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星を語り継ぐ者  作者: 夏野
二章 誰がための声
6/10

 琴乃は滔々(とうとう)と過去を語り始めた。

 藤次は静かに耳をかたむけた。これが、彼にとって初めて聞く琴乃の語りだった。


 *


 まだ世界の色も、大好きな祖父の顔もその瞳で見えていた頃のことである。

「お祖父さま、しんじゅうって何?」

 五つになった琴乃は、無垢むくな目で祖父の忠右衛門に尋ねた。

 女中のおすみと一緒に近所の神社へ行ったときのことだ。琴乃と同じくらいの子どもたちが先に遊んでいて、一緒に遊ぼうと誘われた。普段はそんな機会もなく、琴乃は嬉しくなって輪に加わった。おすみは見える距離で見守っていたが、子どもたちの会話は届かなかった。

「琴乃ちゃん、風花かざはな屋の子なんだって」

「うん」

「おっかさんが言ってたよ。風花屋のお縁さんって人がしんじゅうしたって。琴乃ちゃん、しんじゅうって何?」

 琴乃は首を振った。母の名前はお縁。母がしんじゅうしたという意味は、琴乃にもわからなかった。

 母に聞いても教えてもらえなかったので、風花屋の人間なら知っているのではと琴乃に尋ねたその子は、つまらなさそうな顔をした。それからはしんじゅうのことなど忘れて、子どもたちは遊びに夢中になった。

 おすみと手を繋いで店に帰る道中、琴乃はすっかり忘れていたが、帰宅すると祖父に尋ねたわけである。

 あまりにもむごい問いに、忠右衛門は言葉を詰まらせた。無垢な孫の無自覚な質問が、彼の胸を痛めたのだった。

「……誰から聞いたんだ?」

 忠右衛門は孫に、努めて優しい声で尋ねた。

「神社で一緒に遊んだ子の、そのお母さまが、私のお母さまは心中したって言っていたんだって」

 かたわらのおすみも同じようにしずんだ表情をしている。すぐに忠右衛門に深く頭を下げ、申し訳なさを表した。その真実を知るには、琴乃はまだあまりに幼かった。

 琴乃は沈んだ顔で、その場の空気を感じ取っていた。なぜか自分の言葉が、祖父を悲しませてしまったのだと気づいたからだ。

「琴乃、おいで」

 忠右衛門が両手を差し出すと、琴乃はゆっくりと歩み寄った。祖父はいつものように優しく抱き上げ、仏間へ連れて行く。

 朝も手を合わせた仏壇の前で、忠右衛門は琴乃を抱きかかえたまま、静かに座った。

「お母さまがいなくて寂しいか?」

 忠右衛門は仏壇の位牌――お縁を遠く静かに見つめながら尋ねた。

 琴乃には父の記憶も母の記憶もなかった。物心つく前に二人は亡くなっていたのだから。

「お祖父さまがいるから、寂しくないよ」

 その言葉には嘘はなかった。父母への羨望や哀愁は時折感じていたが、祖父と一緒にいる時、琴乃の心は満たされていたのだ。

 風花屋の一人娘、お縁は突然、自らの意思で店を出て行った。

 書置きには、

「お父様、ごめんなさい」

 それだけが綴られていた。

 妻を早くに亡くし、男手ひとつで育ててきた忠右衛門は、その娘の失踪に深く衝撃を受けた。親子の仲は良く、お縁は父の言うことをよく聞く、穏やかで優しい娘だった。なぜ、そんな娘が姿を消したのか。忠右衛門には皆目見当がつかなかった。

 どこを探しても見つからなかったお縁だったが、やがて誰も想像しなかった場所でその痕跡が見つかった。

 ある長屋の一室から、赤ん坊の激しい泣き声が響いていた。初めは近隣の住人たちも、赤ん坊がなかなか泣き止まないだけだろうと思い、さほど気に留めなかった。だが時間が経っても泣き声は止まず、初めて赤ん坊の世話をするであろう若い夫婦も手を焼いているようだと、住人が様子を見に行った。

