第56話 解析令嬢と誓いの接吻?――偽装婚約の裏に潜む、王城の呪術
小次郎は昨晩マインラート・ソシュール邸で、エレナからたっぷりご褒美の林檎とイチゴを貰ってご機嫌だった。
『また活躍したらご褒美くれるか?』
熱心に調べ物をしているエレナに小次郎は尋ねた。
「うん、そうだね。頑張ったらね」
エレナは資料に目を通しながら適当な相槌を打った。
全然こっちに視線を投げることすらしない。
驚くほど凄まじい集中力だ。
ここまで魔法に没頭すると、エレナはもう小次郎の声すら届かなくなる
昨日あれだけ愚痴を聞いてやったのにさぁ、ちぇ。
小次郎は、つまらないと言わんばかりに、拗ねてみせる。
だが、その様子すらやはりエレナは気づかない。
サブリナに続き、カトリーナも夜遅くに亡くなったことをマインラートから聞いて以来、エレナの顔はひどく真剣で強張っていた。
マインラートから提供された山のような資料を次々とめくり、紙の擦れる音だけが部屋に響いていた。
そのとき、扉がノックされ、エレナは手を止めた。
小次郎は部屋の梁に身を隠した。
エレナが開ける扉の前には、ルシアン・クレインバール同様、いや、それ以上に若くキラキラとした美貌の青年がいた。まるで陽光を閉じ込めたような笑み。
「初めまして、第2騎士団副団長マッシュ・モラレスです」
(へ?)
ぽかんとするエレナに、彼は自分の胸に手をあてて艶然と続ける。
「エレナ・ヴァービナス女官でよろしかったですよね?
ルシアン様から依頼されました鑑定結果を持って参りました」
「は、はひ……」
思わずエレナの声が裏返った。
どこかで見たことあるような、キラメキ。
(あっ、これ、ディース様と同じだ)
ふと、エレナの脳裏に、女性陣に満面の笑みで手を降るディースの姿が横切った。
一階からは、ため息交じりに心酔する女性研究員たちの熱く注がれる視線が多数あった。
そういうふうに女性陣を恍惚とさせるところもディースに似ている。
「中に入ってもよろしいですか?」
柔らかな声音でマッシュが尋ねた。
「は、はい。どうぞ」
エレナは部屋にマッシュを入れて扉を閉める最中、廊下から
「羨ましい! あのマッシュ・モラレス副団長と部屋で二人きりなんて!」
と悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。
けれども、エレナはあえて聞こえないふりをした。
相手をすると、昨日みたいにまた変なふうに女官に絡まれるかもしれないからだ。
とはいえ、今朝からエレナに向けるみんなの視線は昨日とは少し違う。
「では、失礼しますね」
慇懃丁寧にお辞儀をしてマッシュは部屋に踏み入った。
ルシアンやアランからはマッシュ・モラレスという男について、第2騎士団の中で最も粘着質だと聞いていたが、全然そんな感じはない。
クロフォードも「とにかく性格が悪い陰険野郎」と言っていたので、もっと意地悪そうな人を想像していたが、息を呑むほどの美形で、態度も紳士的。
自称イケメンが苦手なエレナは、別の意味でどうしても恐れおののいてしまう。
そんなマッシュは笑みを持続したまま扉が閉まると、エレナに二枚の羊皮紙を渡した。
「これ、ご所望の結果」
途端に口調が砕け、表情がなくなって態度が一変した。
まるでクロフォードをさらに尖らせて拗らせたような、鋭利な刃物を彷彿とさせる雰囲気を醸し出す。
エレナはあまりの変わりように呆気に取られた。
「これが知りたかったんだろ?」
「は、はい。ありがとうございます」
エレナは早速一枚目の羊皮紙の内容に目を通す。
昨夜、マインラートに頼んだ資料と共に、ルシアンにも鑑定して欲しいと依頼した案件の結果だ。
(――ああ、やっぱりそうだったんだ)
ずっと疑問だったことが腑に落ちた。というよりも、想像していたが、やはり目の前に突きつけられると衝撃的な事実だ。
危機感が急に募って、鼓動がやけに速まる。
「最超特急でやったから。
ありがたく受け取ってよ。新人特別補佐官さん」
偉そうな口調にふんぞり返るマッシュは、エレナをまじまじと見下ろす。
さっきのキラキラした笑顔はどこへ行ったのか、今はまるで獲物を品定めするような野獣の目つきだ。
(ひょぇぇ、なんかさっきと人格、全然違うよ?)
