第30話 新人女官令嬢への洗礼?――無自覚な天才は、一晩で悪意を粉砕する
ディース・アッシュベリーは、夜も更けてそろそろ帰宅しようと部屋を出た。
さて、今日はどこで夕飯を食べようか。
官僚宿舎で暮らす身としては、毎晩の食事に悩まされる。
王宮官僚食堂で済ませるのが最も手っ取り早いが、それでは少々味気ない。
特別補佐官の個室が並ぶ廊下を通り過ぎようとしたとき、違和感を覚えた。
「え、嘘だろ」
もう帰ったはずのエレナの部屋の小窓から光が漏れていた。
(おいおい、就任初日だぞ)
ぎょっとして、ディースは扉をノックした。
しばらくして、エレナがそっと扉を開ける。
「エレナちゃん、まだやっていたのかい?
今日が魔法省初日なんだし、もう帰りなよ。根を詰めると続かないよ」
時折、研究に没頭しすぎて時間や寝食を忘れる官僚がいる。
彼女もその類かもしれない。
「あ、あの、でも、これを明日までにやれって……」
エレナが部屋の中へ視線を投げる。
机には分厚い書物と、特別補佐官には配布されないはずのファイルが積まれていた。
(なんでこんなものが彼女の部屋に?)
ディースは訝しげに首をひねった。
「ごめん、部屋に入ってそのファイルを見せてもらえる?」
「はい、どうぞ」
ディースは部屋に入るなりファイルをめくり、眉をひそめた。
「あのさ、これ、全部一般研究員の仕事だよ」
「え?」
エレナは目をぱちくりさせた。
「君は特別補佐官だから、この仕事をする必要はないんだ」
「け、けど、無精髭のリデルという方が、新人はこれを全部片づけるのが当たり前って……」
「はあ?」
ディースは頭を掻きむしる。
「まったく、アイツ、早速、新人いじめかよ。
これだけの量、一晩で終わるわけない」
「えっ!あれ、嫌がらせだったんですか!?」
「うん、そうだよ」
エレナは驚き、語尾を小さくしてモゴモゴ呟いた。
(学生時代もそうだった。
この子はノックスの影に隠れて、引っ込み思案で……)
それでも、彼女は当時から魔力量が桁外れで、いつか魔法で目立つだろうと予感していた。
だからこそ、どもる喋り方も、挙動不審な感じがすごく勿体無いと思った。
あの時より随分と改善されてはいるとはいえ、ローブには、顔認識阻害魔法が付与されているくらいだ、まだまだ対人恐怖症なのだ。
これもそれも、あんな婚約破棄騒動があったからだろう。
つい数週間前、彼女の兄、ノックスから久々に連絡をもらった。
『エレナが官吏登用試験を受けにきている付き添いで、合否結果までは王都にいる。
もし都合がつけば、久々に酒でも飲みにでも行かないか?
