露子
R15としております。
読み手を選ぶ内容かもしれません。
ご了承ください。
京都・桂家。五百年続く土地持ちの名家は、古都の象徴のように重厚な佇まいを見せていた。
その一人娘、桂 露子は、幼いころから「お嬢様」と呼ばれて育った。庭の梅が咲くころには茶道の稽古に出かけ、夏には浴衣で舞踊を習う。まっすぐに伸びた黒髪と白磁のような肌は、彼女の存在そのものを清らかに際立たせていた。
春。高校入学を目前にしたある日、父の口から持ち上がったのは政略婚約の話だった。
相手は東京の財閥・桐生家の三男、桐生三郎。端正な顔立ちに加え、都会的な空気を纏った青年である。
「桂家と桐生家。互いの業務を提携するにあたり、婚約は最も堅実な手立てであろう」
父の言葉に、露子は小さく頷いた。彼女にとって結婚は家のための務めであり、まだ恋を知らぬ心に反発は芽生えなかった。
だが――三郎にとっては違った。
三郎にはすでに心を捧げた人がいた。
ララ。中学時代から共に過ごし、貧しさの中でも懸命に生きる少女。笑えば陽射しのように周囲を照らすその存在は、三郎にとってかけがえのないものであった。
「政略の婚約なんて、時代錯誤だ。俺にはララがいる」
そう親に抗議したが、父の冷酷な声は揺るがなかった。
「別れろ。財閥の三男が、場末の娘など連れて歩けると思うか」
――けれど、時代錯誤だと切り捨てたはずの婚約相手が、想像以上の存在感を持って現れることを、彼はまだ知らなかった。
私立・鳳凰学園。都内屈指の富裕層の子女が集う学校。
桜が散り始めた四月の朝、校門をくぐった露子は、たちまち周囲の注目を集めた。
しとやかに歩を進める姿、淡い藤色のリボンを結んだ制服。京都から来た「桂家のお嬢様」は、その一挙手一投足が品格に満ちていた。
初めて言葉を交わしたのは、入学式から数日後のこと。
「あなたが……桂露子さん、ですね」
声をかけたのは三郎だった。
「ええ。桐生三郎様」
互いに深々と会釈を交わす。形式的で、少しよそよそしい挨拶だった。
だが時間が経つにつれ、露子は気づく。
――彼は、ただの「財閥の御曹司」ではない。
授業の合間、ノートを貸してくれたり、落ちたペンをさりげなく拾ってくれたり。ほんの小さな所作に、三郎の誠実さがにじんでいた。
彼の笑みは決して華美ではない。けれど、不思議な温かさを持っていた。
一方の三郎もまた、露子の姿に心を揺さぶられ始めていた。
昼休み、校庭の片隅でひとり本を開く彼女。静かに指先でページをめくり、ふと風が髪を乱すと、そっと耳にかけ直す。その何気ない仕草に、胸が高鳴った。
(どうしてだ……俺にはララがいるのに)
近づいてはいけない、と頭では分かっていた。けれど心は、彼女を追っていた。
春から夏へ。季節が移り変わるごとに、二人の距離は少しずつ近づいていった。
文化祭の準備で同じ班になったとき、露子は率先して意見をまとめ、控えめながらも芯の強さを見せた。
「桂さんって、思ったより……頼れる人なんだな」
「そうでしょうか。ただ、皆が気持ちよく動けるようにしたいだけです」
小さく笑ったその顔に、三郎は言葉を失った。
またある日、雨に降られた帰り道。
三郎が差し出した傘の下で、二人は肩を寄せ合った。濡れた制服の袖が触れ合うたび、心臓が跳ねる。
「……ありがとうございます」
露子の声はかすかに震えていた。
その夜、露子は机に向かっても勉強が手につかなかった。
(どうして……あの方のことを、考えてしまうのかしら)
三郎もまた、ララへの想いと、露子への新たな感情の狭間で苦しんでいた。
「俺は……何をしてるんだ」
ララの笑顔を思い浮かべながらも、脳裏には露子の横顔が浮かんで離れなかった。
やがて、夏が訪れる。
学園のプールサイドで、仲間たちと笑い合う露子の姿を遠くから眺める三郎。
白いワンピースに包まれた彼女は、陽射しの中でひときわ輝いて見えた。
そしてふと視線が合った瞬間――露子は驚いたように目を見開き、すぐに視線を逸らした。
胸の鼓動が止まらない。
互いに言葉を交わさなくても、その心の奥底に芽生えた「揺れ」を、二人は確かに感じていた。
やがて、夏が訪れる。
学園のプールサイドで、仲間たちと笑い合う露子の姿を遠くから眺める三郎。
白いワンピースに包まれた彼女は、陽射しの中でひときわ輝いて見えた。
そしてふと視線が合った瞬間――露子は驚いたように目を見開き、すぐに視線を逸らした。
胸の鼓動が止まらない。
互いに言葉を交わさなくても、その心の奥底に芽生えた「揺れ」を、二人は確かに感じていた。
夏の終わり、学園の噂は一瞬にして広がった。
――ララが妊娠した。
その知らせは三郎を震え上がらせた。
「本当に……?」
「うん。お医者さんにも言われたの」
ララはか細い声で告げる。その瞳には、希望と不安がないまぜに浮かんでいた。
だが現実は非情だった。ララは十七歳。身体はまだ出産に耐えられず、やがて流産という悲劇に見舞われた。
泣き崩れるララを支えながら、三郎の胸には深い傷と、言葉にできぬ迷いが広がっていった。
その噂は露子の耳にも届いた。
「桐生様……」
