第16話 踏み出した令嬢の友情――黒い噂と元婚約者の執着
ローゼルの言う噂。
思わずエレナは身構える。
嫌な予感が胸を掠めた。
ローゼルは、ニコライたちと今から呑みに行く令嬢たちを複雑な色を浮かべた瞳で見つめた。
「あのね、噂というのはね」
ローゼルは重い口を開いた。
「たとえば彼らと一緒に飲みに行くでしょ。そうすると、彼らはいっぱいお酒を呑ませてくるの。
そうなると、自然の摂理、お手洗いが近くなるじゃない」
「うん、そうね」
「でね、女の子がお花を摘みに行っている間に、彼ら、お酒に変な薬を入れちゃうらしいの」
「え!?」
エレナはぎょっとした。
「その薬の効果か女の子はぐっすり眠っちゃって、気付いたら、宿屋に連れ込まれてるの。
しかも、男女の営みの事後だったりするって聞くよ」
「なにそれ、犯罪じゃない」
「しー!」
ローゼルが慌てて口元に人差し指を立てた。
それから、ちらっとロシェやニコライたちのグループに視線を投げた。
彼らは気付かず令嬢たちと華やかに笑い合っている。
ローゼルはエレナを見てから、声を潜めた。
「ね? すごく怖いよね。それが原因で何人かの令嬢が婚約破棄になったり、親に勘当されて修道院送りになったりする子がいるって聞いたんだ」
「そ、そそ、そんな恐い話、どこから聞いた話なの?」
エレナも声を潜める。
自分の顔が青ざめているのを自覚した。
「王都内の雑貨屋さんで耳にしたの。私ね、可愛い文具を見るのが好きなんだ。
そのお買い物途中で、被害に遭った令嬢のご友人方が話をしているのを聞いてしまったの」
(じゃあ、ニコライもそんな仲間たちに加担しているの?)
そんな話を聞いたら、逆に婚約破棄してよかったと思うけれど。
ローゼルは?
「ロシェ・ガルブレイス様はローゼルの婚約者のお知り合いなんじゃ……」
「ああ、婚約者、うん。そうみたいね……」
ローゼルは気まずそうに口を噤んだ。
なんとなくだけど、ローゼルは婚約者とうまくいっていない、そんな直感がした。
「立ち入ったことを聞いてもいい?」
エレナは控えめに質問をする。
「うん、なあに?」
ローゼルは笑顔で促す。
「ローゼルは何で女官になろうと思ったの?」
「え……あっ、うん。……そうだなあ」
ローゼルはゆったりとした足取りで正門へ向かう。
エレナも隣に並んで歩き進む。
「はしたない理由なんだけどね、いい?」
ローゼルが不安そうな顔で、エレナの双眸をまっすぐ覗き込んだ。
「問題ないよ。全然わたしは軽蔑しないし、誰にも話さない」
「ふふ、ありがとう」
ローゼルは少し間を開けてから、ゆっくりと話しだした。
「実はね、お父様の事業が失敗して、うち、貧乏になっちゃったの。
幸いなことに他の事業は成功していたから路頭に迷うこともないし、領民に増税することなく生活しているんだけど、先立つものがなくてね」
ローゼルの目が遠くなる。
「だったら、手っ取り早く私が稼ごうと思ったんだ。
皇族付きの侍女よりも官吏になれば高いお給金がもらえる。
そのお給金があれば家にもお金が入れられる。だからだよ」
エレナは目を瞠った。
上級貴族令嬢になればなるほど働かないのがこの国のセオリーだ。
ましてや、家のために自ら労働しようだなんて一般常識的にありえない。
子爵位のイースティリア家だが、子爵位は幅広く、ピンからキリまである。
下級階級なら働かざるを得ないだろうが、イースティリア家の名前は由緒正しき家柄で有名だ。
あくせく働く必要は本来ないはずなのだ。
それだけイースティリア家の家計は火の車で、困窮しているということなのだろう。
でも、ローゼルの婚約者は、ウルーム伯爵家。
伯爵位を持っているなら、子爵よりも国から支給される年金や補助金はかなりあるはず。
(婚約者の家を援助しないのかしら)
ひょっとしたらそのことで、婚約がうまくいっていないのかもしれない。
かなり立ち入ったことを聞いてしまった。
そうは思っているけど、どうしても聞かざるを得ない。
「婚約者さんは、この試験を受けるのをなんて言っているの?」
エレナは思い切って尋ねた。
「ああ、それね」
ローゼルは一瞬言い淀み、口にする。
「実は内緒で受けに来たの」
「え? 内緒?」
「うん、家族にも言ってない。合格してから報告するつもり」
「怒られない?」
「う~ん、お父様はなんだかんだ筋が通っていれば、この状況下では反対しないと思う。
婚約者の彼は、私には興味ないみたいだから、最初こそ『女のくせに生意気な』なんてガミガミ言ってくるだろうけど、まあ、適当にあしらえば問題ないかなぁ」
ローゼルは他人事のように言って肩をすくめた。
エレナは唖然とした。
(この子、可愛い顔して、すごい闇、深くない?)
