第39話 侯爵令嬢の覚醒 ―― 月下に輝く素顔と暴走する嫉妬
つ、疲れたぁ……。
エレナは疲労困憊でヘロヘロになりながらも、マインラート・ソシュール邸へ帰ろうと馬車乗り場まで向かう。
すっかり夜は更け、空には下弦の月が輝いている。
とりあえず、割れて粉々になった古代魔道具の赤いルビーの修復はうまくいった。
(あとは本格的なあの分析ができれば……)
いよいよ、あの魅了魔法の古代魔道具の解析は佳境を迎えていた。
王城の庭園に面した回廊を、エレナはゆっくりと歩いていった。
夜の空気は澄み渡り、月明かりが白銀のヴェールのように石畳を照らしている。
回廊の柱の影が長く伸び、庭園の薔薇や睡蓮が淡い光に浮かび上がる。
風が葉を揺らすたび、影が揺れた。
その途中で女官たちがエレナの行く手を遮った。
エレナは恐る恐る顔を上げた。
女官たちの面々を見るに、あまり好ましくない集まりだ。
なにせ、サブリナを始め魔法省の一般研究員の女官が2人、他に部署が違う顔も名前も知らない女官たち。
全員、その目付きは険悪で、なんだか怖い。
これは、嫌な予感しかしない。
「お、お疲れ様でした。お先に失礼します……」
おずおずお辞儀をしてエレナは通り過ぎようとした。
「ちょっと待ちなさいよ」
エレナの肩を見覚えのない知らない女官、たぶん他部署の女官が、力強くつかんだ。
「あんた、新人のくせにサブリナが悪いみたいな小芝居をしたんだって?」
「ん?」
小芝居?
エレナは首を傾げた。
「い、い、いえ、あれは小芝居でも何でもなく、証明しただけですよ。
サブリナ様がわたしの部屋に侵入しようとしたっていう……」
「はあ? 往生際の悪い新人ね。
あんたがサブリナを嵌めるために仕組んだんでしょ?」
「仕組む? いえいえ、とんでもありません。
それに、ご自身でその非を認めてくださって……。
そうですよね? サブリナ様」
エレナはあたふたと言い返して、サブリナに同意を求めた。
だが、サブリナは憮然とし、エレナを睨みつけるばかり。
(え、その反応、なんですか……?)
エレナは困惑した。
昼間の一件は、とりあえず、研究員のみんなの前で謝ったことで、以後気を付けようね、という注意だけで終わったはずだ。
エレナも、もう自分と関わらないと約束をしてくれたからそれで充分。
そのはずなのに、なぜわざわざ自分から蒸し返すんだろう?
「あのねえ、あんなの、サブリナとカトリーナを攻撃した直後、みんなが戻って来る前に魔法を書き換えればいいでしょ?
魔法残滓が察知できるくらいの魔力があるなら、それくらい遠隔で簡単にできるはずよ」
こちらも全然顔を知らない女官が横から口を挟んだ。
(はい? 何を言っているんだろう)
しかも、かなり無茶なことを言うから、エレナは開いた口が塞がらなかった。
魔法はそんな万能ではない。
最近流行りの大衆小説の影響か、魔力さえあれば魔法で何でもできる便利なツールだと勘違いしている人がいるが、とんでもない。
ちゃんと論理と理論、技術があって、初めて発動できる奇跡の技、それが魔法だ。
「あ、あの……無理をおっしゃらないでください。
か、書き換えるなんてとんでもないことです」
エレナは冷静に言葉を紡ぐ。
「わたしは昼食時間中、ずっと席を外してましたし、そもそもそんな書き換える時間なんてなかったです。魔法を書き換えるという行為は、自分の魔法でも想像以上に時間がかかるものなんです。
書き換えるくらいなら一度解除して、最初から魔術式を構築した方が早いです。
ましてや、遠隔操作なんて無理無理、たとえるならば、走っている馬車を遠くから石を投げて別の形に作り変えるような神業です。