エレナは狙われた兎のような心境に陥って、ぶるりと体を震わせた。
「もうさ、こっちは徹夜だっていうのに、朝から墓を掘り起こして棺の中の遺体とご対面だぜ。
まさか騎士になって、こんな墓泥棒みたいなことするなんて。生まれて初めてだ」
マッシュはコツコツと軍靴の音を立てて、応接用のソファにどかっと横柄に腰掛けた。
「しかも、罪人の墓だぜ?
ルシアン様やアラン様の頼みじゃなかったら、即お断りだ」
「す、すす、すみません、お手数をおかけしました!」
マッシュにとって通常口調なのだろうが、エレナにはキツく感じて、なんとなく怖い。
(お茶でもお出しして、おもてなしをした方がいいかしら)
「いや、全然。
謝るのはお門違いだ」
ケロッとした表情でマッシュは言った。
「へ?」
「だって、その分、収穫は相当デカかったぜ」
マッシュはご機嫌に立ち上がって、エレナに近寄るとその小柄な肩をバシバシ叩く。
「いやぁ、本当によく気付いたよ。お手柄だ!
誰も思い浮かばなかったぜ、官吏登用試験のときの解答用紙を使うだなんてさぁ。
すげぇよ、お前」
「あ、ありがとうございます。
彼に繋がる手がかりとなると、もうアレしか思いつかなかったんです」
恐る恐るエレナが見上げると、マッシュからは口角をニッとあげて、まるでいじめっ子のような目をする。
その目にエレナは気圧されそうになった。
「いや、正解だ。あんたの目論見どおりの結果。
マジで驚いたね。上層部も失念していた解答用紙の存在をよくぞ思い出したもんだ。
しかも、それをこんな新人さんが真っ先に思い出すとは一本取らせたぜ。
そりゃあ、偽装とはいえ、あの性悪異端児クロフォードの婚約者を担うほどのお嬢さんだ」
マッシュは愉快そうに肩を震わせて笑う。
「そうそう、あの泥トカゲ人形の魔法残滓も鑑定終わったぜ。
もう一枚の方に詳細が書いてあるから」
マッシュにそう言われ、エレナは二枚目に目を通した。
エレナが一言一句逃さぬように読み進めている間に、マッシュは華やかな笑みを浮かべた。
「黒リスだっけ? あんたのペット。
お手柄中のお手柄だ。ルシアン様が黒リス用に胡桃をたんまりとマインラート邸に贈るよう指示してたぜ」
その台詞を聞きいたのか、小次郎が天井の梁からひょこっと顔を出した。
それにマッシュはすかさず気付き、二ッと笑いかけた。
「ああ、あれがその黒いのか。お~い、黒リス」
マッシュが天井を仰ぎながら、小次郎に声をかける。
「お前、すげぇよ。お前の捕まえた泥トカゲは、ワルト・チェッカレッチが作った”式神”だって判明したぜ。
アイツが侯国に潜り込み、なおかつ、影魔法と呪術の使い手だってのもよ~く分かった。
ご褒美の胡桃、たんと食えよ」
小次郎は返事をする代わりに、つぶらな瞳をキラキラさせながら、尻尾を左右に激しく振った。
「へえ、かわいいじゃん」
少年のようなあどけない眼差しでマッシュが小次郎を見つめた。
その時、ノックなしで、扉が開いた。
「やっほ~、雀ちゃん」
アメリアが部屋の中に軽く手を振りながら入って来た。
本日も破廉恥極まりない、ネグリジェのような透けるドレスを着ていた。
光を受けて布地が淡く透け、肌の輪郭を際立たせる。
(しまった、結界を解いてたんだっけ……)
エレナが後悔している最中、アメリアとマッシュの目が合い、二人ともしばらく見つめ合う。
