三
「今日は星が眩しい……」
初めて琴乃と出会ったあの日の夜、彼女はそう、まるでその景色が鮮明に見えているかのように呟いた。
道標に自分の腕に触れる手も、幾分か震えが落ち着いたようだ。改めて、琴乃は外の気配を感じ取れるようになったのだろう。
「おはんはすごか人です」
真実、空には満天の星が輝いていた。
琴乃には、なぜ星の光が見えるかのように感じ取れるのだろうか。彼女の眼には、目の見える藤次よりも色鮮やかに、景色が映っている。
素直に感心すれば、琴乃は困ったように、少し照れたように俯いた。
藤次はこのときの琴乃との会話や素振りを、数日が経っても忘れることができなかった。
「そねーに気になるなら、会いに行きゃあええじゃないか」
と、伊織には含み笑いを浮かべられて言われた。
「用もなかち、会いには行けんじゃろ」
「君は真面目じゃのぉ」
まあ頼りにしなさんせとまで言われれば、揶揄われているのだろうと思ってしまう。
考えてみれば、伊織の言う通り、生真面目な理由をつけることもないのだ。あれからどうか、心配して来てみた。それも職務の内だと説明すればいい。なかなか琴乃に会う踏ん切りがつかなかったのは、己の中に、やましい気持ちがあるのではないかと、良心が痛んでしまうからだ。
忘れられない人に会いに行く。それだけの行為に、罪があるとは思えない。琴乃の安心した顔を見たいだけなのだ。
思い立ったら行動は早かった。藤次は非番の日に、琴乃の家を訪ねることにした。
湯島天神の近くにあっても、参道の賑わいからはほど遠い、静謐な佇まいの家の周りは、生け垣に囲まれている。この隠居所のような雰囲気の家は、近所にも点在している。
迷うことなく琴乃の家に辿り着いた藤次は、表戸が見えたところで足を止めた。
琴乃の家の前には、人力車が止まっていた。もしや、どこかに出かけるところなのか、それとも帰ってきたのか、様子を窺っていると、家の方から二人の人影が現れた。
藤次は咄嗟に身を隠した。
琴乃は男に手を引かれて、その男と一緒に人力車に乗り込んだ。目の見えない彼女を、男は気遣いながら導いている。二人の距離は、肩が触れ合うほどだ。
――まさか司法卿が口を挟むたぁな……
伊織の言葉と共に、藤次は男の正体を思い出した。
藤次は何度か、政府の要職に就いている彼の姿を拝んだことがある。もちろん、話したことはないが……
彼は、江藤新平だ。
「お嬢さま、いってらっしゃいまし。江藤さま、お嬢さまをよろしくお願いします」
おすみに見送られて、人力車は去ってしまった。
なぜ、琴乃が襲われた一件に、江藤が口を出してきたのか。それは琴乃と江藤が親しい間柄だったとすれば、説明がつく。藤次は自分でも、おぞましい考えをしていることに気づいていた。
「何をしている」
尋問するような声に、思わず身構える。背後から声をかけてきた人物に身構えれば、すぐに警戒を解いた。
「伊織……」
彼は悪戯が成功してうれしそうな顔をしている。
「いつからおったんじゃ」
「君がここに来るよりも前から」
驚いた顔をすれば、意外にも伊織は真面目な顔になった。
「あまり詳しいことは言えんが、実は江藤新平をつけちょってね。まさか君が来るとは思わなかった」
「長州は何を知りたか」
少しの沈黙の後、伊織はふっと笑った。目元は笑っていなかったが……
伊織は何者かの指示で、江藤をつけている。長州藩出身の彼が、長州藩以外の人物から頼まれるはずもない。と見当がすぐについたのは、以前、彼が長州出身の要職者と屯所の裏で密かに話しているのを、偶然見たことがあるからだ。伊織はその人物から何かを指示されているようであった。盗み聞きするつもりはなかったので、詳細までは聞き取れなかったが、おそらく今回も、同じように指示されたのだろう。もっとも藤次が目撃した人物は、今は洋行中で東京にはいないはずだ。かの人物の配下からの命令か、しかし藤次には無関係なことである。
「僕には関係のないことだ。じゃけぇ僕にも、詳しいことは教えられちょらん。江藤には盲人の愛人がおる。きっと江藤は会いに来るじゃろう、つけて探れと言われた以外にはね」
藤次は目を見開いた。