あれは、王宮魔術師様たちでもかなり腕のいい方でないとできない代物です」
「あー、もう。屁理屈ばかり」
エレナの説明を打ち切るように、一人の女官が首を振った。
「そう言いつつなんかやっているに決まってるわ」
「そんな……」
魔法が使えない人にはチンプンカンプンで、全然分からないかもしれない。
けれど、魔法には必ず法則があり、それに沿って事象が発動する。
だからこそ、エレナは知識を詰め込み、日々マインラートやクロフォードの下で、実践練習を繰り返しているのだ。
「っていうかさぁ」
サブリナがエレナに一歩近づいてぐっと見下ろす。
「カトリーナは変に尻込みしちゃったけど、ハッキリ言うわ」
嫌悪と怒りの滲んだ眼光がエレナを貫く。
「あんた、とにかく目障りなの、さっさと官僚を辞めてここから消えて」
「え?」
サブリナが力いっぱい肩を突き飛ばした。エレナはよろめき、一歩後退する。
アメリアたちに泣いて縋っていたあの謙虚な姿は、皆無だ。
サブリナの口角がニヤッと意地悪く吊り上がった。
「あたしさぁ、知ってるんだ。
あんた、アカデミーで不細工令嬢ってことで、ナディア・グロウディーナ公爵令嬢にいじめられてた子でしょ?」
エレナはぎくりとして、凍り付く。
「あっ、それ聞いたことある。眼鏡のキモ侯爵令嬢」
エレナを取り囲む女官たちが、格好の獲物を見つけたとばかりに目が爛々と輝いた。
「たしかぁ、分厚い眼鏡かけた、そう、黒いウンコみたいなものを口元に付けてた田舎から出てきた芋臭令嬢って一時期話題になったよね」
彼女たちは、はっきりと敵意を露わに詰め寄って、ここぞとばかりにエレナの過去の風評を口汚く罵り始める。
「そう、それ。超絶うけるよねえ。芋臭だよ。しかも、ウンコって。ぷぷっ! ウケる~」
「アカデミーではいつも雑巾臭かったって聞いたわ」
「そりゃあ婚約破棄されるわけね。しかも不細工が原因なんだってさぁ。
相手側の男が不細工は願い下げって言っていたらしいわよ」
「不細工なうえに醜聞持ちなの?
ますます人生積んでるぅ、お先真っ暗じゃん」
「っていうか、そんな雑巾臭い無様な子が、華やかな王城にくるのってどうよ?」
「ねー、本当よ。魔法省で特別補佐官になって、あんな美しいディース様が教育係というからびっくりしたわよ。田舎貴族がどうせ金を積んで頼み込んだんでしょ?」
大きく巻いた髪を後ろに払うサブリナから溢れ出る嘲り、嗤う声が出る。
「えー、ディース様ってこんな子の教育係なの? 許せなーい」
「ブスのくせにリデル様にまで庇ってもらって、舞い上がっちゃってさ。気持ち悪いっ」
「アメリア様と同等の特級魔法使いぶるのも腹立たしいのよねえ」
「そうよ、身の程を弁えろってね。そんなローブを羽織ってさぁ無様なのよ」
意地悪な笑い声、
誹謗中傷、
容赦なく嘲笑する。
それが連鎖し、次々と小さな笑いが広がっていく。
やがて場を包む嘲笑のざわめきは、エレナをさらに追い詰める。
屈辱と圧倒的な恐怖に、頭の中が真っ白になり、こめかみがどくどくと脈打った。
怖い。
歯がガチガチと鳴って、エレナはまるで肉食動物の群れに襲われた捕食動物のようにおどおどした。
思い出す、同級生たちの醒めた暗い目。
教室へ入ると「生ゴミがある」と毎日雑巾が入った汚れた水を頭からかけられた。
カバンの中には蜘蛛など虫が仕込まれ、誰かクラスメートに紛失物があれば、盗んでもいないのに泥棒呼ばわりされて、お気に入りの文具やハンカチ、私物がすべて強奪された。
そして、あの日、突然地面に引き倒された。
エレナは追い詰められ、必死に逃げ惑う、とにかく追手に捕まらないようにひたすら走った。
やがて息の上がったエレナの髪を強く引っ張る多くの腕。
