「探さないでほしい」と婚約者が書き置きを残して消えたので、婚約指輪を質屋に売りに行ったら、店主に「これは売らないほうがいい」と言われました
紺色の布の看板に、白く染め抜かれた「質」の一文字が、秋の風に揺れていた。
ナタリーは看板の前で三度目の深呼吸をした。
王都の下町の、古い商店通りの外れ。間口の狭い木造の店。格子戸の硝子はところどころ波打っている。戸の横に、手書きの小さな木札。「フィンチ質店 先代より五十年」。
外套のポケットの中で、小さな天鵞絨の箱を握りしめる。角が手のひらに食いこんだ。
――売るだけ。売って引っ越しのお金にするだけ。
自分に言い聞かせて格子戸を引いた。
からからと、戸車が鳴った。
店の中は薄暗かった。古い木と、油と、ほんのりと香木に似た匂いがする。左の壁一面に、硝子の陳列棚。懐中時計、銀の燭台、刺繍の帯、象牙の髪留め。右の壁に、大きな柱時計が一つ、こちこちと振り子を揺らしていた。
正面の帳場に、男が一人、座っていた。
三十代の半ば。白い襟付きの上着の袖を肘までまくって紺の前掛けをかけている。右目に、黒い筒のような拡大鏡をはめて、手もとの何かをのぞきこんでいた。ナタリーが入ってきても、顔を上げなかった。
「……あの」
「少々お待ちください」
低い、落ち着いた声だった。
男は細い鑷子で何か小さなものをつまんで布の上に置いた。それから拡大鏡を外してようやく顔を上げた。
切れ長の目。少し癖のある黒髪。顎に、剃り残しの短い髭。表情があまり動かない人だった。
「お待たせしました。お預けですか、お売りですか」
「売りたいんです。これを」
ナタリーはポケットから天鵞絨の箱を出して帳場の上に置いた。
男の目が箱に落ちた。
濃い紺の天鵞絨。蓋の内側に、王都の大通りの宝飾店の、金の紋。二年前、婚約者だった人が、料理屋でナタリーの前に置いた箱だ。
二年前の秋。
婚約して三年目の記念の日に、彼はこの箱を開けてナタリーの左手を取った。
――来年の秋の終わりに、式を挙げよう、ナタリー。
店じゅうの客が拍手をした。ナタリーは泣いた。うれしくて、うれしくて、指輪の石が、涙でにじんで見えなかった。
それから一年近くかけて式の支度をした。神殿の礼拝堂を押さえて、招待の手紙を書いて、二人で貯めた婚礼の資金は金貨八十枚になった。両替商の預かり札は、彼が「僕が管理するよ」と言って持っていた。
式の二か月前、彼は消えた。
朝、勤めに出たきり、帰ってこなかった。下宿の部屋には、書き置きが一枚。
――ごめん。海の向こうの国で、どうしてもやりたい仕事が見つかった。君を巻きこめない。探さないでほしい。
両替商に問い合わせると、預けていた金貨は、前の日にすべて引き出されていた。
ナタリーは神殿に詫びに行って礼拝堂の予約を取り消した。招待の手紙を出した友人たち一人ひとりに、詫びの手紙を書いた。取り消しの違約金は、自分の蓄えから払った。
泣いたのは全部片づけたあとだった。
それから一年。ナタリーは王立図書館の司書の仕事を続けながら、二人で借りた部屋の家賃を一人で払い続けてきた。もう限界だった。来月には、もっと安い屋根裏の一間に移るつもりで、部屋を探している。その前払いの家賃と、荷車の代金が足りない。
だから、売る。
あの夜の指輪を。
ゆうべ、引っ越しの荷造りをしながら、ナタリーは寝室の衣装箪笥の奥から、この天鵞絨の箱を見つけた。
一年前、彼が消えた日に外してしまったきりだった。見るのが怖くて一度も開けなかった。
木箱の山に囲まれて、床に座りこんで箱を開けた。指輪の石は一年前と同じように、きらきらと光っていた。
光っているのが腹立たしかった。
この一年、ナタリーは、すっかりくすんでしまったのに。毎朝、鏡の前で、目の下のくまを白粉で隠して、図書館の貸し出し台に座って、利用者に笑顔で本を手渡して。家に帰ると、二人分の広さの部屋で一人分の夕食を食べた。彼の歯磨きの楊枝を捨てられたのは半年たってからだった。