いま、伊織は何と言ったか。まさか、いや、聞き間違いか。でも、確かに聞こえてしまった。それに、彼はそこまでふざけた冗談は言わない。
「もしやと思うたが、藤次の言いよった人と同じ人だったとは……彼女は江藤新平の庇護を受けて、語り部ちゅう仕事をしちょる」
「語り部……」
「様々な物語を紡ぐ人、といったところか。どねーな人でも彼女の語りに聞き惚れるって、一部じゃあ有名らしい」
伊織の説明は、あまり頭の中に入ってこなかった。
琴乃が、江藤新平の妾だという事実。信じたくなかったが、耳がそれを否応なく受け入れてしまっていた。
「よし、行くか」
藤次の内心を知ってか知らずか、伊織は背中を押すように言った。
「行って……」
「決まっておろう。二人が向かった先……料亭〈香月〉だ。ないごて僕が行き先を知っちょるかって」
にわか薩摩弁も、どこか動揺する心を落ち着かせてくれているようだ。しかも、先を読まれてもいる。
「言ったじゃろ。僕は君より早うここにいるって。香月に向かうと言いよるのが聞こえたんじゃ。たしか、御茶ノ水って言いよったな」
人力車は料亭〈香月〉の前で止まった。琴乃は江藤に導かれながら、料亭の中へと入ってゆく。
車夫が去ってから、伊織が中に踏み込もうとしたので、藤次は慌てて声をかけた。
「おいは行かん方がよか」
伊織はそれが誰かの密命だったとしても、仕事で動いている。しかし自分は、まったくの私情だ。
それに、これ以上踏み込むのが怖いというのが本音かもしれない。
「来てもらわんにゃ俺が困る。この任務、一人で行動するのは心許ない。いやなに、君を巻き込もうっちゅう腹じゃない。無理強いはせんがね」
確かに、一人で料亭に踏み込むのが心許ないというは、伊織の本心なのだろう。そして彼は、琴乃に対して踏み込むべきかの選択をくれた。
一度、助けたことのある人。もう町ですれ違わないかもしれない。すれ違っても、他人のままかもしれない。あるいは、他人でいなければならない存在なのか。
今日の決断で、心に引っかかってしまった彼女との関係が、決まる。
「薩摩隼人は逃げもはん」
すっと笑った伊織は、あくまで仕事の顔に戻った。
二人が料亭に入ると、邏卒の姿を見た女将は、驚いた顔を隠せなかった。邏卒の方に来ていただくようなことはしていないと言う女将に、伊織が答える。
「先ほどここに来た男女二人連れの、隣の部屋を用意してほしい」
何故と女将が問う前に、伊織はそっと女将に近づき、素早く何かを差し出した。咄嗟に差し出されたそれを受け取ってしまった女将は、少し躊躇う素振りをしたが、すぐに心得たような顔をして、二人を案内する。
廊下を歩いているときに、目だけで伊織に尋ねた。
経費も出してくれるのだと、彼も無言のまま、悪戯っぽい顔で笑う。
ここまでするとは、長州は本気で、江藤新平を探ろうとしている。彼は長州にとって、何か不都合なことをしようとしているのか。
伊織のためにも詮索はしないが、頭の片隅で気になってしまう。
部屋に辿り着くと、女将は入って右側の部屋に件の客がいると示してくれる。伊織に何も持ってこなくていいから、誰も入らないでくれと言われ、女将はそそくさとその場を後にした。
「さて……」
伊織は臆面もなく、襖に耳をそばだてる。
おい、と小声で制する藤次に、君もと手招きした。
ずっと突っ立っているわけにもいかず、しかし盗み聞きという行為に多少の罪悪感を抱きながら、藤次も伊織に倣った。
襖の向こうからは、琴乃と江藤の声が、くぐもって聞こえてきた。
「君と過ごしていると、日々の慌ただしさが嘘のようだ。いつまでもこの時間がほしいと言ったら、琴乃は困るか?」
「江藤様が望むのであれば、いつまでも」
彼女に踏み込むことは、真実を知ること。すなわち、嫌でも彼女が江藤新平の妾であると、認めざるを得ないということである。
これで、琴乃のことを忘れられるのか。彼女の声を聞く度に、より鮮明に彼女の声が記憶されるというのに。
藤次はなおも、隣の部屋に意識を集中させる。
「琴乃」
「はい」
「私は……」
突如、荒々しい足音が近づき、江藤の声はそこで止まった。藤次と伊織も反射的に、いつでも立てる体制に直す。
がらりと、隣の部屋の襖が開く音、すぐに野太い男の叫び声が響いた。
「江藤新平、覚悟!」