んで演技を始めます。
まずはパントマイム。声も音もなく、トルは身体を折り曲げて、手を丸くして蹄のようにしながら、見事な馬になります。馬は立ち上がって騎士となり、一人二役の竜に挑みかかって打倒しました。
息を呑む村人たちに、トルは懐からお手玉を取り出しました。最初は三つ、次に四つ、五つ、だんだんと玉の数を増やしていきます。前でお手玉するだけなく、背中越しにパスしたり、わざとお手玉のリズムを崩したり。
と、トルは目を見開いて、口をぽかんと開けました。
お手玉が地面にぽとりと落ちます。
「ああー」
「ピエロさん失敗したのー?」
村人から悲鳴のような声がもれました。
瞬間、トルは唇を突きだしてタコのような表情になってジャンプしました。同時に地面に落ちたお手玉は、いつの間にかバスケットボールよりも一回り大きいくらいに膨らんで、トルは見事その上に着地します。
「わああああああ」
そこで、村人は拍手の嵐です。
すると、不思議なことが起こりました。トルのほっぺたのワッペンが急に大きくなったのです。さっきまではほくろみたいな大きさしかなかったのが、今は元の小指くらいの大きさに戻っています。
トルはいつものとぼけた笑顔でお手玉を悠然と続けます。
「そりゃ!」
突然、トルの後ろから声がかかりました。
「っつ!」
びっくりしたトルはピエロの誇りにかけて、声を漏らすのをこらえました。
ヒュン、と風を切る音が聞こえます。
それはキャベツでした。それが飛んできたのはわかるのですか、なにぶん場所が悪いようです。タコでもない限り、取ることは無理そうな位置でした。
取り落す――誰もがそう考えたことでしょう。
「お魚さんだー!」
子どもが、嬉しそうに叫びました。
そうです。クーアです。トルの頼もしい相棒は、その口でキャベツに体当たりしました。飛んでく方向を変えたそれは、見事トルの手が届く位置にやってきたのでした。
「僕の相棒、クーアに盛大な拍手を!」
トルはずっしり重いそのキャベツをお手玉の一つに加えて、器用に操ります。
クーアにさらに惜しみない拍手が注がれます。クーアは誇らしげに一回転しました。
トルの涙のワッペンがさらにペットボトルのふたくらいの大きさに膨らみました。
「ふうー」
演技を終えたトルは、村長が案内してくれた部屋につくなり、大きくため息をつきました。それから、床に大きく寝転がります。
「さすがにずっと片足をあげっぱなしだったから疲れたよ」
クーアにそう言ってから、太ももや足をじっくりとマッサージしました。
「結構、良い部屋に泊めて貰えてよかった」
トルは身体の上半分だけを起こして、満足そうに頷きました。
しかし、私にはとてもその部屋をトルが誉めるほど立派なものには思えません。なにせ部屋にあるのは、木の板の上にわらを敷いたみずぼらしいベッドとくすんだお化粧用の鏡があるだけなのですから。
「これなら、雨が降っても大丈夫だね。クーア」
なんと! トルにとっては、雨風さえしのげればどこでも素敵なお部屋だと考えているようです。
クーアはトルの前を右ななめ、左ななめ交互に行ったりきたりして、×のマークをつくりました。
「ははは、そうだね。ごめんごめん。クーアはお水が大好きだからね。だけど、君はお魚なのにお水を飲むことができないじゃないか。おもしろいやつだ」
トルがからかうように言うと、クーアはトルの太ももの所に突撃してきてぴちゃぴちゃと跳ねました。
「はは、確かに。せっかく二本の足があるのにわざわざ一本で歩こうとする僕もおもしろい奴かもね。僕たちは似た者同士って訳だ」
そう言って、クーアのお腹を指でくすぐると鏡の所まで歩いて行きます。
どこからともなく取り出したタオルで顔をごしごしとこすり出しました。
やがて、トルの白いお化粧は綺麗さっぱりなくなって、小麦色の肌がお目見えしました。
でも、涙の形をしたワッペンはそのままだし、トルの左半分は笑ったままです。本人もあまりにピエロでいる時間が長すぎて、普通の顔を忘れてしまっているのかもしれません。
ドンドンドンドン。