「ねえ、エレナも教えて。なんで試験を受けたの?」
衝撃を受けているエレナに、今度はローゼルが質問する。
どきっとした。
(わたしはローゼルのように家を支えるという高尚な理由がない。
ただ流されて、結婚が嫌で受けただけ。
それを聞いたら、ローゼルは軽蔑するかしら)
「えっと、力試し……かな」
「力試し?」
ローゼルが鸚鵡返しのように尋ねた。
「うん、実は、その、わたしは最近婚約破棄されたの。
おばあ様が懲りずに縁談を持ってきてくれたりしているんだけど、まだ結婚という気が起きなくて……」
「ああ、なるほど。うん、そうよね。乗り気じゃない結婚って苦痛以外何物でもないよね」
すんなりと納得するローゼルに、エレナは拍子抜けした。
「変だと思わないの?」
「変?」
「うん」
「私ね、エレナのこと、すごい素敵だと思ったよ」
「え?」
「だって結婚以外の、自分の特性を活かして生きていく道を探してるのよ!
ふふ、私たち、お互い合格するといいね。きっとそれなりにいい女官になれるよ」
ローゼルがにこやかに笑った。
「……ふっ、そうかもね」
エレナもつられて笑った。
「エレナ」
そのとき、不意に名を呼ばれ、エレナは反射的に「はい?」と答える。
そして、声の持ち主に振り返った。
そこにはニコライがいた。
しまった!
「やっぱり、エレナだ」
嬉しそうにニコライは頬を緩ませた。
エレナは一歩後ろに下がろうとする。
だが、ぐっとニコライに手首を握られて身動きがとれなくなった。
手首を握られた瞬間、血の気が引き、指先まで冷たく震え始めた。
「なんだよ、声かけてくれればよかったのに。
そのヘンテコなローブのフードで影になって分からなかったけど、声とその変な喋り方が絶対エレナだと思ったんだ」
ニコライは悪びれる様子なく、異様なまでに距離を詰めてくる。
婚約破棄したというのに、やけに馴れ馴れしいし、とにかく怖い。
「えっと、あ……」
ローゼルは、声が震えるエレナと満足げに微笑むニコライを交互に見た。
「ひょっとして、二人、知り合いだったの?」
「知り合いというか……」
「そう、俺たち知り合い同士なんだ」
言い淀むエレナの言葉にニコライが被せるように言う。
「なあエレナ。あの時は本当悪かったよ。急にあんなこと言ってさ」
ニコライはエレナの前に大きく立ち塞ぐ。
その影が小柄なエレナを覆う。
「でも、まさかエレナも官吏登用試験を受けに来たなんてびっくりしたぜ。
だってエレナはアカデミーを卒業していない無学だし、それなのに国最難関の試験を受けに来るって勇気があるっていうか、無謀だよなぁ。ある意味尊敬するよ」
ニコライは上からのしかかるように見下した。
遠慮のない嘲笑うような声。
身体が強張る。
そうだった。
ニコライはいつもわたしを貶めて、冷え冷えとする嘲笑を向ける。
頭ごなしにわたしの存在を軽んじて、わたしはずっとそれが嫌でたまらなかった。
高圧的で詰問を受けているようなじわりじわりとする息苦しさや圧迫感。
彼の言動そのものが怖くて縮こまっていた。
初めて出逢ったときは、とても優しくて紳士的だったのに。
(アカデミーで、あの令嬢に目を付けられて以来、彼の態度が豹変したんだっけ)
いくら学年が違うとしても、理不尽ないじめを受けるわたしに手を差し伸べることは可能だったはず。
それなのに、わたしを守ることもせず、無視して庇うこともしない。
むしろ、あの令嬢に加担してみんなでわたしを罵った。
あのときの嘲りや失笑が蘇って身体が震える。
(やだなあ、もう帰りたい)
ぎゅっと自分のローブを握り締めた。
「なあ、エレナ。父上に俺たち仲直りしたって報告していいかな?
