第24話 初陣令嬢の祝杯シャンパン——不器用な優しさと予期せぬ知らせ
しばらく、気まずい沈黙が流れた。
まさか、あのニコライ・イグナートの元婚約者が、今まさに目の前に座っているなんて、
誰も夢にも思わなかっただろう。
(どうしよう……わたしのせいで、みんな盛り下がっちゃった……)
全く嫌になる。こんなふうに、いちいち周囲に気を遣わせる自分が。
「……ごめん」
沈黙を破り、ネイトが素直に謝った。
「俺、すげえ無神経なこと言った」
「俺もだ。悪気があったわけじゃないけど、あまり楽しい話題じゃなかったな」
ランスも苦笑いを浮かべて続く。
「俺さ、こんな失言したのが姉貴にバレたら、確実に一時間は説教を食らうレベルだよ」
おどけるネイトに、一同からふっと笑いが漏れた。
「俺んところもだ。姉だけじゃなく、妹からも猛攻撃される」
ランスも苦笑を漏らし、ますますみんなから笑みがこぼれた。
「いやはや、どういう経緯があれ、こうやってこのメンバーが同期仲間としてお酒を飲み交わせる。
僕はそれで良かったと思うよ。
だって、エレナ嬢が予定通り結婚していたら、僕らはこうして仲間として出会えなかったじゃないか」
「そうだよなあ。そう考えると、”縁”って不思議だ」
「間違いない。受験する年が少しでも違えば、こうして飲み交わすこともなかったんだし」
男性陣が次々に明るい声を上げた。
「ねえ、改めてさ。
これからのみんなの健勝を祈念して、乾杯し直さない?」
モレーノの提案に、全員が力強く頷いた。
「いいねえ、それ」
「飲もう、飲もう!」
ホキアンが、すかさずシャンパンを用意するよう店の給仕に声をかけた。
「エレナ、大丈夫?」
恐る恐る、隣のローゼルが囁いた。
「う、うん……だいじょうぶ。みんな、わたしを責めているわけじゃないし。
むしろ……、婚約破棄されて正解だったって、改めて思えたよ。へへ、変な感じ」
「本当に?」
「うん。官吏登用試験に合格できるような優秀な同期が、口を揃えて言うくらいだもの」
エレナは胸を抑えた。
本当に変な気分だ。
醜聞持ちになることを恐れ、わたしはずっと我慢し続けていた。
けれど、ニコライは第三者から見ても、礼儀に欠け、人を見下す酷い男だった。
その事実を知り、自分だけがそう思っていたわけじゃないのだと。
救われた気がする。
「わたしもごめん。エレナが婚約破棄してくれてよかったと思ってる」
「え?」
「だって、婚約破棄してなかったら、エレナはここにいないでしょ?
自分の力試しをしたいなんて、絶対に思わなかったはず。
ここにエレナがいてくれて……ごめん、私、ホッとしてる。
エレナと知り合えて本当に嬉しいの。自分勝手で、本当ごめんね」
「ううん。そう言ってもらえると、わたしは逆に救われるよ」
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃない。ローゼルのお陰で、いろいろいい風に変わってるから」
ローゼルは、自分と真逆の位置にいる。
お互い、国のためといった高潔な目的があったわけではないけれど、ローゼルは家を支えるために自ら女官になった。
その点、自分はただ流されるままにこの道を選んだ。
「私だって、エレナのお陰で考え方が変わったよ」
「え?」
「女性官吏は、裕福な家庭に生まれて勉学を好んだ奇特な女——いまだにそんな理不尽な目で見られると思っていたの。
けれど、エレナは”適性があった”とか”向いている”とか、そういった、これといった特別な理由がなくても、自分の意志でこの道を選んだ。
だから、私もそれでいいんだって思えた。女性も気負わず官吏を目指す時代になったんだ、って」
ローゼルの瞳に、強い意志が宿る。
「だからね、いくら保守的なお義母様に罵られても、
『女官になったんです! それの何がいけないんですか!?
