五
琴乃は望月屋の暖簾を潜った。
途端に、甘く濃い香りが鼻腔を満たす。今朝、祖父の仏壇にあげた線香よりもはるかに複雑で、幾重にも混じり合った匂い。その中に、伽羅に似たすっきりと澄んだ香りがふと漂った。
お香を専門に取り扱う店とは、心躍るものである。
「お待ちしておりました、主人の幸兵衛でございます」
今回、伊織を通して琴乃に語り部の依頼をしたのは、望月屋の主人・幸兵衛である。
「娘は奥におりますゆえ、どうぞ……」
幸兵衛の顔は、酷く疲労していた。その顔が見えない琴乃は、幸兵衛の声で彼に覇気がないのを感じ取る。
店の奥へと案内され、ある一室にたどり着いた。
「お梅、入るよ」
幸兵衛がそっと襖を開け、中に入る。
「語り部の方がいらっしゃいましたよ。ご挨拶なさい」
「…………」
琴乃が部屋へ案内されると、すぐに蒲団へもぐり込んでしまった。顔を隠すように背を向け、声も発さない。
蒲団の向こうから聞こえるのは、かすかな息遣いだけ。だがその静けさには、ただならぬ重さがあった。琴乃は胸の奥に影のような不安を覚えた。
「これ、お梅」
梅は幸兵衛の一人娘で、琴乃より一つ年下の十六歳である。
幸兵衛の依頼は、この娘を元気づけてほしいとのことであった。
「申し訳ございません」
「いえ、このままで」
どうぞよろしくお願いしますと頭を下げて、幸兵衛はその場を後にした。
「お梅さん、今日はどんな物語を聞きたいですか?」
梅は言葉を発するどころか、琴乃には背を向け、頭まで蒲団をさらに被ってしまう。
「お嬢さま……」
隣に控えているおすみが、心配そうな声をあげる。琴乃は小さく笑って、大丈夫だという意思を示した。
「では、『南総里見八犬伝』にしましょう。他の物語がよろしければ、いつでも言ってください」
琴乃はいつものように、語り始めた。
「琴乃さぁ!」
弾むような声に、琴乃もにこりとする。
語り部の仕事が終わって間もなく、藤次が迎えに来てくれたようだ。
「すんもはん。待たせもした」
「つい先ほど、終わったところです」
藤次は安心したように琴乃の手を取って、腕に絡ませる。彼女を導くとき、当初のぎこちなさはもうなくなっていた。
「おすみさぁは?」
「私たちに気を利かせると言って、先に人力車で戻りました」
「なっ……おいは仕事で……」
「ふふっ、わかっております」
つい仕事ということを忘れそうになると、あやうく藤次は口走りそうになる。
琴乃を仕事先まで送り、帰りも迎えに来る。これは彼の言う通り、まったくの仕事であった。江藤新平の命令でもある。
(江藤どんは、ないごておいに(どうして俺に)……)
かつての許婚である権蔵が訪ねてきて無体を働いたと、江藤が琴乃に聞いた日のことである。
この日も江藤はいつもの気安さで、琴乃の元を訪れていた。
「実は風花屋の主人の様子が変だとは、桐壺屋の主人から聞いていた。あえて琴乃に教えるまでもないと思っていたが……」
桐壺屋は江藤の懇意にしている古着屋であり、琴乃の最初の客人でもある。主人は琴乃の事情も知っているので、気にかけて江藤に知らせていた。
まさかどの面下げて、会いに来るとは思ってもいなかったことである。
「お店の調子がよくないのでしょうか……」
「あまり上手くはいっていないようだが、それだけではないような気がする……もともと、気の弱い奴なのかもしれん……」
ここでまあ大丈夫だろうと、琴乃に対して楽観視できる江藤ではなかった。
「風花屋について調べてみよう。また琴乃が嫌な思いをするようなことがあってはいけない」
「いつも気にかけてくださって、ありがとうございます」
「当たり前のことだ。ところで、琴乃に付きまとっているあの薩摩人に、変なことはされていないか」
「いえ、ちっとも」
「そうか。ならばよいが……」
いつしか琴乃が邏卒に襲われそうになった時のように、江藤の動きは早かった。邏卒を束ねる川路利良を了承させ、藤次と伊織に風花屋を調べさせるように命令した。特に藤次には、琴乃の護衛もするようにと睨まれたのであった。
藤次としては、この任に就かされたことが不思議だった。琴乃と親交を持っていることは承知であるだろうし、だからこそ、むしろ遠ざけられるものと思っていたのだ。最後のあの睨みこそ、敵意の表れのような気もする。
「望月屋のお嬢さぁはどうでした?」
「かなり沈んだご様子でした……理由を尋ねてみたんです」
梅は病ではなく、気持ちが塞いでいる。元々はおきゃんで、活発な娘であった。どうかそんな娘を元気づけてほしいという、幸兵衛からの依頼であった。
「私の所為だと、仰っておりました」
「主人の……」
「はい……でもそれ以上は、何も……」
塞いでいる原因は、実の父。
踏み込んだ質問も憚られたので、詳しい原因を知ることはできなかった。
