07
テーブルを挟んだ向かい側には、髪がボサボサのシュウおじさんが座っている。横には冷が、床に届かない足をブラブラさせながら右手で頬杖をついている。暖色系の照明が照らし出しているのは、普段と変わらないような光景。
なのに、心の中は冷たい感情で満たされていた。十分後の別れ、もしくは死に対するそれは、理解するには大きすぎる。
私は顔を上げる勇気が出ずに、ただじっとテーブルの人工の木目を見つめていた。顔を上げてシュウおじさんや冷と目が合ってしまったら、その中に悲しみとも不安とも言えない心を見てしまったら、恐らく私の全てはたやすく壊れてしまうだろう。
「なあ、二人とも」
シュウおじさんの声が耳に届いた。合板の下で揺れていた冷の貧乏揺すりが止まる。
「俺はお前らに、感謝してる。心からだ」
その言葉だけで涙が溢れそうになった。自分の手が細かく震える様子を認め、無力感に胸が張り裂けそうになる。
「もうわかってるかもしれないが、俺は神矢央の兄貴だ。多くの野宿民を皆殺しにしたあいつと同類の、死ぬほど身勝手な人間だ。ここに辿り着いたのだって、粛清後の最終チェックだったんだよ。本当は、お前らの両親もこの手で殺すつもりだったんだ」
信じられないような、信じたくないような事実を突きつけられ、私はまるで海の底に沈められたような息苦しさを感じた。がたつく椅子の感触が、意識の遠くの方に追いやられる。
「なんで、殺さなかったんだ?」
冷が嫌に冷めた声で問う。
「同情か?」
「いや、違う」
シュウおじさんは眼鏡の位置を直して、答える。
「怖かったんだ、俺は。自分は優れてる、あの日まではそう思って生きてた。他の奴らより優れてるから、俺は神矢の一員なんだって。それがあの日、お前らの母親を見て砕け散った。暗い闇の中で俺の顔を見て、死を直感したんだろうな。俺よりも逞しい、腹に子供を抱えたその人は、俺を見てこう言った」
ーーーわかりました。貴方に殺されることが、私とこの子達の使命なのですね。
「あん時の衝撃は、忘れられないな。生まれてからずっと信じてきた神様が、作りもののハリボテだって知らされたような・・・自分自身をゴミ箱の中にぶち込んでしまいたくなるくらい、自分を憎んだ」
「それで、罪滅ぼしの為に俺たちの世話ってか」
「冷!」
思わず少年の名を呼んでしまう。家族の告白に対して、その言葉は酷すぎる。
「・・・そうだな、それもある」
おじさんは少し自失呆然とした表情で、私たちに語りかける。
「ただ、わかってくれ。最初は陳腐な罪滅ぼしだったかもしれないが、今は、本当にお前らと一緒にーーー」
「わかってるんだよ!」
冷が拳をテーブルに叩きつけて叫んだ。
一瞬世界が凍りついたように静まりかえり、そしてそれが溶けるように私の瞳に涙が零れる。
「・・・だから、だから・・・」
私に続き、冷もしゃくりあげるように泣き始める。
「それ以上自分を責めないでくれよ! 俺たちにとっては最高の家族なんだから! おじさんは悪くない! 誰も、誰一人!」
興奮で赤くなった顔で、少年は涙で歪んだ瞳で男の目を見つめ、ふるえる声で懇願するように言った。
「こんなの全部世界のせいじゃないか・・・だから・・・一緒に・・・こんな世界から、消えてやろう」
「駄目だ!俺と、俺なんかと一緒に死んじゃ駄目なんだよ!」
「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
私は叫んだ。いや、いつの間にか叫んでいた。理性はおろか、心も置き去りにして、ただ頭を埋め尽くす言い表せない激情だけを吐き出すように叫んでいた。
「イヤだよ!ここで別れちゃうなんて!生まれたときから隣に居てくれたじゃない!・・・ねぇシュウおじさん。ここで・・・みんなで暮らしたこの地下室で、一緒に死のう?ずっと一緒にいようよ、ねぇ・・・!」
涙と鼻水を流して言葉を放つ私たちを、シュウおじさんは椅子から立ち上がって、そっと抱きしめた。
「駄目なんだよ・・・それだけは絶対に駄目なんだ!」
「なんで!」
「一緒にいようよ!」
泣きじゃくる私と冷の髪を撫で、そしておじさんは囁くように私たちに告げた。
「ーーーーーーー」
それを最後に声は途切れ、静寂が訪れた。永久に感じられるほど長い、別れの瞬間だった。
そっとおじさんの手が肩から外される。不思議なほど澄んだ風が髪をさらっていく。別れの合図とでも言うように。
はっ、と零乃が回想から帰ってくると、夕日は完全に沈んでしまっていた。服で覆いきれない頬や首筋を、どこからか冷たい風が撫でていった。かなり時間が経過してしまった。料理当番が今日じゃなくて良かった。と、零乃は一つ欠伸をし、手に握ったままの古ぼけたネックレスに目を落とした。表面に施された鍍金は剥げ、光沢はなくなっている。
