第54話 深慮令嬢と虚構の世界 ―― 歪んだ医療国家の罠と隠された製薬工場
窓の外で鳴った風の音が、まだ耳の奥に残っていた。
エレナの胸に広がるざわめきは、言葉にできないまま膨らんでいく。
「ホップラブソングが再び流行り始めたのは、ワルト・チェッカレッチたちマリュード皇国の売人たちが侯国から入手し、売り出したということにも繋がりますよね?」
ノーラン・ターラントが渋い顔で言った。
「誰とか、特定はできないけれど、外国人の貿易商が強力なルートを造って、国中に広めてはいるのは確かだと思うよ」
マインラートの穏やかな表情の裏、眼光が鋭く光る。
「売人はきっと表向き、合法的な経済活動をしているね。
うまくコントロールされている」
「合法的ですか?」
「うん。出回っているクスリの大半は品質がかなりよく、きちんと濃度が計算されて混ぜて均一化されているんだ。
市場に出回る量もうまく調整されている」
品質が均一。
濃度が計算されている。
市場流通量が調整されている。
「なるほど。正確に出回る量を調整できているということは、市場を操る知能があり、ある程度表舞台で活躍している、傍から見たら誰もが信頼の置けると判断できる人物の仕業ということか」
得意そうに言うクロフォードに、マインラートは頷いた。
「そのとおり」
「そう、それで何年か前に流行ったホップラブソングは、クスリの成分が魔力に絡みついて魔力を一時的に増強させ爆発するよう、うまく調合されていたらしい。
そうだよね、クレインバール卿?」
マインラートは含みを込めた笑みをルシアンに向けた。
「ええ、そうです。今回王都で出回っているクスリ、特にロシェが売っていたものは当時のクスリと純度がまったく変わらなかった」
「つまり、あの薬が流行った当時も同じ売人であるワルトが暗躍したってことですか?」
間髪入れず、壁際に控えていた騎士の一人が尋ねた。
どうやら王都周辺の警護を中心に警備する第4騎士団にとって、薬物汚染は深刻な問題のようだ。
彼らの顔つきがやけに真剣で深刻だ。
「いや、売人というよりも、品質も純度も同じ、となると、製造過程も同じと考えていい。
かつて、この国の魔法使いを激減させ、東方の果ての大国もあの薬が要因で滅んだという悪魔のハーブ、あれは意図的にどこか組織的に作られたものだ」
「その組織が、今回も同じようにこの国で流行らそうとしていると?」
「そうじゃないかな。
あわよくばロシェが官吏になっていたら、この王城は薬漬けになっていたかもしれないしな」
皮肉めいて言うルシアンに、みんなの顔が引きつる。
想像以上の規模の薬害に、エレナはゾッとした。
意図的に薬を流行らそうとした組織は、長きに渡り、じっくりとこの国を蝕もうとしていた。
そして、いまもそれを狙っている。
エレナの胸に広がるざわめきは、いつしか確信に近い恐怖へと変わっていた。
何かが噛み合っていない。
目に見えるものが歪み、現実が少しずつ遠のいていくような感覚。
静まり返った応接室の空気と混じり合い、重く沈んでいった。
やがて、ルシアンが二杯目のお茶を口にしてから、低い声で切り出した。
「薬を製造するには、一定の変わらぬ効果を上げるだけの品質を維持し、安定供給することがまず肝要だ」
みんながルシアンに注目した。
「侯国内は年間の三分の二以上が吹雪に見舞われる悪天候だ。
エネルギーの安定調達もままならず、国内での大規模製造は難しい。
それに目をつけた他国の貴族商人が『我が国の領地に工場を建てませんか?』って話を持ちかけたらしい。
その商人が提案した工場の場所が、マリュード皇国領土内ってわけだ」
「え? 他国の貴族商人? 怪しすぎだろ」
「ああ、怪しい。
けど、商人の推薦者が姫さんの縁者とかで侯国王は絶対的な信頼を寄せているらしい。
今や、侯国の既存薬の大半は、マリュード皇国の国境沿いで委託製造しているっていうから驚きだ。
いや、それを通り越して、寒気がするよ」
「そりゃあ、マリュード皇国とナイトレルム侯国の国境は深い霧が立ち込める場所で、工場は建て放題だろうけど……その情報もあの妖精姫からか?」
クロフォードがまじまじとルシアンを見た。
「まあね。恋愛的要素がなければ、なんだかんだ有意義な情報交換ができたぞ」
ルシアンが得意気に笑うと、クロフォードがニヤニヤと足を組む。