その時、ドアを乱暴にノックする音が聞こえました。木の板でできた家はそれだけで悲鳴のようにきしんでしまいます。
「はーい、どなたですかー?」
「ご飯をもってきてやったぜー。中に入ってもいいか?」
元気な男の子の声でした。そう言いながら、今にも入ってきそうな勢いだったので、トルは慌ててドアの所へ駆けて行き、身体をそこに押しつけました。
「ごめんなさい。悪いんだけど、ドアの前に置いておいてくれないかな?」
トルは相手に見えもしないのに、ドアにお尻を押しつけて、頭を下げて言いました。
「なんでだよー。入れてくれよー。俺、あんたに話したいことがあるんだ」
トルはそう言われて、顔をしかめました。
「じゃあ、ちょっと待ってね。僕はピエロだから、素の顔をお客さんに見せる訳にはいかないんだ」
そうなのです。ピエロにとっては、顔に塗りたくったお化粧が服と同じくらい大切なのです。あなたもいきなり、裸でお友達の家に行けと言われたらとても恥ずかしいですよね? それと同じです。
「俺は気にしないぜー。まあ、あんたが言うなら待ってやってもいいけどなー」
「ありがとう」
トルはこれまたどこからか取り出した筆と白い粉であっという間にお化粧を仕上げてしまいました。鏡は必要ないようです。それはもちろん、あるに越したことはないのですが、どこにでも鏡がある訳ではないので、トルはこういったやり方にも慣れているのでしょう。
「どうぞ」
トルがドアを開けてその人物を中へ導きます。
「おう!」
「あ、君はさっきの!」
スープとパンのお皿がのったおぼんを両手に持って、入って来たのは、先ほどトルに向かってキャベツを投げてきた少年でした。触ると気持ちが良さそうな坊主頭です。
「さっきはすごかったな。俺の投げたキャベツもお手玉にしちゃうなんて、びっくりだよ。あ、このスープにはさっきのキャベツが入ってるぜ」
少年はお茶目に言いました。
「ははは」
トルは困ったように笑いました。結果として村の人たちは喜んでくれたから良かったものの、もし、あそこでパフォーマンスが中断されていたらと思うと、素直には喜べないのでしょう。
「それじゃあ、いただきます」
トルは床にあぐらをかいて座って、ご飯を食べ始めました。パンをスープにひたして口に運びます。
「うん。すごく、おいしよ。キャベツも甘いし、スープは塩味が聞いていて」
トルは左半分だけでなく、右半分の顔も動かして、満面の笑顔を浮かべました。
「それは良かったな。村長も喜ぶよ――それにしても、あんなおもしろいもの俺、初めて見たよ」
「ありがとう」
トルは頬を膨らませながら、言いました。
「なあ、あんた、ずっとここにいてくれよ。そうしたら、毎日楽しいからさ」
「うーん、それは無理だよ。僕は目標があって旅をしているから」
トルはご飯を飲み込んで、きっぱりと断って、ささくれのすごい床を見つめました。
「目標って?」
「僕はこの世界のルールはおかしいと思うから、このルールを決めた人の所へ『ルールをなくしてください』ってお願いに行くんだよ」
「ああ、それって『ルールの魔女』のことだろ。じゃあ、あんたは悪者をやっつける大冒険をしているってわけだ。おもしろそうだなあ。俺もこんな村早く抜け出して、旅に出たいよ。でも、あんたみたいに『必要』を溜めておく道具はもってないから、旅に出たらすぐに消えちゃうし」
「どうして、抜け出したいんだい? 僕は素敵な村だと思うけどな。ご飯もおいしいし」
トルは最後にスープの皿をパンで綺麗に拭き取って、ご飯を食べ終えます。
「……俺の親、両方とも死んじゃったから」
少年はそれまでは明るい調子でしゃべっていたのに、急に曇り空のような声になってしまいます。
それに合わせて、トルの笑顔もみるみるうちにしぼんでしまいます。
「……わかるよ。つまり、君は不安なんだね。いつ消えてしまわないかと」
「ああ。親がいればさ、安心だろ? 親は俺を必要としてくれるし、俺は親を必要するのは当たり前さ。でも、親がいなければ他の人に必要としてもらうしかない。だから、俺は人から忘れられないようにいつも目立っていなければいけないんだ」