あれ以来、俺、家に出入り禁止になっちゃって困ってたんだ。
だいたい元の原因は、俺じゃなくてエレナに女としての魅力がなかったからだろ?」
「え?」
「エレナがもう少し女っぽくて美人になろうと努力していたら全然違ってたんだ。
だからこうなったのも全部エレナのせいなんだしさぁ」
この人は、『いつも自分は悪くない。悪いのはいつもエレナだ』と言う。
じゃあ、あなたは貴族令息としてわたしに礼儀を尽くした?
いいえ、いつもあなたはわたしを馬鹿にするだけで何も助けてくれなかった。
それなのに、あなたのお父様に口添えしろって?
ふざけてる。
ニコライの身勝手な言葉にエレナは怒りが込み上げた。
なんとかして言い返したいのに、胃が捻り上げられたかのようにキリリと鈍く痛んで、唇が震えて声が出ない。
「ねえ、あなた。エレナの元婚約者?」
ローゼルが割入ってニコライに尋ねた。
「え、あ、ああ、まあ」
ニコライは気まずそうに頭を掻いた。
「ふうん」
突如ローゼルがエレナを庇うように二人の間に立った。
といっても、エレナより小柄なローゼルだから、ひょこっと頭一つ分出てしまうのだが、それでもローゼルはエレナを守るように毅然としてニコライを見上げた。
「だったら、あなたの今の発言はとても無礼だわ」
「な……っ!」
小柄な体から放たれる眼差しは、暗闇を裂く光のように鋭かった。
「君には関係ないことだ」
ニコライは分かりやすく憮然とした。
「そうね、確かに関係ない。でも、目の前であなたの声に怯える令嬢を見たら放っておけない」
「怯える?」
ニコライは眉をひそめた。
「ええ。分からない?」
「いつも彼女はこんな感じだよ」
ニコライは肩をすくめた。
「猫背で挙動不審、どもって喋るから何を言っているのか全然分からなくて逆に困ってたんだ」
「だからって見下していいはずがないでしょ。
そもそももう婚約者でないのであれば、もっと節度を持って接するべきよ。マナー違反はそちら」
「は?」
「敬称もつけず、ぞんざいな口ぶりでレディに話しかけて。
しかも、婚約破棄の原因をすべてエレナに押し付ける。
私、あなたの名前、思い出したわ。ニコライ・イグナートって、どこかで聞いたことがあるな、って」
「へぇ、俺の名前をね」
ニコライが途端にしたり顔になった。
「うん。婚約者を蔑ろにして、他所の女を妊娠させた、貴族紳士としての矜持がない男としてね」
カッとニコライの顔が赤くなって険しくなる。
ざわっと周囲が何事かと、こちらに視線を注ぎ始めた。
だが、ローゼルは構わず続ける。
「貴族子息として身勝手に家同士の約束を破るというあるまじき行為。
しかも、婚約破棄しておきながら、その罪を貞淑な元婚約者のせいにして、さらにはもう赤の他人になったにも関わらず、その元婚約者に親子喧嘩の仲裁に入ってくれ?
図々しいにも程があるんじゃないのかな。
私からしてみたら、あなたのやっていることは無作法者で傲慢な礼儀知らず。
イグナート伯爵との間を取り持ってもらいたいなら、妊婦の泥棒猫令嬢のご実家が行うべきことでしょう? なんで元婚約者に図々しく頼めるの?」
小柄ながらローゼルは、ニコライにまったく怯まない。
その背中が、エレナには大きくて頼もしい盾のように思えた。
「俺たちは君よりも随分前からの知り合いだ。部外者は口を挟まないでくれないか」
ニコライの声に苛立ちが滲んだ。
「あのね、部外者だから言うの。
女性を怖がらせ、一方的に自分の要求を通そうと威圧的にまくし立てるのはいかがなものかしら?
噂どおりの貴族紳士としての矜持がない男なんだって思うのも仕方ないでしょ」
周囲がニコライに冷ややかな視線を投げ、ひそひそと不穏な声が上がり始めた。
ニコライはぐっと反論を堪えた。
「さぁ、エレナ。帰りましょう」
ローゼルはエレナの手を引っ張った。
「……んだよ、女のくせに偉そうに……っ!」
ニコライが乱暴にエレナの肩を強くつかんだ。
その瞬間、周囲のざわめきが一瞬で消え、冷たい沈黙が会場を覆った。
「痛……っ!」




