第47話 傍観令嬢と同期外交官の憂鬱 ―― 逃亡する騎士と指名された魔術師
生まれたときからすべてが決められた人生。
身分の低い他国の母から生まれた私は、離宮に閉じ込められたお姫様だった。
それでも毎日が楽しかった。
病気がちなお母様と乳母。
乳姉弟で離宮の世話係のペイドイル。
時折顔を見せる父上。
お母様のためにたくさん薬の勉強をした。
けど、この国は寒いから薬草が少ない。
世の中には想像以上に素晴らしい薬草があって、「温室」があったらいいのに。って、ずっと思ってた。そうしたらそこでたくさんの薬草を育ててお母様の病気を治すことができる。
そのことを父上に言うと、父上は大喜びして、「ご褒美だ」と大好きなおとぎ話の本をたくさん贈ってくれた。
そのときは何のご褒美なのか分からなかったけど、父上が贈ってくれたおとぎ話に瞬く間に夢中になった。
おとぎ話には、主人公のお姫様がいて、いつも勇敢な騎士様が傍にいる。
そして命懸けで危機から救い、力いっぱい愛してくれるの。
いつか私にも騎士様が迎えにくる。
だって私、お姫様だもん。
そう疑わなかった。
やがて、王宮では王継承争いが始まったらしい。
それはもう凄惨な骨肉の争いだったとか。
異母兄弟やその母たちは次々と命を落とした。
お気の毒に。
気づけば、正当な王位継承者は私だけになった。
そして、父上に半ば強引に王宮へ連れ戻された。
それからは地獄だった。
王位継承者に相応しくなるために、お母様と離れて生活することを余儀なくされ、毎日帝王学に礼儀作法、淑女教育、ありとあらゆる教育を詰め込まれた。
私が王位継承者として勉学に励んでいる頃、母は病気で亡くなってしまったらしい。
もちろん死ぬ目には会えなかったし、葬式にも参列する許可がもらえなかった。
続いて、乳母もその病にうつって亡くなってしまったと風の頼りで耳にした。
こうして、私にはペイドイルしかいなくなった。
久しぶりに会ったペイドイルは、左胸に綺麗な魔法陣のような模様の火傷の痕があって驚いたっけ。
けどね、その時悟ったの、「母は誰かの手によって殺され、乳母もまた病死ではなく、何者かに手を下されたのだ」と。
――王たる者、感情を出してはいけない。悟られてはならない。
そうペイドイルは言う。
だから、母や乳母が亡くなっても、私は微笑み続けた。
柔和な顔立ちと儚げな雰囲気。微笑むだけで人は優しくしてくれる。
いつしか「妖精姫」と呼ばれるようになった。
意に沿わぬ時でも、微笑んでいれば周囲が勝手に望むように計らってくれる。
だからね、何があっても私は微笑み続けるの。
しかし、やがて情勢は混沌とし、私もそのうち命を狙われるようになった。
私は国のために頑張りたくない。
犠牲になって国のために命を懸けたくない。
好きで王位継承者になったわけじゃない。
ただ、目の前の命を救いたかっただけ。
どうしてそれを誰も分かろうとしてくれないの?
「どうしてルシアン様がいないのかしら?」
妖精姫ことエリザヴェータの声が不気味なほど低くなった。
「国家機密級の任務が発生したらしく、クレインバール卿は急遽そちらに向かうそうです」
抑揚なくペイドイルが答えた。
「そう、わたしより自国の任務が大事ってことなのね?