「お梅さん、最初は興味を持ってくれませんでしたが、いつしか物語に耳を傾けてくれるようになったんです。言葉は交わしませんでしたけど、少しだけ、気持ちが通じたような気がしました」
蒲団の中に潜ったままであった梅は、少しずつ琴乃の語りに耳を傾け、頭だけは布団から出していた。よかった、退屈だったという感想の類は何も言わず、無言のままであるも、琴乃は手応えを感じていた。
「さすが琴乃さぁじゃ。すぐ元気になっど」
「でも、原因を解決しないことには、お梅さんはずっとあのままになってしまいます。癒すことはできても、一時ですから……」
ここは長期戦で、梅を元気づけるしかないと、琴乃は意気込んでいた。ただし、もう語り部は必要ないと梅に断られてしまえば、それまでである。
琴乃の家がある小路にさしかかった。あと二度ほど曲がれば家にたどり着くという小路の角にいる男を、藤次は捉えた。
「江藤様」
驚いたのは、自分が気付いた瞬間からほどなくして、琴乃も彼に気づいたことである。琴乃は、気配だけで江藤とわかったのだ。
ちらと見た琴乃は、うれしそうに微笑んでいた。
(待ち伏せしちょったな……)
江藤に敵意を抱いている。このとき藤次は自分の感情を確信した。
だってこの人は、いとも簡単に、琴乃を攫ってしまうのだから。
「帰るぞ」
別にお前の家ではないと、またもやもやとした気持ちが心底に蟠る。
「深山さん、ありがとうございました」
「……また迎えにきもす」
琴乃の手が、腕を離れてゆく。そして、江藤の腕に納まった。
藤次は踵を返して、足早に去る。
たとえ、琴乃にその気がなくとも、江藤はどうだろうか……
浮かんだ思いに自分で驚き、藤次は奥歯を噛んだ。
それは嫉妬だった。なんと浅ましい感情か。
もし琴乃に知られたら、軽蔑されるに違いない――
一方、琴乃は、藤次の心中など知らず、江藤の方向音痴さに感嘆さえしていた。
江藤が小路にいたのは、琴乃を待ち伏せしていたのではなく、道に迷っていたからである。彼が歩きで琴乃の家を訪ねるときは、いつもと言ってよいほど迷っているのだ。
切れ者で通っている江藤の、意外な一面である。
「江藤様、ここは左です」
「うむ……」
盲目の琴乃に案内され、江藤の口数は少なかった。
数日後――
伊織は重い溜息を一つ吐いた。ちょうど藤次が来て見られてしまい、苦笑してみせる。
「ない(何)かあった?」
「いや……こってりしぼられただけさ。お前はいつから佐賀贔屓になったんじゃ。まさか江藤に情報を流しちょるんじゃないか、ってね」
「まだ密偵をしちょったんか」
伊織はある方の命令で、江藤の監視をしている。それが誰の命令であるのか、藤次は知らないし、問いただすこともしない。だからだろうか、伊織は詳細は教えずとも、自分の立場については隠してはいなかった。
「ないごてあんし(どうしてあの人)は、おいたちに風花屋の一件を頼んだんじゃろうか……」
まさか監視をするはずの江藤から調査を命令されるとは、伊織にも動揺を隠せない出来事であった。
以前、料亭で不自然に居合わせたときから、江藤はそれとなく伊織について勘づいている。だからこそ選ばれたのではないかと、ある方の代理も、伊織自身も考えているところであった。
「君はともかく、僕は疑われちょるからじゃろうな」
「もう密偵なんて、やめたらどうだ。別にあんしんこつ(あの人のこと)を監視しちょるんは上ん人間の意思で、伊織の意思じゃなかじゃろ。それとも、断れん事情でもあっとな」
友が思い悩んでいるのならばと言ってみたが、どうやら杞憂であったようだ。
「江藤を追い詰めて、琴乃さんが傷つくのは嫌だろうからね」
伊織は皮肉めいた笑みを浮かべる。思わず、藤次は少しぞっとした。
「……わかっちょるよ。君が気を利かせてくれちょるのは。確かに、江藤の監視は好きでやっちょるわけじゃない。でも、僕はどうしても気になることがあるんじゃ」
しばしの沈黙。夜気の冷たさが二人の間を通り抜ける。
伊織は空を仰ぎ、ひと息置いてから言った。
「ところで、君は英雄を見たことがあるか?」
「英雄?」
「そうだ。僕は見たことがある。あの人は兄さんにとっても英雄だった」
一度だけ、伊織が自身の兄についてを語ってくれたときのことを、藤次は思い出す。
――兄さんは、殺されたんだ……
そのとき、藤次は見てしまった。伊織の瞳には、憎しみの色が隠しきれてはいなかった。
「おいも、見たことがあっと」
空気を和ませるように、藤次は切り出した。
「おいはあん方についてきて、邏卒になったんじゃ」
「西郷さんか」
はじめ邏卒は三千人が採用され、その内の一千人は維新三傑の一人にして、薩摩藩出身の西郷隆盛が採用した。藤次はかの背中を見て、邏卒の募集に応じたのである。
伊織がいつものように笑ったのを見て、藤次は安堵した。
「すまん、風花屋の件だが……」
邏卒の顔に戻った二人は、江藤に報告するために歩を進めた。