なのに、この石だけは、何も変わらずに光っている。
ナタリーは箱を閉じた。
これを売ろう。売って、その分、遠くへ引っ越そう。この石の光が届かないところへ。
そう決めて、今朝、図書館が休みの日に、下町でいちばん古そうな質屋に来た。大通りのきれいな買い取りの店ではなく、ここを選んだのはなんとなくだった。硝子ごしに見えた古い柱時計が、祖母の家にあったものと似ていたからかもしれない。
「拝見します」
男は白い手袋をはめて天鵞絨の箱を開けた。
白金の台に、一粒の透きとおった石。角灯の光を受けてきらりと光った。
男は指輪をつまみ上げて拡大鏡を右目にはめた。指輪を光にかざす。ゆっくりと回す。台の内側をのぞきこむ。石を横から、下から、斜めから。
柱時計の振り子が、こち、こち、と鳴った。
長かった。
ナタリーは外套の裾を握りしめて男の手もとを見ていた。いくらになるのだろう。金貨十枚。もしかしたら、二十枚。彼は「僕の給金の三か月分だ」と言っていた。
男が拡大鏡を外した。
指輪をそっと箱に戻した。蓋を閉めた。そして、箱をナタリーのほうへ押し戻した。
「これは、売らないほうがいいと思います」
ナタリーはまばたきをした。
「……え?」
「お売りになるのはおすすめしません」
男の声は静かだった。
ナタリーの胸の奥で何かがかっと熱くなった。
売らないほうがいい。思い出の品だから、とでも言うつもりなのだろうか。大切な人からもらった指輪を手放すのはもったいない、とか。
「……あなたに、何が分かるんですか」
声が震えた。
「その指輪をくれた人は、一年前に、わたしたちの婚礼の資金を持って消えたんです。金貨八十枚。式の二か月前に。わたし、神殿にも友人にも一人で詫びて、違約金も一人で払って、一年間、二人で借りた部屋の家賃を一人で払ってきたんです」
言いながら、目の奥が熱くなった。
「来月、引っ越すんです。お金が足りないんです。だから、売りたいんです。思い出なんてどうでもいい。いくらでもいいから、買い取ってください」
帳場の上で両手を握りしめた。
男は黙ってナタリーを見ていた。それから、少しだけ眉を寄せた。
「……すみません。言い方が悪かった」
男は天鵞絨の箱をもう一度開けた。指輪を取り出して帳場の黒い布の上に置いた。
「この石は、金剛石ではありません」
ナタリーの息が止まった。
「硝子です。よくできた、まがい物。台も白金ではなく、銀に薄く鍍金をかけたものです。内側の刻印も、それらしく打ってあるだけで本物の刻印とは形が違う」
男は拡大鏡をナタリーに差し出した。
「ご覧になりますか」
ナタリーは拡大鏡を受け取らなかった。受け取れなかった。手が動かなかった。
「……いくら、ですか」
「買い取るとしたら、銅貨十枚です」
銅貨十枚。
屋台の焼き菓子を二つ買えば、なくなる額。
柱時計がこち、と鳴った。
ナタリーは帳場の上の指輪を見下ろした。角灯の下で、硝子の石が、きらきらと光っていた。二年前の夜、涙でにじんで見えなかった光。
給金の三か月分。
「……ふっ」
喉の奥から、変な音が漏れた。
笑いだった。止まらなかった。肩が震えて、お腹が痛くなって、ナタリーは帳場の縁につかまったまま笑った。笑いながら、涙がぼろぼろとこぼれた。
「銅貨十枚……銅貨十枚って……」
四年。礼拝堂。招待の手紙。金貨八十枚。一年分の家賃。泣いた夜。
その全部の始まりが、銅貨十枚の硝子玉だった。
「わたし、ばかみたい」
笑いながら泣くナタリーの前で男は何も言わなかった。
黙って立ち上がって帳場の奥に消えた。しばらくして、湯気の立つ茶碗を一つ持って戻ってきた。
茶碗がナタリーの前に置かれた。焙じた麦の、香ばしい匂いがした。
「どうぞ。座ってください」
帳場の前の、古い木の丸椅子を男が指さした。
ナタリーは椅子に座りこんだ。茶碗を両手で包むと、指先がじんわりと温まった。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