外交官を呼びなさい。
厳重に抗議しましょう」
わたしは一国のお姫様。
もっと敬われるべき存在なのよ。
こんなひどい仕打ち、許されるわけないでしょ。
慇懃丁寧に外交官の男はエリザヴェータ姫の前で一礼した。
「断じてナイトレルム侯国を蔑ろにしているわけではありません。
ルシアン・クレインバール卿以上の騎士に付き添わせますので、ご安心ください」
「彼以外の騎士は嫌なの」
「ですが、クレインバール総騎士団長よりも魔力量の多い我が軍部最高峰の男、総帥が直々に警護にあたりますので、今までにないほどの安心感があると思いますよ」
「総帥……」
スキンヘッドのいかつい中年男の姿が脳裏に浮かぶ。
「オジサンは嫌。
お断りさせて頂きますわ。
私、信用できると確信した殿方しか側にいて欲しくないの」
「そうですか。軍部からは総帥と第3魔法騎士団が総力をあげて警備に当たると回答が来ております。
彼らはクレインバール卿仕込みで、とても腕の立つ騎士だと聞いております。
きっと姫様の望まれる警備をすると思いますよ」
外交官は爽やかな笑みを浮かべた。
ふん、なによ。
一国の姫君の前でいけしゃあしゃあとよく言えるわね、この外交官。
怖いもの知らずというか、物怖じしないというか。
確か、今年の新人官吏だったはず。
新人が一国の外交官を務めるのは、かなりの大抜擢なのだろうけど。
それとも、この国は侯国をもてなす気がさらさらないのか。
わたしは冷ややかに外交官を観察した。
彫が深い美丈夫なルシアンと比べると、薄っぺらいし、印象の残らない顔立ち。
けれど、美形の部類に入るのは間違いない。
目が離れて口が大きい、少し爬虫類に似ているくせに、鼻筋が通っていて端正。横幅の広い切れ長で吊り上がり、どこか涼やかなのに目力がある。
長身で知的、クールでなんとなくミステリアス。
女性馴れもしていて語学堪能、有能で、そして、本当に腹が立つほどよく口が回る。
きっと大半の令嬢たちは、こういう多彩な男を求めるのだろう。
悪くはないんだけど。
「駄目よ、私はルシアン様の直属の警備以外外出したくないの」
「でしたら、明日の外出予定はすべてキャンセルしましょう。
まだ王宮図書館にも王宮庭園にも出向かれていませんよね?」
外交官はぽんと手を叩いて、にこやかに笑った。
「何を言っているの?
また襲われたらどうするの?」
「蒼い花畑の件でございますか?
あれは王城外の、王都を出たユーモネア領地です。突発外出でしたので、防ぐにも防ぎようがございませんでした。
最初から予定に組み込んでおけば、あのような事態も起きなかったかと思いますよ」
さらりと外交官は嫌味を上乗せした。
わたしはさっとペイドイルを見た。
「予定変更させた姫様に非があると申すのか?」
ペイドイルが視線に気づいて、冷ややかに外交官に視線を投げかけた。
「とんでもございません。
あの思いつきがあったからこそ、ユーモネア領地の名物である真っ青な花畑をご覧いただけたのです。あの日は空も青く晴れ渡り、絶好のお花見日和でしたね。翌日はあいにくの雨だったそうですから、あのタイミングで行きたいと申されたのは、さすがとしかいいようがありません。我々では閃きませんでしたよ」
外交官は鷹揚に手を広げて、褒め称える。
なんともわざとらしくていけ好かない。
「まあ、それは置いておき、王城内なら警備になんらご心配には及びません」
外交官の男は、またいけしゃあしゃあと、いかに王城の警備が完璧かを話す。
わたしはそんな話が聞きたいわけじゃない。
まったく、会話が噛み合わない。
うまくのらりくらりとかわされる。
ルシアン・クレインバールには特定の女性はいない。
それが好都合と思ったけれど。
ひょっとして女性に興味がないのでは、という噂がある。
けれど、わたしが見た限り、彼はノーマル。
ここのキラキラした色素の薄い男性陣とは違う。
ペイドイルが彼らを夜な夜な寝室に招き入れているのをわたしは知っている。
まったく、どうして同性同士でベタベタやれるのかしら。
不意に、記憶の片隅で男の子たちが子犬のようにはしゃぐ姿が横切る。
何気ないアカデミーの下校時間。一斉にワッと駆け出していく少年たち。
その瞬間、彼らはとても楽しそうだった。
女の子なんて全くつけいる隙がない。
なんと美しい、わたしは胸を突かれた。
知らないはずの記憶が濁流のように流れ込んでくる。
そういえば、さっき見かけたあの彼。
夢なのか現実なのか、ふいに一人の青年の姿が思い浮かぶ。
ルシアン・クレインバールに似たような硬質的な美を持っていて、少し気になった。
アカデミーの制服姿の彼が脳裏を掠める。
(そうそう、前々から彼のこと、いいと思っていたのよね)
不可思議な感覚と、懐かしい映像。
違和感があるのに、それはふと消え去る。
ズキっと一瞬頭の奥に痛みが走った。
頭の中で靄が広がって、それがぐっと濃くなって、遠のいていく。
――え? なに、いまの?
さっきの、男の子たちが笑い合う姿も、一体どこから手繰り寄せた映像なの?