少年は指同士をこねくり回して呟きます。
「そうか、君はだから、今日、僕にキャベツを投げたりしたんだね?」
トルは目を大きく見開いて頷きます。
「そうなんだ……このままじゃ、あんたに全部、目立ちたがりの役をとられてしまうと思ってさ。あ、でも、邪魔するつもりはなかったんだぜ。俺の投げ方が下手で、迷惑かけちまったみたいだけど」
少年はしゅんとうなだれます。
「最後はみんな拍手喝采だったし、僕は気にしていないよ。でも、そういう事情があるなら仕方がないな……本当はもう少し長くここにいさせてもらうつもりだったけど、明日出て行くことにするよ」
トルは少年を安心させるように微笑みかけました。クーアが少年の目の前で慰めるように揺れます。
「いや、違う! あんたに出て行って欲しいなんてことを言いたかった訳じゃないんだ。あんたの芸は本当に素晴らしかったし、もっと見ていたいと思う」
「え……と?」
トルは首を傾げました。
「その、俺が言いたかったのはだな……お願いだ。俺をあんたの弟子にしてくれ。あんたの芸を教えて欲しいんだ!」
少年は深々と頭を下げて言いました。
「……うーん、ごめん。僕はまだ、師匠みたいに上手くできないんだ。ピエロとしても半人前で、人に教えるなんてとてもできない」
トルも頭を下げ返します。
「半人前? あんなにすごい芸ができるのに?」
「うん。ピエロは一人でなくちゃいけないのに、僕は相棒のクーアがいないとやっていけない。まだまだ、未熟なんだよ」
「それでもいいから、お願いだよ。俺が芸を覚えれば、みんないつでも俺を必要としなくちゃいられないはずさ。俺は安心したいんだよ」
「……君はピエロになりたい訳じゃないの?」
「ああ。俺は目立ちたいだけなんだ。弟子が駄目なら、友達になってくれ。それでちょこっとでいいから芸を教えてくれよ」
「ごめんよ。ピエロは友達を作れないんだ。でも、……そういうことなら、わかったよ。君が君自身として芸をするなら許可するよ。でも、『ピエロ』としてやってはダメだ。君が『ピエロ』を名乗ったら、君は君自身以上のものを背負うことになるから」
しばらく、腕を組んで考え込んでいたトルは顔を上げて言いました。でも、あまり顔はすっきりした様子ではありません。
「本当か! ありがとう!」
少年は大喜びで、トルの手をとって振り回しました。
「うん、それで君の名前は?」
「ああ! 俺はペエルっていうんだ」
「よろしくペエル。僕はトルって言うんだ。じゃあ、早速始めよう」
「今日はサンキューな。明日、早速村の奴らを集めて。やってみるからあんたも是非来てくれよ」
「わかったよ」
「じゃあな!」
ドアが軋んだ音を立ててしまります。
「ふうー」
トルは大きくため息をついて、ベッドに腰掛けました。
「昔の僕を見ているみたいで、つい教えてしまったけれど、ペエルは筋が良いよ。鍛えればいいピエロになれるかもしれない。彼はなるつもりはないみたいだけど」
トルは右半分の唇をへの字にした複雑な表情で言いました。
クーア、大きな○を描いて一回転します。
「でも、何か、胸騒ぎがするんだ。よくないことが起きそうな予感がする。気のせいかな?」
トルの質問に、クーアはトルの方を見つめてじっとしたきり、うんともすんとも言いません。
「とにかく、明日、ペエルの芸が上手くいくことを祈ろう」
トルは自分の気を静めるように、数分お手玉の練習をしていましたが、やがてベッドに寝転がり、静かに目を瞑りました。
広場を挟んだ家と家の間に、藁で編んだロープが張られていました。
「っつ」
そこをペエルが冷や汗を流しながら歩いていきます。これがピエロなら笑顔がないと叱られるところですが、彼はピエロではないので問題にはなりません。
トルは拳をにぎって、じっとペエルを見守っています。といっても、目立つ格好ですから、物陰に隠れてこっそりとですが。
何とか真ん中までたどりつき、そこでペエルの動きがぴたりと止まります。
怖くなって先に進めなくなってしまったのでしょうか?