地面が顔に迫り、世界の上下が逆転した。
脇腹を殴られ、
胃を蹴られ、
全身が収縮した。
ずしりと頭の上に靴が降って来て、ぎりぎり踏みつけられて、痛くて痛くて悲鳴を上げた。
そこにニコライはいた。
助けて。
ぷいっと目を背けて、彼は言う。
「みっともない、消えろ」
汚物を見る目でわたしに言った。
高らかなナディア・グロウディーナ公爵令嬢の笑い声が脳裡を横切る。
その声は柔らかいのに、言葉の刃は鋭く、エレナの心を抉るようだった。
(ああ、またあんな理不尽な目に遭ってしまうんだろうか)
全身に悪夢のような恐怖が膨れ上がって背中を丸めた。
――エレナ。
ふと、不快な嗤い声をかき消すように、爽やかな声が頭の中で響いた。
クロフォードだ。
なんでだろう、どうしてこんなときにクロフォードの顔が思い浮かぶのかしら。
思わず泣きそうになるほど、優しくて温かい声。
凍てついた指先に熱が戻る。
はあ……。
エレナは大きなため息をついた。
そうだよ、毅然と冷静に立ち向かえばいい。
――わたしはあの当時のわたしじゃない。
だいたい、ここは皇族がいらっしゃる王城だ。身分や美醜で判断されるアカデミーじゃない。
魔法省は実力主義。
実力あって、ちゃんと仕事をしているわたしに彼女たちは無暗に攻撃は出来ないはずだ。
同じ女官でも明確な実力差、職位がある。
サブリナは所詮一般研究員で、わたしは上位の特別補佐官。
わたしの方が彼女より上官だ。
それでももし彼女が低俗な行動に出れば、王城の一角だ、罰せられるのは誰だ?
上官に生意気な口を利いたのはサブリナだ。
これは立派な不服従行為違反。
大丈夫、あの時のように物理的な暴力を受けてはいない。
だから、平気。
今なら理不尽な暴力や暴言を振るう人たちを返り討ちにできる。
ふと、サブリナの顔の高い頬骨と尖った顎を見つめ、彼女の母親フィルチ伯爵夫人を思い出した。
そういえば、祖母とお茶会友達だった。
「あの、もうよろしいでしょうか?」
にっこりとエレナは微笑んだ。
「は?」
殺気に満ちた声。
気圧されそうになりながら、エレナは毅然とし、平然と聞こえる声を出す。
「申し訳ございません、時間が惜しいものですから、こちらで失礼させていただきます。
あっ、もちろん先輩方の貴重なご意見、ご要望、確かに受け取りました。
ありがとうございます。今後の参考にさせて頂きますね」
エレナは礼儀正しく深々と膝を曲げてお辞儀をした。
途端に女官たちの顔が引きつった。
「はあ? 生意気っ、年下のくせに」
「あんた、何様のつもり⁉」
たちまち眉を吊り上げ、導火線に火が付いた状態になった。
怒声が飛び交い、場の空気が一気に張り詰めた。
「何様……って、そうですね、魔法総括調査研究室 特別補佐官のエレナ・ヴァービナスでございます。 一般研究員のサブリナ様、そうですよね?」
あえて笑みを湛えて答えるエレナに、突如サブリナが顔を真っ赤にした。
「そういえば、サブリナ様。
サブリナ様の御実家のフィルチ家。
数年前、領地内の農作物が収穫前に蝗害に遭ったとか」
エレナが突然話題を変えたのにサブリナは驚き、目を見開いた。
「その際、我がヴァービナス侯爵家がフィルチ家に幾ばくかの援助をさせていただきました。
ですが、このようにわたしを愚弄するのであれば、今後はそちらの領地に困りごとが起きてもヴァービナス家は一切手助け無用、ということでよろしかったでしょうか?」
サブリナがぎくりとし、屈辱に満ちた表情を浮かべた。
手が震え、優雅さを装った笑みが一瞬で崩れ落ちる。
白い喉元まで赤く染まり、唇はかすかに噛み締めた。
正直、こういう家の笠に着るやり方はあまり好ましくない。
