四
今度こそ、琴乃に依頼の話をしなくてはと、藤次は胸の内で気合を入れ、足を速めた。非番のたびに押しかけるのは気が引けていた。だが今回は伊織が持ちかけてくれた正式な用件がある。渡りに船というやつであった。
すっかり琴乃の家までの道のりは、迷いを一切感じることもなく、辿り着ける。季節が変わるごとに、様々に色を変えることも、いずれ慣れてしまうのだろうか。
いつか、琴乃も触れてほしいと思ってくれたときに、引き返せない距離にしたい。
そんなことを考えながら歩いていたとき、門前に立つおすみの姿が目に入った。そわそわと落ち着かない様子である。
「おすみさぁ、どげんしたとですか」
「深山さん……」
一瞬、安堵の表情を見せたおすみだったが、すぐに口籠もる。藤次が琴乃の行方を尋ねると、ようやく答えが返ってきた。
「お嬢さまは江藤様と一緒に出かけております。そろそろお帰りになられるとは思いますが……」
また江藤か——藤次の胸に、黒い感情が湧き上がる。
琴乃にとって彼は恩人。だが、距離が近すぎる。
「琴乃さぁに、ないか急ぎの用があっとか」
「それが……」
おすみが言いかけたところで、人力車が門に滑り込んだ。車夫のほかに、若い書生らしき青年が付き添っている。
「お嬢さま、おかえりなさいませ。藤次さんがお見えですよ」
瞬間、琴乃の顔がぱっと明るくなる。藤次は胸のもやが少し和らぐのを感じた。
「では、私はこれで」
青年は琴乃を見届けた後に、車夫と共に去って行った。
「今ん人は……」
「江藤様が面倒を見ている書生さんです。帰りは同行できないからと、書生さんに送り届けてもらったんです」
わざわざ人をつけて送らせるとは、それほどまでに琴乃のことを心配している証左だ。
「また料亭に行っちょったとですか」
「いいえ。今日は江藤様のお屋敷に」
「屋敷にまで呼ぶと!けしからんち、油断も隙もなか!琴乃さぁを傷つけたやおいが叩ききってやっ!」
早口の激しい剣幕に、琴乃もおすみも固まる。藤次自身も我を忘れていた。
「深山さん、静かに。ヤキモチを焼いている場合ではありません」
おすみの一言に、藤次の頭が冷える。
「……権蔵さんが来ているんです」
藤次の眉がぴくりと動いた。琴乃の元許婚であり、琴乃を見捨てた男である。
「本当なの、おすみ……」
おすみはただ事ならぬ顔で、こくりと頷いた。
その名を聞いた瞬間、琴乃の胸に冷たいものが走った。
かつて許婚と定められた人。思い出したくもない過去が、濁った川の底から突如浮かび上がってくる。
そして彼の影は、やがて思いもよらぬ悲劇を呼ぶことになる。
「お嬢さまがお出かけになられた後で、お一人でいらっしゃったんです。お嬢さまにお会いしたいと申されましてね……しばらく帰ってこないと言いましたら、勝手に家に上がり込んでしまって……なんだか、様子がおかしいんです」
いきなり尋ねてきて、琴乃はいるのかと問いかけ、いないとわかれば、おすみの制止を振り切って、勝手に居座っているようだ。こんな道理をわきまえぬ人ではなかったと、彼の異常さを感じ取り、おすみは藤次を待っていたのである。
「今までに、権蔵が尋ねてきたことは?」
藤次は職務中のような態度に切り替えて、おすみに聞いた。琴乃を守らなければならないという、意思の表れである。
「ございません。だから私も驚きまして……」
「……琴乃さぁは隠れちょってくれ。おいが様子を見てきます」
「……私、会ってみます」
琴乃の声は震えていたが、決意を含んでいた。
「おすみさぁが、様子がおかしか言うちょったじゃないか。会うのは危険じゃ」
今度はつまらない嫉妬ではなかった。
何故、今になって権蔵が現れたのか。理由がわからない状況では、琴乃を会わせるのは危険だと判断する。
「私はあの人ときれいにお別れしたつもりでも、向こうはそう思ってはいないのかもしれません。もしそうなら、私が会わないといけないんです」
気遣いもできず、風花屋を出て行く琴乃を引き止めもしなかった男に、琴乃は情けを与えている。
優しすぎる。藤次はそう思いながらも、その強さに惹かれている自分に気づく。
「おいが近くにいる。権蔵が不審な動きをすれば、必ず助ける」
「はい」
「権蔵さん」
琴乃は近くで、気配を感じていた。彼がどんな表情をしているのか、すべては目に見えないものから感じ取るしかない。
おすみに導かれて座した琴乃は、彼女を促して退出させた。
しんと静まりかえる室内には、琴乃と権蔵がいる。すぐ隣の部屋には、おすみと、いつでも動けるように身構えている藤次の姿があった。
「お久しぶりです。ずっと、お元気にされていましたか?」
「ああ……」
権蔵は呻くように呟いた。