しばらく間があった。
「うわぁ、出た! 王城一、破廉恥魔法使いマダム!」
「ひゃああああ! なんであんたがここにいるのよ!!」
マッシュの顔が歪んで一歩後ろに退くと同時に、アメリアは盛大な悲鳴を上げながら、柱の陰に隠れた。
「はあ……最近ルシアン様へのつき纏いが終わったと思ったら。
今度はこの新人に触手が伸びているのかよ。
信じらんねぇ」
マッシュがアメリアに軽蔑の眼差しを向け、後頭部を掻きながら深いため息をついた。
「いい加減、魔力量多い官僚のケツ追うの、やめろよな。
まったく、寝不足に色ボケババアは目に毒だ」
「うるさいわね、あんた、可愛い顔して口が悪過ぎよ」
アメリアは柱の影から顔を出して、必死に言い返した。
「お前に言われたくねぇ」
マッシュはアメリアを睨みつけ、不貞腐れたような目つきで今度はエレナに視線を投げた。
「いいか、俺は確かに渡したから」
「は、はひ、ありがとうございました」
マッシュはふんっと鼻を鳴らし、コツコツとまた靴音を立てて、ばんっと大きな音を立て扉を開く。
「お前さぁ、警戒心なさすぎ。
その破廉恥マダムは相当ヤバいからな。
気をつけろよ」
エレナに指を指したマッシュは諭すような口調で言い残し、部屋を出て行った。
「ふふん、行ったかしらん?」
アメリアが恐る恐る柱の影から出て来た。
「はい。帰られましたよ」
「あぁ、もう、武官って一見紳士に見えるのに、野蛮だから本当恐ろしいわ」
アメリアは肩をすくめた。
エレナには同期に、武官のような軍部所属の文官レイノルドや、刑部省付きの軟派イケメン書記官ネイトがいる。そのせいかあまり武官に恐怖心を抱いていない。だが、普段関わりのない者にとって騎士団は恐ろしい存在らしい。
エレナ本人は気付いていないが、小次郎の話によると、昨夜、みんながほとんどが帰った後とはいえ、ここに彼ら武官が訪れ、しかもそれが鬼総騎士団長と、魔法省トップの息子の第2騎士団長というから、朝から一般研究員たちは、かなり驚き、そして戦々恐々としていたらしい。
なおかつ、エレナの研究室で長く話し込んだのは、周知の事実となっていて、サブリナとカトリーナの件も重なり、朝からエレナを遠巻きにしているという。
それも相まって、サブリナのように直接食って掛かってくるような人たちは、今のところいない。
とはいえ、アメリアとマッシュのやりとりを見る限り、これは明らかにアメリアが何かやらかしている。
「アメリア様、クレインバール卿に何をしたんですか?」
エレナが呆れ顔で尋ねると、アメリアはけろっとして答える。
「え、何って。
魔力供給源を見せて欲しいって頼み込んだだけよ」
「魔力供給源?」
「そう、わたしと睦み合って、って」
「へ⁉」
それは男女の行為を行いましょう、という誘い文句。
破廉恥というマッシュの言葉がようやく理解できた。
「だってそうすれば、裸体が隈なく見れるでしょ?
あの魅力的な肉体のどこに膨大な魔力が宿っているのか知りたいじゃない?」
アメリアはウキウキとする明るい声で両手を組み、くねくねと身体をくねらせた。
「で、クレインバール卿はなんと?」
「すご~く、怒られちゃったの。『ご令嬢がそういうことを口にするものじゃありません』ってね。とても紳士的でしょ?
