三
「自然に足が止まり、思わず聞き入ってしまった。鈴を転がすような声、それだけではない。人を惹きつける素質がある」
冷静に分析を始めた男の声に、琴乃は戸惑った。
どうやら男は自分のことを褒めてくれているようだが、一体、この男は何者なのか。何故、こんなところにいるのか。見えないことが、より琴乃を困惑させる。
「杖……もしかして、目が……?」
「はい……」
男が自分の目のことを察してくれた。それだけで、琴乃はほんの少し、心が軽くなった。
しかし同時に、哀しくもなる。自分が盲人だとわかると、決まって哀れまれるのが常である。それが普通なのだろう。だが、自分の声に耳を傾けてくれていた人に、哀れむような言葉を言われれば、いつものように、可哀想で終わってしまう。琴乃には残念に思われてならなかった。
「他の物語も覚えたのか?」
まさか質問されるとは思わなかったので、琴乃は一拍遅れてはいと返事をする。
祖父が読み聞かせてくれた物語は、大抵覚えていた。
「物語を暗記するだけではなく、自分の語りとして話せるようになるまでには、相当な努力をしたのだろう。素晴らしい」
他人から褒められたのは、初めてであった。
どれだけ人に迷惑をかけないで済むかを考えて生きてきた琴乃にとっては、斬新な言葉である。
「え、あの……お祖父さまが読んでくれたお話を覚えただけなんです」
「だとしても、すごいことだ。君には語りの才能がある」
江藤新平という、政府の要人たる人物に、ここまで褒められたと知って身震いしたのは、後の話である。
このときも琴乃は、照れくさい気持ちと、謙遜する気持ちで、しばらくは何も言えなかった。
「ありがとうございます。……ところで、何故ここに……」
琴乃のように、わざわざ祠を拝みに来ることが目的でなければ、誰しもが通りもしない場所である。祖父のように、ここの祠を信仰していたのだろうか……
「桐壺屋に行く途中だったのだが……」
琴乃はその店の名前に聞き覚えがなかった。なので、
「おすみに聞いてみましょう」
と、彼女の元まで行けば、おすみは驚いたように答えた。
「桐壺屋はもう通り過ぎてますよ。また引き返すしかありませんね」
「……そうか」
江藤はすましたように呟く。
何と彼は、もと来た道をまた戻る羽目になってしまった……つまり、道に迷っていたのである。しかもおすみは内心、よくこんなわかりやすい道を間違えるものだと、江藤の方向音痴さが可笑しかった。
それからしばらく、江藤に会うことはなかった。
何度か祠に足を向けても、彼はいなかった。
江藤は政府の要人である。たまたま道にでも迷わなければ、二度と会うことのない人かもしれない。しかし琴乃は、寂しくもあった。
彼になら、秘めた想いを打ち明けられる気がする。琴乃はある決断をしようとしては、誰にも言えずにいた。その決断にはおすみの進退も関わっているので、彼女にもそう易々とは打ち明けられなかったのである。
「お嬢さま、桐壺屋のご主人がお嬢さまにお会いしたいと、先ほど使いの方が……」
「桐壺屋はこの前、江藤様が探していたあの……」
琴乃は桐壺屋の主人に会ったことなどなく、ましてや桐壺屋がこの辺では一番大きな古着屋だと知ったのも、江藤の一件があってからである。
「そうでございます。使いの方は来てくれればわかると、要件は教えてくれませんでしたが……もしや、江藤様がいらっしゃるのでは?」
そうだ。江藤以外に、琴乃と桐壺屋を結びつけるものは何もない。
琴乃は急いで支度をして、おすみと共に桐壺屋に向かった。
琴乃たちが予想していたとおり、桐壺屋には江藤の姿があった。
「急に呼び出してすまない。そなたに、頼みたいことがある」
江藤との再会を喜ぶのも束の間、彼は桐壺屋の主人を促した。
「江藤様より貴方様のお話を伺いまして、お願いしたいことがございます。実は私、不眠症に悩んでおりまして……」
医者でもない自分に、どうして……と琴乃は戸惑う。江藤は一体、どんな言葉で主人を説得したのだろうか。
「布団に入りますと、あれやこれやと考えてしまい、心が落ち着かず眠れないのでございます。どうか貴方様の語りで、心を落ち着かせてはくれないでしょうか」
「私の、語りで……」
やっと、江藤の意図がわかった。
初めて会ったあのとき、褒めてくれた言葉は嘘ではなかったのだ。
琴乃の秘めた決断にも繋がる主人の申し出を、琴乃は承諾した。
「お蔭様でぐっすり眠れました。よもやこれほど素晴らしい語りが聞けるとは、想像もしておりませんでした。また、お聞かせいただけないでしょうか」
「はい、是非に」
桐壺屋の主人は、大層喜んでくれた。
誰かのために、語るのは初めてであった。もちろん主人に聞かせる前には練習を重ね、努力もしたが、それ以上に、琴乃には語りの素質があった。そしてその素質を真っ先に見抜いてくれたのが、江藤である。
「これで自信がついたか」
「一度お会いしただけなのに、江藤様にはわかってしまうのですね」
江藤の行動は、琴乃の決断を知っているかのようなものであった。
「いや、実を言うと、そなたのことを調べさせてもらった」
「私のことを……?」
