Prologue:02-01
彼には憧れの作家がいる。瀬田睦月という人だ。
ダークな内容にも係わらず、書く文章はシンプルで綺麗。比喩は紙の上で踊るようにリズミカル、読みやすいこのテンポが好きだ。
物語にしては酷く現実染みていて、だけど残酷に美しく、さり気なく人間の怖さについて書かれている瀬田睦月の作品は、彼の世界を変えたと言っても過言ではない。実際、彼が瀬田睦月の本に巡り会わなければ、今頃親の金で自堕落に過ごしていたことだろう。
読み始めた瞬間から分かった、世界観に誘うための文章、会話。読み終わった後の、溜息とは違う息の塊を、はあっ、と口から出した時。それでようやく、知らぬ間に目の前の紙の束へ引き込まれていることに気付いた、無意識による行動と自覚。
――――――ふう。溜息を吐く。
パチッ、とエンターキーを一つ押して、イスの背もたれに体を任せた。ネタを思いつき興奮して夢中になっていたためか、いつの間にか本格的に力が入っていたんだろう。
彼は執筆中の画面から目を離すと、その隣にある四角い時計を見た。この作業を始めた時間から、もう二時間は経っている。どうりで、暑い。空気の入れ替えはほどほどに、クーラーをつけて、休憩に入った。
今日も、このまま部屋から出ずに一日が終わるのだろう。そう考えれば、もうストックしている携帯食料に飲み物が尽きてきたため、一度リビングに取りに行かなくてはいけない。
「……………………」
行きたくない。でも行っておかなければ、次に集中ができない。36畳という一人部屋にしては少し広い空間。黒と青を基調とした此処が、彼にとって一番安心できる場所。彼自身の部屋である。
鍵をかけていたドアを開き部屋から出ると、彼の部屋を更に上回る空気の冷たさは肌に感じた。つけっぱなしのクーラーを、芸能人に何か質問している女の人が映ったブラウン管を、生活感がないというよりはまったく使われていないために綺麗なリビングを眺める。クーラーのリモコンは、どこだ。
テーブルの端に置かれていた新品のようなままのそれで、一度クーラーを消した。どうせ、また一時したら家の主が帰ってきて、同じことを繰り返すはめになる。その人物に会いたくない彼は、冷蔵庫から、箪笥からその場で食べられるような食料を両手いっぱいに持つ。家庭用アンドロイドに任せれば、自我のあり判断ができる高性能どもは命令に従い、彼の代わりに作業を行ってくれるだろう。だが、彼は一人で行動した。原因の人物が脳裏に過り、顔を歪める。
早足で自分の部屋に帰り持ってきた食料を見れば、おっと、飲料を忘れている。取りに行こうとしたその先で、先程思い浮かんだ顔とそっくりな相貌を見て、眉間にくっきりと三つの線ができた。
「…………親父、お帰り」
「ああ、ただいま、」
その人物こそがこの家――峰崎家の主で、彼がアンドロイドを使わない理由だった。
目の前の人物はそんな彼の表情に気付きながらも、知らないフリをして柔和に笑う。しかし、彼の視線が冷蔵庫に向かった時、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「また、あの遊びか……」
彼はその言葉に返事をしない。飲み物を選びながら、キッチンという障害物で見えない角度で、拳を握りしめる。
これだから、この人は好きになれないんだ。
炭酸飲料片手に何も言わず父親の横を通りすぎれば、背に当てられる低い声。
「いい加減、現実を見なさい」
―――――――――――――――ガンッ!
わざと、ドアの音で父親の言葉が聞こえないようにした。取り出してきたペットボトルの中でたぷんと揺れた冷たいミネラルウォーターは、どうも彼の心内を表しているようにしか思えない。自分よりも自分のことを素直に示しているそれにどうしてもイラつき、意味もなくベッドに透明のそれを投げる。八つ当たりは孤独に遂行された。
しかし、だ。十分な食料をこの場所に運んだとして。何時もより早く帰ってきた父親、その存在はきっと、夕食時に声をかけてくるだろう。
「………………」
不快。憎悪。脳から心を蝕み身体を支配するホルモン、アドレナリン。
熱い塊が喉の奥で膨れ上がり、どくどくと脈打つ血管の内皮を焦がして脳を侵す。眼球を潤す水分は額から溢れたもののように。
心臓に流れ込んだ憎悪は黒いタールの池となって淀んだ。
流れていくナミダをぐりぐりとティッシュでふき取り、感情を抑えるために先程投げられたベッドの上の水を口に含む。ひんやりと、精神の落ち着きを取り戻しスッキリとした途端、今までの行為に恥ずかしくなり蹲る。
パソコンを置いた白色の机も。ベッドの上で畳まれている掛布団代わりのタオルも。今までのネタを書いて置いたノートや、趣味のCDが整理されている横長い本棚の上も。
見えるのは、己の膝。その下にある、床にひいてある薄い青のマット。
いつから、と問われれば答えることができる。ここまで涙もろく、打たれ弱くなったのは、初めて自分の夢を否定された時からだ。