けどね、どうしても諦めきれなくて毎日のように騎士の詰所にお誘いしに行っていたのよ。
そうしたら、クレインバール卿じゃなくて、ほかの騎士たちが率先してわたしの研究に参加したいって言い出してね。
だからね、何人かの騎士たちに参加してもらったのよ。
もちろん、それはもう素晴らしい研究成果があったわ。
それなのに、わたしの研究に参加した騎士たちが全員、翌日の遠征で使い物にならなかったとかで、軍部からクレームをもらってしまったの。
大臣から直接お叱りを受けるだけじゃなく、騎士団長たちから目の敵にされるし、しまいには刑部省出入り禁止になっちゃっで、散々だったのよぉ。ひどくない?」
アメリアは訴えかける目でエレナを見つめる。
いやいや、騎士団長たちから見たら、それはもはや業務妨害に近い。
エレナはため息をついた。
そりゃあ、若くて元気有り余る武官たちの中に、こんなスケスケのセクシー女官が現れたら、騎士たちは本業どころではなくなるだろう。
しかも研究とはいえ、美女と睦み合えるチャンス、逃す手はない。
総騎士団長の美丈夫なルシアンは、ちゃんとした正統性のある真面目な騎士である。
翌日の訓練に支障があったとすれば、真面目な彼はさぞかし「風紀が乱れる」と憤慨したことだろう。
エレナは苦笑するしかなかった。
(この先輩、やっぱりどこかズレてる……)
「あ、そうそう、聞いた?」
アメリアは話題を変え、エレナに身を寄せる。
「何がですか?」
「実はね、サブリナちゃんとカトリーナちゃん、昨日付で国家反逆罪のため懲戒免職だって。
しかもその二人、そのテロ組織と密接なつながりがあったとかで、そのテロ組織に殺されて亡くなったらしいの」
「え……あ、そうなんですか」
エレナの動きが一瞬ぎこちなくなる。
「ええ、びっくりよね」
「は、はい」
エレナは顔を曇らせた。
「昨日クレインバール卿が来ていたのって、それ絡みだったの?」
「……あはは、まあ、そんな感じです」
「歯切れ悪いわね」
言葉を濁すエレナにアメリアは顔をしかめた。
「えっと、まあ、あまり詳しく言うと騎士団から怒られちゃうんで」
「そっか。
騎士団に目を付けられるのは避けたいものね」
アメリアが「分かるよ」と言わんばかりに何度も頷いた。
「そう、それで、わたしも騎士団から分析依頼が来てね」
「ひょっとして妖精姫の持ち込んだハーブ分析ですか?」
「あら、知っていたの?」
アメリアは意外そうな顔をした。
「はい、昨日の話の流れでちらっと……」
エレナは気まずそうに視線を泳がす。
なにせ、「そういう薬の分析ならアメリア様がお勧めです」とクレインバール卿とリックランス団長に紹介したのはエレナだったからだ。
けれど、思い起こせば、あのとき、ルシアンとアランは顔を見合わせ、ものすごく複雑そうな顔をしていた。
それは、過去の彼女の行いがあったからなのか。
「そう、それでね、分析したらちょっとヤバいのが出てきたのよ。
この国にはないハーブなんだけどね、魔法というより別の術ね、たぶんこの国の禁術である“呪術”だと思うんだけど、それを混ぜ合わせると……」
アメリアは分析結果の羊皮紙をエレナの前に出し、指を差す。
エレナの顔がサッと蒼ざめた。
「あとね、騎士団がすべて押収してきた物の中にこんなものも含まれていたの」
