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星を語り継ぐ者  作者: 夏野
二章 誰がための声
9/11

 琴乃は望月屋の暖簾のれんを潜った。

 途端に、甘く濃い香りが鼻腔びこうを満たす。今朝、祖父の仏壇にあげた線香よりもはるかに複雑で、幾重にも混じり合った匂い。その中に、伽羅きゃらに似たすっきりと澄んだ香りがふとただよった。

 お香を専門に取り扱う店とは、心躍るものである。

「お待ちしておりました、主人の幸兵衛でございます」

 今回、伊織を通して琴乃に語り部の依頼をしたのは、望月屋の主人・幸兵衛である。

「娘は奥におりますゆえ、どうぞ……」

 幸兵衛の顔は、ひどく疲労していた。その顔が見えない琴乃は、幸兵衛の声で彼に覇気はきがないのを感じ取る。

 店の奥へと案内され、ある一室にたどり着いた。

「お梅、入るよ」

 幸兵衛がそっと襖を開け、中に入る。

「語り部の方がいらっしゃいましたよ。ご挨拶なさい」

「…………」

 琴乃が部屋へ案内されると、すぐに蒲団ふとんへもぐり込んでしまった。顔を隠すように背を向け、声も発さない。

 蒲団の向こうから聞こえるのは、かすかな息遣いだけ。だがその静けさには、ただならぬ重さがあった。琴乃は胸の奥に影のような不安を覚えた。

「これ、お梅」

 梅は幸兵衛の一人娘で、琴乃より一つ年下の十六歳である。

 幸兵衛の依頼は、この娘を元気づけてほしいとのことであった。

「申し訳ございません」

「いえ、このままで」

 どうぞよろしくお願いしますと頭を下げて、幸兵衛はその場を後にした。

「お梅さん、今日はどんな物語を聞きたいですか?」

 梅は言葉を発するどころか、琴乃には背を向け、頭まで蒲団をさらに被ってしまう。

「お嬢さま……」

 隣に控えているおすみが、心配そうな声をあげる。琴乃は小さく笑って、大丈夫だという意思を示した。

「では、『南総里見八犬伝』にしましょう。他の物語がよろしければ、いつでも言ってください」

 琴乃はいつものように、語り始めた。


「琴乃さぁ!」

 弾むような声に、琴乃もにこりとする。

 語り部の仕事が終わって間もなく、藤次が迎えに来てくれたようだ。

「すんもはん。待たせもした」

「つい先ほど、終わったところです」

 藤次は安心したように琴乃の手を取って、腕に絡ませる。彼女を導くとき、当初のぎこちなさはもうなくなっていた。

「おすみさぁは?」

「私たちに気を利かせると言って、先に人力車で戻りました」

「なっ……おいは仕事で……」

「ふふっ、わかっております」

 つい仕事ということを忘れそうになると、あやうく藤次は口走りそうになる。

 琴乃を仕事先まで送り、帰りも迎えに来る。これは彼の言う通り、まったくの仕事であった。江藤新平の命令でもある。

(江藤どんは、ないごておいに(どうして俺に)……)


 かつての許婚である権蔵が訪ねてきて無体を働いたと、江藤が琴乃に聞いた日のことである。

 この日も江藤はいつもの気安さで、琴乃の元を訪れていた。

「実は風花屋の主人の様子が変だとは、桐壺屋の主人から聞いていた。あえて琴乃に教えるまでもないと思っていたが……」

 桐壺屋は江藤の懇意にしている古着屋であり、琴乃の最初の客人でもある。主人は琴乃の事情も知っているので、気にかけて江藤に知らせていた。

 まさかどの面下げて、会いに来るとは思ってもいなかったことである。

「お店の調子がよくないのでしょうか……」

「あまり上手くはいっていないようだが、それだけではないような気がする……もともと、気の弱い奴なのかもしれん……」

 ここでまあ大丈夫だろうと、琴乃に対して楽観視できる江藤ではなかった。

「風花屋について調べてみよう。また琴乃が嫌な思いをするようなことがあってはいけない」

「いつも気にかけてくださって、ありがとうございます」

「当たり前のことだ。ところで、琴乃に付きまとっているあの薩摩人に、変なことはされていないか」

「いえ、ちっとも」

「そうか。ならばよいが……」

 いつしか琴乃が邏卒に襲われそうになった時のように、江藤の動きは早かった。邏卒を束ねる川路利良を了承させ、藤次と伊織に風花屋を調べさせるように命令した。特に藤次には、琴乃の護衛もするようにと睨まれたのであった。


 藤次としては、この任に就かされたことが不思議だった。琴乃と親交を持っていることは承知であるだろうし、だからこそ、むしろ遠ざけられるものと思っていたのだ。最後のあの睨みこそ、敵意の表れのような気もする。

「望月屋のお嬢さぁはどうでした?」

「かなり沈んだご様子でした……理由を尋ねてみたんです」

 梅は病ではなく、気持ちが塞いでいる。元々はおきゃんで、活発な娘であった。どうかそんな娘を元気づけてほしいという、幸兵衛からの依頼であった。

「私の所為だと、仰っておりました」

「主人の……」

「はい……でもそれ以上は、何も……」

 塞いでいる原因は、実の父。

 踏み込んだ質問もはばかられたので、詳しい原因を知ることはできなかった。

「お梅さん、最初は興味を持ってくれませんでしたが、いつしか物語に耳を傾けてくれるようになったんです。言葉は交わしませんでしたけど、少しだけ、気持ちが通じたような気がしました」