 ある住人は、その光景を『まるで地獄のようだった』と語った。

 夫婦は生まれたばかりの赤ん坊を残し、心中していた。

 後に判明したところによれば、夫は飾り職人だったが、大怪我で手が動かせなくなり、二度と仕事ができなくなってしまったらしい。おそらくそれを苦にした心中だったのだと、検分にあたった役人は結論づけている。

 亡くなった妻の名はお縁。彼女が風花屋の家出娘であることは、忠右衛門宛てに残された文によって判明した。

 文には忠右衛門への深い詫びが綴られ、どうしても子どもだけは連れていけなかったと記されていた。

 お縁は、売れない飾り職人の夫と一緒になることを父に反対されることを恐れていた。実際、忠右衛門は娘の婿にふさわしい、風花屋と同格の大店の子息を探していたのだ。

 それでもお縁は誰にも告げず、家を出て、そして心中を選んだのだった。

 忠右衛門にとってあまりにも酷い結末だった。残された赤ん坊のことを思うと、胸が締めつけられた。

 それから忠右衛門は、お縁の遺児を引き取り、風花屋の娘として育てることを決めた。

「そうか……そうか……」

 忠右衛門は琴乃の言葉に、零れるように涙を流した。

 琴乃が自分の生い立ちを知るのは、まだ先の話である。だがその前に、彼女は間もなく高熱を出して倒れてしまったのだ。

 一時は命も危ぶまれ、周囲を心配させたが、十日ほど寝込むと次第に熱は下がっていった。

「おじいさま、どこ……」

 布団に横たわる琴乃の震える手を握りながら、忠右衛門が答えた。

「ここにいるよ。どうした……喉が渇いたか?」

 琴乃は忠右衛門の顔を見ようとせず、近くにいる彼の姿を探すように視線を彷徨わせている。

「琴乃、どうしたんだ?」

 ぽつりと、琴乃が呟いた。

「見えない……」

「え……?」

「真っ暗で、何も見えないの……」

 ついに琴乃は泣き崩れた。異変に気づいた忠右衛門はすぐ医者を呼んだ。

 診断の結果は無情だった。

 高熱の影響で、琴乃の視力は失われてしまったのだ。

「どうすれば治るんです。いくらでも出すから、孫の目を戻してください」

 という悲痛な忠右衛門の声に、医者は首を振るだけだった。

 その後、いくつもの医者に診てもらったが、琴乃の目を治せる者はいなかった。

「亡くなったお縁に申し訳ない……」

 忠右衛門の嘆きは深く、その悲しみは生涯消えることがなかった。

 一人娘は家を出てしまい、心中という悲しい結末を迎えた。さらに孫は盲目になってしまったのだ。

 周囲からは多くの哀れみの声が寄せられた。しかし、どれほど哀れまれても、琴乃の視力は戻らなかった。もしできるなら、自分の眼と引き換えにでも治してやりたいと、忠右衛門は願い続けていた。

 一方、琴乃自身も、突然訪れた闇におびえ、しばらくは涙の日々を過ごしていた。しかしやがて、少しずつその運命を受け入れ、前を向き始めていた。

「おじいさま、今日は竹取物語を読んで」

「ああ、わかったよ」

 忠右衛門は毎日、琴乃に本を読み聞かせた。琴乃がまだ見えていた頃からの習慣だが、盲目になってからは、よりいっそう熱心に様々な物語を語り続けた。

 琴乃にとって、祖父の語りは唯一の心の支えだった。

 また、女中のおすみもよく琴乃の世話をし、二人の存在があったからこそ、琴乃は盲目になったことを嘆くことなく日々を過ごせていた。

 その頃、日本は幕末の激動期にあった。黒船来航を契機に、開国派と攘夷派に二分されていた。やがて幕府の権威は急速に失墜し、尊皇攘夷を掲げた薩摩・長州両藩が勢力を伸ばしていった。