もう一枚の鑑定書をアメリアはエレナに見せた。
(え、これが本当なら……ますます状況は危機に面しているよぉ)
エレナは指先の震えを隠すように、強く羊皮紙を握り締めた。
そのとき、扉がノックされた。
(今日は来客が多いなぁ)
エレナが扉を開けると、一人の王宮付きの侍女がいた。
「あの、エレナ・ヴァービナス女官ですか?」
どきっとした。
以前侍女食堂で顔を合わせたリバーラスだ。
「はい、そうです」
リバーラスは、あのとき侍女食堂で会った侍女がエレナだと気付くだろうか。
「そうですか。お忙しいところ、突然申し訳ございません」
抑揚なく返事をするリバーラスは、慇懃にお辞儀をする。
この態度からして、彼女はエレナが侍女の『エレーナ』であることに気付いていない。
ほっとする反面、少し物寂しい気がした。
「改めまして、ヴァービナス女官様、わたくしは第2皇女ミシェーラ殿下付きの侍女のリバーラスでございます。わたくしとご一緒に来ていただけますでしょうか。
ミシェーラ殿下とナイトレルム侯国のエリザヴェータ・イロヴナ・ミハイル・パヴロヴィチ姫がお呼びです。
もちろん、上官のリックランス大臣とオーヴァーストリート室長に離席のご許可は頂いております」
「……そうですか」
ルシアン・クレインバールという人は、本当に嫌になるくらい先見の明がある。
実は昨晩、帰りがけにルシアンから言われていた。
――明日、きっと呼び出しを受けるぞ。
彼の予測通り妖精姫からお呼びがかかってしまった。
「え? 雀ちゃん、何で?
何かやらかした?」
エレナよりもアメリアの方が驚き、おどおどし始めた。
「アメリア様。ご心配ありがとうございます。大丈夫です。
ちなみに、すみません、この鑑定書、少しお借りしてもいいですか?」
「え? ええ、もちろん……けど……」
アメリアは落ち着かないよう様子で、やけに冷静なエレナとリバーラスを見る。
エレナはリバーラスに視線を投げた。
「リバーラス様、ごめんなさい。少々お待ち頂いていいですか?
急ぎ手紙をしたためなければならないのです」
「どれくらいお時間かかりますでしょうか?」
「十五分です」
「承知致しました。
廊下で待たせていただきます」
リバーラスは深々とお辞儀をし、廊下の端に立つ。
アメリアは後ろ髪を引かれるように部屋を出て行く。
「早くこれを知らせないと……!」
エレナはさっそく、アメリアの鑑定結果を新たな羊皮紙に転写する魔法をかける。
『それ、軍部まで持って行くんだろ?』
魔法がかけ終わる頃、小次郎が梁の上から声をかけた。
「うん、そう。
急いでリックランス騎士団長に渡さないといけないの」
『んじゃあ、俺様が持って行ってやろうか?』
「いいの?」
『あたぼうよ!
アイツ、俺のこと、エレナの力強い”協力者”だと思っているみたいだしな。
俺様が届けても怪しまれねぇだろ』
小次郎は「任せろ」と言わんばかりに、ぽんと胸を叩いた。
*
エレナはリバーラスの後について、王宮内の皇族専用の庭園に入った。
「うわぁ、すごい」
エレナは思わず呟いた。
美しく整備され、刈り揃えられた庭園はピンクのバラが一面に咲き誇っていた。
まるで別世界だ。
王宮の冷たい石造りとは対照的に、ここだけが夢の国のように柔らかく彩られていた。
石畳の小径は幾筋にも分かれ、両脇には淡いピンクのバラが層をなして咲き乱れている。
