一
じりじりという幾重の蝉の声は、官庁の廊下まで聞こえる。蒸し暑い空気が、さらに効果を増しているようだ。
伊織はある一室の前で立ち止まる。汗を拭った後で、声をかけた。
「失礼します」
中にいる人物に促され、伊織は扉に手をかけた。
汗は流れるに任せ、無遠慮に胸元を広げている男は、同じ規則で扇子を動かしている。気怠そうに椅子に座す様は、伊織が現れても変わらない。
「君も座ったらどうだい」
「いえ、このままで」
男はそれ以上は勧めなかった。いつも誰にでも気を許していないように、きっちりとしている伊織の性分をわかっていたからだ。
「最近、江藤に変わった動きはあるか?」
「目立った動きはありません。ですが、特に長州や薩摩の者には、目を光らせているようです」
盲目の語り部、琴乃が江藤の愛人であるというのは、まったくの出鱈目であった。友人のためにも、伊織は事実を伝え、彼女を追っても政治的な情報は得られないと断言した。
料亭の一件も、二人の密会ではなく、もう一人の人物が訪れるはずであった。実際、江藤の襲撃事件の後でその人物――土佐藩出身の後藤象二郎は料亭に訪れており、琴乃のために馬車を手配した人物でもあった。その後、琴乃から聞いた話では、かねてより後藤から語り部の仕事をお願いされており、仲介した江藤が席を設けてくれたのだそうだ。
ともかく、琴乃の周辺を探っても意味がないとは、無事に認知されていた。
「あいつは薩長に出し抜かれまいと、儂らを目の敵にしちょる節がある。なに、案ずることはあるまい。あの方は心配性が過ぎる。わざわざ君に、面倒くさいことを押しつけるまでもないんじゃ。なぁ」
いくら同族とはいえ、伊織は溜息を吐きたくなった。
伊織に江藤の密偵を命じた人物は、岩倉使節団の一員として洋行中である。
岩倉使節団は、御一新を迎え、新たなる国づくりのため、近代化を進めるために欧米を視察し、不平等条約の改正にも取り組もうとした政府要人たちの使節である。使節団が洋行している最中、留守政府を任されているのが、目の前の男や江藤新平らであった。
つまり密偵の目的は、留守政府が気がかりな洋行中の要人による、代理の監視である。男は密偵の動きについて、その要人から任されている同郷の人物であった。
不用心すぎる、と伊織は思う。何もやましいことがなければ問題はないが、はたして不正でも行っていれば、たちまち司法卿たる江藤新平の餌食になるだけだ。
しかも江藤は、料亭で居合わせた邏卒たちのことを不自然に感じながら、追求することはしなかった。絶対に探られまいとする自身か、それとも相手にする暇もないということか。伊織は少し気になってもいたので、密偵は慎重に動いている。
「恐れながら、伺いたいことが」
「何だね」
「あの方は何故、私を密偵に選んだのですか?」
もっと適当な人物はいたはずだ。邏卒であれば動きやすいのではと考えているのならば合点のいかないことはないが……
(兄さんのことを、忘れたのか……)
「さぁのう…………罪滅ぼし、か」
伊織の兄を処刑したのは、あの方だ。ならばあの方は、伊織を哀れに思っているのか。それとも贖罪か。
政府の密偵という名誉な仕事を与えることが贖罪だとすれば……
(何とも滑稽だ)
「すまん……」
「いえ、伺ったのは僕です。では……」
伊織は踵を返して、部屋を後にする。扉を閉めているとき、暑いのうという男の声が聞こえた。
*
季節は過ぎ、景色は晩秋の色が濃くなり始めていた。枯れ葉はかさりと音を立て、踏みしめるたびに小気味よく響く。しかし藤次には、その音は蚊帳の外であった。
先を目指す傍ら、伊織のことを考える。
彼は、江藤新平を探っている。琴乃が江藤の愛人ではないとわかると、彼女のことを探ることはしなくなったが、江藤を探ることは止めてはいないようである。
『江藤様は素晴らしいお方です』
ある日、琴乃を尋ねたときに、彼女が心酔しているようにそう言っていたのを覚えている。
揺らぎのない信念、正義が眩しいほどに感じるのだそうだ。
正直、藤次は江藤のことがよくわからない。あえて挙げれば、切れ者という印象だ。だが、為人を誰よりも見通せる琴乃がそう感じるのであれば、事実なのではないかと思う。しかし、他の男を褒められるというのは、複雑だ……
琴乃にとって江藤は、特別な存在だ。愛人ではなく、恩人という一言では語りきれないほどの関係を、藤次は理解していない。理解するには、まだ琴乃との距離が遠かった。
ただ、これだけはわかる。もし、江藤が追い詰められるようなことがあれば、琴乃は身を斬られるような思いをするのだろう。
だから伊織の行動は、琴乃を哀しませるのではないかと危惧している。
でも、己にどうすることができようか。一兵卒の自分に……