 蒲団の中に潜ったままであった梅は、少しずつ琴乃の語りに耳を傾け、頭だけは布団から出していた。よかった、退屈だったという感想の類は何も言わず、無言のままであるも、琴乃は手応えを感じていた。

「さすが琴乃さぁじゃ。すぐ元気になっど」

「でも、原因を解決しないことには、お梅さんはずっとあのままになってしまいます。癒すことはできても、一時ですから……」

 ここは長期戦で、梅を元気づけるしかないと、琴乃は意気込んでいた。ただし、もう語り部は必要ないと梅に断られてしまえば、それまでである。

 琴乃の家がある小路こみちにさしかかった。あと二度ほど曲がれば家にたどり着くという小路の角にいる男を、藤次は捉えた。

「江藤様」

 驚いたのは、自分が気付いた瞬間からほどなくして、琴乃も彼に気づいたことである。琴乃は、気配だけで江藤とわかったのだ。

 ちらと見た琴乃は、うれしそうに微笑んでいた。

(待ち伏せしちょったな……)

 江藤に敵意を抱いている。このとき藤次は自分の感情を確信した。

 だってこの人は、いとも簡単に、琴乃をさらってしまうのだから。

「帰るぞ」

 別にお前の家ではないと、またもやもやとした気持ちが心底に蟠る。

「深山さん、ありがとうございました」

「……また迎えにきもす」

 琴乃の手が、腕を離れてゆく。そして、江藤の腕に納まった。

 藤次はきびすを返して、足早に去る。

 たとえ、琴乃にその気がなくとも、江藤はどうだろうか……

 浮かんだ思いに自分で驚き、藤次は奥歯をんだ。

 それは嫉妬だった。なんと浅ましい感情か。

 もし琴乃に知られたら、軽蔑けいべつされるに違いない――

 一方、琴乃は、藤次の心中など知らず、江藤の方向音痴さに感嘆さえしていた。

 江藤が小路にいたのは、琴乃を待ち伏せしていたのではなく、道に迷っていたからである。彼が歩きで琴乃の家を訪ねるときは、いつもと言ってよいほど迷っているのだ。

 切れ者で通っている江藤の、意外な一面である。

「江藤様、ここは左です」

「うむ……」

 盲目の琴乃に案内され、江藤の口数は少なかった。


 数日後――

 伊織は重い溜息を一つ吐いた。ちょうど藤次が来て見られてしまい、苦笑してみせる。

「ない(何)かあった?」

「いや……こってりしぼられただけさ。お前はいつから佐賀贔屓(びいき)になったんじゃ。まさか江藤に情報を流しちょるんじゃないか、ってね」

「まだ密偵をしちょったんか」

 伊織はある方の命令で、江藤の監視をしている。それが誰の命令であるのか、藤次は知らないし、問いただすこともしない。だからだろうか、伊織は詳細は教えずとも、自分の立場については隠してはいなかった。

「ないごてあんし(どうしてあの人)は、おいたちに風花屋の一件を頼んだんじゃろうか……」

 まさか監視をするはずの江藤から調査を命令されるとは、伊織にも動揺を隠せない出来事であった。

 以前、料亭で不自然に居合わせたときから、江藤はそれとなく伊織について勘づいている。だからこそ選ばれたのではないかと、ある方の代理も、伊織自身も考えているところであった。

「君はともかく、僕は疑われちょるからじゃろうな」

「もう密偵なんて、やめたらどうだ。別にあんしんこつ(あの人のこと)を監視しちょるんは上ん人間の意思で、伊織の意思じゃなかじゃろ。それとも、断れん事情でもあっとな」

 友が思い悩んでいるのならばと言ってみたが、どうやら杞憂であったようだ。

「江藤を追い詰めて、琴乃さんが傷つくのは嫌だろうからね」

 伊織は皮肉めいた笑みを浮かべる。思わず、藤次は少しぞっとした。

「……わかっちょるよ。君が気を利かせてくれちょるのは。確かに、江藤の監視は好きでやっちょるわけじゃない。でも、僕はどうしても気になることがあるんじゃ」

 しばしの沈黙。夜気の冷たさが二人の間を通り抜ける。

 伊織は空を仰ぎ、ひと息置いてから言った。

「ところで、君は英雄を見たことがあるか?」

「英雄?」

「そうだ。僕は見たことがある。あの人は兄さんにとっても英雄だった」

 一度だけ、伊織が自身の兄についてを語ってくれたときのことを、藤次は思い出す。

――兄さんは、殺されたんだ……

 そのとき、藤次は見てしまった。伊織の瞳には、憎しみの色が隠しきれてはいなかった。

「おいも、見たことがあっと」

 空気を和ませるように、藤次は切り出した。

「おいはあん方についてきて、邏卒になったんじゃ」

「西郷さんか」

 はじめ邏卒らそつは三千人が採用され、その内の一千人は維新三傑(さんけつ)の一人にして、薩摩藩出身の西郷隆盛が採用した。藤次はかの背中を見て、邏卒の募集に応じたのである。

 伊織がいつものように笑ったのを見て、藤次は安堵あんどした。

「すまん、風花屋の件だが……」

 邏卒の顔に戻った二人は、江藤に報告するために歩を進めた。

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