麦湯を半分飲んだころ、涙はようやく止まった。柱時計が十一時を打った。
「……すみません。取り乱して」
「いえ」
男は帳場の向こうで、さっきの小さな作業の続きをしていた。拡大鏡をはめて鑷子で何かをいじっている。ナタリーが落ち着くのを急かさずに待ってくれていたのだと、今になって分かった。
「何をなさっているんですか」
「懐中時計の修理です。お客さんの、お父上の形見だそうで。止まったまま、二十年、引き出しに入っていたと」
男の手もとをのぞきこむと、小さな歯車が、黒い布の上にいくつも並んでいた。
「質屋さんなのに、修理も?」
「もとは、宝飾の職人でした」
男は鑷子を置いた。
「大通りの工房で十年。指輪や首飾りを作っていました。親父が倒れて、この店を継いで、五年になります」
大通り。
ナタリーは帳場の上の紺の天鵞絨の箱を見た。蓋の内側の、大通りの宝飾店の金の紋。
「この箱も、まがい物ですか」
「箱は本物だと思います。その店で何か安いものを買って箱だけ使ったのでしょう。……よくある手口です」
男の声に、ほんの少しだけ、苦いものが混じった。
「売らないほうがいい、と言ったのは」
男は拡大鏡を外してナタリーを見た。
「銅貨十枚で売ったら、あなたの一年が、銅貨十枚になる。それが嫌だった」
ナタリーは茶碗を持ったまま固まった。
「あなたがこの指輪のせいで一年泣いたのなら、この指輪には、その一年の重さがある。石が硝子でも。……それを銅貨十枚で引き取るのは、質屋の仕事ではないと思った」
男は少しだけ目をそらした。
「すみません。余計なことを」
「……いいえ」
ナタリーは首を横に振った。
胸の奥がじんわりと温かくなっていた。さっきまで、銅貨十枚の硝子玉に、四年分の自分を笑われている気がしていた。
この人は笑わなかった。
銅貨十枚の指輪の重さを、量ってくれた。
「お名前を伺ってもいいですか」
「フィンチです。ジョスラン・フィンチ」
短く名乗って、ジョスランさんは小さく頭を下げた。
「ナタリーです」
「ナタリーさん」
ジョスランさんは、天鵞絨の箱をナタリーの前に押し出した。
「これは持って帰ってください。引っ越しのお金のことは……ほかに何か、お預けになれるものはありますか」
一週間後、ナタリーは、もう一度フィンチ質店の格子戸をくぐった。
手には、祖母の懐中時計を持っていた。
銀の、蓋つきの古い時計。ナタリーが十三のときに亡くなった祖母が、肌身離さず持っていたもの。祖母が亡くなった日に止まってそれきり動かない。
「これを預けたいんです。引っ越しのお金が、あと銀貨五十枚だけ足りなくて」
ジョスランさんは懐中時計を手に取って蓋を開けた。拡大鏡をはめて中をのぞきこむ。
「南の山の国の、古いものですね。七十年くらい前の。いい時計です」
「祖母の形見なんです。……でも、もう動かないし」
「動きます」
ジョスランさんは拡大鏡を外した。
「ぜんまいが切れているだけです。直せば、動きます」
「でも、修理代が」
「お預かりのあいだに、直しておきます。修理代は要りません」
ナタリーは目を丸くした。
「そんな、悪いです」
「質草が動くほうが、預かる側も気分がいいですから」
ジョスランさんは帳場の引き出しから預かり札を出して、銀貨を五十枚、数えた。
その日から、ナタリーは、なぜか、ときどきフィンチ質店の前を通るようになった。
図書館の帰り道。遠回りになるのに、商店通りの外れまで歩いて、格子戸の硝子ごしに帳場の明かりを見る。ジョスランさんは、たいてい拡大鏡をはめて何かを直していた。
三度目に通りかかったとき、急に雨が降り出した。
傘を持っていなかった。ナタリーが軒先で立ち往生していると、格子戸が、からからと開いた。
「ナタリーさん」
ジョスランさんが、黒い傘を一本、差し出していた。
「どうぞ。返すのはいつでもいいですから」
「あ、ありがとうございます。でも、どうしてわたしだと」
「毎週、火の日と金の日の、六時過ぎに通るでしょう」
