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涙を知らない僕が、最後に泣いた日  作者: 大きい橋


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第六話 普通の一日


次の日、僕はいつもより早く学校に来ていた。


教室にはまだ数人しかいない。

窓の外は曇り空で、昨日の雨の名残が校庭に残っている。


鞄を置き、席に座る。

落ち着かない。


時計を見る。

まだ始業まで二十分もある。


もう一度見る。

ほとんど時間は進んでいない。


こんなふうに誰かを待つのは、初めてだった。


教室の扉が開く音がした。


反射的に顔を上げる。


――白石澪だった。


いつも通りの制服。

いつも通りの笑顔。


だけど、少しだけ歩く速度が遅い。

それだけで胸が締めつけられる。


「おはよ」


彼女が言う。


「……おはよう」


声が少し震えた気がした。


彼女は自分の席に鞄を置き、それから僕の机の前まで来る。


「早いね、今日は」


「……たまたま」


本当は、違う。


ただ、会いたかっただけだ。


「昨日、電話ありがと」


「……うん」


それ以上の言葉が出ない。


透露は知っている。

彼女の病気を。

残された時間を。


でも彼女は知らない。

僕が知ってしまったことを。


だから僕は、何も聞かないことを選んだ。


彼女が“普通”でいようとしているなら、

僕も“普通”でいようと思った。


その日の授業中、僕は初めて黒板ではなく彼女を見ていた。


ノートを取る手。

時々ペンが止まる瞬間。

小さく息を整える仕草。


体育の時間、彼女は見学だった。

校庭の隅のベンチに座り、みんなを眺めている。


僕は走りながら、何度も視線を向けてしまう。


彼女は気づくと、小さく手を振った。


それだけで、胸が痛いくらい温かくなる。


放課後。


「ねえ、神谷くん」


「なに」


「ちょっと寄り道しない?」


彼女が言った。


断る理由はなかった。


学校の帰り道、駅とは反対方向へ歩く。


住宅街を抜け、小さな川沿いの遊歩道に出る。

水の流れる音が静かに響く。


「ここ、好きなんだ」


彼女は言う。


「人が少なくて、落ち着くから」


僕たちは並んで歩く。

肩が触れそうで触れない距離。


「神谷くんってさ」


「……うん」


「最初、私のこと苦手だったでしょ」


否定できない。


「今は?」


僕は少し考えた。


嘘をつきたくなかった。


「……違う」


それだけ言う。


彼女は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「そっか」


橋の上で立ち止まる。


川面に光が揺れている。

風がやわらかい。


しばらく二人で景色を見ていた。


やがて彼女が言う。


「私ね、将来やりたいこと、あるんだ」


「なに?」


「海を見に行きたい」


意外だった。


「旅行?」


「うん。ちゃんとした遠出、したことなくて」


少し間を置く。


「電車に長く乗るのも、ちょっと苦手で」


その言葉の意味を、僕は知っている。


胸が締めつけられる。


「……行こう」


気づけば、言っていた。


彼女が僕を見る。


「え?」


「一緒に」


無責任な言葉だと分かっていた。

未来を約束できる立場じゃない。


それでも、言わずにいられなかった。


彼女はしばらく黙って、そして小さく笑った。


「うん」


その“うん”は、

叶う約束への返事じゃなく、


――願いを受け取った声だった。


帰り道の別れ際。


彼女は手を振る。


「また明日ね」


僕は頷いた。


けれど、胸の奥で分かっている。


“また明日”が、どれだけ大切な言葉か。


彼女の背中が遠ざかる。


僕は初めて強く思った。


能力なんていらない。


過去なんて見えなくていい。


ただ――


この時間が、続いてほしい。


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