 慶応四年に勃発した戊辰戦争は、五月には上野の寛永寺かんえいじで旧幕府側の彰義隊と新政府軍が激突した。

 江藤新平もこの戦いに新政府軍として参加していたが、琴乃と出会うのはまだ少し後のことである。

「新しい時代が来る」

 病に臥すようになった忠右衛門は、何度もそう呟いていた。

 琴乃が少女から大人へと成長する頃、忠右衛門は病にむしばまれていた。

「上野の戦争も終わったと聞きましたわ。もうすぐでしょう。おじいさまは私の目だから、新しい時代の景色も教えてください」

「できれば、そうしたいものだな」

 忠右衛門は、自分の身体がもう長くないことを悟っていたのかもしれない。だからこそ、琴乃に託したのだ。

「権蔵、琴乃と手を取り合って、風花屋を頼むぞ」

「はい」

 丁稚でっち奉公から番頭にまで出世した若き権蔵は、力強く頷いた。大店の子息ではなかったが、お縁の件を経て忠右衛門は彼を信頼し、琴乃の婿に迎えることを約束させていた。

 残り少ない命を抱えながら、忠右衛門が琴乃のために下した最後の決断であった。

「琴乃、またあの話を聞かせておくれ」

 忠右衛門に読み聞かせてもらった物語や、自分で覚えた話を、今度は琴乃が祖父に語り聞かせていた。

 心が安らぐと、忠右衛門は何度もせがんだ。

 穏やかな時間を共に過ごし、上野戦争終結から三日後、忠右衛門は眠るように静かに息を引き取った。

 世の中は新時代の足音をひしひしと感じていた。

 だが琴乃は、祖父の死を深く悲しみ、しばらく心沈んだままだった。

 いつもそばで支えてくれたただ一人の祖父は、もうこの世にいなかったのだ。

 せめて祖父の言いつけを守り、権蔵と幸せに暮らすこと――

 それが祖父のためになるのだろうと、琴乃は自分に言い聞かせた。

 琴乃は、権蔵のことをまだよく知らなかった。夫婦になる実感も薄く、親しくもなければ、険悪でもなかった。

 だから琴乃は、権蔵のことをもっと知ろうと思った。

 神社に一緒に行きたいと申し出ると、権蔵は快く承諾してくれた。

 店を出るときは駕籠に乗っていたが、参道からは二人で歩みを進めた。おすみは邪魔をしないよう気を遣い、この日は琴乃の傍にはつかなかった。

「こっちだよ」

 権蔵の声に琴乃は少し戸惑った。声のする方へ歩き出すと、特に案内はなく、それで合っていたのだと安堵した。権蔵は忠右衛門やおすみのように丁寧には導いてくれなかった。琴乃の頼りは、唯一、杖だけである。しかし、神社に行こうと言ったのは自分自身だったので、我儘は言うまいと、じっと堪えた。