言い終えると、ジョスランさんは格子戸を閉めた。
ナタリーは黒い傘を差して雨の商店通りを歩いた。
毎週、火の日と金の日。
――気づかれていた。
顔がかあっと熱くなった。傘の柄を握る手に、力が入った。
次の火の日、ナタリーは傘を返しに行った。図書館の古書の棚で見つけた、懐中時計の歴史の本を一冊、一緒に持って。
ジョスランさんは本を受け取ってぱらぱらとめくった。それから、少しだけ口の端を上げた。
「この本、もう刷られていません。探していました」
「えっ、本当ですか」
「図書館の司書さんは、すごいですね」
初めて、ジョスランさんが笑うのを見た。ほんの少しだけ。目もとがやわらかくなって。
ナタリーの心臓が、どくん、と鳴った。
それから、ナタリーはときどき、店じまい間際のフィンチ質店に寄るようになった。
図書館で、時計や宝石の本が返ってくると、つい手に取ってしまう。それをジョスランさんに見せに行く。ジョスランさんは拡大鏡を外して、ぱらぱらとめくって、「この挿絵の石の留め方は古い」とか「この職人は知っています」とか、ぽつりぽつりと話した。
ある金の日の夕方、店の中に、ほかに客はいなかった。外はもう暗くなりかけていた。柱時計が六時半を打った。
「ジョスランさんは、どうして職人をおやめになったんですか」
ナタリーが訊くと、ジョスランさんの手が鑷子を持ったまま止まった。
「やめた、というより……やめるしかなかった、ですね」
ジョスランさんは鑷子を置いた。
「親父が倒れたとき、この店を閉めるかどうか、迷いました。でも、この店には、預かっている品物がたくさんあった。誰かの、お父上の形見の時計。お母上の嫁入りの帯。質に入れて、いつか取りに来るつもりの人たちの品物です。店を閉めたら、それを返す場所がなくなる」
ジョスランさんは、帳場の後ろの、鍵のかかった棚を見た。
「だから、継ぎました。職人の仕事はここでもできる。修理くらいなら」
「……作るほうは?」
ナタリーが訊くと、ジョスランさんは少しだけ黙った。
それから、帳場の引き出しのいちばん奥から、小さな桐の箱を取り出した。
蓋を開けると、中に、指輪が一つ入っていた。
細い金の輪に、小さな石が三つ、並んで留めてある。真ん中が淡い水色、両脇が透明。華やかではない。でも、輪の側面に、小さな葉の模様が、びっしりと彫りこんであった。一枚一枚、葉脈まで。
「……きれい」
ナタリーは息をのんだ。
「工房をやめる前に、最後に作ったものです。誰に頼まれたわけでもなく。自分で作りたくて」
「売らないんですか」
「売れないんです」
ジョスランさんは指輪を見下ろした。
「この指輪が似合う人に、まだ会っていないから」
ナタリーは指輪から目が離せなかった。
葉の模様が角灯の下で静かに光っていた。誰かの指にはめられる日を、待っているように。
「ジョスランさん、もったいないです。こんなものが作れるのに」
「そうですか」
「そうですよ。わたし、図書館で毎日、本を手渡しているんですけど。この本はこの人に読まれるために書かれたんだって思う瞬間が、たまにあるんです。この指輪にも、きっと、そういう人が来ます」
ジョスランさんが顔を上げた。
切れ長の目がナタリーを見ていた。いつもより、少しだけ長く。
「……来ますかね」
「来ます」
ジョスランさんは、桐の箱の蓋をゆっくりと閉じた。
それから、小さな声で何か言った。柱時計の音にまぎれて、ナタリーには聞き取れなかった。
「え?」
「いえ。何でもありません」
ジョスランさんは箱を引き出しの奥に戻した。耳の先が赤かった。
懐中時計を預けて、ひと月が過ぎた土の日の午後だった。
ナタリーが利息を払いにフィンチ質店に入ると、帳場の前に先客がいた。
灰色の上着の男。背中を丸めて、帳場に何かを差し出している。
「これ、いくらになりますかね。海の向こうの国の、名工の銘が入った金の腕輪なんですけど。本物ですよ、もちろん」
その声を聞いた瞬間、ナタリーの足が床に縫いつけられた。
