四
どたどたと床を無遠慮に踏み鳴らす音が、次第に大きくなる。その足音はこちらへ迫っていた。
江藤も気になったのだろう、ふいに言葉を止め、意識を外に向けているようだ。
何事だろうと考えるのも束の間、足音は自分たちのいる部屋の前で止まり、襖が無造作に開けられた。
「江藤新平、覚悟!」
相手は、何人いるのか。二人、いや、三人以上はいる。江藤が危ない。ぬっと目の前に誰かが立ちふさがる。だめだ、江藤が狙われている。自分など構わないから、早く逃げて。
刹那の思考を巡らせる琴乃は、江藤の名を叫ぼうとした。
だが、それよりも早く、新しい音が飛び込んだ。
今度は別の襖が、これも勢いよく開かれる。襲撃者たちの短い驚く声。襲撃者たちにとって、それは完全に予想外だったのだろう。何者かが、別の襖から現れたのだから。
「くそ!護衛がいたか!」
襲撃者が吐き捨てた後で、今度は識別できない混沌とした激しい音が、部屋の中に充満した。きっと、冷静でいられたなら、何となく状況は把握できたはずだ。なのに、視力以外の感覚も麻痺してしまったように、琴乃にはもう何が何だかわからなくなっていた。
これは、恐怖だ。目が見えない不安など、とうの昔に置いてきたと思っていたのに……
「もう大丈夫だ」
琴乃の震える肩にそっと、優しい江藤の声音と共に、温もりが落ちた。
江藤新平を狙う襲撃者を、あっという間に伸した藤次と伊織は、江藤に姿勢を正して向き直る。
「お二人とも、お怪我は?」
伊織が問いかけた。
「ない。それにしても、偶然居合わせた邏卒に助けられるとは、私も運がいい」
皮肉だった。
襲撃者は邏卒が現れ、彼らを護衛と勘違いした。しかし、二人に助けられること、つまり襲撃自体が偶然であったとしても、二人がここにいた目的は自分であると、江藤はすぐに理解していた。
江藤は何事か、琴乃に状況を説明している。彼女の顔は、ほんの少し青ざめていた。なのでつい、藤次は声をかけてしまった。
「ご気分が優れんようなら、休める部屋を用意させもんそ」
琴乃が、藤次を見据えた。声だけで、藤次がどこにいるのかを辿ったのだ。
「深山さん……?」
無論、見えているわけがない。琴乃は、声だけでわかったのだ。
心なしか、琴乃がほっとしたような表情をしたので、藤次は余計にうれしくなった。
「声だけでわかってくれてうれしか」
舞い上がった藤次が次の言葉を言う前に、江藤が仏頂面で口を挟む。
「彼女の聴覚が鋭いのは、当たり前のことだろう」
「…………」
藤次とて、盲目の者が他の感覚を研ぎ澄ませていることは、すでに知っていた。満天の星を言い当てた琴乃に関心もした。そんな彼女が、声を聞いただけで自分であると気づいたのは、自然のことかもしれない。でも、藤次は純粋に、うれしかったのだ。それをこの男は……と、時の司法卿に反駁できない藤次は、内心むっとする。少しだけ、顔にも出ていた。
咳払いをした後に、伊織が尋ねた。
「襲撃者に見覚えは?」
「知らん。どうせ私のことを快く思わん連中の仕業だろう。取るに足らないことだ」
そう江藤が言えば、琴乃が気遣わしげに彼を見つめる素振りをする。
自分が襲われたというのに、意に介さない無頓着な江藤と、彼を健気に心配する琴乃。その二人を見ていると、藤次は無性に苛立つような、やるせないような気持ちになる。
それからすぐに、襲撃の報を聞いた邏卒や政府の役人がやって来て、事件の始末に追われた。
なぜ都合よく、しかも料亭に藤次と伊織がいたのかは、とくに言及されることはなかった。もしや伊織を動かす長州の何者かのお蔭か、特にお咎めもなく、襲撃者も捕らえられたので、二人は屯所に帰されることになった。
「君たち、彼女を家まで送るんだ」
事件の後処理で、琴乃との逢瀬どころではなくなった江藤は、藤次と伊織に命令する。
言われなくてもそうするつもりだったとは、とても言えない藤次は、本心をかみ殺して江藤に従った。
「江藤様……」
琴乃はとても不安であった。これは事件の余韻ではない。江藤は命を狙われているのではないかという、彼の生命が脅かされていることへの不安である。
「大丈夫だ。私が、道半ばでどこの馬の骨ともしれない奴の手にかかって、死ぬわけがない。それに襲撃には慣れている。今日も無事だったのだ」
もし藤次と伊織がいなければ、どうなっていたのだろうか。目の見えない自分は、江藤の盾にもならないと、琴乃は不甲斐なさが込み上げる。
