第37話 魔法使い令嬢の受難 ―― 張り巡らされた冤罪の罠
――ヨヒンベアドルナ
エレナが首を捻る。
その音節が毒のように胸に沈殿していく。
心の中でその単語を反芻すればするほど、不安になる。
まるで魅了魔法の理論と共鳴する、あの昏い波動。
お菓子の材料だなんて、到底信じられない。
「エレナ」
聞き慣れた低い声がして振り返った。
レイノルドだ。
「ごきげんよう、レイノルド」
心なしかげっそりしているレイノルドを見、エレナは苦笑した。
「かなりお疲れのようだね」
「ああ、本当に疲れた」
その声にも疲労が滲んでいた。
「それは、あのお姫様が原因?」
「ああ、そうだ。聞いてくれ」
珍しくレイノルドが弱音を吐く。
「初日にルシアン様に一目見てどっぷり惚れ込んでしまったみたいで、どこへ行くにも何をするにもルシアン様を連れ回すんだ。
ルシアン様には別の仕事もあるのにお構いなし。
しまいには熱烈にも自分の婿、つまり侯国の王にならないかと毎日求婚していてさ」
「それは、クレインバール卿もお困りだろうねぇ」
官吏登用試験以来、ルシアンと絡むことはない。
だが、なんとなく、あの美しい顔が妖精姫の強烈な求婚に辟易し、顔を歪める、その姿が思い浮かぶ。
「そんなこんなで、当初から立てていた警備計画は妖精姫のわがままで日々大幅に変更を余儀なくされ、軍部若手たちはてんやわんやなんだ」
レイノルドの顔を見ると、その混乱に生じた疲れが如実に現れている。
「ちゃんとご飯食べられてる?」
エレナがそっとレイノルドの顔を覗き込んだ。
「それは問題ない。
食欲だけはいくら体調を崩しても決して減らない」
その点はやけに張り切った口調で言い切るので、エレナはぷっと吹き出した。
「あはは。
でも、それなら体力と気力でなんとか乗り切れそうだね」
「ああ、もちろん乗り切るぞ。この寝不足も……」
ふわぁあ、と盛大にレイノルドは欠伸をした。
驚いた。ふだんきっちりしたレイノルドが、人前で欠伸をするということは前代未聞だ。
これは相当睡眠不足なのだろう。
「盛大な欠伸だね」
「すまない。
つい気が緩んだ」
「ううん、そんなに夜も仕事忙しいの?」
「ああ、毎日のように予定がエリザヴェータ姫様のご機嫌でコロコロ変わるからな。
あらかじめ要望がわかっていれば、先回りしていろいろ作戦も立てやすいのに」
「そんなに突拍子のないご要望なの?」
「いや、さしてそれほどでも。
ただ、警備対象でない王都の店に行きたいとか、突如お菓子を作りたい、お茶会をやりたい。
……そんな程度だ。
とはいえ、急な予定変更は警備担当としては、いろいろ骨が折れるんだ」
「それだったら、どなたか騎士のご姉妹や奥様に助言を頼んでみたら?
『仮に自分がお姫様としてこの国に来たら何がしたい?』っていうわがままリスト。
少しは先回りできて、いろいろ事前に身構えておけると思うけど?」
「ああ。それ、いいな。
ちょっと提案してみようかな」
レイノルドは束の間逡巡し、口角が少し上がった。
「ふふ、レイノルドの寝不足解消に繋がるといいね。
ねえ、ところで、レイノルドは、“ヨヒンベアドルナ”って単語知ってる?」
「なんだそれは? 新種の魔物か?」
灰色の瞳をぱちくりさせた。
どうやら彼も知らないようだ。
「さっき、妖精姫の侍女たちが盛んに口に出していたから気になって。
なんか、その材料の入ったお菓子を
お茶会のときにクレインバール卿に振舞うって言っていたよ」
「妖精姫……?
