第二話 見えない人
次の日から、僕は白石澪を避けた。
教室では視線を合わせない。
廊下では遠回りをする。
昼休みも屋上には行かず、図書室の一番奥に座った。
理由ははっきりしている。
――怖かったからだ。
今まで僕は、人の過去を見て距離を取ってきた。
でも彼女は違う。
何も見えない。
それはつまり、
“どういう人間なのか分からない”ということだった。
本を開いていても、文字が頭に入らない。
あのときの感覚を思い出す。
確かに触れていた。
手の温度も、力の強さもはっきり覚えている。
それなのに、何も起きなかった。
僕の力が消えた?
いや、朝の電車では見えている。
さっき廊下でぶつかった生徒の記憶も流れ込んできた。
つまり――
彼女だけが例外だ。
その事実が、胸の奥に小さなざわつきを残す。
「やっと見つけた」
本の上に、影が落ちた。
顔を上げると、白石澪が立っていた。
心臓が一拍遅れて強く鳴る。
「……なに」
「なんで逃げるの?」
まっすぐな目だった。
疑っていない目。
僕は視線を逸らした。
「逃げてない」
「嘘。昨日からずっと避けてる」
言い返せない。
彼女は僕の向かいの席に座った。
図書室は静かで、ページをめくる音だけが聞こえる。
「私、何かした?」
「……してない」
「じゃあ、どうして?」
答えられるわけがない。
“君の過去が見えないから怖い”なんて、言えるはずがない。
沈黙が続く。
彼女は少しだけ考えるように首を傾げ、それから小さく言った。
「ねえ、神谷くん」
「……」
「人のこと、あんまり信じないでしょ」
心臓が止まった気がした。
思わず顔を上げる。
彼女は静かに続ける。
「誰とも仲良くならないし、目も合わせないし、触られるのも嫌そうだし」
図星だった。
でも、それ以上に――
どうして分かったのかが怖い。
「……別に」
「うん。でもさ」
彼女は少し笑った。
「私は、神谷くんのこと、ちょっと信じてるよ」
意味が分からなかった。
ほとんど話したこともない。
助けたこともない。
仲良くした覚えもない。
それなのに。
「……なんで」
初めて、自分から聞いていた。
彼女は少しだけ考えて、答える。
「なんとなく」
あまりにも根拠のない言葉だった。
だけど、不思議と冗談に聞こえなかった。
そのとき、彼女が立ち上がった。
「じゃあね」
そう言って歩き出す。
通り過ぎる瞬間、彼女の肩が僕の腕に軽く触れた。
――反射的に、息を止める。
来る。
記憶が流れ込む。
そう身構えたのに。
やはり、何も見えなかった。
彼女は振り返る。
「やっぱり、何も起きないね」
「……え?」
「昨日、手、握ったとき」
凍りつく。
「神谷くん、びっくりした顔してたから」
僕は何も言えなかった。
彼女は少しだけ寂しそうに笑う。
「大丈夫。理由は聞かない」
そして、静かに言った。
「でも、逃げなくていいよ」
図書室の扉が閉まる。
僕は椅子に座ったまま動けなかった。
何も見えないはずなのに。
彼女の言葉だけが、胸に残る。
今まで、僕は人の“過去”を知ってきた。
だから人を信じなかった。
でも――
過去を知らなくても、信じようとする人間がいる。
その事実が、僕を一番動揺させていた。