夕暮れの教室で彼女は初めて感情を露わにした。
「あなたがどのような事情を抱えているか、私には分かりません。ただ……私に隠していたこと、それが何よりも……残念です」
冷ややかに聞こえる声。だが瞳の奥には、確かな失望があった。
三郎は胸をえぐられるような痛みを覚えた。
(俺は……なぜ隠してしまったのだろう)
ララの存在を巡り、両家は騒然とした。
「ララという娘は愛人として扱えばよい。婚約は予定通り進める」
「桂家には負担をかけぬよう取り計らおう」
桐生家の親族は、冷徹に処理しようとした。
桂家もまた、娘に「耐えること」を求めた。
だが露子は毅然と声を上げた。
「私は……政略婚約を見直したいのです」
その一言は、保守的な親族たちを驚かせた。
父母は娘を守ろうとしたが、周囲の圧力は大きかった。
一方で三郎は、露子の決意を「自分を追い詰めるためのもの」だと勘違いした。
「結局、君も同じなのか。俺を利用するために」
その言葉は、露子の心を深く切り裂いた。
高校卒業の春。露子は留学を選んだ。
「自分を見つけるために、異国へ行きたいのです」
母は涙を浮かべたが、その決意を止めることはできなかった。
パリの石畳を歩く露子。言葉も習慣も違う土地で、最初は孤独に押し潰されそうになった。だが彼女は毎日必死に学び、少しずつ世界を広げていった。
舞踏会で着物を着て立つと、その気品は異国の人々の目を奪った。
その名はやがて社交界でささやかれるようになる。
少女から大人へ。露子は、痛みを抱えながらも洗練されていった。
そして、婚約者のことを忘れた頃、実家より、婚約解消の連絡があった。情勢が変わったのかもしれない。
二十二歳の春。露子は京都へ戻った。
幼さを脱ぎ捨て、背筋を伸ばし、淡い色の着物を着こなす姿は、誰もが振り返るほどに凛としていた。
やがて、桐生財閥が主催する晩餐会。
煌めくシャンデリアの下、露子が入場すると会場がざわめいた。
その場に――桐生三郎もいた。
彼は以前よりも逞しく、都会の空気を纏った男へと成長していた。
「……露子」
「ご無沙汰しております、桐生様」
淡々とした一礼。だが三郎の胸はざわついた。
その夜、何度も彼女に声をかけようとしたが、露子は冷ややかに距離を保った。
別れ際に告げられた言葉。
「どうぞ……お健やかに」
その一言が、三郎の心に深く突き刺さった。
晩餐会の後、三郎は眠れぬ夜を過ごした。
ララとの関係はすでに限界を迎えていた。執着にすがられる日々、責められる声。
「どうせ私より仕事が大事なんでしょ?」
三郎の心は摩耗し、愛情は義務と同情に変わっていた。
ついに別れを告げたとき、ララは泣き叫んだ。
「……露子さんのせい、だよね?」
「違う。これは俺自身の問題だ」
「嘘だ! あなたは私を捨てるの!?」
狂気じみた叫びを背に、三郎は初めて彼女の手を振り払った。
数か月後、ララは別の男と結婚を前提に暮らし始めたと聞いた。
「……そういうことか」
安堵と虚しさが同時に押し寄せた。
やがて三郎は自分を磨く決意を固めた。大学を卒業し、父の会社で成果を上げ、社交界でも注目を集める存在となった。
だが心の奥では、露子への想いが薄れることはなかった。
そして、ついに彼は行動に出る。
晩餐会の後、露子を食事に誘ったのだ。
露子も警戒はしていたが、最近の三郎の目覚ましい成長は社交界でも専らの噂。
…目が離せなくなっていた。
「君が京都を離れてから、俺の人生はどれだけ空虚だったか、知ってほしい」
「桐生様……」
露子の頬にかすかな赤みが差す。
やがて二人は、かつて抱き合うことを許されなかった夜を取り戻すように、熱に包まれて体を重ねた。
その一夜は幸福であり、同時に罪でもあった。
しかし、現実は容赦なかった。
桐生家の両親は二人の関係を許さず、露子もまた家庭と社交界の事情から身を引かざるを得なかった。
やがて露子には新たな婚約話が持ち込まれる。
相手は京都の老舗の御曹司、高峰雅哉。誠実で安定した人柄に、露子は次第に信頼を寄せた。
婚約披露宴で、雅哉は言った。
「露子さん、あなたを一生大事にします」
その言葉に、露子は静かに頷いた。
そしてほどなく妊娠が分かる。
三郎とのあの夜の記憶が蘇ってきたが、蓋をした。
一度きりの関係、三郎との子では絶対にない話だ。
結婚生活は穏やかだった。
露子は妻として、母として満ち足りた日々を送った。
だが社交界で三郎と顔を合わせるたび、二人の間には微かな緊張が漂った。
「ご無沙汰しております、桐生様」
「……ああ、高峰夫人」
礼儀正しい会話の奥には、誰にも知られてはならないときめきが隠されていた。
紅葉の京都。社交界の催しで再び視線が交わる。
一瞬の鼓動だけが、二人にとっての永遠の秘密だった。
露子は家庭を守り、三郎は会社と妻との生活を全うした。
けれど胸の奥にある「一度きりの夜」と「燃え上がった想い」は、決して消えることはなかった。
人生の表舞台では交わることはない。
だが心の奥底では、互いの存在がいつまでも響き合い続けた。
――それが、露子と桐生三郎の、秘められた物語だった。