ああ、あのエリザヴェータ姫様のことか。
ん~、なんだろう。あとでランスに聞いてみよう」
「あ~、いいよぉ。時間が合った時で。
二人とも忙しいでしょ?」
「まあな。
でも、俺も気になるから」
レイノルドが肩をすくめた。
「それにしても、妖精姫はクレインバール卿のことをよっぽど気に入っているのね」
「ああ、もう笑い事じゃないぐらい酷いもんだよ」
レイノルドは鼻を膨らませる。
「ルシアン様はいずれ辺境伯の爵位を継ぐ身だ。
それなのに、あの姫さんは『そんなもの、自分たち侯国の騎士から養子をとればいい』とか言い出してさ」
「えっ、それはまた奔放なご発言だね」
エレナは目を見開き、思わず声を上げた。
「まったくだ。あの僻地は、クレインバール家が代々マリュード皇国の攻撃から守ってきたんだ。
そんな要所を協力国とはいえ、余所の国の騎士を養子にとればいいなんて、冗談でも言ってはいけないことだ。なんたる侮辱」
レイノルドの灰色の瞳に、疲労を上回る怒りが宿る。
「しかも『クレインバール卿は、次期侯国の女王となる自分の伴侶となって支えるのが運命よ』なんてほざいて……まったくふざけるにも程がある」
「それ、インリューラーク王国でも似たようなこと、言っていたらしいよ」
エレナは侍女食堂で仕入れた情報をさっそく伝えた。
「マジか。
それは知らなかった」
「……ちょっとその発言は、痛いよね。
一国のお姫様として軽率というか……」
エレナは苦笑する。
「だな」
「侯国の誰も止めないの? そういう奔放な発言」
「ああ、むしろ、『クレインバール卿とエリザヴェータ姫様はお似合いだ』とか、『クレインバール卿も照れているだけです。積極的に行きましょう』だってさ。
そのせいで、姫はすっかり乗り気だ。
こっちはたまったもんじゃない」
レイノルドは後頭部を掻きむしる。
「聞くところによると、なんでもあの姫は今回のご遊学前から、すでにルシアン様の肖像画を手に入れていたらしい。インリューラーク王国の騎士も同様だったらしいんだ」
「それはあらかじめ目をつけていたってこと?」
「だろうな、たぶん」
「ふうん。用意周到なことで。
それにしてはお気楽なものよね、
命を狙われているんでしょ? あのお姫様」
「そうなんだ、それなのに悠長な婿探しなんて……」
レイノルドが盛大にため息をつく。
「守備を固めるどころか、奔放に振舞って出歩こうとする。
計画変更も気に留めない。
まるで狙ってくださいって言っているみたいで、こっちがやきもきさせられる」
収まらない怒りのせいか、今日のレイノルドはやけに饒舌だ。
「それは骨が折れる作業だね。
っていうか、それもクレインバール卿に守ってもらうための自作自演だったりして」
エレナが冗談っぽく言うと、レイノルドの顔がサッと曇った。
そして、エレナに近寄ると、声を潜める。
「実はな、あのお姫様、ルシアン様に『婿になれないというなら、自分が国に帰国するまでクレインバール卿が護衛しなさい』とまで言い出したんだ。
それが友好国の役目だとかほざいている」
「え、それはちょっとおかしいよ。だって友好国じゃなくて、協力国でしょ。
そもそも、マリュード皇国に攻め込まれたときだけ助け合う関係なのに」
エレナは眉をひそめる。
「それに、この国を出たら他国の領域だよ。
そこにうちの武官が警護するのはもっと変。
他国にうちの国が侯国の属国になったという誤った印象を与えちゃうよ」
「そうなんだよ。
その警護もルシアン様をなんとしても祖国へ連れ帰るための手段なのかなって思う節もある。
軍部の上層部やうちの外交官、ああ、ランスのことな、がエリザヴェータ姫様にいくら説明しても通じないらしい。
笑って『そこをなんとかするのがあなたたちの仕事でしょ』って言うんだと。
俺たちは侯国の臣下じゃない」
レイノルドの怒気がますます大きく膨らむ。
「可愛い顔して結構わがままさんなんだね」
「可愛いのは顔だけだ。
中身はとんだ肉食姫だよ」
ふんと、レイノルドは鼻を鳴らした。
肉食姫、確かに。
ぐいぐい積極的にルシアンにアプローチをしている様子と、勝ち誇った笑顔は、そんな気がした。