(こんなに美しい庭園、初めてかも)
エレナは興奮を滲ませ、庭園を見渡す。
朝露を含んだ花びらは光を受けて透け、ひとつひとつが小さな灯火のように揺れていた。
風が通るたび、香りが重なり合う。
とてもいい香りだ。
肺の中の空気がバラの匂いでいっぱいになる。
リバーラスは終始無言で、馴れた様子で突き進む。
手入れの行き届いた庭園の奥、穏やかな水面を湛えた池のほとりに、白亜の柱が美しい円形のガゼボが静かに佇んでいた。
そこに妖精姫と初めてお目にかかる第2皇女ミシェーラが優雅にお茶をしている。
そう思うと、エレナは身が引き締まる思いがした。
庭園の美しさに目がくらんでも、酔いしれてはいけない。
わたしがここに呼ばれたのは、クロフォードの婚約者(偽装)だから。
妖精姫が、婚約者を見定めるのが目的だ。
だったら、こっちもそれをうまく利用して、昨日忍び込んできた影魔法のトカゲの持ち主を見つけてやろう、という魂胆だ。
もし、持ち主とワルトの魔力が同一であれば、侯国がマリュード皇国と裏で繋がっていることが証明される。それはすなわち、侯国で政変が起きていることに等しい。
推測や憶測が、確固たる事実となる。
とはいえ、まさかこのタイミングで皇女殿下の御目通りが叶うとは、思ってもみなかった。
エレナは、婚約破棄されて以来、王城のパーティーに参加していない。
そもそもニコライからも
「不細工なんだからパーティーを欠席しろ。一緒にダンスもしたくない」
と言われていたので、皇族のご尊顔を拝見することはあまりなかった。
色とりどりの花々を抜けて歩みを進めると、ようやく先ほどのガゼボが目の前に現れた。
陽光を反射する池の輝きが、白亜の柱を眩しく照らしている。
妖精姫とミシェーラ皇女は年齢が最も近いため親交を深めるために、二日に一度の割合でお茶会を開催しているという。
第2皇女ミシェーラはウワサどおり、光そのもののようだった。
淡い金髪が陽光を受けて輝き、透き通る肌は花弁のように柔らかい。
どことなく、官吏登用試験の後にお会いしたユリウス皇太子殿下を彷彿とさせる。
(ご兄妹なのだから、似ていても当然よね)
気品溢れ、笑い声は澄んでいて、従者にさりげなく声をかける。
場を和ませる気遣いに満ち、周囲の者をあっという間に惚れ惚れとさせるカリスマ性。
さすが帝国民から愛されている皇族のお一人だ。
(確か、聡明な才女としても有名だけど、皇族にしては珍しく、殿下はそこまで魔法が使えないんだっけ)
その隣の妖精姫もミシェーラ皇女と同じように微笑んでいる。
けれど、漠然とした違和感を覚えた。
エレナは注意深く遠目で妖精姫を観察する。
(なんだろう……変な感じがする。
人間味がないというか、そう、小さい頃に遊んだお人形と同じだ)
美しいはずの微笑みが空虚に見え、どこか不気味さを感じさせる。
笑うタイミングがわずかに遅れ、声の響きは浅い。
カップを持つ指先は硬く、従者に話す何気ない言葉もどこかぎこちない。
気のせい、といえば気のせいに見えるし、そうじゃないといえば、そうじゃない。
大勢の騎士たちが警護する中、彼女らに付き添う従者たちが、リバーラスとエレナに鋭い視線を投げつけた。
たくさんの目。
エレナは思わず身をすくめた。
(うぅ、こ、怖い。でも、お役目は果たさないと……!)