思い出そうとすると、さらに頭の奥がズキリと痛む。
「じゃあ、彼でもいいわ」
わたしは気づくと、そう言っていた。
自分でも驚き、ようやく我に返る。
そうよ、わたしはエリザヴェータ。
「彼、と申しますと?」
外交官の男は訝しげな顔をした。
「真っ白い制服を着た、焦げ茶の髪に若草色の瞳を持つ美しい顔立ちの男の子。
ここの王宮魔術師様だったかしら?」
わたしの声が部屋中に響く。
再びわたしは、なぜか記憶にあるアカデミーにいる彼を思い出そうと必死になった。
相変わらず靄なのか、紗が掛かったみたいになっている。
それが少しだけ薄まり、霧になり、晴れていく。
そこには机に一人座っている彼。
浮いているとか孤独だという印象はなく、すらりとしたしなやかな姿。
彼は目立っていた。
いや、目立つというよりも、自然と目が引き寄せられてしまう、というような。
「若草色の瞳……、クロフォード・ノーエランドでしょうか?」
外交官の声でわたしは、ハッとした。
「ええ、その彼よ」
わたしは寛大に頷いた。
「その彼が私の直属の護衛としてついてくれるなら、特別に許してあげるわ。
もちろん、彼も独身なんでしょ?」
「それは……ええ、まあ、そうですが」
外交官は笑みを湛えながらも言い淀む。
「決めたわ。
ルシアン様が私の求婚を拒むなら、彼を婿にする」
外交官の男はぎょっとした。
だが、スッと表情を穏やかに、微笑みを浮かべた。
「姫様のご意向は理解いたしました。
しかしながら、王宮の警備体制は万全でございます。
クロフォード・ノーエランド殿を護衛に任ずる件につきましては、軍部と宰相府双方の承認が必要となります。
軽々しくお約束できるものではございません」
「承認?
わたしが望んでいるのよ。
王位継承者であるこの私が」
エリザヴェータは冷ややかに睨みつけた。
「もちろん、姫様のご希望は最優先に扱われます。
ただ、クロフォード殿は魔術師としての職務がございます。
彼を専属護衛にするとなれば、王宮の研究や防衛に支障が出る可能性もございます」
外交官は淡々と、しかし言葉の端々に牽制を滲ませた。
「支障?
私の安全より大事なものがあるとでも?」
姫の声は鋭く低くなった。
「いえ、決してそのようなことは。姫様の安全こそ最優先です」
外交官は一歩下がり、深々と頭を下げた。
「クロフォード殿の件は上司に確認のうえ、改めてご報告いたします」
「……いいわ。必ず確認してきなさい。
もし彼に婚約者がいないなら、私の婿にするのだから」
エリザヴェータは高慢に言い放ち、ペイドイルに視線を送った。
外交官ランスは一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに穏やかな笑みを取り戻した。
「承知いたしました。
姫様のご意向、しかと承りました」
***
ランスは精神的に疲労困憊したまま、重い足取りで王宮魔術師の上官になるマインラートの部屋に向かう。
(はぁ、まったく面倒だな、あのお姫様は)
いよいよ化けの皮が剝がれてきたか。
ルシアン・クレインバール卿が警備から外れた途端、これだ。
「お茶会後から、まるで別人じゃないか」
思わず不満の声が漏れ出る。
今のお姫様は欲望剥き出しで品位の欠片すらなかった。
可愛い顔して、頭にあるのは好みの男を侍らせることばかり。
ランスは静かに怒りを露わにした。
鋼のメンタルの頑強騎士であるルシアン・クレインバールでさえ、性力増強の淫薬を混入されそうにまでなったとあれば、さすがに気分が滅入るようだ。
彼は早々に総帥に直談判し、彼女の警護を妻子持ちの多い第3騎士団に任せることにした。
そして明朝から西南地域へ新人騎士を連れ、研修兼ねた魔獣討伐に出掛けるらしい。
新人教育も立派な国家任務。だと言い張って。
まあ、気持ちも分からないでもない。
(俺だって彼の立場なら、あそこまで積極的に迫られるとさすがに引く)
ついさっき、偶然宰相府に大臣のお遣いに来ていた同期のローゼルとすれ違った。
勤務中、いつもポーカーフェイスの彼女にしては珍しく苛立っていた。
「ねえ、もう聞いてよ、ランス。私とエレナね……」
怒り口調の彼女の話によると、女漁りをする官吏たちが、ローゼルとエレナに媚薬などの淫らな効能のある薬を盛った菓子などをプレゼントしていたとのこと。