邏卒としての仕事に誇りを持ち、藤次も揺るぎのない信念と正義を持っていた。だが最近、己の不甲斐なさに、迷いが生じ始めている。
踏みしめる木の葉の音が、不快に、やっと藤次の耳に届いた。
もともと琴乃に会いに行くつもりであったが、無性に会いたくなって、藤次は歩みを早める。
最近は、よく笑ってくれるようになった。用もなく押し掛ける藤次に、琴乃は気持ちよく応対してくれる。他愛のない話しかできないけれど、彼女は耳を傾け、面白い話もしてくれる。話していて飽きないのは、やはり語り部たる故か。
一番、藤次を警戒していたのは、おすみであった。
おすみは琴乃と一緒に暮らしている女中で、琴乃を赤ん坊の頃から世話をしていたそうだ。
琴乃に気があるのではないか。果ては手を出すつもりなのではないかと、目を光らされていたものだ。それが今では……
「まぁ、よいところにおいでくださいました。お嬢さま、お嬢さま……」
尋ねた藤次の顔を見るなり、相好を崩して琴乃を呼びに行った。
やっと歓迎されるようになったと、藤次は胸を撫で下ろす。
「ということで、お嬢さまをよろしくお頼みします」
「おすみ、いきなりお願いしては失礼よ」
「いえ、今日は非番じゃっで是非」
これから琴乃は、祖父の墓参りに行くという。今日は命日だそうだ。だが、おすみに急用ができてしまい、一人で行かせるわけにも行かず、用が終わってから夕方にでもというところに、藤次が訪ねてきた。
「お嬢さんも早く旦那様にお会いしたいでしょうし」
と、琴乃の墓参りに同行してほしいとおすみに頼まれ、藤次には断る理由などなかった。
「私は用が終わってから寺に行きますから、お嬢さんもゆっくり足を伸ばしてきてください」
おすみはそう言い残して、その場を後にした。
「では、行きもんそ。人力車は……」
「ここからそう遠くはありませんから、歩きます」
言ってから、琴乃は気づく。いつものように歩きでと気軽に言ってしまったが、それでは藤次に迷惑がかかる。杖も使うが、おすみの腕に導かれていたように、彼の腕を頼らなければならない。しかも、歩調を合わせるのは厄介であるだろう。
「やっぱり人力車で……」
「今日は天気もよか、せっかっくじゃっで歩きもんそ。じゃっどん、おすみさんのようには上手くできもはん。不都合があれば、すぐ言ってたもんせ」
遠慮しようとする琴乃に、滑らかな薩摩弁で応じる。聞き慣れなかった訛りは、いつの間にか琴乃の心に溶け込むようになった。
琴乃が差し出した手に、腕を近づける。
初めて会ったあのときもこうして、藤次は導いてくれた。けれど今は、彼に触れるのが怖かった。触れたいと思ってしまう自分の浅ましい考えを、彼に見透かされたくなくて、琴乃は歩調を合わせてくれる藤次に聞いた。
「今日も邏卒のお着物なんですね」
肌触りが、邂逅した日と同じであった。
「休みん日も着る決まりで、しばらく着流しなど着ちょらんです。やっとこの着物にも慣れてきもした」
邏卒の生活は、厳しく規制されていた。五節句のとき以外の飲酒、その他に借金をすることや外泊も固く禁じられていた。しかし、それも民を守る立場にある人間が示す規律なのだと、藤次は誇るように琴乃に説明した。
「ところで、旦那様ちゅうのは……」
祖父の墓に参ると琴乃から聞いたが、おすみは旦那様と呼んでいた。以前はその祖父に仕えていて、亡き今も昔のように呼んでいるのだろうかという藤次の読みは当たった。
琴乃の祖父、忠右衛門は薪炭問屋の主であった。おすみは若い時分から忠右衛門の店に女中として仕えていて、その名残で今も旦那様と呼んでいる。一度所帯を持って店を辞めたが離縁し、再び忠右衛門の口利きで店に仕えるようになった。おすみが店に戻った後で琴乃が誕生して、琴乃が目を患ってからは、つきっきりで面倒を見てくれたと、琴乃は語った。
どうして今は店にいないのかと、藤次は尋ねられなかった。祖父が亡くなったことと関係しているのか、両親はいないのか。だが彼女の許可なしには、過去を尋ねられない。
そうこうしているうちに、忠右衛門の墓がある寺へと着いた。
琴乃に教えられた忠右衛門の墓は、誰かが訪ねてきた様子は見受けられなかった。しかし日頃から手入れはされているようだ。伸びきった雑草もなければ、つい何日か前に供えたであろう花も、かろうじて生きながらえている。琴乃が新しく持ってきた花に比べれば見劣るが……
「掃除するまでもなか、きれいじゃ」
「おすみが私の代わりに、よく来てくれるんです」
目が見えていれば、何度でも足を運んで、墓をきれいにしたいという琴乃の思いを、おすみが汲んでいたのだ。藤次は微笑ましくなった。
二人は墓前で手を合わせ、しばらく目を閉じる。ほぼ同じくして二人は目を開け、琴乃が言葉を紡いだ。
「深山さんに、聞いてほしいことがあります」