知っている声だった。四年間、毎日聞いていた声。一年前に書き置き一枚で消えた声。
男が振り返った。
ナタリーと目が合った。
男の顔から、血の気が引いていった。
「……ナタリー」
彼だった。
一年ぶりに見る彼は、少し痩せていた。上着の肩がたるんでいる。髪が伸びて目の下にくまがあった。海の向こうの国で、やりたい仕事をしているはずの人が、王都の下町の質屋で腕輪を売ろうとしている。
「な、なんでここに」
「それはこちらの台詞です」
自分の声が思ったより低く出た。
膝が震えていた。手のひらに、汗がにじんでいた。一年間、何度も夢に見た。この人に会ったら、何と言おう。泣いて責めるのか。怒鳴るのか。それとも、何も言えずに立ち尽くすのか。
「海の向こうで、お仕事をしていたのではなかったの」
「い、いや、それは、その……向こうで、ちょっと、うまくいかなくて。最近、戻ってきたばかりで」
彼は目を泳がせた。
「ナタリー、元気だった? あの、僕、ずっと謝りたくて。本当に。あのときはどうかしていたんだよ。お金も、そのうち返すつもりで」
「お客さん」
帳場の向こうから、ジョスランさんの声がした。
ジョスランさんは拡大鏡をはめて、彼の差し出した腕輪を見ていた。
「こちらの腕輪ですが」
「あ、はい! いくらになりますか。金貨三十枚くらいには」
「お買い取りはできません」
彼が固まった。
「まがい物です。銘の字の跳ね方が、本物とわずかに違います。留め金の刻印も。……それと、金は表の薄い一枚だけで中身は真鍮です。買い取るとしたら、銅貨二十枚です」
店の中がしんと静まり返った。
柱時計がこち、と鳴った。
「ど、銅貨二十枚……? いや、そんなはずない。これ、向こうでちゃんとした店で買って」
「お客さん」
ジョスランさんは拡大鏡を外した。
「失礼ですが、硝子の石の指輪を大通りの店の箱に入れて、どなたかに差し上げたことはありませんか」
彼の顔が凍りついた。
ナタリーの口から、小さな息が漏れた。
ジョスランさんは表情を変えなかった。ただ、静かに彼を見ていた。
「まがい物を本物だと言って渡す人は、たいてい自分もまがい物をつかまされます。そういうものです」
彼は口を開いて、閉じた。何か言い返そうとして、言葉が出てこないようだった。
ナタリーは一歩、前に出た。
膝はまだ震えていた。でも、もう、立ち尽くしてはいなかった。
「お金は、返してくださらなくていいです」
彼がナタリーを見た。
「返してくださるとは思っていないから。そのかわり、もう、わたしの前に出てこないで」
「ナタリー、そんな」
「指輪、銅貨十枚だったの」
ナタリーは言った。声は震えなかった。
「わたしが一年泣いた指輪、銅貨十枚だった。でも、それを銅貨十枚で売らなくていいって言ってくださる人がいた。……あなたには、分からないと思うけれど」
彼は帳場の上のまがい物の腕輪をつかんで、逃げるように格子戸を開けた。からからと戸車が鳴って、灰色の上着の背中が、商店通りの人混みに消えていった。
ナタリーはその場に立ったまま、大きく息を吐いた。
膝から力が抜けて、帳場の前の丸椅子に、すとんと座りこんだ。
「……大丈夫ですか」
ジョスランさんが、帳場の向こうから身を乗り出していた。
「大丈夫、です」
ナタリーは笑った。手がまだ震えていた。でも、胸の奥は、驚くほど軽かった。
「ジョスランさん。今の、わざとですか。硝子の指輪の話」
「……つい」
ジョスランさんは、少しだけ目をそらした。耳の先が赤くなっていた。
「質屋が、お客さんの話をよそでするのはいけないことです。すみません」
「いいえ」
ナタリーは首を横に振った。
「すっとしました。一年分、すっとしました」
言ってから、ナタリーは自分の手を見下ろした。
まだ震えていた。指先が小刻みに。一年ぶりに見た彼の顔がまぶたの裏から離れない。痩せた頬。泳ぐ目。僕、ずっと謝りたくて。
謝りたかったのなら、どうして一年間、一度も手紙をくれなかったのだろう。どうして、まがい物の腕輪を売りに、こんなところへ。