予定は空いているか?』
というお誘いだった。
アカデミーを卒業以来、何かと互いに忙しく疎遠になっていたが、ここで会うのも悪くない。
むしろ、エレナが官吏登用されれば、ひょっとしたら、再びノックスと、妹を通じて縁を持つことになるかもしれない。
心の底で期待しつつ、そんな機会もないだろう。
あの時はそう思って、久々に会うことにした。
約束の酒場に着いて足を踏み入れた瞬間、すぐに、あの時よりも凛々しくなったノックスを見つけた。
あっちも気づき、ちらりと笑みを浮かべ、小さく手を挙げた。
彼は、すっかり次期侯爵嫡男の顔つきになっていた。
けれど、しゃべり始めれば、たちまち歳月が巻き戻されて、学生時代の顔つきになる。
負けず嫌いでヤンチャな、俺の知るノックスが顔を出す。
旧友と会うというのは、懐かしさで高揚させて饒舌にするが、なんだか照れ臭くて変な感じがする。
互いに近況報告をしながら、他愛のない茶々を入れ、酒を飲み交わす。
アカデミー時代、放課後の長い時間を随分と一緒に過ごしたものだ。
子犬みたいにじゃれ合い、どつき合ったりするどこにでもいる男子学生。
そう、そのはずだった。
淡い恋心。
そんなロマンチックなものではないけれど、ディースはほんの少しだけ、ノックスに好意を寄せていた。
友情の延長線上にある、ひどく熱のこもった憧れ。
けど、これは秘密だ。
この国では、同性にこんな想いを抱いてはいけないから。
人の良いノックスだって、同性からこんな想いを寄せられていると知ったら、きっと気味悪がるだろう。
だからこそ、彼が春に結婚するという報告は、複雑で、泣きたい衝動にかられながらも、祝杯を挙げているように装った笑顔で「おめでとう」と言うしかなかった。
酔いが回るほど、ノックスはずっと妹エレナのことばかり案じていた。
エレナとその婚約者の婚約破棄については噂で聞いていたし、その事情も認識していた。
その上、下衆な元婚約者は違法薬物に手を出して、先日暴走して魔法騎士団に捕縛されたというのだから婚約破棄して正解だったと常々思う。
とはいえ、当事者の彼女は婚約破棄で相当傷ついているだろうし、複雑な胸中だろう。
心機一転、思い切って王都の女官を目指すとはいえ、謂れのない羞恥と自己嫌悪を感じている。
だからこそ、実際彼女が魔法省に所属になるのを知ったとき、即、彼女の教育係を買って出たけれど。
「……あ、あの、ディース様?」
目の前のエレナは気まずそうに視線を泳がす。
「えっと、実は、その、一応、二冊以外は全部終わりました……」
「はい?」
ディースは目を見開いた。
エレナは恥ずかしそうに、さらにフードを目深に被った。
「え? まさか」
これ、結構な量があるぞ。
(俺がやったとしても少なくとも一週間はかかる)
エレナは、二冊のファイルを取り出した。
「えーっと、出来てないのがこの二つでして……このファイルのサンプルの薬草の成分を調べろって依頼でしたが、薬草抽出時間が百時間以上という条件だったので、最低でも五日は欲しいんです、どうあがいても明日朝は物理的に無理です。だから延長交渉をしてから、改めて取り掛かろうと思ってました。それから、この魔法の杖に使われている原材料について調査するようにとのことですが、一応どこの国のどこの森の木の、どの薬剤を使って、どんな魔法で、どのような工程で作ったのかは分かったんです。含まれていた材料も一つだけを除いてすべて把握出来ました。その分からない一つの材料が、たぶんドラゴンの髭だと思うんです。でも、ドラゴンの髭なんて稀少すぎて実物を見たことがないんで、明日確認しようと思っていて……ドラゴンの髭は生薬に使えるから、王宮医務室にありますよね? ……王宮医務室には同期もいるので、なんとかなるかなあって思ったんですけど」
エレナは畳みかけるように、得意分野だからか、饒舌になって目を爛々《らんらん》とさせて説明した。
ディースはこめかみを押さえた。
文字通り、たった一晩で『終わらせて』しまうとは。
「エレナちゃん」
ディースが顔を曇らせたのに反応したエレナは慌てた。
「す、すみません、わたし、何か粗相しましたか?」
「違うよ、その逆。君、凄すぎるよ」
「え?」
「いくら特別補佐官でも、ここまで短時間でやれる者は滅多にいない。素晴らしいと思う。
ただ、人にはそれぞれ役割があるんだ」
ディースは笑顔を浮かべながらも、胸の奥に小さな不安を抱いた。
(まずいな……新人がここまでやれると、他の研究員のやる気が削がれる)
魔法省の一般研究員は、プライドが高い者が多い。
難関試験を突破した自負と、魔法使いだけが所属できる優位性が彼らを傲慢にしている。
ディースは彼らの顔を思い浮かべ、眉をひそめた。
(あいつら、すぐ些細なことで牙を剥きかねないからなぁ)
だが、特別補佐官ほどの実力者は、そんなプライドを気にしない。
エレナはその典型だ。
エレナの魔力量は以前より減っていた。否、これは意図的に制御しているのだろう。
魔力制御は神経を削り、体力も消耗する。普通ならやらない。
ディースはその事実に気づいたとき、胸がざわついた。
(たぶん、王都の混乱を避けるためだよな)
武官ならまだしも、文官。
波風立てずに過ごすには、正解だ。
――世の中には天才がいる。
エレナはその一人だ。
古代魔道具を託された彼女は、期待の星に他ならない。
ディースは頭を掻き、苦笑を浮かべた。
新人でありながら特別補佐官として個室を持つことは、一般研究員たちの嫉妬を募らせる。
しかも、彼らは魔力制御を見破れぬまま、彼女を劣る存在と見なすだろう。
ディースは近い未来を想像し、深い溜息をついた。
「エレナちゃんには古代魔道具の解析があっただろ?