「江戸は変わったね。嫌だ嫌だ」

 権蔵の呟きに、琴乃は小首を傾げた。

 参道を行き交う人々の声や音には、特に変わった様子は感じられなかった。ならば、景色が変わってしまったのだろうか。

 琴乃は権蔵に尋ねた。

「嫌な風に変わってしまったのですか?」

 権蔵はしばらく間を置いてから答えた。

「今では薩長のよそ者どもが威張り散らしている。天下の将軍様がいた頃の方が、江戸はもっと活気に満ちていてよかったんだ」

 だが、よそ者がどう威張っているのか、琴乃にはわからなかった。昔も今も、どちらが良いのかの区別もつかない自分が、なぜか権蔵とは距離を感じてしまうのだった。

「……っ!」

 考えごとをしていた所為か、つい足元の石に躓いてしまった。

 思わず転んでしまった琴乃に、権蔵は慌てて駆け寄った。

「足が……」

 権蔵は赤く腫れ上がった琴乃の足首を見て、弱々しい声を上げる。

 捻挫してしまった琴乃は、このまま神社に参ることも叶わず、二人は仕方なく店へ引き返すことにした。

「ごめんなさい、私の不注意で……」

「いや、そんなことは……」

 この頃から、権蔵は琴乃を避けるようになった。一緒に神社に行きたいと気軽に言える雰囲気は消え、琴乃は溜息を吐いた。

「お嬢さまが悪いんじゃないですよ。御一新の影響で物価が高騰したり、権蔵さんもお店の主人になったばかりで大変な時期です。でもそれにしたって、もう少しお嬢さまに構ってもいいと思いますけどねぇ」

 おすみの気遣いに、琴乃は少し微笑んだ。

「そうね。権蔵さんも大変なんだわ。お茶でも持っていってあげましょう」

 お茶を用意させ、琴乃は権蔵が仕事をしている部屋に入った。

 おすみに案内されながら歩いていたが、一歩踏み出したところで、近くに置いてあった帳簿の山に触れてしまい、崩してしまった。

「ここに来られると困るよ。余計な仕事が増える」

 権蔵は少し声を荒げて琴乃に言った。

 すぐ傍にいたおすみは、鋭い目つきで権蔵をにらんだ。

「まあ、何てこと仰るんですか。お嬢さまは権蔵さんのために……」

「おすみ、いいの。私が余計なことをしたのだから」

 琴乃がさえぎり、謝りながら部屋を出て行った。

 自室に戻った後も、おすみはまだ権蔵に対して怒っていた。

 わざと部屋を散らかしたわけでもないのに、余計な仕事が増えると言われたのが気に触ったのだ。

 琴乃もまた、おすみほどの怒りではないが、深い哀しみを覚えた。そして、以前から感じていたことが、確かな事実だと確信した。

 どうやら権蔵は、琴乃が目が見えないことを理由に避けるようになったらしい。

 もちろん彼は、琴乃が盲人であることは以前から知っており、それでも忠右衛門の遺言を受け入れていた。しかし、実際に共に過ごす中で、不便さが目立ってしまった。そのきっかけは、神社での転倒だったのだろう。

「おすみ、私、知っているのよ。権蔵さんに、他の縁談話があるって……」

「お嬢さま……」

 琴乃には知られないようにしていたのにと、おすみは驚いた。

「私は目が見えないけど、耳は聞こえるし、心だってあるのよ……」

 それ以上は声にならなかった。権蔵にはもう、自分の姿は映っていないのだ。

 けれど祖父の言いつけを守るためには、権蔵と共に生きねばならない。

 琴乃は完全に行き詰まっていた。

「おすみ、一人になりたい。あそこに連れて行って」

 風花屋の近くに、忠右衛門が信仰する小さなほこらがあった。忠右衛門はほぼ毎日のようにその祠に足を運び、琴乃の無事を祈っていた。

 空き家が多く、裏通りで人通りも少ない寂しい場所だったが、祖父との大切な思い出の場所だった。

 薄く夕日が差し込む小さな祠。蝉の声が遠くで鳴いている。祖父の祈りの残響が、今もこの空間に漂っている気がした。

 琴乃はそこで一人になりたいと、おすみにせがんだ。おすみは近くで待ち、琴乃は一人、祠のそばに腰を下ろした。

 思い出すのは祖父との記憶。願わくば、あの頃に戻れたらと願った。

 真っ先によみがえるのは、祖父の語りの声である。

「今は昔、竹取の翁というものありけり……」

 祖父は自分の語りを喜んでくれた。

 ざっ……ざっ……

 物語も中盤に差し掛かった頃、乾いた草の上を踏むような足音が近づいてきた。

 琴乃は語りを止めたが、その人は去らず、じっとこちらを見つめているように感じられた。

 不思議な気配だった。祖父のような、しかし違う。琴乃はまだ、その人物が誰なのかを知らない――江藤新平という男を。

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