零乃は、あの日そのネックレスと共に渡された、ある男の別れの言葉を想う。幼かった自分に向けられたあの優しい眼差しに、今の自分はちゃんと応えられているのだろうか。そう思うと一つ、溜息が零れた。
「おい、まだそんなとこでボーッとしてんのか」
冷が後ろから声をかけてきた。振り向いて見つめるその姿は愛らしい少年ではなく、団員達を纏める一人の男のものになっていた。それでも、その声に込められた無愛想な思いやりは昔と変わらない。
狭い部屋の中に踏み込んでくる冷に、零乃は空気に溶かすような声で少年に言った。ある男が遺した、最期の言葉を。
「お前達が、俺の最後の夢なんだ」
「・・・懐かしいな、その言葉」
でしょ? と微笑みながら、零乃はゆっくりと青年に近づき、もたれ掛かるように抱きしめた。一瞬の戸惑いの後、冷の腕がそれを受け止めるように零乃の背中に回される。温かい息が旋毛に当たって砕けていくのが感じ取れる。
「私、今でもよくわかんないんだ、この言葉の本当の意味は。でもね、『Dogmacula』のみんなを見てると、おじさんの思ってたことが、少しだけわかる気がする」
きゅっ、と腕に力を入れて冷を抱きしめる。今もこうして少年の隣にいれることに、温かく心地良い幸せを感じた。その幸せは、少しだけ、切なかった。
「弥撒も藍も、刃汚や聖も、家族なんだ。私はみんなの笑顔を守って守って・・・そうして抱えきれないほどの笑顔の陰で、静かに死にたいな、って」
泣いてる? 唐突に冷が訊いてきた。
泣いてないって、馬鹿。
そんな想いを巡らせてもう一度強く抱きしめると、冷は耳元で呟いた。
「大丈夫、俺もついてるから。・・・俺は弱いけど、いつまでもお前の隣で、みんなの笑顔を見ていたい」
馬鹿。そう罵るより早く、瞳から涙が零れた。何年ぶりだろう、嬉し泣きなんて。こんな姿、藍達には見せられないなぁ。そう思っても、頬を伝う温かい水滴は止まってくれなかった。
零乃は、嗚咽で途切れ途切れになった呼吸の中、心の底から一番大切な家族に告げた。
「これからも、よろしく」
その部屋は静まりかえっていた。中にいるのは二人の男。一人は立派な鷹の紋章を背に背負い、もう一人はよれよれのシャツを身に纏っていた。二人とも同じように椅子に座っているが、一人はもう一人の脳天に、拳銃の照準を合わせている。
「感動的なお別れだったじゃねぇか」
「ほっとけ。殺すんならさっさと殺せよ。神とか何とかのためによ」
悪態をつくのは、銃を突きつけられている方の男。
「はっはっは、そんなもんの為に動く俺じゃねぇよ」
笑うのは鷹を背負っている男。
「それにしても、あの隠し子達の名前だ。驚いたぜ、なぁ兄貴」
「・・・嫉妬か?」
「馬鹿言うなって。時期神矢財閥の党首が、お前みたいなくすんだ裏切り野郎のために嫉妬するかっての」
男の笑いは軽薄さが混ざっており、壊れたピエロの叫びを連想させた。
「レイに、レノか。俺のあだ名の0からとった名前なんだろ?」
「半分正解だが、半分間違ってるな」
「あ?」
その返答に、眉をひそめる。
「央からO、そして0ときて、零。これで間違いないはずだ」
「いや、それじゃ半分だ」
「それじゃ、なんだってんだよ!」
怒号を放つ弟に、神矢周は笑みを浮かべて答えた。
「聞いたぞ。お前、子供が出来たんだってな。その子の名前が零だってことも聞いた。冷と零乃、あいつらには俺の最後の夢を託した。俺の代わりに、神矢一族も何もかも乗り越えて、笑って生きていけって。ゼロとレイの闘いだ。さて、どうなるかな?」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走るのを隠して、神矢央は嘲笑を含んだ声で言った。
「は、あんな野良犬どもに、俺の子供が負ける訳ねえだろ!」
「どうかな? あいつらは確かに甘いところもあるが、何しろ二人だ。強いぜ?」
何か反論しようとしたところで、男の腕時計が鳴った。五分間だけ話そうと言った神矢周に、タイムリミットを知らせるためにかけておいたタイマーだった。時刻を見ると、デジタルの表示板には、0の文字が四つ並んでいた。これから起こることを暗示しているかのように。
「おっと兄貴、お別れの時間だぜ。最後に言い遺すことはなんだ? お勧めは最後の懺悔だが」
「お前には、ないさ」
にやっと口の端を歪め、虚空を見上げて神矢周は祈る。とっくの昔に捨てきった神様に、一生に一度の約束を。
あの幼い二人が向かう先に、光がありますように。
ここまで少年少女達の物語を読んで下さった貴方に
無限の幸福が訪れることを祈って。