第八話 君の記憶
病室の夕焼けは、静かだった。
窓の外がゆっくり橙色に染まっていく。
機械の規則的な音と、彼女の浅い呼吸だけが空間を満たしていた。
僕は、彼女の手を握ったまま動かなかった。
離したくなかった。
理由は分からない。ただ、そう思った。
「神谷くん」
小さな声。
「……うん」
「来てくれて、ありがと」
彼女は目を細めて笑う。
いつもの笑顔に似ているのに、どこか遠い。
「学校、どう?」
「……静か」
「そっか」
それだけの会話なのに、胸が痛い。
沈黙が落ちる。
夕日が少しずつ傾いていく。
やがて彼女が言った。
「ねえ、私ね」
少し呼吸を整える。
「本当は、最初から気づいてた」
「……なにを?」
「神谷くん、触れられるの苦手なこと」
僕は言葉を失う。
彼女は続ける。
「人と距離を取ってるの、分かりやすかったよ」
「……そう」
「でもね」
彼女はゆっくりと僕の手を握り返した。
「初めて手を握ったとき、すごく驚いた顔してた」
あの日、屋上のことだ。
「だから思ったの。
この人、ずっと一人だったんだなって」
胸が締めつけられる。
彼女は僕を見た。
「私、嬉しかったよ」
「……え?」
「神谷くんが、私のこと怖がらなかったから」
違う。
怖かった。
ずっと分からなかったから。
でも、言えなかった。
「ねえ」
彼女の声が、少し弱くなる。
「最後に、お願いしていい?」
僕は頷く。
「もう少しだけ……手、握ってて」
「……うん」
握る力を少しだけ強くする。
そのときだった。
――視界が揺れる。
初めてだった。
彼女に触れて、景色が変わる。
春の教室。
転校してきた日の朝。
彼女が教室の扉の前で深呼吸している。
胸を押さえながら、小さく呟く。
「……よし」
次の瞬間、教室に入る。
クラスのざわめき。
自己紹介。
そのあと。
彼女の視線が、窓際の席に向く。
――僕がいた。
一人で外を見ている僕を、彼女はじっと見ていた。
(あの人、ずっと一人だ)
声が聞こえる。
(私と同じだ)
場面が変わる。
屋上。
僕の隣に座る彼女。
何を話すか迷いながら、それでも声をかける。
(この人と話してみたい)
また変わる。
川沿いの道。
夕焼け。
僕の横を歩きながら、彼女は心の中で思う。
(もう少しだけ、時間があればいいのに)
さらに景色が流れる。
病室。
夜、一人で天井を見ている彼女。
(怖いな)
(でも、最後にこの人に会えてよかった)
――理解した。
これは過去じゃない。
彼女の中で、いちばん強く残った“想い”だ。
景色が消える。
病室へ戻る。
僕の手の中に、彼女の手がある。
涙が落ちた。
止まらない。
初めてだった。
誰かの記憶で泣くんじゃない。
自分の感情で、泣いている。
「……神谷くん?」
彼女がかすかに言う。
僕は、やっと言えた。
「……好きだ」
声が震える。
「白石、好きだ」
彼女の目が少しだけ開く。
そして、弱く笑った。
「……うん」
それは、返事だった。
彼女の指の力が、少しだけ抜ける。
機械の音が変わる。
僕は手を離さない。
離せない。
涙が落ち続ける。
彼女の最後の記憶の中に、
僕がいたと知ってしまったから。