「あのような語りを聞かせられたのでは、そなたの正体が気になって仕方なかった。それで……」
「私の事情を知って、私がどうしたいかを察してくださったのですね」
自分のことを調べられたことよりも、事情を知って気持ちを汲んでくれたことの方に、琴乃は驚いた。
琴乃は、風花屋を出て独り立ちしたかったのだ。
かつて祖父がしてくれたように、誰かのために語りをして生計を立て、生きていたかった。江藤はそんな琴乃に自信をつけさせるために、桐壺屋の依頼を取り付けてくれたのである。
ただし不自由な分を、おすみに手伝ってほしかった。
風花屋を一緒に出てくれるかと、長年店に仕えているおすみには言いづらく、また、権蔵との関係を精算するのも気が重かった。それに一番気がかりなのは……
「お祖父さまは、私と権蔵さんが一緒に手を取り合って、風花屋をもり立てていくことを望んでおりました。もし私が風花屋を出て行けば、お祖父さまは喜びません」
祖父の店を、思い出の場所を出て行く。忠右衛門はどう思うのかと考えれば、踏ん切りのつかない理由の一つとなっていた。
「では我慢をして、自分のことを思いやってもくれない相手と一緒になるのか。許嫁がいながら、他の女とそなたを天秤にかけるような男だぞ」
「…………」
「果たしてどちらが、祖父は哀しむだろうな」
盲目になったばかりの頃、琴乃は泣いてばかりいた。
あとでおすみに聞いたことだが、琴乃が笑ってくれますようにと、忠右衛門は祠に祈ってくれていたという。それだけではない。いつも物語を読んでくれたのは、琴乃への思いやりからである。
「そうですよ、お嬢さま。旦那様は最後の最後まで、お嬢さまのことを案じていたんです」
「おすみ……」
「嫌と言うとでも思ったのですか。お嬢さまの世話は、私にしかできません」
「……一緒に、来てくれるの?」
「私が仕えているのは風花屋ではなく、お嬢さまです」
その言葉に、琴乃の目から、堪えていた涙が静かに零れた。
おすみの愛情を疑ったことなど一度もない。間近にあった温もりが、あまりにも偉大だった。
「そうと決まれば、まずは住むところだ」
「旦那様の別荘がございます。今は誰も使っておりませんから、そこを譲り受けましょう。旦那様がお嬢さまのために残したお金もございます。しばらくは不自由しないかと。あとはお嬢さまの腕次第ですね」
「それなら安心だ」
おすみも江藤も、自分が語りを全うできると信じてくれている。祖父は、どう思っているのだろうか。
『私は琴乃の味方だ』
父と母は心中した。その意味がわかるようになってからも寂しくなかったのは、祖父がずっと傍にいてくれたからだ。
今も、寂しくない。
「江藤様、ありがとうございます」
「大したことはしていない。全てはそなたの力だ。……私も、たまにはそなたの語りが聞きたい」
明治政府の要人でありながら、彼はいつでも対等に話してくれる。
その後、権蔵との話し合いも揉めることはなく、むしろ権蔵には安堵されたような形で、琴乃は家を出た。
*
「だから江藤様は私の恩人なのです。これが私の全て……」
身の上を語り終えた琴乃は、懐かしい眼差しをする。
いつの日か、江藤の愛人ではないかと問いかけた自分に、藤次は後悔する。琴乃はきっと傷ついたはずだ。
「ないごておいに話してくれた?」
「深山さんに、私のことを知ってほしかったんです。烏滸がましい考えでしょうか……」
「そげなことはなか。おいは、琴乃さぁのことが知りたかち、思うちょった。もっと知りたか。おいのことも、知りたもんせ。おいは……」
柔らかい秋の風が、二人の間を通り抜けた。藤次は照れ隠しのように、説明する。
「ここいはまだ、紅葉が残っちょいもした」
藤次は寺に着くまで、あらゆる景色を琴乃に伝えようとした。眼の見えない琴乃へ、景色の色を伝えたかったのである。道中、どこにもなかった紅葉が、忘れ去られたように、けれど力強く、色鮮やかに存在していた。
「まるで今の深山さんの顔みたい」
「見えちょっとですか!」
「ふふっ、まさか……私もそうだから、深山さんも同じだろうって……」
そう言えば、琴乃より頬を赤く染めていることまでは、知らなかった。
琴乃を家まで送り届けた藤次は、屯所に戻っていた。
「やけに締まりのない顔をしちょる」
さっそく伊織に揶揄われても、機嫌がいいので余裕であった。
「で、どうだった?」
「案ずるな。上手くいっている」
「……何の話をしているのだ」
「ん?」
「まさか、忘れたのか?」
「…………あっ」
思い出したときには、やれやれと伊織が大げさに肩をすくめた。
「用もないのにたびたび会いに行くのも決まりが悪いと、口実を探しよった君に、依頼の話をしてあげたつもりなんだが……チェストー!なんて気合い入れといて……まさか、忘れるとはね」
「…………」
つい先日、琴乃に会いに行く口実を探していた藤次は、伊織から腕相撲をして勝てたら口実を教えると、そんな遊びを持ちかけられた。で、腕相撲に勝った藤次は、約束通りに口実――琴乃への依頼の話を聞き、それを伝えに会いに行ったつもりが、すっかり忘れていたのである。
「君は面白いね」
余裕のなくなった藤次は、むすっとした顔をした。