村人も声一つあげずに見守ります。
と、ペエルが大きく息を吸い込みました。
そして、大きくジャンプ! 見事に縄の上に着地します。
「わあー、ペエルお兄ちゃんすごいねえ」
幼い子どもたちは褒め称えます。
大人たちはなぜか、歓声はあげませんでした。もちろん、拍手はします。とはいっても、昨日のトルに向けたものを嵐とすれば、こちらは小雨と言った感じの音でしたが。
「僕の取り越し苦労だったかな」
トルはペエルの成功に、ほっとした様子で呟きました。
「ペエルお兄ちゃん僕にも教えてー!」
「私もやってみたいー」
芸を終えたペエルの下に子どもたちが集まってきました。
「ダメだ。もうちょっと、大きくなったらなー」
ペエルはそう断って、そんな子どもたちの頭を撫でてやります。
「えー」
子どもたちは不満げに頬を膨らませました。
「さっ、僕たちも行こう。村長さんに村を出て行くのが早まったって言わないと」
クーアの背中を撫でて、トルは足音を忍ばせて歩き出しました。
月がまぶしい夜でした。天井の隙間から、光が差し込んでほのかにトルとペエルを照らしています。
ペエルがまた持ってきてくれたご飯を、トルはすっかり平らげてくつろいでいます。しっとり濡れていたスープのお皿も、今はすっかり乾いていました。
「そういう訳で、僕は明日もうお暇することになったんだ」
「トル、もういっちゃうのかー? もっと色々教えて欲しかったんだけどなー」
ペエルが、唇をとがらせて言いました。
「後は自分で芸を磨くんだ。いつかまた、この村に来ることがあったら、その時は君が開発した技を僕に教えてくれるくらいになっていて欲しいな」
「おう、任せとけ! その代わり今日はずっと教えてもらうからな! ほら、俺、お手玉作ってきたんだ!」
ペエルはズボンのポケットから、四つの玉を取り出してトルに見せつけてきます。
「三つまでは簡単なんだけどな」
そう言ってペエルは上の方を見ながら、三つのお手玉を回しはじめます。
「トル、適当なところでもう一個のお手玉を放り投げてくれよ。あ、いきなりでもいいぞ? 俺がやったみたいに」
ペエルはお手玉を続けながら、悪戯っぽく言いました。
「いいよ」
トルは放るタイミングがわからないように、お手玉を自身の左手と右手で交互に投げ合います。そして、十回ほどその動きを繰り返してから、ペエルに向かってやおら手を開きました。
「トルはちょろいな!」
ペエルは見事、四つ目の玉を受け止めました。もっとも、トルがやりやすい位置に投げてあげたというのも、その成功の原因の一つでしょうが。
「よしっ、次はもっと難しいのをやってやる」
ペエルはそう言って、手にしたお手玉を、腕を後ろに回して投げ――
泡のように消えてしまいました(・・・・・・・・・・・・・・)。
「え?」
トルは大口を開けて、間の抜けた声を漏らします。
主を失って明後日の方向に飛んだお手玉が、壁にあたって潰れ、ゆっくりと床に落ちました。
「どうして? ペエルはちゃんと芸を成功させたのに! どうしてなんだ!」
まるで、ペエルとかくれんぼうしているだけだとでもいうように、トルはベッドの下や、鏡の後ろ、ドアの外まで調べてみましたが、出てくるはずもありません。
「僕の……せいなのかな? 僕が、ペエルに芸を教えてしまったから彼は消えてしまった? でも、彼はみんなを楽しませようとしていたのに! 必要な人間のはずなのに」
クーアが飛んできて、尾びれでペエルの頬を叩きます。
「ご、ごめん。何度見ても、この光景には慣れないよ……」
クーアは身体を揺らして、トルの肩を何度も、何度も、叩きます。
