第三話 触れた温度
白石澪を避けなくなった、わけじゃない。
ただ――
避けきれなくなった。
朝、昇降口で靴を履き替えていると、背後から声がする。
「おはよ、神谷くん」
振り向く前に分かる。
彼女だ。
「……おはよう」
自分でも驚くくらい自然に返事が出た。
「今日は逃げないんだ」
「逃げてない」
「昨日も図書室にいたのに、私が入った瞬間、本棚の裏行ったよね」
見られていたらしい。
言葉に詰まる。
彼女はくすっと笑った。
「安心して。追いかけないから」
そう言って、僕の横に並ぶ。
距離が近い。
肩が触れそうになり、思わず半歩ずれる。
彼女は何も言わない。ただ気づいている顔をしたまま歩く。
そのとき、ふと思った。
――確かめたい。
どうして彼女だけ、見えないのか。
このまま分からないままでいる方が、怖い。
廊下の途中、僕は立ち止まった。
「白石」
「ん?」
彼女が振り返る。
心臓がうるさい。
でも、目を逸らさなかった。
「ちょっと、いい?」
彼女は首を傾げる。
僕は意を決して、彼女の手首に触れた。
一秒。
二秒。
三秒。
……何も起きない。
視界は変わらない。
頭痛もない。
知らない声も、景色も、流れ込まない。
ただ、彼女の体温だけが伝わる。
「……神谷くん?」
彼女の声で、我に返る。
僕は慌てて手を離した。
「ごめん」
「いや、いいけど……どうしたの?」
答えられない。
説明できるはずもない。
けれど、確信だけが残る。
やっぱり、彼女だけは見えない。
その日の放課後、僕は屋上にいた。
結局、戻ってきてしまった。
ここは一人になれる場所のはずだった。
ドアが開く音がした。
振り向かなくても分かる。
「いると思った」
彼女が隣に座る。
沈黙。
風の音だけが流れる。
やがて彼女が言った。
「さっきのこと」
心臓が跳ねる。
「怒ってないよ」
「……そう」
「でもね、ちょっとだけ分かった」
僕は顔を上げた。
彼女は空を見ている。
「神谷くん、人が怖いんでしょ」
否定できなかった。
「人を信用してないんじゃなくて、信用できないんだよね」
言葉が刺さる。
どうして、この人は分かるんだ。
何も見えていないはずなのに。
「私ね」
彼女は小さく息を吸った。
「人のこと、分かるわけじゃないよ。神谷くんが何を考えてるかも知らない」
少し間を置く。
「でも、分からないから、知りたいと思うの」
僕は黙ったまま聞いていた。
「知らないまま離れるの、嫌だから」
風が吹き、彼女の髪が揺れる。
そのとき、彼女は小さく咳をした。
一度だけじゃない。
続けて、二回。
胸を押さえる仕草が、一瞬だけ見えた。
「……大丈夫?」
「うん、ちょっとむせただけ」
笑う。
けれど、呼吸が少し荒い。
僕は、胸の奥がざわついた。
これまで多くの“記憶”を見てきた。
人の不安、後悔、隠し事。
だから分かる。
――この違和感は、偶然じゃない。
「白石」
「なに?」
「無理、してない?」
彼女はきょとんとしたあと、柔らかく笑った。
「してないよ」
そして、少しだけ目を細めた。
「神谷くん、やさしいね」
その言葉に、言い返せなかった。
僕は優しくなんてない。
ただ、怖かっただけだ。
理由は分からないのに、確信だけがある。
この人は、
どこか遠くへ行ってしまう気がする。
夕焼けの中、彼女は立ち上がる。
「また明日ね」
手を振って屋上の扉へ向かう。
その背中を見ながら、僕は思った。
初めてだった。
“過去”じゃなく、“これから”が怖いと感じたのは。