もう時代は変わったんです。女性だって能力があれば働いていいんですよ!』 って、
胸を張って言い返せたの」
「カッコいい……」
「ううん。
ってことで、こちらこそ、婚約破棄してくれてありがとう、エレナ。
ここに女官二人誕生! 乾杯しよっか」
ローゼルがニコニコしながら、ワイングラスを持ち上げた。
エレナはこそばゆい気持ちで胸をいっぱいにしながら、グラスを合わせる。
ローゼルは鼻を膨らませて、残ったワインをぐいっと煽った。
「ふふ、実はね。啖呵を切ったとき、私、本当は足が震えてたんだよ」
もじもじとはにかむローゼルの頭を、エレナはそっと撫でた。
「よく頑張ったね。ローゼルもすごいよ」
ローゼルが目を見開き、次の瞬間、今日一番の華やぐような笑顔を浮かべた。
*
「そういえば、エレナ嬢。フードは取らないんですか?」
ふいに、レイノルドがワインを飲むエレナに尋ねた。
全員が一瞬でしーんと静まり、その視線がすべてエレナに向けられた。
「えっと……」
(マインラート様からは、同期相手なら特別に顔を見せてもいいと言われているけど)
まだ勇気が出ない。
「別に、無理して取らなくていいんじゃないかな」
言葉の出ないエレナに気遣うように、ランスが肩をすくめて言った。
「世の中、親しい人以外に顔を見られたくないという恥ずかしがり屋の令嬢だっているよ。
そのうち、気が向いた時に見せてくれたら、それで充分だと思うけど?」
「へえ、さすが女姉妹に囲まれて育っているだけあるね。
女性の気持ちをよく分かってる」
ネイトがニンマリと笑った。
「そうか? 従妹が最近お年頃なのか、『父親の顔にそっくりだから嫌だ。人前に出たくない』って駄々をこねているらしくてな」
「あはは、それはお父さん、泣いちゃうよ」
「だろ? 彼女の父親はマジでショックを受けて、寝込んでるよ」
ランスがおどけて言うと、どっと笑い声が上がった。
「まあ、家族会議の結果、本人が納得するまで放置することにしたらしい。
無理強いは何事も良くない。心がついていけなくなるのが、一番辛いからな。
エレナ嬢のフードも、俺は同じことだと思っているよ」
エレナは一瞬、目を見開いた。
「あ、ありがとうございます……」
小さくお礼を言うと、ランスは一瞬だけ、耳の付け根まで赤くして視線を逸らした。
「別に、たいしたことじゃないよ。
俺の家は女性優勢だからね。
嫌がることをした時の報復が、どれだけ恐ろしいかを知っているだけだ」
茶目っ気たっぷりに言うランスに、エレナの唇からも、ふと笑みが零れた。
「そうか、そういうものなのか」
しみじみとレイノルドが、顎をさすりながら呟いた。
「あ、エレナ嬢、誤解しないでほしい。俺は意地悪で言ったわけじゃないんだ。この前の特別試験のとき、フードを脱いだエレナ嬢の横顔が、……その、美人だなと思ったからなんだ」
「え?」
「だから、同期にさえ顔を見せてくれないのはもったいない、と率直に思っただけで」
レイノルドが朴訥に言うと、男性陣の目の色がたちまち変わった。
「ほう、そうかあ。レイノルドがそこまで褒めるなら、ご尊顔を拝んでみたくなるなあ」
「おいおいネイト、下心が丸見えだぞ」
「えー、ランスもモレーノも、ホキアンだってみんな、本当は期待してるだろ?」
「そりゃあ、まあね」
にやにやと意地悪な笑みを浮かべる男性陣。
「と、とととととんでもない! レイノルド様、何気にハードルを上げないでくださいっ!」
エレナはフードをさらに深く被り直した。
「そうだよ。そんなふうに言われたら期待値だけ上がっちゃって、どんだけ絶世の美女だとしても顔、出しにくくなるじゃない」
ローゼルがケラケラと笑う。
レイノルドは「そうだろうか?」と困った顔をし、ローゼルはご機嫌そうにワインを飲み干した。
「私だってエレナの素顔を見たいよ。けど、エレナはエレナだもの。
それでいいじゃない? いつか見せてくれればそれで充分。
あっ、そうそう、それよりも新しいお酒も注文してもいい? シャンパン、まだだよね?」
ローゼルがメニュー表の冊子を見ながら言った。
ローゼルはかなりのお酒好きのようで、エレナがグラスを1杯空ける間に、すでに5杯は呑んでいる。
ちょうど部屋の扉が開き、給仕たちが入ってきた。
全員分のグラスに、白い泡が踊る琥珀色の液体が注がれていく。
「ほら、みんな。グラスは持ったかな?」
ホキアンが立ち上がり、全員がそれに倣った。
「それでは僭越ながら。
えー、では皆さん。これから毎日忙しくなると思いますが、アイルナバロー連合帝国の帝国公務員として、共に頑張りましょう!」
「乾杯!」
グラスがカチンと鳴り、可憐な音が部屋に響いた。
一口シャンパンを含むと、すっきりと引き締まった爽やかな後味が広がった。
「はあ、美味しい!」
ローゼルが第一声を上げた。
「ローゼル嬢、本当にお酒が好きだね」
ネイトが、身を乗り出すようにして声をかけた。
「はい! 大好きです。皆さんもそうでしょ?」
「うん、俺はもちろん好きだ」
上機嫌で笑うローゼルを見つめるネイトの瞳には、熱っぽさのようなものが宿っている。
エレナとランス、モレーノ、ホキアンは「おや」と視線を交わし合った。
「でもね、知ってる? 意外とレイノルド様がこの中で一番飲んでるんだよ。やっぱり武官の家系は強いのかな」
ローゼルがぐっと近寄ると、レイノルドは言葉を詰まらせ、頬を赤らめ、頭を掻く。
「まあ、我が家の消費量は半端ないからな。特に父上は大酒を呑んで帰ってくる」
「うちは逆に俺しか飲めない。父上も下戸だしなあ」
「我が家は女性陣の方が酒豪だよ。女性のパワーというのは、本当に凄まじいな」
ランスが鷹揚に言うと、さらに笑い声が絶えない。
新たに運ばれてきた料理に、みんなが目移りし始めたとき、エレナは窓の外に気配を感じた。
マインラート様の使い魔、
白鳩がこちらを覗き込んでいる。
「わ、わたし、ちょっとお花を摘みに……」
それとなく言って席を立ち、店を出る。
*
夜の帳が下りた路地裏で、白鳩がすぐさまエレナの肩に止まった。
その脚に結ばれた手紙に触れると、紙は光に溶け、エレナの前に文字だけを浮かび上がらせた。
瞬時に消える魔法のメッセージ
——超難解な上級魔法だ。
エレナは息を呑みながら、その文字を追った。
『ニコライ・イグナートが逃亡したと魔法騎士団から連絡があったよ。
どうやら王都に潜んでいるみたいだから、気を付けてね』
「え……」
祝杯の熱が、一瞬で引いていく。
さっきまであんなに楽しく、美味しかったシャンパン。
その泡の弾ける音さえ、今はもう、不吉な警告のように耳の奥で鳴り響いていた。




