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星を語り継ぐ者  作者: 夏野
一章 語り部と邏卒
4/10

 どたどたと床を無遠慮に踏み鳴らす音が、次第に大きくなる。その足音はこちらへ迫っていた。

 江藤も気になったのだろう、ふいに言葉を止め、意識を外に向けているようだ。

 何事だろうと考えるのも束の間、足音は自分たちのいる部屋の前で止まり、ふすまが無造作に開けられた。

「江藤新平、覚悟!」

 相手は、何人いるのか。二人、いや、三人以上はいる。江藤が危ない。ぬっと目の前に誰かが立ちふさがる。だめだ、江藤がねらわれている。自分など構わないから、早く逃げて。

 刹那せつなの思考を巡らせる琴乃は、江藤の名を叫ぼうとした。

 だが、それよりも早く、新しい音が飛び込んだ。

 今度は別の襖が、これも勢いよく開かれる。襲撃者たちの短い驚く声。襲撃者たちにとって、それは完全に予想外だったのだろう。何者かが、別の襖から現れたのだから。

「くそ!護衛がいたか!」

 襲撃者が吐き捨てた後で、今度は識別できない混沌とした激しい音が、部屋の中に充満した。きっと、冷静でいられたなら、何となく状況は把握できたはずだ。なのに、視力以外の感覚も麻痺してしまったように、琴乃にはもう何が何だかわからなくなっていた。

 これは、恐怖だ。目が見えない不安など、とうの昔に置いてきたと思っていたのに……

「もう大丈夫だ」

 琴乃の震える肩にそっと、優しい江藤の声音と共に、温もりが落ちた。


 江藤新平を狙う襲撃者を、あっという間に伸した藤次と伊織は、江藤に姿勢を正して向き直る。

「お二人とも、お怪我は?」

 伊織が問いかけた。

「ない。それにしても、()()()()()()()邏卒らそつに助けられるとは、私も運がいい」

 皮肉だった。

 襲撃者は邏卒が現れ、彼らを護衛と勘違いした。しかし、二人に助けられること、つまり襲撃自体が偶然であったとしても、二人がここにいた目的は自分であると、江藤はすぐに理解していた。

 江藤は何事か、琴乃に状況を説明している。彼女の顔は、ほんの少し青ざめていた。なのでつい、藤次は声をかけてしまった。

「ご気分が優れんようなら、休める部屋を用意させもんそ」

 琴乃が、藤次を見据えた。声だけで、藤次がどこにいるのかを辿ったのだ。

「深山さん……?」

 無論、見えているわけがない。琴乃は、声だけでわかったのだ。

 心なしか、琴乃がほっとしたような表情をしたので、藤次は余計にうれしくなった。

「声だけでわかってくれてうれしか」

 舞い上がった藤次が次の言葉を言う前に、江藤が仏頂面で口を挟む。

「彼女の聴覚がするどいのは、当たり前のことだろう」

「…………」

 藤次とて、盲目の者が他の感覚を研ぎ澄ませていることは、すでに知っていた。満天の星を言い当てた琴乃に関心もした。そんな彼女が、声を聞いただけで自分であると気づいたのは、自然のことかもしれない。でも、藤次は純粋に、うれしかったのだ。それをこの男は……と、時の司法卿に反駁はんばくできない藤次は、内心むっとする。少しだけ、顔にも出ていた。

 咳払いをした後に、伊織が尋ねた。

「襲撃者に見覚えは?」

「知らん。どうせ私のことを快く思わん連中の仕業だろう。取るに足らないことだ」

 そう江藤が言えば、琴乃が気遣わしげに彼を見つめる素振りをする。

 自分が襲われたというのに、意に介さない無頓着むとんちゃくな江藤と、彼を健気に心配する琴乃。その二人を見ていると、藤次は無性に苛立つような、やるせないような気持ちになる。

 それからすぐに、襲撃の報を聞いた邏卒や政府の役人がやって来て、事件の始末に追われた。

 なぜ都合よく、しかも料亭に藤次と伊織がいたのかは、とくに言及されることはなかった。もしや伊織を動かす長州の何者かのおかげか、特にお咎めもなく、襲撃者も捕らえられたので、二人は屯所に帰されることになった。

「君たち、彼女を家まで送るんだ」

 事件の後処理で、琴乃との逢瀬どころではなくなった江藤は、藤次と伊織に命令する。

 言われなくてもそうするつもりだったとは、とても言えない藤次は、本心をかみ殺して江藤に従った。

「江藤様……」

 琴乃はとても不安であった。これは事件の余韻ではない。江藤は命を狙われているのではないかという、彼の生命が脅かされていることへの不安である。

「大丈夫だ。私が、道半ばでどこの馬の骨ともしれない奴の手にかかって、死ぬわけがない。それに襲撃には慣れている。今日も無事だったのだ」

 もし藤次と伊織がいなければ、どうなっていたのだろうか。目の見えない自分は、江藤の盾にもならないと、琴乃は不甲斐なさが込み上げる。

 実際、江藤は約三年前に、命の危機にひんしたことがあった。夜に虎ノ門にて、同郷の佐賀人に襲撃され、ことのきは重傷を負っている。佐賀にて行った、江藤の藩政改革による反発のためであった。そして今回も、同じような理由、あるいは、何事かに恨みを抱かれているか……