ゾッとした。
エレナの先輩たちが、あらかじめ注意を促してくれたお陰で2人は事なきを得た。
(だからって、許される行為じゃない)
実際、女官だけでなく、そういった媚薬入りの菓子の差し入れは男性官僚にも振る舞われているらしい。
ランスも先輩たちから口々に「新人の男官僚も年上女官からのお菓子の差し入れは気を付けろ」と警告されていた。
外交官の妻というのは、令嬢たちからしてみたら花形地位にあるらしく、婚期遅れてからの縁故採用で入省した女官たちにとって、最後の頼みの綱。
日々熾烈な争奪戦が王城内で繰り広げられているという。
実際、見ず知らずの女官たちからお菓子を配られたときは、嬉しさよりも恐怖心が先立った。
何気ない彼女たちの笑顔や言動が怖い。
受け取るだけ受け取って、申し訳ないが、用心のためこっそり家に帰ってから廃棄させてもらった。
(……俺もまだ結婚する気はない)
エレナだって、きっと同じ気持ちだろう。
今日の昼、例のごとく妖精姫のわがままで宮中の、しかも官僚が多く休憩する中庭を散歩したいと言い出した。
その道中でエレナとローゼルを見かけ、なんとなくランスの心は弾んだ。
俺に気づくと、ふたりは笑顔で手を振ってくれた。
それが歯がゆくて嬉しかった。
あのふたりは、女官の中でもかなり目立つコンビになっていた。
だが、ふたりとも、その辺の自分の魅力をとんと気付いていない。
新人ということもあるが、ローゼルはノーブルな美少女で何かと目立っていた。
エレナだって、あのローブのフードで顔がハッキリ認識できずとも、立ち振る舞いや品のある所作から目敏い奴に、上品なご令嬢だと見抜かれ始めている。
あのフードの奥に驚くほどの美人がいるのではないかと、囁かれ始めているぐらいだ。
それどころか、逆に顔が見えないからこそ男たちの想像をかきたてられ、密かに気になる存在として、ローゼル以上にミステリアス美女と認識され始めている。
実際、エレナがローブのフードを被っていなかったら、どうなっていたことか。
初めての同期会のとき、偶然フードを脱いだエレナの容貌を見たときの衝撃を思い出す。
色白で端正な顔立ちながら愛嬌のあるたれ目。
吸い込まれそうな宝石のようなアメジストの瞳。
柔らかな亜麻色の髪。
眼鏡と口元の妖艶さ漂うホクロがさらに色気を増す。
思い出すと、自然と顔が熱くなる。
(あれは、完全にずるいよなぁ)
あの容姿を見たら、男は必ず惚れてしまう。
目敏い奴なら、すぐさまエレナに声を掛けにいくだろう。
そう思うと、妙な焦燥感が込みあげた。
エレナには当分の間フード生活を送っておいてもらいたいし、誰かに先を越される前に、もう少し仲良くなっておきたい。そんな身勝手な願いが切実に込みあげる。
最近家に帰れば、ランスは親から
「気になる令嬢はできたか?」
など圧のかかった質問も多くされていた。
当然、そういったことに興味津々な姉や妹からも
「可愛い女官、いた?」
なんて野次馬根性丸出しで尋ねられる。
どうやら家族総出で、ランスの新たな婚約者探しをし始めるらしい。
(それとなく、エレナのことを話してはみたけど……)
エレナの実家は、領地運用についてはエレナの父親である侯爵が強い権限を持っているらしい。
だが、その息子娘の結婚相手は、元侯爵夫人、エレナにとって祖母が最大限の権力を持っているのは、社交界でも有名な話だ。
格下の伯爵家の息子では相手にしてもらえないだろうなぁ……。
(ローゼルやレイノルドも言っていたが、この仕事に一区切りついたら、同期のみんなを飲みに誘おう)
入省してから早半年、仕事が忙しくなって充実した日々を過ごしているだろうけど、その分愚痴のひとつくらいあるはずだ。
また酒を呑み交わしながら、わいわい心置きなく騒ぎたい。
……婚約破棄したばかりのエレナとも、それなら堂々と会える。
残り二日で侯国御一行様は帰国する。
それまでの辛抱だ。
ランスは長く続く渡り廊下の角を曲がり、重いため息をついた。
今から向かう先のことを想像すると憂鬱で足取りも重くなる。
(とにかく、この役目をなんとかしてやり遂げないと)
ナイトレルム侯国の今回の遊学についての外務官はランスだ。
通常なら経験豊富な先輩が務める大役だが、インリュー語にもマリュードナバロー語にも堪能だという名目で、ランスに回ってきた。そう教育係の先輩から、もっともらしく説明された。