あれは、どうなった?」
「すみません、それは全然出来てなくて……」
エレナはしゅんとして肩を落とす。
ディースは、自分が叱責している声を出したことに気付いて慌てた。
「あ、ごめん。責めているわけじゃないんだ。
要はこの一般研究員の仕事はもう受けないで欲しいんだ。
君がこの数時間で行った仕事は、一般研究者たちにとっては、一カ月分以上の仕事」
「え……一カ月もかかるんですか?」
エレナは呆然とする。
嫌味もない、素直な感想。
やはり秀逸な者は自分が基準となり、出来ない意味が分からなかったりする。
ふいに、ノックスの声が頭に響いた。
「実は、エレナがいまお世話になっているのは、マインラート・ソシュール元王宮魔術師筆頭様なんだよ」
こっそり、旧知の仲だからと、酒で酔っ払ったノックスが複雑な顔つきで言った。
「エレナの奴さぁ、コミュ障なくせに、小さい頃から家族の誰よりも魔法が上手に使えてたんだよ。
で、今回はあの元王宮魔術師筆頭様にまでその魔法力を買われたみたいでさぁ。
それは兄として誇らしいんだけど、すげぇ妬ましくもある」
滅多に愚痴をこぼさないノックスがぼそっと本音を漏らしたことに、あの時とても驚いた。
ディースは、ノックスと同じ、目の前にいるエレナのアメジストの瞳を覗き見る。
「あのね、君には簡単なことばかりだっただろうけど、彼らにはそこまで解析する魔力も魔術式も構築できていない。
君にとっての『当たり前』は、彼らにとっては『悪意ある誇示』として受け取られてしまうこともあるんだ。
秀逸な特別補佐官だからこそ、彼らのレベルに合った仕事を奪ってはいけないよ」
「は、はい……仕事を奪ってはいけません……」
痛々しいほど打ちひしがれたように、エレナは力なく首を振った。
「逆に言えば、彼らもエレナちゃんの仕事を奪っていけない。
というか、一般研究員ではあの魔道具は彼らには出来すぎた代物で、何も手が出せずに終わる。
特に、古代魔道具に一般研究員は安直に触れてはいけないというルールが魔法省内でもあるんだよ」
「そ、そうなんですね」
「うん、なぜかというと、魔法の副作用や使ったことでその代償の呪いがかかったり、精神や身体に支障をきたしたりと様々なケースが考えられるからだ。
特別補佐官が触れても問題ないとされているのは、自分を守れるだけの魔力がある者だからだよ」
「き、肝に銘じます」
すっかり憔悴するエレナにディースは逆に不憫に思えてきた。
エレナ・ヴァービナスは謙虚で、自己肯定感が低い。
自分がどれだけすごい魔法使いなのかをまったく気付いていないようだ。
(もうちょっと優越感抱いてもバチは当たらないと思うけどね)
ディースは小さく笑って肩をすくめた。
「補足情報。この仕事を押し付けたリデルも元特別補佐官だったんだ」
「え、あ、そうみたいですね。
オーヴァーストリート様の言葉の端々から、なんとなくそうなのかなあって思ってたんですけど……」
話題が変わって、エレナは一瞬戸惑いながらも頷いた。
「うん。彼は皇族の遠縁で魔力は多かったけど、ずっと胡座をかいてサボっていたんだ。
その間に同期たちは鍛錬を重ねて力を伸ばし、彼は自分の能力を過信したまま置いていかれた。
で、焦った末に使い慣れない魔術で稀少な魔道具を壊してしまったんだ。
修復魔法も追いつかないほど粉々にね。
日頃の悪態もあって降格、代わりに俺が特別補佐官になったんだ」
「なるほど……そういう経緯があったんですね」