「これはもうユリウス殿下がお戻りになったら、新たなお見合い話が舞い込むのは、決定だな」
「うるせぇ」
ルシアンはクロフォードを一喝し、強引に話を引き戻す。
「で、それから、侯国医師会主体で新薬の臨床実験も行っているそうだ。
マリュード皇国は奴隷制度があるから被験者の確保も朝飯前。
しかも、医師会を牛耳る医師は姫さんの従兄らしいんだ。
でも、いわゆる倫理観は二の次のマッドサイエンティスト気質らしくてね。
彼は患者を実験材料としてみなしているらしい」
その場にいる者は全員がゾッとし、後ろに身を引いた。
「うわぁ、鳥肌たったぜ」
クロフォードが自分の腕をさすって、露骨に顔を歪める。
「確かに奴隷がいれば、データ取りたい放題で、研究も捗るだろうけど……。奴隷を使う。
それはつまり、非人道的な医療実験が平然と行われているってことを公言しているようなもんだよな」
「新薬開発というのは、それだけ多くの人間の犠牲があって開発されているってことだ」
「とはいえ、もしワルトがマリュード皇国の工作員なら、軽々と違法薬物も入手できるってことですよね?」
ノーランが口を挟む。
その表情は一層険しくなった。
「ああ、そうだな」
ルシアンは手元のティーカップを三客、テーブルの中央に三角形に並べた。
「いいか。まず、この一番北にあるのがナイトレルム侯国。
ここで材料のハーブが育つ」
彼は左側のカップを指さす。
「次に、東のマリュード皇国。
国境沿いの工場で、奴隷を使って純度を調整する」
最後に、手前のカップを叩いた。
「そして、ここ我が国アイルナバロー連合帝国。
売人のワルトが『合法的な商品』として、王都の隅々までバラ撒く……」
テーブルの上に完成した「死の三角形」を、ルシアンは冷めた目で見つめた。
「材料、製造、流通。
この三つが噛み合っている限り、蛇の頭を一つ叩いたところで毒は止まらないんだ」
「薬の供給源は侯国ですから、当然マリュード皇国の名前は伏せられる。そうとは知らず薬を手に取る人は多いでしょうね」
「だろうね。医師や薬師たちがそこまで原産国や製造国を気にしているとも思えないしな。
だが、それよりも怖いのは、マリュード皇国は魔法・呪術・錬金術・魔道具の知見をすべて国家管理し、秘匿は重罪という国だ。
侯国の医療技術が皇国にすべて流れている線は強い」
医療技術がすべてマリュード皇国に――それはなんて恐ろしい。
治癒魔法すら及ばない生物兵器の研究や、この世にあってはならない生き物を開発したりしないだろうか。あの国ならやりかねない。
エレナはぶるりと体を震わせた。
「法律よりも、医学的合理性が優先される。考えたくありませんが……つまり、あの姫にとって『遊学』とはただの観光ではなく、この国の魔法使いという『検体』を観察しに来た、巡回診療のようなものかもしれません」
冷静なノーランの声がやけに不気味に聞こえ、エレナは身を縮こまらせた。
「可能性として大いにあり得るな」
ルシアンが大きく頷いた。
「っていうか、そんな物騒な国を迎えるにしては、事前調査が足りなかったんじゃないのか?
なんでそこまで調査できなかったんだ?」
クロフォードが苦情を呈すると、今まで黙っていたマインラートが大きな、本当にびっくりするほどのため息をついた。
「はあ……、それがねえ、外務はグロウディーナ公爵の管轄でしょ?
彼が『問題なし』と判断したんだ。
下手な介入はできないんだよねえ」
やれやれと首を振った。
口調はいつもどおりなのに、マインラートの声音は妙に冷ややかに響く。
同時に部屋の空気がピンっと張り詰め、不意にシーンとした。
エレナ以外の全員が不愉快そうに顔をしかめる。
エレナは驚いた。
なぜここまでみんなが気落ちし、緊張感が増すのだろう。
「んじゃあ、仕方ないか。侯国潜入の諜報官も行方不明じゃあねえ……。
ちゃんとした情報が手に入らないと動きようがないよな」
諦めたような声音でクロフォードが言い、ルシアンはムスッとして背もたれにぐっともたれかかった。
ノーランたち第4騎士団員も鉄仮面に戻る。
何が起きているのかエレナが分からず困惑していると、ひょこっとレタスを食べ終わった小次郎がエレナの腕を伝って、肩に乗った。
尻尾をパタパタ振って、じっとマインラートを見つめる。
「おや、まだ何か欲しいのかな?