――奔放さ。
夢見がちで、軽率で、危うい。
エレナの耳には、さきほど侍女たちが繰り返していた奇妙な単語が蘇る。
『ヨヒンベアドルナ』
お菓子の材料にしては妙に重い響き。
「まあまあ、レイノルド。これが終わったら打ち上げしよう。みんなで。
きっと他のメンバーも疲れ切っているだろうしね。
ランスにも声をかけておいてよ」
レイノルドは肩の力をふうと抜いて、頭をぽりぽり掻いた。
「そうだな。それを励みにあと数日、頑張る」
レイノルドは「それじゃあ」と言って、魔法騎士の詰め所の刑部塔へ戻って行った。
*
エレナが魔法省の自分の部署に戻ると、なにやら騒然としていた。
二階のエレナの研究室前に人だかりが出来ていて、なんだか嫌な予感が胸を掠めた。
「あら、おかえり。雀ちゃん~」
相変わらずセクシーランジェリーのようなドレスを纏うアメリアが、二階から陽気に手を振っている。
そこにいた人たちが一斉にエレナを見る。
エレナは、一瞬全身が凍り付いた。
凄まれる視線。
蔑む眼差し。
攻撃的な目。
非難と責める無言の雰囲気。
異様な威圧感に、エレナは尻込みした。
「ねえ、雀ちゃん、あなたの部屋の前で人が倒れてたのよ」
アメリアが手摺にもたれながら言う。
エレナは慌てて二階まで階段を駆け上がった。
エレナが二階に上がると、倒れているという人物の前までサッと人が避けた。
そこには二人の一般研究員の令嬢がいた。
倒れていたのは、水色の髪を巻いた派手な印象の令嬢。
アメリアにはほど遠いが色香を漂わす彼女。
ディースに媚びた笑みをいつも向けていた。
そして、もう一人はオレンジ色の髪をした儚げな雰囲気を漂わす。
けれど、その眼差しには揺るぎない眼光の強さが見え隠れしていた。
(このオレンジの髪の人、この前、不穏な気配を漂わせていた人だ)
水色の彼女は倒れ込んで、オレンジ色の彼女に支えられ、なんとか上半身だけ起こしている感じだった。
「あのね、この倒れた子が言うにはね、雀ちゃんの部屋の前をたまたま通りかかって、躓いて、よろけちゃって、それで偶然、研究室の扉に触れたらしいの。
そうしたら、突然魔法が発動して、攻撃をされたっていうんだけどね……」
「えっ、まさか」
エレナは驚いた。
「まさかじゃないわ。
あなたのせいで、この子、身体が痺れちゃって一人で起き上がれないほどダメージを受けているの」
支えていたオレンジ色の令嬢が、エレナにキッと睨みつけて食ってかかった。
その途端に、被害に遭ったという水色の髪の令嬢が泣き崩れた。
「何もしていない人に攻撃魔法を仕掛けるなんて、これは立派な暴行罪だわ。
懲罰査問委員会であなたを懲戒免職にしてもらうしかない。覚悟しておいて」
オレンジ色の彼女が冷ややかな視線を飛ばす。
だが、エレナはその視線に気付かず、倒れ込む水色の彼女の横を素通りし、自分の部屋の扉に触った。
自分が施した魔術式を確認する。
(……おかしい。わたしの張った結界は……。
それに、この魔力残滓……)
「あなたね、まず謝罪するものよ。
新人でもそれくらいの常識はあるでしょ?」
オレンジ色の彼女は淡々とした口調で言いながら、侮蔑の眼差しを向けた。
けれど、エレナの耳には入っていない。
静かに魔力残滓を分解し、頭の中で魔術式に組み込み、冷静に緻密な魔力の計算式を弾き出す。
視界の中で、散らばった魔力の断片が数式へと組み変わっていく。
「あのね、特別補佐官になって浮かれているみたいだけど、研究員に危険な魔法を向けるなんて、断じて許されないことなのよ」
諭すように正論を正面から彼女はぶつける。
計算式の答えが分かって、ようやく彼女の声が耳に入ったエレナには、その言い分は納得できなかった。
(何を言っているのかしら。わたしはそんな危険な魔法を決して施していないのに)
エレナが振り返ると、そこには自分を断罪しようとする無数の視線があった。
びくっと肩が震えた。
全身がすうっと冷えていくような感覚に、エレナは硬直する。
――胸が締め付けられるように痛くて、苦しい。