(けど、先に昼の件に約束、わたしと関わらない、彼女から破ったんだ)
しまいには、わたしの過去を蒸し返して罵る。
せっかく手に入れた仕事まで邪魔するのであれば、わたしは貴族社会の侯爵令嬢として最大限の権力を振るってやる。
「卑怯者!」
サブリナが叫んだ。エレナは一瞬怯む。
「ひ、卑怯者はそっちです」
エレナは必死で言い返す。
「い、いまだって多勢に無勢、昼間の件だって、そもそもそちらが誰もいない昼休憩時間を狙って無理矢理研究室の扉を壊そうとしたんでしょう⁉」
エレナの声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。
「そのとき自分が不注意で負った怪我を証拠もないのにわたしのせいにしようとして。
これのどこが正々堂々としてるんですか?」
エレナの目尻には涙のような光が滲む。
「卑怯者と罵るならどうぞ」
エレナは一歩踏み出し、毅然と相手を見据え、恐怖を押し殺してさらに畳みかける。
「わたしは一生懸命仕事をしているだけにすぎません。
それなのに、あなたがそうやって強引にその仕事を奪おうとし、これ以上わたしに危害を加えるようなことがあれば、わたしはヴァービナス侯爵令嬢として、あらゆる縁故と情報網を駆使してあなたを社会的に抹殺します。それを重々ご留意ください」
サブリナの顔は引きつり、笑みとも怒りともつかぬ歪んだ表情を浮かべた。
共に罵った女官たちが戸惑い、気まずそうに目配せし始めた。
(あー、今日ほど、自分の家が裕福な高位貴族でよかったと思ったことはない。
まったく、両親の手腕とおばあ様の顔の広さにも感謝しかないわね)
サブリナの顔がますます酷薄に歪み、怒りがじわじわと顕著に広がっていく。
そして、サブリナがエレナに飛び掛かった。
防ぐ間もなくサブリナがエレナに馬乗りになった。
エレナは床に押し倒され、胸の上に重みがのしかかった。
冷たい石床の感触。
息が詰まり、喉からかすかな悲鳴しか漏れない。
逃げようと腕を伸ばすが、力は奪われ、ただ震える指先が宙を掻いた。
そして、カトリーナから感じた不穏な気配と同じ、どろりとした不快なねっとりする気配。
その不吉なモノがエレナを襲う。
「こんの……!」
そして、サブリナがエレナのローブのフードを勢いよく外した。
(しまった、顔を見られちゃう。また言われる!)
醜い
気持ち悪い
不気味
「え?」
サブリナがエレナの素顔を見るなり驚愕した。
他の女官たちも目を見開き、ひどく困惑する。
静寂が走った。
月明かりの下で露わになったのは、サブリナが嘲笑った「不細工」でも「不気味」でもない、透き通るような肌と、知性を宿した宝石のようなアメジストの瞳だった。
「なによ、これ……。ブスのくせに、なんで……っ!」
エレナはその反応に驚き、目をぱちくりさせた。
サブリナは、まるで幽霊でも見たかのように口を戦慄かせた。
「どうせ化粧で誤魔化してるんでしょ⁉」
苛立ち滲ませたサブリナがエレナの肌を掌でこすりつけきたかと思ったら、今度は髪を思い切り引っ張った。
「痛い!」
血の逆流するような恐怖が襲い掛かり、過去の悪夢が再び脳裏をよぎった。
サブリナのその姿は、恐怖と屈辱に塗りつぶされ、貴族令嬢の面影は消え失せていた。
「おいおい、これは全然穏やかじゃないな」
美しい低音バリトンボイスが響いて、女官たちはぎょっとなった。
「女官の皆様。多数で取り囲み、ひとりの女性に馬乗りになって危害を加えるとは、いささか無粋ではしたない行為かと存じますが、いかがでしょうか?」
エレナの上に乗っているサブリナが慌てて飛び退くように、エレナから離れた。
エレナは恐る恐るその声の主に視線を投げた。