胸の奥がきりきりと痛んだ。すっとしたのは本当だった。でも、痛いのも本当だった。四年間好きだった人が、こんなふうに背中を丸めて逃げていくのを見るのは。
ことり、と音がした。
顔を上げると、帳場の上に、湯気の立つ茶碗が置かれていた。
焙じた麦の、香ばしい匂い。ひと月前、ナタリーが笑いながら泣いた日と、同じ茶碗。
「……ありがとうございます」
ジョスランさんは何も言わずに、帳場の向こうの椅子に座り直した。拡大鏡をはめて修理中の時計に目を落とす。
ナタリーが落ち着くまで待っていてくれるのだ。ひと月前と、同じように。
茶碗を両手で包むと、指先の震えが、少しずつおさまっていった。
柱時計がこち、こちと鳴っている。帳場の向こうで、鑷子が小さな歯車をつまむ、かすかな音。麦湯の湯気が店の薄暗い空気の中に、白く溶けていった。
この人は何も訊かない。何があったのかも、大丈夫かとも。ただ、待っていてくれる。
その静けさが今のナタリーには、どんななぐさめの言葉よりもありがたかった。
その日、ジョスランさんは、帳場の引き出しから、銀の懐中時計を取り出した。
蓋を開けて、ナタリーの手のひらに載せた。
こち、こち、こち。
小さな、確かな音が、手のひらに伝わってきた。秒針が文字盤の上をゆっくりと回っていた。
「……動いている」
「先週、直りました」
ナタリーは時計を耳に当てた。
こち、こち。祖母の膝の上で、昼寝をしながら聞いた音だった。二十年近く、止まっていた音。
目の奥がまた熱くなった。
「それから、これも」
ジョスランさんが、帳場の上に小さな布の包みを置いた。
開けると、銀の細い鎖の先に、小さな硝子の石が一粒、揺れていた。
あの指輪の石だった。
「勝手なことをしてすみません。最初にいらした日、お持ち帰りになるのを忘れていかれたから」
ナタリーはあっと声を上げた。
最初にこの店に来た日、持って帰ってくださいと言われたのに、麦湯を飲んで泣きやんだあと、天鵞絨の箱を帳場の上に置いたまま帰ってしまっていたのだ。
「台は、鍍金が剥げていたから外しました。石だけ、鎖に留めました」
硝子の石は窓からの午後の光を受けて、小さく、きらきらと光っていた。
「硝子でも、光り方は、本物とそんなに変わらないんです。違いが分かるのは、拡大鏡で見る人だけです」
ジョスランさんは、少し迷うように言葉を切った。
「まがい物でも、あなたが一年泣いた分の重さはある。だから、捨てるより、持っていてほしいと思った。……指輪としてではなく」
ナタリーは鎖を指にかけて持ち上げた。
硝子の石が揺れた。二年前、涙でにじんで見えなかった光が、今は、はっきりと見えた。
「……ジョスランさん」
「はい」
「これ、いくらですか。細工の代金」
「要りません」
「払います。銅貨十枚」
ジョスランさんが目を見開いた。
ナタリーは財布から銅貨を十枚出して、一枚ずつ、帳場の上に並べた。
「銅貨十枚の指輪の石を、銅貨十枚で買い戻します。そうしたら、わたしの一年は、銅貨十枚ではなくて、わたしのものになる気がするから」
ジョスランさんは、銅貨を見下ろしてしばらく黙っていた。
それから、ふっと、息を吐くように笑った。
「……分かりました。銅貨十枚でお売りします」
ジョスランさんは銅貨を受け取って帳場の引き出しを開けた。
引き出しの奥に、桐の小さな箱が見えた。葉の模様の指輪が入っている、あの箱。
ナタリーはふと思い出した。
「ジョスランさん。あの指輪を見せてくださった日、最後に何かおっしゃいましたよね。柱時計の音で聞こえなかったんですけど」
銅貨を持ったジョスランさんの手が引き出しの上で止まった。
柱時計がこち、こち、と鳴った。
「……言いましたか」
「おっしゃいました。何でもないってごまかしましたけど」
ジョスランさんは、しばらく黙っていた。
それから、銅貨を引き出しにしまって桐の箱の横に置いた。引き出しを、ゆっくりと閉めた。