「風花屋の皆さんも、お変わりなく……」
「ああ」
「……奥様も?」
ふんと、権蔵は鼻を鳴らした。
「貴女が妻のことを聞くのか」
「…………」
「恨んでいるのではないか?本来ならば、貴女が風花屋の奥様になれたんだ。でも、風花屋を捨てたのは貴女だ。先代も大層お嘆きだろう」
口を開くのさえ重苦しそうだったのに、権蔵は不満をぶつけるように、すらすらと話す。しかし、琴乃は動じなかった。
「私は、誰も恨んでいません。権蔵さんがどう思おうと、私は今の生活に後悔したことなどありませんし、むしろ自分らしく生きています。お祖父さまも、私の味方です」
江藤に会って、琴乃の人生は変わった。
あのまま風花屋に残り、権蔵との生活が良かったのか、あるいは悪かったのか、それを知る術はないが、今の生活は、琴乃に様々な彩りを与えている。琴乃は傍に控えてくれている藤次の姿を思い出すことで、胸を張れた。
「それは強がりだ」
権蔵は納得しない様子だ。
「……今日は何の御用で、お見えになったんですか?」
「昔の許婚が会いに来て、もう少し、喜んでくれると思ったけど、私のことなど忘れてしまったようだね」
「忘れるなんて……」
「まあ、いい。……琴乃、もう一度やり直そう」
「え……」
琴乃は信じられない思いで、頭が真っ白になる。
「奥様とは、お別れしたのですか」
「……あの人のことは放っておいていい」
「何故そんなことを仰るの……」
「貴女だって、つまらない一生を終えるより、楽しみたいとは思わないのか?」
琴乃は何か、言葉を紡ごうとして、自身の唇が震えていることに気づいた。
「可哀想に……貴女も目が見えてさえいれば、他の人と変わらぬ幸せを手に入れられたはずだ」
盲目であれば、誰かに愛されることはないと、権蔵は言い放った。それがどんなに、琴乃を傷つける言葉とも知らずに。
「だから……」
権蔵が琴乃に手を伸ばした瞬間、襖が荒々しく開く。藤次が飛び込み、権蔵の腕をねじ伏せた。
「これ以上、琴乃さぁを侮辱したや、こん腕へし折ってやっ」
低く、怒りを押し殺した声。恐怖に顔を歪めた権蔵は、抵抗する間もなく家から放り出される。
「二度とここには来るな」
追い払われた権蔵は、足元もおぼつかなく逃げ去った。
琴乃は座り込んだまま、おすみに慰められていた。藤次が駆け寄ると、彼女は小さく震えながら、必死に言葉を探している。
「琴乃さぁ……」
藤次の声に、琴乃が小さく弾かれたように反応する。しかし、後ろを振り返ろうとはしなかった。
泣いているのか、と思った。
大丈夫。きっと琴乃はそう言いたいのだろう。だが声にすれば決壊する。
藤次は迷わなかった。琴乃をそっと抱き寄せる。
「あいつは追い払うてやった。もう心配なか。あんな言葉、忘れてしまえ」
制服を掴む琴乃の手が震えている。嗚咽が胸に伝わってくる。
権蔵の影に狂気を感じつつも、藤次の中にあるのはただ一つ、護りたいという思いだけだった。
ここまで琴乃を追い詰めた、権蔵の意図は何だったのだろうか。確かにおすみが言っていたように、権蔵の様子はおかしかった。病んでいるとでもいうのだろうか。琴乃には見えなかっただろうが、権蔵はげっそりとしていて、話しているときも焦っていて、正気ではなかった。
だが、権蔵にどんな理由があろうと、琴乃を苦しめていいわけなどないのだ。
しばらくして、段々と落ち着きを取り戻した琴乃は、ぽつりと呟く。
「初めてお会いした日、深山さんが帰った途端に泣いてしまったんです……でも今日は、もっと涙が止まらなくて……」
安堵と恐怖が《な》綯い交ぜになり、琴乃は弱さを曝け出していた。
「ごめんなさい、みっともない姿をお見せして……」
「ないを言う。……おいんこつ(俺のこと)を、信用してくれちょっど。それが嬉しか」
思わず琴乃を強く抱きしめてしまい、いつまでもそうしていたことにやっと気づく。
「すんもはん……!馴れ馴れしかこつをして」
慌てて離れる藤次に、琴乃は小さく、いえと答えた。
今まで触れることを躊躇い、まだ先のことだと思っていた先刻のことを藤次は思い出す。いともあっさり、琴乃に触れてしまった。琴乃も嫌がってはいなかった……
おすみは微笑ましく、二人を見守っている。
そして藤次は本来の目的――依頼の話を切り出すことができた。
だが胸の奥では、権蔵の目に宿っていた狂気の残像が、消えずに焼きついていた。
数日後、司法省にて――
藤次と伊織は、内々に川路利良を通して、司法卿・江藤新平に呼び出されていた。
室内に通された二人は、緊張した面持ちで江藤と向き合う。
江藤は前置きもなしに言い放った。
「お前たちには、風花屋を探ってほしい」