「また、別の機会を設けよう。また近いうちに会いに行く」

「はい」

 琴乃は気丈に答えた。いつだって、彼の前では気丈に接することが正解だった。

 事件を聞いて駆けつけてきた役人の一人が、江藤と懇意の仲でもあり、琴乃のために馬車を手配してくれた。

「一人じゃ心細いだろ。一緒に乗ってやれよ」

 と、伊織が藤次をうながす。藤次がいいだろうかと、琴乃を見た。あとで無言の合図では彼女はわかるまいと気づき、慌てて声をかけようとしたが、彼女は藤次の合図が見えたかのように、こくりと頷いた。

 驚いていないで早く彼女を導いてやれと、半ば伊織が揶揄うように視線を送る。藤次は短い声を発した後で、琴乃を馬車に案内した。

 馬車はゆっくりと、琴乃の家路を辿った。時折がたんと激しく揺れるのは、車輪が石を踏んだ所為だ。こぢんまりした馬車の中には、琴乃と藤次が隙間なく座っている。伊織は外から付いてきていた。

 またがたんと、馬車が揺れた。琴乃の小さい腰が、一度宙に浮く。咄嗟とっさに琴乃は、隣に座す藤次の腕をつかんだ。

「すみません……」

 そう言って、琴乃はすぐに手を離した。藤次にはあまりにもそっけなく感じられて、もし隣にいるのが江藤であれば、手を離さなかったのではないかとさえ、考えてしまう。

「いつでも掴まってくいやんせ」

 こんなに近くにいるのに、それこそ彼女が料亭まで来たときの、江藤との距離と同じくらいであるのに、急に他人になってしまったかのように、藤次には感じられた。

「琴乃さぁ……」

 藤次は迷うことはあっても、結局は決行してしまう質である。

妬心が、火をつけてもいたのだろう。曖昧あいまいなままではいたくなかった。

「琴乃さぁは、江藤様とはどげん……」

「どげん?」

「……つまり、関係を聞きたか」

「…………」

 私は江藤新平のめかけですと、彼女自身に言わせるのは酷なことだ。己本位な考えだとはわかっていた。それでも、琴乃自身の言葉で聞かなければ、また何度でも、彼女に会いたくなってしまう気がした。だからこそ、踏ん切りをつけたかったのだ。

 琴乃は無言だった。やはり、言うのを躊躇ためらっているのだろうか。そもそもこんなことを聞いていたのでは、琴乃から会うのを願い下げられそうである。

「妾ちゅうのは、本当……」

 妾、と聞いた途端に、琴乃は驚いたように、藤次の方を向く。気圧されて、藤次は言葉尻をにごすしかなかった。

(妾と聞こえたが、あいつまさか……)

 馬車内での会話が漏れ聞こえた伊織は、正直、あきれてしまった。気になっている娘に、いや、そうでなくても、不躾ぶしつけな質問だ。

 これは思ったよりも琴乃に対して重症なのだと、伊織は苦笑する。

 琴乃は寂しそうに、視線を落とした。

「深山さんは、そう思っていらっしゃるのですね」

 琴乃は無性に泣きたくなった。

馬車の中、藤次は触れ合うほどの距離にいる。江藤といるのは慣れているからか、あまり緊張はしないが、今は汗が出そうな程、平静ではいられない。それもそのはず、殿方と二人きりでいるのは、緊張するというものだ。そう自身に言い聞かせて、馬車内の無言に押しつぶされそうで、触れてしまうのさえ恐れ多い。

なのに、今までの緊張が、藤次の一言で解けてしまった。

藤次は自分を、江藤の妾だと思っている。何故こんなにも、哀しいのだろう……

「申し訳なか……!おいが馬鹿やった。本当は、琴乃さぁが江藤様の妾だなんて、信じとうなかった」

 藤次は盛大に悔いた。悔いるほかなかった。

 琴乃の言葉は誤解を責めている。哀しんでいる。そうしたのは、紛れもなく自分だと、藤次は琴乃の顔を見れなくなった。

 このとき琴乃を突き動かしたのは、信じたくなかったという言葉に尽きるだろう。

「私は語り部です。それ以外に、肩書きなどありません。江藤様は私の恩人なんです……初めてお会いしたときも、今日も、助けてくださったのが貴方でよかったと思っています。それは今も……」

 馬車は琴乃の家の前で停車した。

 藤次が馬車から降りれば、伊織が耳元でこそりと、熱でもあるのかと尋ねてくる。むきになれば、彼の思う壺だ。しかし、藤次は屯所に帰った後で、君は実にわかりやすいと、彼にとどめを刺されるのだった。

 桜の花弁はもう、過ぎ去っていた。

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