「特別補佐官になりたての頃は俺もリデルに嫌がらせをされたよ。
だから、逆に俺はこの容姿を使って女性たちを味方につけたんだけどね」
ディースはふざけ半分で顎に手をあて、決め顔スマイルを浮かべた。
一瞬エレナはきょとんとするが、ふと、くすっと笑った。
「道理で。以前お会いしたときとなんか雰囲気が変わったわけですね」
「あはは、そういうこと。味方は多い方がいい。
とはいえ、気を付けないと差し入れのお菓子やお茶に媚薬や催淫剤を盛られそうになったこともあったから、女性の取り扱いは常に要注意なんだよね」
ディースは事なさげに言うが、 エレナは驚き慄いた。
「ひょえ! そんな恐ろしいことを企む人がいるんですか⁉」
「いるいる。特に新人で顔がいいとそういった事件が起きるんだ。エレナちゃんも気を付けるんだよ」
「へ? わたしですか?」
エレナはきょとんとした。
「うん。差し入れとか言われても、くれぐれも知らない官僚からお菓子は貰わないように。
新人女官は狙われやすいからね」
「そうなんですか?」
「うん、女官が高給であることに目を付けて、婚約者がまだいない貧乏貴族の子息が新人女官に薬を盛るっていうのは、実は毎年よくある話なんだ」
ディースは思い出す。
「そうだ、そういえば、あの子。
エレナちゃんの同期のもう一人の子も気を付けた方がいいよ」
「え、ローゼル・イースティリアですか?」
「そう。あの子、目を引く美少女らしいね。
俺の同期が噂していたよ」
「そうなんです!
うん、同性のわたしから見ても、あの子、ものすごく可愛いんです」
エレナは大きく頷きながら、はっと気づく。
「あわわ、そういうことですね!
ローゼルに話しておかないと」
エレナは途端に不安そうな顔つきをした。
「ローゼル、あの子、甘いモノに目がないから不安……」
自分のことよりも、同期の彼女のことが気掛かりのようだ。
エレナの慌てぶりにディースは思わず吹きだした。
「エレナちゃん、自分のことは?
お菓子、貰ったりしてない?」
「わ、わたしですか? ないない。絶対ないない!
それに、わ、わ、わたしは大丈夫なんです!」
「え〜? 分からないよ?」
「だって天下無敵のローブのフードがあるんですから!」
エレナは目深に被っていたフードを引っ張る。
「顔はこれで晒されないし、逆に不気味で怪しいと思われているはずです。
万が一、毒を盛られても毒だけ抽出する解毒魔法も知っているし、治癒魔法もある程度は使えます。
でも、でもローゼルは……」
「まあまあ。どちらにしろ、見ず知らずの男性官僚から貰った菓子はむやみに口に入れないようにね。
新人の女官ってだけで、チェックしている野郎は多いからね」
結婚適齢期を過ぎても婚約者のいない文官たちは、若い女官が新しく入ってくると、まるで自分たちの花嫁候補が現れたかのように、浮き立つことがある。
容姿が整っていたり、自分の好みに合っていればなおさらだ。
もちろん、新入りの女官の中にも婿探しを目的に来る者はいる。
互いの思惑が重なり、宮中での恋愛が芽生えることも珍しくない。
ただ、その一方で、よからぬ方法で深い仲になろうとする貴族もいる。
用心するに越したことはないのだ。
同期を心配して戦々恐々とするエレナを尻目に、ディースは、あの大量のファイルを持ち主に返却するシナリオを頭の中で構築していた。
(さて、明日の朝が楽しみだな)
ディースは口角を僅かに上げ、エレナには見えない角度で、不敵な笑みを浮かべた。