あっ、こんなの、どう?
昼休みに拾ったのを忘れていたよ」
陽気な声でマインラートが今度は自分のポケットから木の実を取り出した。
(え? 昼休みに元筆頭魔術師が木の実を拾うって、どういうシチュエーション?)
エレナも思ったが、当然他のみんなも思ったのか、微妙な顔つきになる。
相変わらず読めない御仁だ。
小次郎の目は木の実を見た瞬間に輝いて、さっき警戒していた態度とは一転、マインラートが差し出す手の上にすかさず飛びついた。
「実はさ、グロウディーナ公爵は“黒の杖”のメンバーなんじゃないかっていう疑いがあるんだ」
小次郎が木の実を手に取っている間、そっとクロフォードが囁いた。
エレナは目を見開く。
クロフォードは静かに頷いた。
「だから、マインラート様が正確な情報入手のために、使い魔と〈影〉を送っているんだよ。
けど、結局そいつらからの連絡も絶えている」
なるほど、想像以上に状況は切羽詰まっているわけか。
エレナは背中に冷たい汗が流れた気がした。
そんな空気を察してか、ルシアンが咳払いをしながらちらっとマインラートを見、みんなを見渡す。
「もう一点別件。
カトリーナ・ガンドルフィ女官の供述から、“黒の杖”の関係者と目される貴族何人かが浮上した。
前々から“黒の杖”のメンバーではないかと軍部が注視し、マリュード皇国と通じている疑いのあった者たちだ」
「へえ、じゃあ証拠があれば家宅捜索いけるな」
クロフォードが口笛を吹いた。
「もちろんだ。
すでに第5、第6騎士団を呼び寄せ、令状を持って該当する貴族の屋敷に国賊幇助罪で一斉家宅捜索させている。
それに反応して動き出す輩もいるだろうから、第7には王都中を監視させている。
そうしたらなっ、早速餌に食いついた報せが入ったぞ」
ルシアンの口元がわずかに笑う。
「罠?」
「ああ。それは第2騎士団副長のマッシュに一任してある。
成功しようがしまいが、釣れただけで十分価値はある」
ルシアンはうきうきした様子で、ドアをノックして報告にやって来た騎士たちの相手をする。
――違法薬物、拡散する薬物被害、魅了の古代魔道具、男性優位のマリュード皇国、妖精姫と医療国家。
マリュード皇国への薬製造委託は、まさに寝耳に水だった。
けど、何かが引っかかる。
そのとき、どっとエレナの脳内に金木犀の強い香りがむせ返るほど充満する錯覚に陥った。
一瞬、目の前の世界が、虚構に思えた。
黄金色の小さな花々、見たことない異国風の衣装。
交わされるマリュードナバロー語。
それらがリアルな質感を持って剥き出しで、脳裏に直接流れ込んで来た。
この奇妙な状況。
ひょっとすると、そもそもの前提が何か間違っているのではないか。
ふと、そんな疑問が湧いて出た。
妖精姫は医師としても従事している。
じゃあ、医師会での立ち位置はどうなるのだろう?
君主より医師が優先されるのだから、両方兼ね揃えている妖精姫は誰よりも権力を持っているはずだ。
それなのに、なぜ今、遊学を名目に国外へ出ている?
確か、マインラートも上層部も同じように疑問を抱いていると言っていた。
エレナは、まるで頬を張られたような気分になった。
彼は?
そう、キムバートンの存在。
ワルトが暗躍している間、彼は何をしていた?
獄中死する前の三年間は、子どもたちに歪曲した歴史を教師として教えていたというけど、本当にそれだけ?
ふと、脳裏をよぎる昔懐かしい童歌の残響。
「あの、マインラート様、クレインバール卿。折りいって欲しい情報があるのですが……」
エレナはおずおずと、しかし、揺るぎない光を宿した瞳で、声を絞り出した。
――その頃。
王城から遠く離れたスラムの片隅で、乾いた金属音が夜の静寂を切り裂いた。
それは、王都の平穏が終わりを告げる、銃声だった。