「もう、来ているのかもしれない、と」
ナタリーはまばたきをした。
「似合う人が。……そう言いました」
ジョスランさんは、ナタリーのほうを見なかった。帳場の上の、修理中の時計を見下ろしていた。
ナタリーの心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
顔に、一気に血がのぼった。指先まで熱い。手の中の懐中時計の音が、急に大きく聞こえた。こち、こち、こち。自分の鼓動のほうが、ずっと速い。
「そ、それはあの」
「すみません。忘れてください」
「忘れません」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
ジョスランさんが、ようやく顔を上げた。
「忘れません。図書館の司書は一度聞いたことは、だいたい覚えているんです」
ジョスランさんは目を見開いた。それから、片手で口もとを覆って横を向いた。肩が小さく揺れていた。笑っているのだと分かった。
「……かないませんね、本当に」
ジョスランさんは笑いをおさめると、預かり札を一枚出して裏に何か書きこんだ。
「ナタリーさん。引っ越しは月末でしたね」
「はい。商店通りの、向こう側の屋根裏です」
この店から、歩いて十分。決めたのはひと月前だった。理由は誰にも言っていない。
「近くなりますね」
「……はい」
ジョスランさんは、預かり札をナタリーのほうへ差し出した。
裏に、角ばった字で短く書いてあった。
――引っ越しの手伝い、要りますか。荷運びは得意です。それと、川べりに、うまい煮込みの店があります。
ナタリーは預かり札を両手で持った。
顔が熱かった。耳まで首まで。
「これ、預かり札ですよね。何を預かってくださるんですか」
ジョスランさんは拡大鏡を右目にはめた。帳場の上の、修理中の時計に目を落とした。表情はいつもどおり、ほとんど動かなかった。
けれど、拡大鏡の縁からのぞく耳の先が、真っ赤だった。
「……返事を」
こち、こち、と柱時計が鳴った。ナタリーの手の中の懐中時計も、同じ速さで、こち、こち、と鳴っていた。
ナタリーは鎖の先の硝子の石を首にかけた。
「火の日と金の日の、六時過ぎに、お返事に来ます」
王立図書館の閲覧室に、宝飾の目利きの本を探しに来た客がいたのは、それから三日後のことだった。
背の高い、白髪まじりの老紳士だった。仕立てのいい黒の上着に、胸もとに小さな王冠の徽章。王宮の宝物庫を預かる役人だと、同僚の司書が小声で教えてくれた。
「お嬢さん。この本の、この留め方の挿絵ですが」
老紳士は開いた頁の一点を指さした。三つの石を、葉の模様の輪に留める古い技法の図。
「これを今の王都でできる職人を、ご存じありませんか。宝物庫の古い冠の修繕に、どうしても一人、腕のいい者が要るのです。十年前に大通りの工房で、これをやってのけた若い職人がいたと聞いたのですが、行方が分からなくてね」
ナタリーは本の頁を見下ろした。
細い金の輪。びっしりと彫りこまれた葉。葉脈まで。
胸の奥で、こち、と時計の音がした気がした。
「……存じております」
ナタリーは顔を上げた。
「下町の、商店通りの外れです。火の日と金の日の夕方なら、わたしがご案内できます」
その週の金の日、ナタリーは老紳士と並んで紺色の看板の前に立った。
格子戸を引くと、からからと戸車が鳴った。帳場の向こうで、ジョスランさんが拡大鏡をはめたまま顔を上げた。ナタリーを見て、それから隣の老紳士の徽章を見て鑷子を取り落とした。
ナタリーの首もとで、硝子の石が、ちいさく揺れた。
(完)
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婚約破棄を告げられたので「はい喜んで」と答えたら、殿下が泣き出しました
「おまえは地味だから、夜会は妹に行かせる」と父が言うので、妹のドレスの直しを全部引き受けたら、仕立てを見た公爵閣下に工房ごと引き抜かれました