人と話すことには慣れてきたけど、やっぱりこれだけ大勢の人たちの視線を一挙に注がれるのはまだまだ苦手だ。精神衛生上はよろしくない。内心、戦慄が走る。
自分を奮い起こし、エレナは侯国の従者たちを盗み見た。
この中にワルト・チェッカレッチがいないか確認をしないといけない。
じっと魔力を見定めようとするが、注がれる視線が怖すぎて集中できない。
自分の未熟さ、不甲斐なさがなんとも情けなく思う。
そのとき、庭園の奥から微かな魔力の気配が漂ってきた。
強いものではない。
けれど、どこかで一度触れたことがあるようなざわめき。
記憶の底をかすめるように、脳裏をよぎる。
王城で感じた冷たい風。
戦場の片隅で背筋を走った震え。
誰かの声と共に漂った奇妙な圧迫感。
エレナでない誰かの記憶がエレナの脳裡を掠める。
掴もうとすればするほど、記憶は霧のように散っていく。
まるで古代魔道具の分析に似ている。でもそれよりも希薄で心許ない気配。
すごく落ち着かなくて、心がざわつく。
「エレナ」
真っ白な王宮魔術師の制服を着たクロフォードが従者たちの中から現れた。
クロフォードの顔を見た途端、安堵のため息が漏れた。
いかに自分が緊張にさらされていたのかが身に染みる。
クロフォードがよそ行きともいえるやけに気取った、外面の良い笑顔を浮かべ、歩み寄って来た。
「わたくしはこれで失礼いたします」
リバーラスはさりげなく言い、丁寧にお辞儀をして後ろに下がった。
(さすが。食堂で話したときと全然雰囲気も喋り方も全然違う)
ちゃんとオンオフがしっかりしている。
プロの王宮付き侍女は、やはり一味違う。侍女としての格の違いを見せつけられた気がする。
今後の侍女に扮するときは気をつけよう。
エレナが感心している間に、クロフォードがエレナのすぐ前までやって来た。
「忙しい中なのに来てくれてありがとう」
クロフォードから熱のこもった視線とあどけない笑顔を向けられ、エレナは驚き、目を丸くした。
浮き立つような気分になり、エレナはソワソワしながら首を横に激しく振った。
すっとクロフォードの顔が近寄って来た。そうかと思うと、そっと囁かれる。
「やっぱり、エレナも呼び出されたな」
その眼光の奥は鋭く光るものがあった。エレナは頷く。
「うん、クレインバール卿の言うとおりだったね」
「どう? ワルト・チェッカレッチの魔力、探れそう?」
「う~ん、まだ分からないけど……やってみる」
「そうか」
そして、クロフォードがエレナの手を握った。
弾けるようにしてクロフォードの顔を見ると、クロフォードの顔が恥ずかしそうに赤く染まっていた。どきどきと鼓動が速まった。
「ごめん、婚約者だからこうやって、ちょっとこういう過度なボディタッチ、っていうか、その恋人らしく振舞うために少し触れるぞ。
嫌がらないでくれると助かるんだけど……」
はにかむクロフォードにエレナは胸が甘く疼いた。
「ううん、だ、大丈夫。
いや、じゃない。
ちゃんと婚約者出来るように頑張る」
「そうか、よかった」
クロフォードは照れくさそうに、だけど、あどけなく微笑む。
エレナの胸が甘く弾けた。
「んじゃあ、よろしく頼むな、婚約者殿」
クロフォードは少し屈んで、握ったエレナの手の甲にキスをした。
ざわっと二人の姫たちの周辺がどよめいた。
エレナは、想像以上のボディタッチに心臓は飛び上がり、口から飛び出しそうなほど胸が高鳴った。
(これって、演技だよね……?)
周囲の声を尻目に、姿勢を正したクロフォードはエレナの顔を覗き込んで、優しい眼差しで見下ろす。
「一応、皇族の御前になるから。
フード、取るぞ」
「う、うん」
クロフォードがエレナのフードを脱ぐ。
クロフォードはエレナの乱れた髪を櫛で梳かすように撫でた。
優しい手つき、ほのかに香るクロフォードのミントの香水。
いつもより距離が近い感じがして、より一層ドキドキしてしまう。
「よし、これでいい」
クロフォードから笑みが零れ、エレナは一瞬ぽーっと顔を赤らめた。
(なんだろう、クロフォードがすごくカッコよく見える)
胸の奥がざわついて、頬を熱っぽい漣が滑っていく。これから自分たちが婚約者(偽)として振る舞うことを実感させる。
「さぁ、行こう」
クロフォードに手を引かれたまま、エレナは妖精姫とミシェーラ皇女の前に出た。