実際、江藤は約三年前に、命の危機に瀕したことがあった。夜に虎ノ門にて、同郷の佐賀人に襲撃され、ことのきは重傷を負っている。佐賀にて行った、江藤の藩政改革による反発のためであった。そして今回も、同じような理由、あるいは、何事かに恨みを抱かれているか……
「また、別の機会を設けよう。また近いうちに会いに行く」
「はい」
琴乃は気丈に答えた。いつだって、彼の前では気丈に接することが正解だった。
事件を聞いて駆けつけてきた役人の一人が、江藤と懇意の仲でもあり、琴乃のために馬車を手配してくれた。
「一人じゃ心細いだろ。一緒に乗ってやれよ」
と、伊織が藤次を促す。藤次がいいだろうかと、琴乃を見た。あとで無言の合図では彼女はわかるまいと気づき、慌てて声をかけようとしたが、彼女は藤次の合図が見えたかのように、こくりと頷いた。
驚いていないで早く彼女を導いてやれと、半ば伊織が揶揄うように視線を送る。藤次は短い声を発した後で、琴乃を馬車に案内した。
馬車はゆっくりと、琴乃の家路を辿った。時折がたんと激しく揺れるのは、車輪が石を踏んだ所為だ。こぢんまりした馬車の中には、琴乃と藤次が隙間なく座っている。伊織は外から付いてきていた。
またがたんと、馬車が揺れた。琴乃の小さい腰が、一度宙に浮く。咄嗟に琴乃は、隣に座す藤次の腕を掴んだ。
「すみません……」
そう言って、琴乃はすぐに手を離した。藤次にはあまりにもそっけなく感じられて、もし隣にいるのが江藤であれば、手を離さなかったのではないかとさえ、考えてしまう。
「いつでも掴まってくいやんせ」
こんなに近くにいるのに、それこそ彼女が料亭まで来たときの、江藤との距離と同じくらいであるのに、急に他人になってしまったかのように、藤次には感じられた。
「琴乃さぁ……」
藤次は迷うことはあっても、結局は決行してしまう質である。
妬心が、火をつけてもいたのだろう。曖昧なままではいたくなかった。
「琴乃さぁは、江藤様とはどげん……」
「どげん?」
「……つまり、関係を聞きたか」
「…………」
私は江藤新平の妾ですと、彼女自身に言わせるのは酷なことだ。己本位な考えだとはわかっていた。それでも、琴乃自身の言葉で聞かなければ、また何度でも、彼女に会いたくなってしまう気がした。だからこそ、踏ん切りをつけたかったのだ。
琴乃は無言だった。やはり、言うのを躊躇っているのだろうか。そもそもこんなことを聞いていたのでは、琴乃から会うのを願い下げられそうである。
「妾ちゅうのは、本当……」
妾、と聞いた途端に、琴乃は驚いたように、藤次の方を向く。気圧されて、藤次は言葉尻を濁すしかなかった。
(妾と聞こえたが、あいつまさか……)
馬車内での会話が漏れ聞こえた伊織は、正直、呆れてしまった。気になっている娘に、いや、そうでなくても、不躾な質問だ。
これは思ったよりも琴乃に対して重症なのだと、伊織は苦笑する。
琴乃は寂しそうに、視線を落とした。
「深山さんは、そう思っていらっしゃるのですね」
琴乃は無性に泣きたくなった。
馬車の中、藤次は触れ合うほどの距離にいる。江藤といるのは慣れているからか、あまり緊張はしないが、今は汗が出そうな程、平静ではいられない。それもそのはず、殿方と二人きりでいるのは、緊張するというものだ。そう自身に言い聞かせて、馬車内の無言に押しつぶされそうで、触れてしまうのさえ恐れ多い。
なのに、今までの緊張が、藤次の一言で解けてしまった。
藤次は自分を、江藤の妾だと思っている。何故こんなにも、哀しいのだろう……
「申し訳なか……!おいが馬鹿やった。本当は、琴乃さぁが江藤様の妾だなんて、信じとうなかった」
藤次は盛大に悔いた。悔いるほかなかった。
琴乃の言葉は誤解を責めている。哀しんでいる。そうしたのは、紛れもなく自分だと、藤次は琴乃の顔を見れなくなった。
このとき琴乃を突き動かしたのは、信じたくなかったという言葉に尽きるだろう。
「私は語り部です。それ以外に、肩書きなどありません。江藤様は私の恩人なんです……初めてお会いしたときも、今日も、助けてくださったのが貴方でよかったと思っています。それは今も……」
馬車は琴乃の家の前で停車した。
藤次が馬車から降りれば、伊織が耳元でこそりと、熱でもあるのかと尋ねてくる。むきになれば、彼の思う壺だ。しかし、藤次は屯所に帰った後で、君は実にわかりやすいと、彼にとどめを刺されるのだった。
桜の花弁はもう、過ぎ去っていた。