「ああ……わかっている。僕は誰かを必要としちゃいけない。ペエル一人にこだわってはいけないって。僕はピエロだから。ピエロはみんなのものじゃなくちゃいけないから」
トルはそう、自分に言い聞かせますが、おさえきれない悲しみが目からこぼれて止みません。白い化粧に跡をつけ、涙の川ができあがります。
すると、クーアが動きました。滝のぼりをするように、トルの涙を飲み干していきます。右が終わったら、左、右が終わったら左、トルの涙が止まるまで、クーアは休まず働きます。
「っく。ひっく。ごめん、クーア。僕はもう大丈夫だから、いつまでも泣いていたら師匠に笑われてしまうもの」
トルはしばらくしゃくりあげていましたが、やがて化粧を落としてベッドに向かいました。
彼がその晩ぐっすり眠れたのか、私にはわかりません。
ただ、芋虫のように何度も寝返りを打っていたこと。
私たちがトルについて言えることはそれだけですね?
「そうかい。行くのかい。それはありがたい。君が悪い訳ではないが、村人たちみんな怖がっているよ。次は自分が消えるんじゃないかって。この村では今まで、こんなことはなかった。村人たちみんなお互いの顔を知っていて、お互いがお互いを必要としていた」
村長が言いました。彼はもう、長い髭を頭に巻きつけておらず、落ちこんだように床にたらしっぱなしです。
「……すみません。でも、僕にはどうしてもわからないんです。なんで、ペエルが消えなければならなかったのか」
とても深刻そうな喋り方でしたが、顔はとぼけて笑っているピエロですから、なんともしまりません。人によっては馬鹿にされているんだと、怒りだしてしまう人もいるかもしれませんね。
そう、ピエロは泣けないのです。泣き真似はしてもいい、でも、本当に泣いてしまったら、お客さんまで悲しくなってしまいますから。
「ペエルは確かに必要とされていたよ。もっとも、彼が望む形ではなかったかもしれないが」
「……同情していた。そうですね?」
「そうだよ。両親のいない彼をみんなかわいそうに思っていた。もちろん、面倒を見てやる気だった」
「村長さん……ピエロはうそをつきます。いえ、というよりもピエロがうそそのものなんです。だから――」
「……わかっている。ピエロに隠し事はできないね。みんな安心していたんだ、『私には家族がいる、だから、もし、誰かが消えることになるとしても、まっ先に消えるのはペエルだ』と」
「……」
「だけど、ペエルは目立ちたがった。そして、ついにみんなよりすごいことができるようになってしまった。それでみんなが不安になってしまったんだ。『ペエルがみんなに必要とされてしまえば、その分自分が必要とされなくなってしまうのではないか』と」
「……それで、みんながペエルを必要としなくなってしまった?」
「ああ……そういうことだと思う。ただ、私たちもみんなで相談してそうした訳じゃないから本当のとこはわからない。もし、大人たちがペエルを必要としなくても、子どもたちは彼に憧れていたみたいだから」
「……ペエルは自分の芸を人に教えようとはしませんでした。子どもは色んな遊びを見つける天才ですから、すぐに飽きてしまいます」
ペエルが何を思って、子どもたちに芸を教えたがらなかったのか、本当のところは私もあなたも、トルでさえわかりません。芸をひとりじめにしたかったからかもしれませんし、小さな子どもがロープを渡るのは危なすぎるという優しさからそうしたのかもしれません。
あなたはどう思いますか?
「そうだね……本当に残念だ。残念だよ」
いつまでも、そう呟いている村長にお辞儀をして、トルは村長の家の外に出ました。
広場では誰も乗る人のいないロープが、ただ、そよ風に揺れていました。