これは前代未聞の大抜擢、最初こそ頑張るぞ、と息巻いていたが、やってみてようやく理解できた。
通訳ができるからというのは大義名分、この国に誰も関わりたくない。
なにしろ、ナイトレルム侯国はアイルナバロー連合帝国にとって旨味のない国だ。
「……要は、面倒ごとは全部、新人の俺に押し付けられたわけだ」
思わず心の声が口に出た。
だからだろうか、本来、担当外交官にもたらされるはずの事前情報は乏しく、ぶっつけ本番だった。
遊学中もランスの知らぬ間にいろんなことが決まっており、それについていくべく必死で自分の縁故を駆使して情報をかき集める。
(こんなだったら、遊学そのものを断ってしまえば良かったのに)
けど、国同士の話だ、それでは角が立つのだろう。
友好国インリューラーク王国が受け入れたこともあり、話を受けることになった。
ナイトレルム侯国という国は、敵国マリュード皇国との間の東北側には険しいアイルー山脈がそびえるこの帝国と異なり、山脈の向こう側にあり、マリュード皇国とは陸続き。
年間ほぼ雪で覆われているあの国は、資源も農作物も乏しく、毎年寒さによる被害は甚大だ。
地理的条件も軍事力も経済規模も、すべて我が国に劣っている。
帝国にとって必死に手を結ぶほどの必要性は薄く、戦略的価値は限定的だ。
第3皇子クラレンスが姫の案内役に選ばれたのは、万が一、妖精姫が第3皇子を見染めて婿入りすることになれば、敵国マリュード皇国への寝返りを防ぐ楔になるから。
それぐらいの、取るに足らない国である。
そうなれば、侯国は協力国から友好国へ格上げし、軍事的援助という名目で後ろ盾となるだろうし、上官グロウディーナ公爵によると、もし婿入りするならば、睨みを利かせる程度ではなく、そのまま侯国を帝国の一部にしてしまえばいいと、物騒なことを言う。
だが、蓋を開けてみれば妖精姫は幼稚で夢見がちな少女に過ぎず、上層部の目論見など度外視して第3皇子ではなく眉目秀麗な騎士ルシアン・クレインバールに夢中になった。
戦争を嫌う武官ルシアンと対立するグロウディーナ公爵は、いっそ姫の望み通り婿入りさせてはどうかと提案したが、即座に皇帝陛下によって却下された。
(あのときは冷や冷やしたよなぁ)
公爵が皇帝陛下にルシアンのことを奏上するとき、ランスもその場にいた。
意見を却下された公爵は、ふだんと変わらないよう装っていたが、内心は穏やかじゃなかっただろう。たぶん、怒っていた。
まだ若き二十代のルシアンが、将来の軍事力の要として重きを置かれているのは気に食わないようだ。
その時初めて知った。
彼が見た目にそぐわず好戦的で、少々剣呑な思想の持ち主だと。
もっとも、そんな好戦的な公爵だからこそ、軍事力を外交カードに使い、他国に舐められない交渉ができているのは事実だ。
逆を言えば、公爵派の考えが温厚派の軍部上層部に受け入れられないからこそ、この国の中心部はいまのところ戦争とは無縁でいられるのだろう。
ランスは廊下に飾ってあった帝国の豊穣な麦畑の景色の絵画に目を向けた。
帝国の豊かな麦畑を眺めながら、雪に閉ざされた侯国の荒涼とした大地を想像する。
この平和を維持するには、ある程度の武力も必要だが、強硬な外交も切っては切れない。
(とはいえ、実際の”お守”は新人に回しているようじゃあなぁ……)
すでに彼女による異物混入の件は、軍部から宰相、そして皇帝陛下の耳に入っているはずだ。
当然、妖精姫の所業は皇族にとって良い印象を与えない。
「はあぁ……」
思わず、ため息が漏れる。
そのせいだろうか、ついにはグロウディーナ公爵も教育係の先輩上官も、あの国のことはランスに一任し、すべて事後報告でよい、と言う。
これはまさに外務省全体が匙を投げた状態だ。
ランスはマインラートの執務室が見えてくると、一度足を止め、鏡のように磨かれた大理石の廊下の床で自分の表情をチェックした。
疲れが顔に出過ぎていないか。
(俺だけは最後までこの仕事をしなければ……!)
妖精姫のご要望を叶えるには、まずクロフォードの直上司マインラートの許可がいる。
クロフォードだって、将来筆頭王宮魔術師候補の1人だ。
彼はなんと思うだろうか。
ランスは、マインラートの部屋に辿り着いて扉を見上げた。




